カウンター 読書日記 ●『画商の眼力』を読む(3)。
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●『画商の眼力』を読む(3)。
 大島一洋『芸術とスキャンダルの間』の最後はこう締めくくられていた。

 「・・・落合莞爾とは何者か。
 著者紹介(落合著『天才画家<佐伯祐三>真贋事件の真実』=1997年、時事通信社刊=の著者紹介)を見ると、昭和16年和歌山市生まれ、東京大学法学部卒、住友金属、経済企画庁調査局、野村證券を経て、昭和53年落合莞爾事務所設立、株式会社新事業開発本部社長とある。著書は6冊あり、半分は経済モノで、経済評論家のようだ。が、やがてわかるように調査のプロであり、筆もたつ。『天才画家佐伯祐三・・・』は推理小説を読むような面白さで、最後まで読者を引っ張る。彼は真作派の旗手であり、武生市の贋作疑惑をことごとく粉砕していくのである。・・・

 筆者(大島氏)に(佐伯の作品の)真贋を判定する力は無い。ただ、もし絵は贋作としても、あの大量の「吉薗資料」はいったい誰が書いたのだろうか。
 資料は本物で絵は贋作なのか。謎の多い事件である。・・・」 **********
 
 以下、<補足>しておく。

 上記の著作『天才画家「佐伯祐三」・・・』とほぼ同時期に刊行された藤原肇との対談本『教科書では学べない超経済学―メタエコノミクス』(副題―波動理論で新世紀の扉を開く)の<著者略歴>をチェックしてみると。

 「経済企画庁調査局」は、「経済企画庁内国調査課(出向)」とより詳しく記されている。
 <東興書院> 設立は昭和62年12月で、<設立にあたって>という宣言の一文「百年の良書を望む」も東興書院・各刊行本の巻末にある。

 私の知る同社の刊行本としては『間脳幻想』(銀座内科医師・藤井尚冶と藤原肇氏との対談。1988.11月刊)と『世界革命とイルミナテイ』(ネスタ・H・ウエブスター著、馬野周二訳1990.6月刊)があるが、どちらも「良書を!宣言」を汚すことの無い一冊だった。
 
 特に、『間脳幻想』は、対談集が売れないこの国にあって、稀有の結実だと思う一冊。
 私は何度読み返したかわからないほどだ。

 とにかく「叡智」・「智慧」が随所にさりげなく、叩き込まれている! 

 ***************

 
 ●次に紹介するのは、出久根達郎・『書棚の隅っこ』である。

 先ず、落合氏の【佐伯祐三:調査報告】からの引用を。

 第三章 第三節 〔落合報告なるもの〕 より。

 **************

 ・・私は、小林報告書起草者に対する憤激の存念から、随所で美術評論家なるものを貶めてきたが、それはあくまでも一般論であり、中にはこのように見識と勇気ある人士も少なくないことを認識した。文壇の大型新星といわれる★出久根達郎も、その著「書棚の隅っこ」のなかで、取り上げて下さっている。

 草: 「佐伯祐三が、激しく私を奪って止まない所以は、モラリスト(風俗批評家)としての彼の独自な姿勢が位地の確かさの上にあって、比類ない美をわれわれに提起していることに、職として由る。」「大阪の持つ庶民的な反逆精神。そして文明への高貴な憧憬の感情。彼の体液(ユムール)を流れるこの二つの要素の上に彼のプチ・ブルジョワへの深い愛情がその独自の芸術となって燦然と輝いているのである」(安西冬衛「佐伯祐三の位地とその意義」)

 佐伯祐三真贋騒動をご存じだろうか・・・・

 出久根さんによる拙著の紹介は、上の文章で始まる。安西という人の難解な文章をまず掲げたのは、拙著と対比なさるためであろうか。ともあれ、出久根さんは、私個人の略歴と拙著の大筋を紹介した上で、次の文章で締めくくっている。

 「佐伯の絵は、妻の米子が加筆している事実が判明した。佐伯作品の再検討が始まる。そうなると美術商たちは恐慌をきたす。ニセとわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れているからだ。十号数億の佐伯作品となれば,画商の経済的破綻は必至。「吉薗資料」の抹殺をはかるわけである。

 なお「草」とは、スパイの意味である。佐伯を「草」に仕立てた吉薗周蔵も、もちろん当時の陸軍の「草」だったのである。」

 このように、好意的な書評は幾つか頂いたが、その逆の拙著に対する反論は、真摯なものはもとより、嘲弄的な批判ないし噂すら、これまで私の耳には入ってきていない。一つだけ例外は、流行語“老人力”で売りだした★赤瀬川原平が、「日経アート」平成十年十二月号の紙上の対談で曰く、「4年くらい前に真贋騒動があったんですよ。(中略)絵と一緒に資料があって、この資料がすごいんです。よくもまあ、これだけ、という感じで。(中略)いまだに真作だといって本を書いている人もいて、相当複雑なんです。センスがなくて筆が立つ松本清張みたいな人が生きていたら大長編小説を書いてますね」と。

 後半部分の趣旨はよく分からないが、とにかく拙著と私をからかい気味で語っていることは疑いない。これが、私の知り得た唯一の表だった拙著批判である。この外に「闇の贋作派」がいて、たとえば安井収蔵氏のごとく「小林報告で真贋はすでに決着した」と唱えるが、堂々の論争をしようとはしない。この一派は、商業的・経済的動機がすべてのようだ。

 赤瀬川は同誌上で「絵の真贋なんか元来どうでもいい」と言い、吉薗佐伯については、「でも、ぼくは写真でしか見てませんが、この絵がどうしようもなくつまらなくて何だか嫌な気分になる」と、自ら『芸術新潮』の掲載写真の影響下に在ることを自認している。その未額装品の写真によって、間違った先入観が形成されてしまった人が多いが、赤瀬川もその一人らしい。先入観が強すぎて、拙著や月刊「ニューリーダー」で紹介してきた資料の内容が理解できず、「よくもまあ」とただ呆れるのであろうが、嫌な絵だから偽物というのは早計ではないか。それに、夫子自身が「日経アート」の対談のなかで、佐伯の公開作品を評して「この絵のここは、佐伯がああした、こうした」と評するが、作者の個性・心情と具体的作品を結びつけて論じる立場にあるなら、真贋=つまり当該作品の作者と特定個人の同一性の有無=を無視することができぬというのが、物の道理ではないのか。

 そこで一つ、赤瀬川君に問う。これは君自身で双方の報告を熟読したうえでの責任ある見解なのか?

 そして告げる。ここは一番、★千葉成夫の言に従い、真面目に争おうではないか。「どっちも頑張れ、と言っておこうか。どっちも頑張れ、ただし真面目に、だ」。
 ・・・(続く) 

  <註>
 上の★「千葉成夫の言に従い」とは、以下の文章(落合報告)を
 踏まえたもので、以下引用する。 
 
 *********

 拙著に対しては、幾つかの好意ある書評をば頂いた。その代表は、美術評論家の★千葉成夫東京近代美術館主任研究官のもので、★「中央公論」平成9年10月号に、次のように評して頂いた。

 「実に面白い本だ。まるで推理小説か犯罪ミステリーを読んでいるようで、読者に息をつかせない。しかも、ただの面白い読み物というのではなく、これはきわめて真面目な考証物であり、研究書とすら言っていいだろう。(中略・事件の経緯)

 一般の人々は、その間の事情と経緯を知る由もないから、よく調査した結果、贋作と判明したので白紙に戻すとは、役所にしては偉いと思った人もいたはずだ。たとえば「贋作説」の新聞しかとっていなかったら、そう思って当然である。ところが、本書の著者の調査と推理によると、そうではない。ここから驚くべき真実があかされることになる。こういう本は、種明かしをしてしまったのでは、これから読もうと思っている人々に失礼に当たるわけだから、それはせず、結論だけを記しておこう。『刑事コロンボ』同様、本書の面白さは結論にではなく、結論に導いていく課程(*過程)にあるからである。

 吉薗資料の全面的提供をうけて詳細な解読と調査を行った著者の結論は、「吉薗佐伯」こそは、真作であり、これまで「佐伯作品」とされてきたもののほとんど、ないし多くは、画家の未亡人・佐伯米子が夫の作品(真作)に加筆して完成させたもの、他者が描いた作品に米子が加筆したもの、であるというのだ。この驚天動地の結論が、著者の綿密な解明をへて導きだされている。

 これだけでも大変なことだが、著者はさらにこの調査から、吉薗周蔵という、これまで未知の人物を歴史の闇の中から浮かびあがらせる。なんと、それは上原勇作元帥の「草」(陸軍特務=スパイ)として、幅広く複雑な人脈を持ちながら、市井に暮らした人物だった、というのである。吉薗周蔵の人物像がはっきりしてきたことは、美術に関してもこれからいろいろな情報をもたらしそうで、興味がつきない。

 さて、この著者の「吉薗佐伯真作説」に対して、「贋作説」を唱えてきた美術史家、美術研究者、美術館学芸員、画商たちは、いったいどのような反応を示し、対応するのだろうか? この著者の調査・研究・推理は、本書でみる限り、かなり綿密で本格的だから、客観的に言って、反論は簡単ではないにちがいない。部外者の僕は、無責任に、どっちも頑張れ、と言っておこうか。どっちも頑張れ、ただし真面目に、だ。
・・・略。

 【2007/12/07 15:31】 | 読書日記

 *****************

 ●『書棚の隅っこ』  出久根達郎 リブリオ出版1999.1.20 1500円
 (*初出は、『週刊新刊全点案内』 1997.10.7号~1998.9.29号)
 後、★『人は地上にあり』と改題されて文春文庫として、刊行される。(2002年9月)

 以下、全文を紹介する。

 **************

 ● 草

 「佐伯祐三が、はげしく私を奪って止まない所以は、モラリスト(風俗批評家)としての彼の独自な姿勢が位置の確かさの上にあって、比類ない美をわれわれに提起していることに、職として由る。」
 「佐伯は明治三十年大阪に生れ、大正五年北野中学校を出ている。(略)大阪のもつ庶民的な反逆の精神。そして文明への高貴な憧憬の感情。彼の体液(ユムール)を流れるこの二つの要素の上に彼のプチ・ブルジョワヘの深い愛情がその独自の芸術となって燦然と輝いているのである」 (安西冬衛「佐伯祐三の位置とその意義」)。

 佐伯祐三真贋騒動を、ご存じだろうか。
 福井県武生市に、吉薗さんという女性から、佐伯の絵が寄贈された。一点ではない。油絵やデッサン、書簡など百八十点もの大コレクションである。しかも、どれも今まで世に知られなかった作品だから、大騒ぎになった。

 武生市は約四億円をかけて、佐伯祐三美術館をこしらえ、これらを受け入れることにした。
 そこに横槍が入った。★東京美術倶楽部が、コレクションの中の一点は、以前、美術倶楽部で鑑定ずみで、真物ではない。他の作品もきわめてうさんくさい、と武生市に申し入れたのである。東美と略称で呼ばれる美術倶楽部は、★有力美術商の団体で、定期的に鑑定委員会を関いている。美術業界では東美の鑑定証がないと、取引対象にならない。つまり、それほど権威がある。
 ところが武生市が委嘱した、美術評論家の河北倫明氏ら、いわゆる専門家側の鑑定は、贋にあらず真である、だった。
 
 真っぷたつに、評価が割れたのである。これは、きわめて珍しいことで、そもそも美術界においては、両者は持ちつ持たれつの関係で、対立するはずがない。一体、何があったのか?
 
 というわけで調査に動いたのが、★落合莞爾氏。その報告書ともいうべき本が、『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』(時事通信社・本体価格二五〇〇円)。
 奥付の著者紹介によれば、落合氏は昭和十六年生まれ、東京大学法学部卒。経済企画庁調査局部員を経て、野村証券入社。昭和五十三年に落合莞爾事務所を設立。株式会社新事業開発本部社長とある。著書に『ドキュメント真贋』他。
 
 まず佐伯祐三とは、どういう画家なのか。『新潮日本人名辞典』によると、明治三十一年生まれの洋画家である。大阪の寺のむすこで中学時代から油絵を始めた。東京美術学校を卒業し、フランスに渡る。ユトリロに感動、帰国し、二科展に出品、二科賞を受賞。昭和二年再渡仏、「郵便配達夫」「ロシアの少女」等を制作。昭和三年六月、神経を病んで、パリ郊外の入院先で客死した。三十歳であった。
 教科書などで一度は目にしたことがあるはずである。黒い制服を着たヒゲの老人が座っている図の「郵便配達夫」、あるいは、落書のように、いろいろな文字が書きちらされたドアを描いた「レストランの入り口」。 
 若くして亡くなったために、残された作品の教は少ない。そのため佐伯の絵は、岡鹿之助や岸田劉生につぐトップクラスの評価で、十号のもので二億教千万円といわれる。
 
 武生市は困惑した。いろいろなことが、わかってきた。吉薗さんは先に岩手県の遠野市に寄贈を申しこんだのだが、断わられていたのである。遠野市は吉薗さんの現住地である。遠野市に佐伯祐三の作品がある、ということがまず疑われたのだ。しかも今まで全く知られていない作品が、百数十点もあるとは。
 何より怪しまれたのは、吉薗さんの父周蔵のコレクションというが、周蔵の★経歴がさっぱり不明だということであった。
 調査によると、吉薗氏の伝記なるものはあるが、記述に信頼性がない。フランスに行ったというが、渡航記録がない。海外で活動したというが、客観的な資料は皆無である。要するに正体不明の人物である。
 
 武生市は結局、絵を持ちぬしに返し、寄贈話はなかったことにした。善意で話を持ちこんだ吉薗さんには、面白くない結果になった。さまざまな事も言われた。そこで吉薗さんは、落合莞爾氏に真贋事件の真相調査を依頼した、というわけである。
 
 落合氏は早速動きだす。まず吉薗周蔵という謎の人物を探る。佐伯祐三の絵が本物か否か、より、佐伯と吉薗がどのような関係を持っていたのか判然すれば、何もかも解決する。
 そして明らかになった事実は、まことに驚くべき一人の人生であった。
 吉薗周蔵は歴史の表に現れなかったが、裏では、さまざまの階層の人物と交流が深かった。陸軍参謀総長の上原勇作、西本願寺門主の大谷光端、首相の山本権兵衛、満映理事長というより大杉栄、伊藤野枝らを殺害した甘粕正彦、陸相の荒木貞夫、陸軍大佐でのちに行方不明となった辻政信。画家の藤田嗣治、ジャン・コクトー、熊谷守一。また共産党の徳田球一。医学者の呉秀三。日本医師会会長の武見太郎。元日銀総裁の渋沢敬三。
 
 こういう幅広い交遊を持つ人の仕事とは、一体何であるか、見当がつくだろうか?
 吉薗周蔵は大正六年八月、上原勇作から妙なことを頼まれた。佐伯祐三という少年が、美術学校に入学するため上京するが、面倒をみてくれ、というのである。佐伯は北野中学出身の秀才で、大谷光端が目をかけていた。佐伯の生家は本願寺派の寺である。大谷は佐伯を★「草」(スパイ)として育成したい、と吉薗に言った。ついてはバックグラウンド作りに協力してほしい。「草」として活動するには、世間に通用する表看板が必要で、佐伯の場合は一流画家でなくてはならぬ。彼が一流に育つよう、何かと配慮を願いたい、と頼んだ。

 吉薗は自分が佐伯とは旧知の間柄に「作らねばならなかった」。まず出会いだが、武者小路実篤を利用することにした。吉薗は若いころ武者小路の「新しき村」で、手伝いをしていたことがある。佐伯は武者小路のファンであったので、武者小路の『その妹』を読んで感動し、画家になれなかった主人公の代わりに自分が絵の道に進んでみようと思う、というファンレターを書いたことにした。その返事を吉薗が武者小路の代筆で認め、そこで二人の文通が始まったという筋書をこしらえた。実際に吉薗は「新しき村」で、読者からの手紙の返事書きをしていたのである。
 佐伯の絵は、妻の米子が加筆している事実が判明した。佐伯作品の再検討が始まる。そうなると美術商たちは恐慌をきたす。贋物(ニセ)とわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れているからだ。十号数値の佐伯作品となれば、画商の経済的破綻は必至。「吉薗資料」の抹殺をはかるわけである。
 なお、「草」とは、スパイの意味である。佐伯を「草」に仕立てた吉薗周蔵も、もちろん当時の陸軍の「草」だったのである。

 <完>。 

 【2007/12/07 15:36】 | 読書日記 | 再録。

 ****************

 (『「佐伯祐三」真贋事件の真実』 p 380~)に河北倫明に関して次のような記述もある。

 4 河北は知っていた

 匠秀夫の「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」に河北倫明の序文がある。その末尾を掲げる。

 「・・・すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受け取っている。匠さんのこの本が、この異風の人物にも一定の照明をあてる機会を作って下さったことを、喜ばずにはいられない」

 吉薗明子は河北と知り合って以来、次のような話を何度も聞かされたが、ついにその意味が分からなかった。「まあ、焼物なんかは、ぼくは芸術と認めていないから、あれでも良かったんだが・・・絵画は芸術だからねえ・・・とにかく佐伯なんかどうでもいい。ぼくは佐伯なんて大嫌いだよ。・・・それより周蔵だ、吉薗周蔵のことが分かれば、すべてはっきりするんだ。とにかく周蔵を調べろ」

 明子はそれを、河北が「嫌いな佐伯だが、無理に応援してやっているんだ」という恩着せと理解し、そのたびに何かと御機嫌をとった。それにしても、河北がいつも焼物のことだけを持ち出すのが、不可解だった。

 実は、河北は最初から吉薗周蔵について知っていた。

 それは佐藤雅彦を通じたものだった。佐藤雅彦は父の進三が京都の出身で、自身も京都住まいが長かった。河北が京都国立博物館長を勤めていた永い間を通じ官舎には入らず、高級和風旅館の柊屋を常宿にしていた。佐藤は美術館行政のボス河北の知遇を得、京都でさらに昵懇の間柄となり、その政治力を活用しながら、茶道関係とも深い関係を持ち、真倣ともどもに陶磁を動かしていた。その中には奉天古陶磁(ホンモノ)も、かなり多かったのではないか。

 古美術の談義は、来歴から始まる。佐藤は紀州古陶磁を河北に説明するに際し、関係者として吉薗周蔵の実名をあげ、小森忍から聞いた話を詳しく伝えた。河北が吉薗明子が周蔵の遺児と知ったとき、何とも不思議な態度を見せた鍵は、ここにあった。

 昭和61年頃、佐藤雅彦から、元首相も臨席するというパーティーに招待された池田チヤは、和服を新調して出掛けてゆき、席上で河北倫明と画家の稲垣伯堂に会った。チヤは旧知の河北からかねがね、稲垣はやがて文化功労者になる手腕と聞かされ、作品の購入を勧められていた。河北が佐藤と稲垣を従え、元首相のいる前でチヤに、「佐藤君の所の図譜は中途半端だから、真贋を区別するのに、役にたたない。佐藤君から聞いたがおたくには吉薗周蔵が奉天で写した本があるそうだが、それを持ち出せば本物の説明ははっきりとつくから是非稲垣君に見せてやっていただきたい」と頼んできた。その後、稲垣の絵を送ってきたがチヤはそのまま返却し、結局『奉天図経』を見せなかった、ということである。

 昭和62、3年頃、北海道立近代美術館が多数の中国陶磁器を購入したという噂を最近耳にした私は、そういえば稲垣画伯が「古陶磁を北海道美術館が数多く買いにきた」と語っていたことを、やっと思い出した。明細はさっぱり判らないが、その中には奉天伝来の秘宝もあるのだろうか、見てみたいものだと思う。

 佐那具や大連の陶雅堂窯、さらに大連市の夏案子で造られた倣古品や贋造品は、旧特務機関員らが、にわか茶人となって、茶室を舞台にして世間に売り込んだ。陶磁学者として1派をなした小山富士夫もそれに加わっていた。関東では、日本橋にあった某美術店と湘南の某料亭が、関西では有名な超一流料亭がその舞台である。湘南某駅の近くで、旧軍の特務機関員につながる女性が料亭を経営していたが、茶会にことよせて大量の佐那具物・満洲物を売っていた。日本橋某美術店も、その店頭に佐那具・満洲物の実物やポスターを飾り、古陶磁マニアに売りつけていた。佐那具物を目利きしていたのは、そつ当時東京国立博物館に勤めていた某専門家で今や世界的な陶磁学者になったが、若年の頃、某美術店のパンフレットに執筆していた。

 それを聞いた私は、にわかに覚るところがあった。平成3年、私は紀州文化振興会の『陶磁図鑑』に手紙を添えてその学者に贈呈した。通常なら、贈呈品が気に入らねば、受け取りを拒絶するか返送すればいいし、まあ受け取って置こうという気持なら葉書1枚の礼状を出すのが学者の慣例なのに、まるで反応がないので、何となく不審に思っていた。また、平成4年に岸和田市の展覧会のとき、たしかにその1派が贋作攻撃の背後にいることを実感した。人から「落合センセは何かで恨まれてるんと、ちゃいますか?」と言われたが、心当たりがなく首をひねっていたものだが、その謎がこれで解けた。私は自分でも気付かずに、倣造陶磁シンジケートの営業妨害をしていたのである。

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