カウンター 読書日記 ●『画商の眼力』を読む(1)。
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●『画商の眼力』を読む(1)。
                  画商の眼力_1

                  天才画家佐伯祐三真贋事件の真実_1


 ●「次回は、『日本を動かした大霊脈』 中矢伸一(2002年徳間書店)を読んでいく。」・・・

 予定だったが、その前に『画商の眼力』 長谷川徳七(講談社 2009年1月刊)の紹介をしておく。

 書店で偶然に手にしたものだが、その第四章は、

 ★<私が見抜いた贋作> とあり、「佐伯祐三真贋事件」について語られていた。
  (*長谷川徳七は「世にいう『吉薗コレクション事件』です。・・・」という。)

 先ず、その部分の引用から。

 ***************  


 『画商の眼力』 長谷川徳七 講談社 2009年1月7日


 ●私が見抜いた贋作(p162~)

 ★佐伯祐三の贋作を目にして


 あれは確か1993年初頭、私がまだ東京美術倶楽部の鑑定委員に入っていた頃の話です。
 東京美術倶楽部とは、1907(明治40)年4月、美術商が集まり設立された株式会社です。
 設立当初は、お茶の道具や古美術を扱う骨董商で主に組織され、その後、日本画も取り扱うようになり、作品交換の場、売り立ての場として活用されました。
 近年になって洋画も扱い始めましたが、洋画については歴史が浅く、また組織の中に洋画がわかる人間がほとんどいなかったため父(*日動画廊の創業者・長谷川仁)が呼ばれ洋画を扱う会を始め、さらに後年、洋画の鑑定会も行うことになり、私も鑑定委員として加わっていました。

 ある日、鑑定会に行くと部屋に変な絵がずらっと並んでいました。
「ちょっと、これ何です?」と、そばにいた鑑定会委員長に尋ねたところ、興奮した面持ちでこう言いました。

 「見ればわかるでしょう。佐伯祐三だ」
 「バカを言っちゃいけません,こんなの佐伯祐三が泣きます。話になりませんよ」

 油絵が30点近くと、水彩も20点ほどありましたが、水彩など、たった今描いたように丸まっていたからです。それよりも何よりも、絵がまるで佐伯祐三とは違いました。

 委員長はさらに続けました。
 「いや、そうはいっても、
Y先生☆がいいと言ったんだ」
 「冗談じゃありませんよ。誰が言おうと、こんなのはダメです。断じて佐伯じゃありません」


 ★一歩も引けない「思い」 


 Yさんは二科の作家であり、佐伯祐三のコレクターで知られた実業家・山本發次郎さんの所蔵する佐伯祐三の55点の絵を管理していました。業界では、Yさんといえば、「佐伯祐三がわかる」ということで通っていました。
 ですが、今回のことについて一歩も引くつもりはありませんでした。
 日動画廊では没後10年ごとに佐伯祐三の回顧展を開催していましたし、佐伯その人に父は会ってはいないものの、奥様の米子さんとはその後、付き合いがありました。
 それに米子さんから佐伯のライフマスクを戴くなど、佐伯に関わってきた経緯がありました。
 私自身も佐伯祐三の回顧展を行い、特に没後40年の大回顧展は大成功をおさめたことで、山本發次郎さんの子息の靖雄さんも大変喜んでくれ、靖雄さんとは、それを機に密なお付き合いが始まりました。
 また、彼の亡くなる前に「コレクションを寄贈しようと思います」と相談をいただきました。そこで、55点のうち5点はご家族に、48点は大阪市の美術館、1点は三重の美術館、あと1点は国立近代美術館に寄贈といった具合に差配しました。

 こういった経緯がありましたので、佐伯祐三については妥協できない間柄であると自負するところがあったのです。

 私はYさんに電話をしました。

 「先生、絵を見たんですか?」
 「いや、長谷川君、あれはなかなかのものだよ」
 「何がなかなかなんですか?」と聞きましたところ、資料がどうこうと説明を始めるのです。どうやら、きちんとは見ていない様子でした。
 「先生、資料に騙されたらダメです。とにかく、ご自分の目でもう一回見てください。あんな変な佐伯祐三なんてないですから」

 数日してYさんから電話がありました。
 「悪かった。確かにあれは間違いだ」 と、Yさんは誤りを認めました。 


 ★大量の「ニセモノ物証」 


 Yさんが現物をしっかり確認せずに、そう判断したのも理由がありました。ここでは
Kさん☆としておきますが、評論家であり、美術館の館長を歴任し、全国の美術館人事に多大な影響力を持っていたキングメーカーが「本物」と言ったからでした。それに異を唱えることなど、とうていできはしない空気が形成されたのでしょう。

 ですが、よく考えれば、Kさんは日本画の評論家ではあっても、佐伯祐三に精通した第一人者ではありません。洋画でいえば、青木繁の画集を出しており、青木繁については権威ということになっていましたが、偽物2点にまでサインした過去があります。洋画に関する鑑定には残念ながら疑問符のつく人であったと、私は思っています。

 そのKさんも、ある意味犠牲者でした。大量の佐伯祐三の未発表作品を秘蔵していると名乗り出た、吉薗明子という人物が言葉巧みにKさんに取り入り、その言質をとったのです。

 世にいう「吉薗コレクション」事件です。☆「芸術新潮」1996年4月号などで、大きく報道されました。

 Kさんをはじめ、巻き添えとなった何人もの評論家たちが騙されてしまったのは、絵だけではなく、日記、書簡といった大量の「ニセモノ物証」です。

 これらの、絵をはじめとした作品を長らく秘匿していたのは吉薗周蔵。吉薗明子の父親でした。

 美術史家をはじめ、佐伯祐三の専門家たちは、初めて耳にするその名に戸惑いを隠せなかったといいます。

 佐伯の人生の横合いから不意に現れたこの男は、精神科医であり、佐伯の主治医であり、はたまたパリでの生活資金を出資したというほど、佐伯の人生に深く関わっていたといいます。

 そうでありながら、佐伯家の人間は吉薗の名を聞いたことがなかったのです。


 ★科学鑑定の結果は・・・


 当初、私はそうした手紙や日記といった資料にあまり興味を持ちませんでした。佐伯の全貌を知るうえでの驚愕の新事実として持ち上げ、興奮した口ぶりで語る人もいましたが、あいにく私には、ミステリーもどきのストーリー展開に関心はなかったのです。
というのも、この目で見た未発表の佐伯祐三の絵とやらが、あまりにも稚拙だったからです。
 贋作であることは一目瞭然。これを本物だと言っては画商の名折れであり、何より佐伯の画業を冒瀆することにほかならないとしか思えませんでした。

 当時、東京美術倶楽部の鑑定委員会では、私を含めた大半の委員が「吉薗コレクション」について否定的な意見を持っていました。
 しかし、書簡をはじめとした資料の存在から見極めに迷う人もいたため、絵画専門の修復家・
K・Mさんに科学鑑定を依頼することにしました。
 K・Mさんによれば、研究所に絵が運び込まれたとき、すでに独特の異様なにおいを嗅ぎとったといいます。それは以前、台湾で作られた梅原龍三郎の贋作を鑑定したときと同じ“異臭”がしたそうです。
 科学鑑定は全作品について丹念に行われ、2ヵ月を費やしました。結果は思った通り、「すべて偽物」でした。
 K・Mさんの「絵画調査報告書」によれば、油彩については「キャンバスが酸化していない」「下地が油性で佐伯のものとは異なる」「作品はまだ油のにおいがする」「絵の具は比較的に新しく、樹脂用溶剤に溶ける」とし、また水彩は70年も経てば水を弾くような変化を見せますが「いずれも水を吸収してしまう」とし、描かれてから数年しか経っていないこと
を立証しました。
 全面的に「クロ」の判定に一件落着と胸を撫で下ろしたのですが、そうはいきませんでした。

 この鑑定結果が、むしろ火に油を注いだかのように、吉薗コレクションをめぐる騒動はいっそう激しさを増していくことになったのです。


 ★おいしい話に感じた。“きな臭さ”


 吉薗コレクションをめぐる騒動で、皮肉なことに私は改めて自身が画商であることの強みを感じたものです。
 商売をしていると、あの手この手で人を騙そうとする魂胆の持ち主とときに渡り合うことになります。
 そういう人たちの言動には、多くの場合、特有のきな臭さを感じるものです。
 「吉薗コレクション」については、まさにそうだったと言えます。

 没後70年経って急に150点もの大量の作品が現れた。しかも、それは以前、吉薗が住んでいた千葉の寺の本堂に風呂敷で無造作に包まれていたといいます。
 「しかるべき時期に公開するように」という父親の遺書はあったものの、その風呂敷の中身が何であるかは知らなかったというのです。なんとも緩急のついたエピソードではないでしょうか。

 巧みなのは、「絵画を数点買ってもらったら、あとは寄贈する」と言って地方に働きかけ、美術館の設立計画を持ちかけたことでしょう。

 佐伯の真作は1点1億から2億円もします。数点といっても莫大な金額になるでしょう。

 「地方を活性化させる目玉になる」といったおいしい話やKさんのお墨付きを添えて、吉薗は宮崎県都城市や岩手県遠野市、福井県武生市(現越前市)に寄贈を申し出ました。
 3市はいずれも寄贈受け入れに動き始めたものの、詳しいいきさつは省略しますが、準備を進める過程で不審な点がいくつも浮き彫りとなって、計画はいずれも中止となりました。

 このうち、武生市が寄贈受け入れに進みつつあった
1994年12月、私は東京美術倶楽部の三谷敬三会長とともに開いた緊急の記者会見場でこう述べています。
 「油彩30点、水彩10点はすべて偽物と鑑定。そのうちの1点は、武生市が購入予定と公開したものと一致した」
 そして、東京美術倶楽部の会員には、「これらの作品を扱わないように」と注意を呼びかけました。

 これは一応、内輪に向けた警告の体裁でした。目先の欲得につられて右往左往している人たちに、今いちど冷静になってもらいたいという願いを込めたのです。
 この記者会見後、事態はいよいよ醜悪な展開を見せることになりました。武生市が5億円で購入予定にしていた作品11点を、こともあろうに吉薗は不動産管理会社に4億円で売ったのです。「作品の散逸を防ぐためにはお金が必要」との説明が行われたといいますが、贋作の疑いに加え、信頼を損ねる行為を問う声の高まりから、武生市もついに計画を断念しました。

 こうして、多数の人を巻き込んだ吉薗コレクション騒動もようやく幕引きを迎えたかに見えました。
 しかし、またしても安堵することはかないませんでした。

 最終的な局面にあたって、なんとこの真贋問題が法廷に持ち込まれ、東京美術倶楽部の鑑定が「虚偽」だと訴えられたのです。
 腕まくりして受けて立つのも、やふさがではありませんでした。しかし、そうはいっても裁判官に絵に対する造詣を期待するわけにもいきませんし、まして真贋を判断してもらうわけにもいきません。

 「見た感じが違う。だから佐伯祐三ではない」と言うのは簡単ですが、裁判では、それは通らないのです。
 ぐうの音も出ないほどの、はっきりした証拠を出さないかぎり、裁判で勝つには難しいのです。
 ただ、絵画の科学鑑定の結果は明らかでした。法廷で感性の話をしても仕方のない話ですが、データならば証拠として使えます。絶対に勝てるという自信は当初からありました。


 ★関西弁で書かれた「証拠の手紙」


 もうひとつの大きな争点は、古薗周蔵が佐伯祐三と交わしたとされる書簡、佐伯について詳しく綴っていると称する日記でした。

 被告として訴えられた私たちは、ひとつひとつそれら資料の依拠する証拠を根気よく潰していくために、吉薗周蔵の経歴と足跡について徹底的な調査を回始しました。

 まず吉薗周蔵がパリに滞在した際、泊まったというホテル・リッツを調べました。
 パリの老舗ホテルは戦前からの宿帳を保存してあり、日記に書かれた時期に宿泊したかどうかを調査したのです。
 ホテル側からは「そういう男は泊まっていない」との回答がありました。
 さらに、1924年から1928年にかけて、佐伯祐三がパリから日本へ送ったとされるハガキも偽造でした。パリの郵便美術館の担当者の証言によって、当時実施されていた郵便の規定の料金とも、消印ともまったく異なるものであることが明らかにされたのです。

 また佐伯祐三の出したというハガキの文面が大阪弁で書かれていました。
確かに佐伯は大阪出身です。ですが、大阪弁であろうと東京弁であろうと、東北弁であろうと九州弁であろうと、方言で手紙を書くなんていうことは、普通に考えれば違和感このうえありません。大阪出身だから大阪弁で書けば信憑性が高まると考えたのでしょうか。

 つまり日記も手紙も何者かによって、ことごとく偽造されたものでした。しかし、そんな調査も必要がなかったことが明らかになりました。

 
そもそも、吉薗周蔵はパリはおろか、日本国外に一歩たりとも出ていません。外務省が吉薗周蔵にパスポートを発行していないことがわかったからです。

 さらに、精神科医という職も経歴詐称でした。吉薗周蔵は九州の炭坑で働いており、東京に出てきてからは市電の運転士をしていました。戦争が激しくなると千葉に疎開、寺に寄宿しつつ、按摩と豆腐店で生計を立てていました。

 ここまで明らかになっては、
相手もさすがに、どう弁明したらよいかわからなくなったのでしょう。「吉薗周蔵は日本陸軍の特務機関で働いていました。そのため名前も変わっているし、パスポートも必要なかった」こんな苦しまぎれの抗弁をしてきたのです。

 2002年7月、東京地方裁判所は、吉薗コレクションのすべてを贋作と判定しました。吉薗明子が別件の詐欺事件で逮捕されてから、およそ3年後のことでした。

 ここまで大掛かりな贋作事件はそうそう見当たりません。そういう意味では、忘れがたい記憶になっています。 (p174) ***************

 
 以上でひとまず『画商の眼力』の引用・紹介は終わり、次に【眼力のレベル】をチェックしていく。
 
 文中、無意味にイニシャルのみで済ませられている人名を先ず特定しておきたいが、

 「事件」の経過を整理した格好の著作があるので、それを紹介するなかで、人名の特定も

 なされると考え、ここでは略す。  


 長くなりすぎたので、稿をあらためて、<続く>。 
  
 正直なところ、一読後私はこの著者に「哀れみ」を感じたし、編集者(著者と永年の付き合いがあるという)の編集能力のなさに同情も感じていたのだが、どうやら勘違いだったらしい。
 己の致命的な瑕疵については、巧みに隠蔽していることに気づいたからである。
 確信犯なのである。

 特に顕著な一例を挙げれば、「1994年12月、私は東京美術倶楽部の三谷敬三会長とともに開いた緊急の記者会見」の描写で、この「真贋事件」の最重要の争点=テトロン混入問題を無視していることである。これについては、後ほど詳しく述べる。

 最後にいま1点、<相手>の実名も挙げて批判する著者・長谷川特七は奇妙なことに、最大の<相手>の実名はおろか、イニシャルさえも挙げようとはしない。

 落合莞爾氏そのひとの。

 
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