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 ●疑史(第54回) 陰謀史観 
 ●疑史(第54回) 陰謀史観   評論家 落合莞爾 (『月刊日本』3月号)。
 

 一昔前になるが、寄稿の話で某大手出版社の雑誌編集長と協議した時、「そんな陰謀史観は今時の読者が嫌がるのでねえ」と言われで、それきりにしたことがある。「陰謀史観」に似た言葉に「謀略史観」があり、ともに他人の史観を否定的な意味を込めで呼ぶ語であるが、強いで分ければ、前者は歴史の進行を総じで陰謀に因るものと観る巨視的な立場、後者は個別的歴史事象の陰にある謀略に焦点を当でた歴史解釈を指すと言えようか。

 ともかく某編集長が言うには、一般読者は性単純で権力迎合的なため、世の謀略の存在を認めたがらず、殊に権カ側の謀略の存在を否定したがる。陰謀史観は大衆向けの売文商品としては不適当なので、出版社はいきおい陰謀史観を排除せざるを得ない。結局書肆に溢れるのは通俗の売文書で、御用学者がこさえた教科書史観に所縁の史料を当てはめたものばかりになる。挙って陰謀史観を冷笑する売文人も、論拠としでは「陰謀があったことを証拠立てる文献がない」というが、陰謀なぞあり得ぬとの先験的判断に立っているだけである。

 かつて日本法制史の講義で石井良介教授がされた笑い話に、日本書紀の某年何月何日の条に「本日雨降る」との記録があるが、それより前には降雨の記事がないので、之れを以で本邦降雨の初めと断定した学者が居たと言われたが、何をがな文献記録をかざすとこういうことになる。


 陰謀は、一部勢力が全体の建前を尊重(する恰好を)しながら本音を達成するための、最も効率的な手段であるから、人間社会ならどこにでも存在する。しかしながら、獣類が空気の存在を意識せず魚類が水の存在を忘れているように、人は周囲に充満する陰謀に通常は気づかない。社会の建前にすがり付いて安易単純な生き方を望む俗人は、ことに陰謀を嫌い、その存在を誰かにはっきりと否定して貰いたい。そこに付け込んで通俗史観に沿った経本を作り、俗衆に提供して米塩の資とするのが売文人である。本稿のごときは蓋しその反対で、編集者の好意で本紙に掲載を許されているものの、俗流からはさしづめ陰謀史観の典型とされて居るものと思う。

 ところが最近「日本のスパイとして【東洋のマタハリ】と呼ばれ、昭和23年に北京で処刑された筈の川島芳子が、処刑を免れて吉林省で昭和53年まで生きていた」との証言が出た。吉林省長春の張という41歳の画家が、義理の祖父・段蓮祥が芳子の監獄からの脱出に関わったと証言したのである。詳細は新聞が報じたから略するが、この報道を機に、報道関係者から私の許に多くの問い合わせや感想が寄せられた。それは、私が以前『月刊ニューリーダー』に、下記のごとく述べたからである。

 昭和32年頃(☆30年)、岸内閣の外相として訪中し、周恩来に会うこととなった藤山愛一郎が、恩来と旧知の吉薗周蔵に、その人となりを問い合わせてきたことがあった。藤山から「恩来さんに会った時、何か聞いてくる事はないか?」と聞かれた周蔵は「一つだけある。川島芳子が生きていると聞いたが、真否を確認して欲しい」と頼んだ。
藤山がそのままを周恩来に伝えた処、恩来は「そんなこと答えられる訳がない。でも吉薗先生には、この通りだと伝えて下さい」と言いながら、指で空中に丸を描いた・・・という一件が、吉薗家の伝承にあると云々。

 本稿の読者諸賢からは、今回の証言で『周蔵手記』の信頼性がさらに高まったと激励が寄せられたが、従来その信憑性に疑問を感じ拙稿を陰謀史観と見做していた向きの中からも、今回の証言を機に見直す人がかなり出てきた。その中に、藤山は政界引退後に日中友好に努めたが、岸内閣の外相の時には訪中はおろか、周首相に会った記録もないとの指摘があった。何分、この一件は周蔵周辺の口伝に過ぎず『周蔵手記』の記載ではないから、執筆当時は厳密な裏付けを取っていなかったので、今回改めて調べてみると、実は☆昭和30年のバンドン会議の時と判明した。当時藤山は政界入り前で日商の会頭をしていたが、鳩山内聞の経済企画庁長官・高碕達之助の顧聞として会議に出席し、周恩来に会ったのである。ゆえに、上述の傍線部は私の誤りと分かったので、ここに訂正する。

 川島芳子生存の一件は、他にも幾つか囁かれていた。その一つは私が大手婦人雑誌の元編集長H女史から聞いたもので、「芳子は笹川良一氏に養われ、熱海の温泉施設で療養していた」ということであったが、他にも外務省キャリア出身の元衆院議員K氏から「芳子の家族が金条数本を以て看守を買収し、身代わりの女性を処刑させたと、元海軍特務の某氏から聞いた」と伺ったことがある。看守が賄賂を貰って逃亡させたのは収賄という犯罪に過ぎぬが、首相がそれを承知しながら故意に放置していたのであれば、権力側の謀略である。永く囁かれていた川島芳子生存説は、取りも直さず中国共産党の謀略を指摘する謀略史観であるから、俗流史観に立つ売文子は之れを嫌い、最近公刊された芳子の評伝もこれに触れようとはしていない。中国共産党の掲げた罪状では日本のスパイとされた川島芳子だが、その多岐にわたる活動の究極の目的が女真族と愛親覚羅氏の利益にあったのは確かである。

 結果的に中華人民共和国内の少数民族となった女真族の1人が行った民族自立行為を、多数派の漢族が漢奸(反漢族行為)と糾弾して死刑にするのは、流石に寝覚めが悪かったのであろうから、本音は芳子の救命を望む共産党中央が、新政権の建前たる漢奸厳正処分とを調和させるために、謀略を用いたのが真相とみて良い。ゆえに金条数本は、実は関係者に対する口止め料であろう。

  スパイは原則として二重スパイであり、時には三重スパイでさえあるから、双方の裏を知り過ぎたスパイを処遇するに中途半端は適切を欠く。つまりは抹殺か解放しかないが、抹殺により情報が完全に封印される保証もないので、厳重に□止めした上で解放するケースも多いと聞く。例のスパイ・ゾルゲも、真相はロシア・ドイツ・日本を股にかけた三重スパイであった由で、戦時中に行われたゾルゲの刑死にも裏があると聞いたが、それこそ【文献的な証拠がなく】すぐには信じがたいとは言え、全くあり得ないことではないのである。

 本稿が基礎資料としてきた吉薗周蔵の手記は、諜報員に通例のもので、窮地に立っても上司が助けてくれぬことを前提に、自身を守るために自らの活動の軌跡と見聞した秘事を綴ったものである。必要な時に提出し、もしくは発表すべきものであるが、周辺に迷惑を掛けぬために、すべてを一文に纏めることはせず、小分けして別紙にメモしておく。時には言い抜けができるように、日時をずらしたり偽アリバイの基を作ることも心掛けるが、そもそも手記自体の信用が重要だから、後人を惑わすデタラメの類は必ず排除する。要するに、スパイの手記は、本質的にも謀略文書とは正反対の性格で、真摯な内容にその特性があるのである。

 大正元年8月2日から始まる『周蔵手記』の冒頭は上原勇作にお目見えする場面である。上原の命令で陸軍特務となった周蔵は、当初は「犬」と「草」は辞退し、「歩」に限って引受けることで上原の了解を得て、ケシの栽培に専念し、同時に特務日誌の記帳を始めた。上原の背後に高島鞆之助がいたことに史家は気づかなかったが、『周蔵手記』により初めて明らかになった。私がこれを日本近現代史上で極めて重要な発見と自負するのは、陸相を辞めて政界から姿を消した高島が、明治31年以後は裏面で行った活動を『周蔵手記』から窺うことができるからである。高島を追えば自然に兄貴分の吉井友実に及び、ひいては西郷・大久保・吉井の薩摩三傑にたどり着き、教科書史観からかけ離れた歴史の真相が見えてくる。ここまで来れば、西郷らに続く新薩摩三傑すなわち松方正義・樺山資紀・高島鞆之助の事績を正しく読み取ることができ、そこから分かるのは、英露の世界史的角逐たるグレート・ゲームが明治史を根本的に規定したことである。『周蔵手記』の価値はその史料性に存するのだが、社会の裏方として秘事の真相を知るからこそ手記の形としたもので、そのために却って正当な評価を受けられないのは歴史の皮肉である。これほどの文献が実在しているのに、「文献的証拠がない、陰謀史観だ」などとする売文家の指摘は本末転倒も甚だしく、遺憾というほかない。

 上原勇作はフランス留学時に在仏ワンワールドに直接加入したが、その立場は在英ワンワールドに近かった。陸軍首脳となった上原は、大陸では張作霖を支援して満洲自立策を立て、第一次大戦ではシベリア出兵を強行し、裏ではシベリア金塊の処分に関わった。これら、すべて在英ワンワールドの対露政策に沿っているのである。詳細はやがて本稿で論じたいが、以下では上原の外伝に類する甘粕正彦について解明したい。

 本橋の甘粕正彦論は陰謀史観呼ばわりの好例である。甘粕に関する評伝は、巷間に幾つか存在するが、すべて粗略・不完全なものである。有名な角田房子『甘粕大尉』は、意図的な事実歪曲を図ったものだが、以後の通俗史観の基になった。最近刊行の佐野眞一『乱心の曠野』も、新事実の発掘に熱心ではあるが、基調は紋切り型を脱していない。中でも、甘粕がコチコチの天皇崇拝者で、そのために無政府主義者を憎み、憲兵の職権を利用して大杉らを不法に抹殺した頑吏と見るに至っては、通俗史観というしかない。陸士生徒の時に皇居遥拝をしていたことだけで、コチコチの天皇崇拝者と決めつけることはムリである。

 私の学生時代、周囲は共産思想鼓吹の「インターナショナル」や「国際学連の歌」などの革命歌を歌う者ばかりで、日共代々木派さえ右寄りと攻撃する無政府主義の下に集っていたが、後年東大の右翼教授となったり、官僚・司法官、企業経営者になったが、コチコチの無政府主義者なぞ見たことがない。あの革命歌は当時のインテリ学生間における流行で、エリート意識を高めるために、将来職業に就くことを忘れて快く歌っていたのである。大手家電の朝礼で社歌を歌う者にも、純真もあれば功利もあり、皇居遥拝する陸士生徒にも野心を抱き目端が利く者がいた。将来所属する軍人社会の建前と一致する皇居遥拝を進んで行った甘粕は、革命歌世代よりもむしろ功利性が強いというべきであろう。皇室崇拝と言うが、その本質は国体尊重主義であり、むしろ天皇機関説と呼ぶべきである。加えて甘粕に限っては、国家主義者であったことさえ疑わしいと思う。その根拠は、甘粕に親しかった周蔵の手記から窺われる甘粕像であるが、後述する。

 付言すれば、佐野氏が甘粕遺族の協力を取り付けて諸種の資料を得、以て瑣末を追究したことは史学に利する処大きく、評価すべきものと思う。 


 ●疑史(第54回) 陰謀史観 <了>。

 


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