カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)―2
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)―2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)

 ★「大漢民族主義」に走った孫文と愛親覚羅氏の運命
   
 
 明治37年1月10日、日本はロシアに宣戦を布告、日露戦争が始まる。この戦争をイギリスが陰で支えたことは周知だが、その支援の全体は現代人の想像を超えていた。例えば、英国スパイが入手した旅順要塞の精密な地図が秘かに山県有朋に渡された。日本の戦艦には艦戦武官の名目で英国士官が同乗し時に作戦指導に当たったことなど、すべて厳秘事項とされ、戦果は悉く日本軍の功績に帰されたが、これは必ずしも帝国陸海軍を貶めるものではない。あらゆるものを利用して成果を求めるのが戦争で、その過程に何があろうと日露戦の戦果は日本軍のものである。さもなくば、中国共産党が唱えてきた、いわゆる抗日戦の勝利も、マヤカシの典型と評価すべきことになる。

 明治38年9月5日、ポーツマスの日露講和条約によって日露戦役は終わった。11月には日清間で満洲に関する条約を調印、満洲におけるロシア利権はすべて日本が引き継ぐこととなった。漢族官僚によってロシアに売られた愛親覚羅氏の故地が、日本に転売された形である。以後、愛親覚羅氏は、秘かにかつ急速に日本皇室に接近し、皇室もまたこれに対応し、20世紀の極東秘史が始まるのであるが、本稿はそれを後に追究したい。

 日露講和に先立つ8月20日、東京で孫文らが中国革命同盟会を結成、興漢滅清すなわち満洲族支配からの漢族独立を標榜する民族運動が最盛期に入った。大清帝国はいくつかの民族国家で構成された一種の連邦国家であったが、人口の大多数は漢族で、他に満洲族・蒙古族・ウイグル族・チベット族がそれぞれ地域社会を構成していた。そのなかで、少数派の満洲族が帝国の支配者であったところに特殊性があり、孫文らの漢族独立運動の目標は、領土的にはプロパー・チャイナ(支那本部)と満洲部の分離、民族的には漢族による民族自決、すなわち支那本部を固有領土とする漢族国家を樹立して女真族を満洲部に送還することを主眼としたもので、蒙古・チベット・ウイグルの各部をも民族自決主義による民族国家を樹立さすべき理念に立っていた。

 革命の父と仰がれる孫文が、その掲げた三民主義のうち民族自決主義を早々に放棄して正反対の「大漢民族主義」に就いたのは、吾人の理解に苦しむところである。これはおそらく孫文も超えられなかった「中華思想」の壁かと思うが、英露が対抗するグレート・ゲームの拮抗線上にある満・蒙・蔵・回の各部が、当時完全独立や民族自治を求めても、地政学的に全く困難であった。いきおい旧清国領内の各部は、英露の外圧に対応して民族国家の探りうべき形態を探りつつ、東アジア地域の安定を求めざるを得ず、それに対して地域の中央に座す漢族国家がどう関わるかの問題であろう。

 ★大陸で国事に奔走した出口清吉という人物


 日露戦争が日本勝利に終わったことは清国の上下に大きな衝撃を与えた。殊に、漢族独立・満族排斥運動の高まりから、支那本部における役割の終焉を感じた宗室愛親覚羅氏は、故地満洲に関して日本と利益が共通することに注目した。極東ロシアの脅威に対する緩衝地帯として朝鮮半島の確保と満洲の自立を欲した日本は、日清戦争により前者をば勝ち得たが、清国の漢族官僚が買収されて満洲の統治権をロシアに与えたため、後者は却って後退しロシアの脅威は以前に数倍することとなった。その結果、満洲の覇権を巡って日露戦争となったが、日本の戦勝により満洲のロシア利権はすべて日本に譲渡され、満洲は実質的に日本統治下に移った。この地の潜在主権を自覚する愛清覚羅氏が、秘かに日本と結ぶことを考えたのは当然のことである。

 愛清覚羅氏と皇室を繋いだのは、国事のため早くから清国に潜入していた
出口清吉であった。日本でも古来秘事に携わる一統がいたことは、当の一党を除けば、知る人は甚だ少ない。一党とは丹波を本拠とする大江山衆のことで、本稿が論じたアヤタチ一族を指す。その1人が出口清吉であった。

 出口清吉は明治5年6月1日、出口政五郎・直の次男として丹波国何鹿郡綾部に生まれた。母は大本教の開祖として知られ、11歳下の末妹・澄の婿が上田鬼三郎(後の出口王仁三郎)である。『大本教祖伝』によれば、綾部の地に繁栄した出口家は、トヨウケ大神の神霊を奉持して丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井から伊勢に移住した渡会家の本家で、家紋は多く「抱き茗荷」、氏神は綾部の斎神社、祭神はフツヌシであるという(出口和明『いり豆の花』)。

 一方、鬼三郎の出た上田家は、本貫を丹波国桑田郡曽我部村大字穴太小字宮垣内(*現:亀岡市曽我部町穴太あなお)とする。家伝では遠祖を藤原鎌足、氏神はアメノコヤネと称する(出口前掲著)が、実は本姓海部氏で、いわゆるアヤタチの一統であることは本稿が明らかにしてきた。王仁二郎『故郷乃弐袷八年』は、前記トヨウケ大神の遷座に際し、神輿がアメノコヤネの縁故で曽我部の地に駐輦したが、その時に供えた荒稲の種が欅の老木の穴に落ちて芽を出したので、穴太(アナオ・アノウ)と呼んだと付会している。しかしながら穴太は、任那の諸国の一たる安羅(アナ)から来た石工衆の居留地を謂う地名で、各地に点在することは、すでに本稿が明らかにした。ともかく、伝承の主旨は二千年も前に出口と上田の遠祖が出会った因縁話だが、史実としても両家は同家系で、オリエントに発祥する多神教のヘブライ族いわゆるイスラエル十支族の子孫である。上田家が遠祖と仰ぐアマベ(海部)氏は、海路を渡来して丹後半島に上陸し、各地にイセ(伊勢)の名の集落を建設したが、やがてモノノベ(物部)氏と混淆した。本稿は、さらに後来者で陸路を来たハタ(秦)氏がそこに混入したと考えるが、三氏はいずれもイスラエル十支族に属した部族で、同族である。

 ★日本に流れ込んだセファルダムの血


 相模国丹沢山麓の秦野は、秦氏が養蚕紡織の適地を求めて開拓した地域で、地名は明らかに秦氏に因むが、近在に伊勢原がある。養蚕適地を求めた他の一族は信濃国小県郡真田荘に入った。ここに上田の地名があるのは、姓が先か地名が先か現状では未詳であるが、信州上田の地は遠く西アジアに始まるシルクロードの終点に当たり、さればこそ蚕業の最高学府たる上田高等蚕糸学校が置かれたが、高蚕の設置地は、東京を別にすれば上田と京都だけで、これは正に秦氏・上田氏の故事に応じているのである。

 室町時代にポルトガル人が来日し、鉄砲・火薬の輸入、男女奴隷の輸出と共に明国産絹糸の仲介貿易を行ったが、その本性はレコンキスタ(キリスト教徒の失地回復)でスペインを追われ、隣国に逃れたセファルダムが多かった。天主教のポルトガル人を装ったが本もとが一神教ユダヤ教徒で、アマベ・モノノベ・秦氏の多神教イスラエル族とは本来同根であった。ポルトガル人は、植民地は言うに及ばず、ゴアやマカオなどの交易地でも、必ず混血族を作って己の手足とするのが常道で、日本でも当然同じことをした。

 本邦での鉄砲生産地は当初伝来地の種子島、そこから伝来した根来の芝辻氏が移った泉州の堺(高須神社近辺の鉄砲屋敷)、伊集院の橋口氏が移った鹿児島(鍛冶屋町方限)、後には近江国国友村などである。また、蚕業地の丹波で上田氏が興した紡織・繊維業は京都西部に移って発達し、堺港にもたらされる明国産生糸の需要地となっていた。右の何処かの地に、ポルトガル人との混血種が誕生したわけである。鎖国後には、ポルトガルに代って新教徒オランダ人が来航するが、これにもレコンキスタの後、エクソダス(大脱出)によってスペイン領オランダヘ移ったセファルダムの後身が混ざっていた。王仁三郎の祖父・上田吉松の五代前の遠祖・円山応挙には、オランダ人の血が混じっていたという。右のごとき血筋の出口家から出た清吉は、明治25年12月1日、近衛師団に入隊する。全国から優秀な青年を選抜した近衛兵に何鹿郡から入隊したのは、清吉を含めて2人であった。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)  <了>。
                      
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/645-455133c3



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。