カウンター 読書日記 ●『画商の眼力』を読む(2)。
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●『画商の眼力』を読む(2)。
●『芸術とスキャンダルの間』(大島一洋 講談社現代新書 2006・8・20)
  
 この本の第3章で、【佐伯祐三真贋事件】が採り上げられている。

 事件の経緯が要領よく、簡明に記されているので、以前にも紹介したが<略>部分が多かったので、これを少なくして、以下に再紹介する。

 「(長谷川によって)無意味にイニシャルのみで済ませられている人名」も実名での登場となる。

 *************  


 ●第3章 謎の佐伯祐三現わる―なぜ突然、大量に出てきたのか

 ★佐伯祐三とは 


 佐伯祐三はパリの下町風景を描いた天才画家として有名だが、昭和3年(1928)、肺結核のため、わずか30歳で客死した。美術学校時代を含めても、作画年数は10年間であり、実質的には5、6年と考えられる。彼の総制作数は5百点前後と見込まれているが、戦災で焼失したものもあり、正確にはわからない。贋作も多いといわれる。

 佐伯ブームが起こるのは昭和40年頃からで、10号大で2億円余と人気が高くなった。しかし、この事件が起きた平成6年頃には、佐伯作品は山本發次郎が蒐集した「山發コレクション」など、所有先はほぼ確定しており、新しく見つかっても、年に数点という程度だった。

 そこへ180点もの未公開作品が登場したのだから、美術界は大騒動になった。

 真作と判定したのが、当時美術界のドンといわれた河北倫明であり、贋作と判定したのが、画商の鑑定機関・東京美術倶楽部だったため、寄贈を受けた福井県武生市(現・越前市)を巻き込んで、マスコミの報道合戦が繰りひろげられていったのである。


 ★事件の発端 


 平成6年(1994)12月19日、「朝日新聞」は以下のように報じた。

 【佐伯祐三の大量未公開作品? 数10点中5点に「本物」判定】

 内容は、岩手県遠野市に住む女性から、佐伯祐三(1898~1928)の未公開作品38点の寄贈を受ける予定の福井県武生市が、専門家を集めた選定委員会を作って調べたというもの。選定委員は、美術評論家の河北倫明(座長)、京都国立近代美術館長・富山秀男、横浜美術館長・陰里鉄郎、東京国立文化財研究所美術部第2研究室長・三輪英夫、慶応大学名誉教授・西川新次の5人で、38点のうち5点を調べ、「佐伯の真作」と判定した。記者会見した河北は〈粗削りな面も見えるが、作品の質は今までの佐伯の作品に匹敵する〉と述べ、他の4人の委員も〈本物に間違いない〉と語った。

 ところが、この報道があった1週間後の12月25日、「毎日新聞」が社会面で大きく次のように放った。

 【えっ贋作? 「佐伯祐三」 関係者寄贈の未発表作 「新しすぎる」】

 【専門家鑑定で波紋 福井・武生】 

 「毎日新聞」は翌26日も社会面トップで追い打ちをかけた。

 【鑑定46点「すべて偽物」 佐伯祐三作品で確認 東京美術倶楽部】
 【真贋問題 全コレクションに波及か】

 東京美術倶楽部社長の三谷敬三と同倶楽部鑑定委員で日動画廊社長の長谷川徳七が、25日に記者会見をおこなったため、26日の各紙はみな一斉に報じている。以下、報道をわかりやすくまとめてみる。

 佐伯祐三の未公開作品を所有しているのは、岩手県遠野市の主婦・吉薗明子で、父親の周蔵の遺品のなかから見つかったものである。吉薗周蔵は東京で精神カウンセラーをしていたが、生前の佐伯を経済的に援助していた関係で、油絵、デッサン、書画など約2百点(以下、これを吉薗油彩と呼ぶ)と多量の手紙や日記など(以下これを吉薗資料と呼ぶ)を保管してきた。

前年(平成5年)の2月に美術商を介して、油絵16点、水彩画30点が鑑定のため東京美術倶楽部(以下、東美と略す)にもちこまれた。東美では、10人による鑑定委員会を開いて調査した。2カ月間科学的にも慎重に検査した結果、すべてを数年以内に描かれた贋作と鑑定した。そのうちの1点「モランの風景」(仮称)が武生市の公開したものと一致した。

贋作とした理由は次の3つ。

①キャンヴァスが最近の画布にしか使われないテトロンを含んでいる。
②絵具が酸化していない。
③画布を打ち付けた釘が錆びていない。

【東美社長・三谷敬三の話】
 われわれの見識として偽作と判断した。武生市が独自の判断で購入することは自由だが、われわれの業界では一連の作品はいっさい取り扱いません。
【美術評論家・朝日晃の話】
 20数年間、佐伯の研究を続けているが、佐伯の周辺で吉薗という名を聞いたことはない。
【河北倫明の話】
 鑑定委員会は、佐伯作品がたくさん出まわると絵画市場が混乱するから、そんなことを言っているのではないか。
【武生市・小泉剛康市長の話】
 (作品に対して)いろんな声が出るのは当然。ただ、私としては選定委員の意見に重きを置き尊重する。

 ★他市へも話をもちかけていた
 <略>。 吉薗明子が平成6(1994)年宮崎県都城市や遠野市にも寄贈の話を持ちかけていたという。   


 ★キャンヴァスの鑑定と資料鑑定 


 東美が贋作の理由として挙げた3つのうち、②と③は修復家たちのコメントで否定された。つまり、絵具の酸化から年代はわからない。
 また、作品完成後にすぐ木枠からはずしてしまえば釘の錆は残らないので、錆がないからといって、最近の作とは断定できない、というものであった。

 残ったのは①のキャンヴァスにテトロンが含まれているかどうかだった。
 そこで武生市は、寄贈品の画布の一部を切り取り、某鑑定機関に鑑定を依頼した。その結果、キャンヴァスからテトロンは検出されなかった。
武生市は広報でこの結果を大きく報じたが、これで吉薗資料がホンモノと決まったわけではない。
 だいたい贋作を作るのに、すぐばれるような新しいキャンヴァスを使う者がいるだろうか。
 次に吉薗資料の公開を求める美術関係者の声が上がったが、武生市は個人的な情報が多くて混乱をきたすとして、公開を先延ばしにする。
 4月14日、武生市は第2回の選定委員会を開いた。河北座長は病気のため欠席したが、新たに市の嘱託となった
小林頼子特別学芸員が参加した。彼女は西川新次選定委員の推薦で加わることになった。以後彼女の調査が武生市を最後まで引っ張っていくことになる。
 (この第2回委員会では、①今後も調査研究を続ける。②吉薗資料の筆跡鑑定を早急におこなう、の2点だった。なお選定委員会は名称を調査審議委員会にあらためる。)
 
 ところがその後、急に武生市の態度が変わっていく。
 8月と9月初めの武生市の定例記者会見で以下の3点が発表された。

①「佐伯美術館」の名称を「市公会堂記念館(仮称)」に変更する。
②吉薗コレクションを11月に公開できるかどうかは、美術館準備室に判断をゆだねる。
③吉薗資料は、8月13日に吉薗明子に返却した。

 この発表を見ると、明らかに武生市は後退姿勢である。「吉薗油彩」の38点まだ預かっているものの、それを公開できるかどうかわからないと言っている。「吉薗資料」も明子からの要求で返却したようだが、それでは筆跡鑑定ができない。つまり、鑑定する必要がないと言っているも同じである。

 じつは、9月12日、密かに東京で第3回調査審議委員会が開かれていた。
 その席で小林頼子特別学芸員が「吉薗資料の信憑性は疑わしい」と報告したのである。これを受けて武生市は、資料が疑わしいなら、作品も疑わしいと判断したのだろう。
 吉薗油彩38点の返却を決定し。同月26日の市議会で承認を得ている。 


 ★河北倫明の死 


 平成7年10月30日、河北倫明が入院先の順天堂医大病院で亡くなった。80歳だった。
 「週刊新潮」平成7年12月14日号は、以下のような特集を5ページに組んだ。

 【美術評論家 河北倫明氏死去で遺った佐伯祐三「贋作」騒動】
 この記事で注目されるのは、吉薗明子の過去の事件である。それは、彼女が鎌倉に住んでいたころ、知人の指圧治療院の経営者から詐欺まがいの方法で2億5千万円の借金をして逃げ、最終的に2億3千万円の返済で示談になったというもの。吉薗明子は返済金の2億3千万円をどう工面したかというと、武生市に買い上げられる予定の吉薗油彩11点を武生市の実業家に4億で買ってもらったという。また、明子所蔵の青木繁が河北の解説付きで売られたという話もあるとして、河北倫明は「佐伯祐三贋作騒動」でその晩節を汚した、という内容である(落合はこの記事に細かく反論しているが、煩雑になるので省く)。 


 ★米子(よねこ)夫人が加筆


 11月12日、地方新聞に、えっと驚く記事が載った。たとえば、「福井新聞」。
 
【佐伯祐三の絵に加筆 故夫人、書簡で告白?」
「中日新聞」「東京新聞」「産経新聞」も同じようなタイトルで、以下のような故・米子夫人の手紙を掲載した。

秀丸(佐伯の幼名)そのままの絵ではだれも買って下さらないのです 私が手を入れておりますのよ 秀丸もそれをのぞんでおりましたし・・・
画つらの絵のぐや 下じの厚いものには ガッシュというものをつかい 画づらをととのえ また秀丸の絵の具でかきくわえますでしょう すこしもかわりなくよくなりますのよ・・・
秀丸はほとんど仕上げまで出来なかったのです・・・あなたのお手先にあるもの
私が仕上げれば すぐに売れる絵になりますのよ

これは、落合が共同通信の記者を通して筆跡鑑定に出したものが真筆という結果が出たため、共同が配信したのである。この手紙は、佐伯米子が周蔵に「佐伯作品をゆずってくれ」というもので、吉薗資料のなかには同様のものがいくつもあった。ただし、これらの手紙は武生市には渡していなかった。

 落合は、周蔵あての佐伯と米子の手紙を分析し、次のように推測する。

 佐伯の作品に対する米子の加筆は、第一次バリ留学時代の途中から始まったようである。(略)幼少から北画を習っていた米子は、大胆な構想力に富み、荒々しいタッチの佐伯の原画をグアッシュで修正した。細い面相筆を用いた米子の修正で、佐伯の原画はずっとアカデミック寄りになった。すなわち大衆分かりする、こぎれいな雰囲気になった。周囲でむしろその方を誉める声が高まると、今度は祐三は複雑な心境に陥ったらしい。


★武生市の結論


 11月13日、最後の調査審議委員会が開かれた。故・河北倫明をのぞく4人が出席し、小林頼子特別学芸員の報告がなされた。結論から言えば「吉薗資料の信憑性に否定しがたい疑義が生じた」というものである。

 最初から贋作報道の気流だった「毎日新聞」は11月14日付で以下のように報じた。

 【佐伯祐三真がん論争 福井・武生市へ寄贈の38点 市調査委も「偽作」判断】
 内容は、これまでの経過を説明したあと、陰里鉄郎委員の次のようなコメントを紹介している。
「当初は信ぴょう性について肯定的な意見を述べたが、逆の結果になった。100%がん作とは言わないが、それに近い」

 この結論を受けて、12月22日、吉薗油彩38点は明子に返却された。調査審議委員会が示した疑義の項目はたくさんあるが、とても全部は紹介できないので、重要な以下の2点について、落合の調査結果を要約したい。

①吉薗周蔵は佐伯を援助するほどの資産家ではない。
②吉薗周蔵の渡航記録が見つからない。

 落合の調査は徹底している。吉薗家の戸籍、家系図を調べ、親戚関係の書簡やメモを探り出して、周蔵の経歴を洗う。やがて周蔵手記を発見し、驚くべき事実を確認するにいたる。


 ★スパイだった


 まず①について。
 吉薗周蔵は、明治27年(1894)宮崎県小林村生まれ。実家は資産数十万円の豪農だった。
 周蔵の祖母・ギンヅルは、海軍の総帥・山本権兵衛と強いコネがあった。また、彼女は陸軍大臣・上原勇作中将(映画俳優上原謙=加山祐三の父=は孫にあたる)の叔母であり、大スポンサーだった。その関係で、大正元年(1912)8月、周蔵を上原勇作に会わせた。周蔵は上原に「草ヲ命ズル」と言われる。つまり、陸軍のスバイになれということである。周蔵は熟考のすえ、これを引き受ける。熊本医専の麻薬研究員の助手となり、上原の命令でケシの栽培を始める。ケシ栽培は順調に進み、急速に上原の信用を得ていく。

 ケシから採取した純質アヘンはすべて上原勇作に届けたが、その見返りとして、政商・久原房之助が経営する久原鉱業関係の売店にタバコを納入する利権をもらい、帳簿操作だけで毎月5百円(現在の4百万円相当)を超える利益があった。佐伯祐三は始終、周蔵から金を借りた。周蔵は金に頓着せず、毎回貸し与えた。その代わりに絵をもらった。

 後年もずっと佐伯の絵を買いつづけるというかたちで援助した。つまり、周蔵は表向きにできない仕事で巨額の収入を得ていたのである。ただし、それを誤魔化すために、表面上は食料品を扱うよろず屋を装っていた。


 ★他人になりすまして渡航 


 次に?について。
 周蔵が最初に渡欧したのは大正5年である。そのころ、陸軍参謀総長に就任していた上原勇作大将は、陸軍の特務活動に従事していた石光真清少佐に、周蔵の欧州までの送迎を命じた。2人とも久原鉱業の技師になりすまし、周蔵は武田内蔵丞、石光は遠藤と偽称して渡航手続きをした。実在する社員の名前を拝借したものである。

 ウィーンに着いた周蔵は、ウィーン大学のラントシュタイナー血液学教室の助手を買収し、血清学理論の個人講義を受けた。そのあと、ドイツ、フランス、イギリスを経て、大正6年6月に帰国した。周蔵は現在の中野区中央あたりに「救命院」の看板を掲げて精神カウンセラーを開業する。これは全国でケシ栽培を展開するためのアリバイ作りが主な目的だったが、この救命院の患者に佐伯祐三がいた。ちなみに、佐伯祐三が美術学校に入れたのは、周蔵が山本権兵衛に頼んだおかけで、いわゆる「裏口入学」だった。

 昭和2年9月、周蔵は元帥になっていた上原からふたたび欧州出張を命じられる。今回は煙草小売商・小山健一の名前で渡航手続きをした。シベリア鉄道経由でパリに着き、佐伯祐三と会う。このとき、周蔵は佐伯に3千円渡し、その対価として日本へ絵を送るよう約束をした。それが、周蔵が佐伯と会った最後である。

 周蔵は翌3年4月シベリア鉄道で帰国した。その2ヵ月後に佐伯は客死する。周蔵がパリで佐伯に会ったときは元気そうだったので、落合は佐伯の死についても疑問を呈している。

 周蔵の渡欧はスパイ活動であったから、渡航申請は他人名義でおこなったのである。


 ★武生市との対決 


 調査を終えた落合莞爾は、武生市との全面対決を公開する。武生市が出した「美術館準備室報告書」の疑義項目は24にのぼる。落合はそれらすべてに反駁した。
 平成8(1996)年6月28日、武生市役所の市長会議室で、まず市側が「準備報告書」を発表し、そのあと、隣にある生涯学習センターで、落合が「反駁報告書」を発表した。
その模様は福井テレビで放映された、
 しかし、翌日の新聞各紙はつれなかった。落合の反駁を取り入れたのは、「朝日新聞」と「読売新聞」のみで、他紙は武生市の報告だけを載せ、〈贋作の可能性高い〉〈真作でない〉と書いた。武生市との共同発表ではなく、時間と場所を変えた単独発表だったために、落合反駁会見の印象が薄くなってしまった面があった。


 ★告訴と裁判結果   

 
 テレビ東京系の番組「開運! なんでも鑑定団」でおなじみの中島誠之助は平成8年5月に出版した『骨董の真贋』(ニ見書房)のなかで、吉薗佐伯について次のように書いた。

 冷静に考えれば、そんな場所に佐伯祐三の絵が大量にあるわけがないのです。そんなことは、ごく初歩的な約束事であって、それがわからないようではどうしようもありません。嘘の話は大きいほどひっかかりやすいものなのです。

 この記述にたいして吉薗明子は、名誉毀損で6百万円の損害賠償を請求する訴訟を起こした。

 この裁判結果は、平成14年(2002)7月30日に出た。東京地方裁判所は、吉薗佐伯絵画コレクションのすべてを贋作と判定したのである。

 「朝日新聞」の平成14年11月1日付夕刊は「美の魔宮」と題する連載の中篇で、以下のように書いている。

 裁判では、6点の鑑定が行われた。結果、「これまでの佐伯作品と、顔料やメディウム(媒材)が異なる」「当時、大量生産されていなかった白色顔料が含まれていた」などが明らかになった。

 このように裁判で贋作と判定されたのに、ネット上ではいまだに真贋論争がたえず、判決そのものを否定する見解もある。

 筆者(大島)に真贋を判定する力はない。ただ、もし絵は贋作だとしても、あの大量の「吉薗資料」はいったい誰が書いたのだろうか。資料は本物で絵は贋作なのか。謎の多い事件である。


 ●『芸術とスキャンダルの間』  <了>
 

 
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/637-7b20bdb2



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。