カウンター 読書日記 ●貴公子・堀川辰吉郎 (2)
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●貴公子・堀川辰吉郎 (2)
                   日本を動かした大霊脈_1


 ●『中丸薫という生き方』(徳間5次元文庫 2008、1、31刊)<続>。

 ★生みの親、中島成子との再会を果たす  


 ある日、松村の父が私に、中島成子という女性の見舞いに病院に行くようにと言いました。その人は、かつて中国から東京まで飛行機で連れてきてくれた人であり、私の名前を付けてくれた人でもあると、聞かされていました。
 それまで、対日戦意を阻害した戦争犯罪人として北京で投獄されていましたが、それが中国側の人たちの訴えでようやく無実が認められ、釈放されて帰国したというのです。

 「戦争中、中国には匪賊、馬賊が横行していたが、中島さんが呼びかけると、いっぺんに3500人ぐらい、合計7500人が銃を棄てて帰順してきたものだ。中島さんはいつも、匪賊や馬賊は戦争孤児だと言って、彼らを収容し、自立できるように教え導いて、難民救済のために献身していたのだよ」
 そう説明されて、私が中島の「おばさま」のお見舞いに出かけたのは、1957年2月の寒い日でした。12年間にわたる北京での獄中生活での疲れがいっぺんに出たのでしょう。日赤中央病院に入院していました、私は花束を持って病院の門をくぐりました。松村の両親からは「名付け親」だと聞かされていましたから、そのときはまだ、その人が生母だなどとは夢にも思わなかったのです。

 父から聞いた番号の病室を探して、ドアをノックすると、「どうぞ」と力のない声が返ってきました。さして広くない個室で、窓際のベッドに青白くむくんだ顔の女性が上半身を起こし、枕に身を持たせかけるようにして、こちらを見ていました。その枕元に男性が―人いましたが、これは外務省の役人でした。中島成子の帰還を連絡された岸信介首相が、政府を通じて彼女を迎え、入院させたので、役目として付き添っていたのだと後で聞きました。
 「董です・・・」
 名乗ると、病床の女性は大きく目を見張り、私を見つめました。まだ50歳になるかならずのはずですが、すっかり老け込んだその顔が、見る間に歪んでいきました。私は吸い寄せられるようにベッドに近づいていきました。

 幼いとき、この人に抱かれたり、飛行機で日本海の上を飛んだりした記憶がはっきりと甦って、私はその手を握りました。途端に、彼女の瞼から堰を切ったように涙が溢れ落ちました。すると、私もたちまち視界がぼやけて滲み、熱いものが頬を伝わりはじめました。私たちは、一言も語りませんでした。ただ、黙って泣きました。外務省の人が、驚いて私たちを見比べ、すぐに廊下へ出ていきました。
「ずいぶん、大きくなったのねえ・・・」
 その人は、むせび泣きながら、ようやくそれだけ言いました。そして、私の握った手の上に手を重ね、堅く締め付けて、いつまでも身を震わせていました。

私は家へ帰ると、その夜、松村の父母にこの話をしました。中島の「おばさま」は、ただ泣くばかりで、私たちは会話らしいものも交わさず、手を握り合っただけだったことを。私もお見舞いの言葉すら忘れて泣いてしまったと話し、そして首をかしげながらつぶやいたのです。
「私、不思議でしょうがないの。自然に涙が溢れてきて、泣きながら、どうして私は泣くのかしら? と思ったくらいなの。ねえ、おかしいでしょう」
「そう、そうかい・・・」
 松村の父はくぐもった声でそう言っただけでしたが、その目は潤んで、『涙の露が小さく光っていました。母はうつむき、急いで目頭をおさえたのです。私の胸に、これまで考えてもみなかった思いが湧いて、それが急速に膨れあがったのは、このときでした。
「私、あしたもお見舞いに行く・・・」
「うん、そうしてあげなさい」

 翌日、私は日赤へ急ぎました。病室には、中島成子と同年輩の女性がいて、彼女は成子の故郷、栃木県の同村の生まれで、古い友人だと言いました。そして廊下の流しで茶碗を洗いはじめたのですが、私はその側を離れず、中島成子のことを矢つぎ早にたずねていました。

「ねえ、中島さんは小さい頃、勉強はできたんですか?J
「ええ、それはもう、ずっと級長さんでしたよ」
 根堀り葉堀りたずねるうち、私のもしかしたら? という感じは、いっそう強くなり、揺るぎのないもののように思われてきました。その質問で疑問を拭えたわけではありません。ただ、茶碗を洗っているその女性が私を見る目つき、口ごもる話し方、それらのすべてが、なにかを私に伝えてくるのです。それにも増してベッドの上の中島成子と向かい合うと、私たちの間に奔流のように激しく通い合うものが感じられるのでした。

 結局、私は真実を知りました。3日目、やはり病院に行かずにはいられなくて、病室をノックすると、最初の日にいた外務省の人が出てきました。彼は私の顔を見ると、目礼して席を外したのですが、その表情の中には、中島成子から私と彼女の関係を知ったに違いない雰囲気がありました。

 私は見舞いを終えた後、廊下でこの人に直接聞きました。やはり、中島成子が私の生みの母でした。私は一瞬茫然となりましたが、同時に松村の父母がこれまで私に尽くしてくれた数々の厚情を考え、涙ぐまずにはいられませんでした。

それにしても、私にとって、突然知らされたこの現実は重いものでした。そしてやがて日が経つにつれて、自分には両親が2組あったことを幸せだと思うようになりました。その4人が、それぞれ非凡なものを持つ、私が心から敬愛できる人たちであったことを、心から神に感謝せずにはいられませんでした。

 この幸運を与えられて誕生し、ここまで育てられた私が、いい加減に生きていいはずはありません。これからどんな苦しみが降りかかってくるかわかりませんが、私はそれを跳ね返し、必ずこの人生を意義あるものにしよう。自分自身にそう誓い、コロンビア大学に留学することにしたのです。
 

 ●『中丸薫という生き方』
  <了>

 *************

 ●『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』(徳間書店 2004、2、29刊)

 ★日中友好に奔走する両親のもとに生まれた私 p199~ 


 輪廻転生や因果についてより理解できるよう、ここで少し私自身の話をしましょう。
 私の人生はとても数奇で、密度の濃いものだと思っています。普通なら何回かの人生に分けて体験するようなできごとを、1回の人生で凝縮して体験しているような気がします。

 私は北京で生まれました。父が孫文の片腕として長い間行動をともにしていたため、母・中島成子も中国に渡っていたのです。父・堀川辰吉郎は、明治天皇と御側女官の権典侍・千草任子(ちくさことこ)との間に生まれ、井上馨に預けられた後、政財界の重鎮だった頭山満に教育されました。そして、自由民権運動に挺身する頭山満、伊藤博文らと行動をともにし、中国で革命活動を行っていた孫文が、日本に亡命して頭山のもとへかくまわれたのが縁で、孫文の片腕として中国に渡りました。

 孫文は父の姿を見て一目で気に入り、「日本の天皇の血を引く方がついてくだされば、革命は成功する」と言って、父が中国へ渡る許しを頭山に請うたそうです。父としては名誉な話でした。しかし、そのために父の首には孫文と同じだけの賞金がかけられ、中国の大地を孫文とともに駆け回ることになったのです。幸い、革命は成功して、孫文は中国からも台湾からも、「中国の父」とたたえられているのは皆さんご存知のとおりです。

 一方、母は母で、抗日運動が高まる中国大陸において、日中両国の対立によって急増する難民の救済事業に貢献し、北京の屋敷は2000人を収容できる難民宿泊施設と化していました。母は私をおなかに宿していたときも、内蒙吉徳王政府工作のため、馬にまたがってゴビ砂漠を往復したといいます。その血潮を、おなかの中にいた私も感じたに違いありません。なぜなら私も後に結婚して最初の子どもを宿したとき、飛行機を乗りついで世界中を飛び回ってレたからです。

 私が生まれたとき、北京の屋敷には大きな長持で20棹にも達する豪奢な反物や珠玉の装身具など、中国の富豪たちからの高価な祝いの品が、次々と運び込まれたそうです。私はまるでお姫様のように扱われていたのです。
 ところが、生まれて45日目で盧溝橋事件が起こり、日中関係は不穏な雲行きに包まれました。中国から絶大な信頼を得ていた母は関東軍(日本軍)に必要とされ、私は母の手から引き離されました。預けられた先は、当時北京大学教授だった松村正之とその妻・ちかの家です。松村の屋敷では、朝、目を覚ますと必ず中国人医師がべツドヘ来て脈をとるという、何不自由ない、温室のような生活を送っていました。


 ★育った環境からごく自然に国際政治評論の道へ


 父と母の日中友好への努力もむなしく、日本は太平洋戦争へと突入し、私は6歳のとき、松村の父母とともにあわただしく日本へ引き揚げてきました。そして、松村の父母の故郷である山梨県甲府市に落ち着いたのです。
 北京のお屋敷暮らしとはうって変わって、そこでの生活は素朴でつつましく、大自然の中でのびのびと過ごすことができた私は、病弱だった北京での日々がウソのように、すっかり日に焼けた健康児になりました。戦争で食料は欠乏していましたが、松村の父は畑を借り、自分でそれを耕してジャガイモを育てていたので、家族が空腹を感じることはありませんでした。

 あるとき、甲府の町が絨毯爆撃の標的となり、市街の大半が一夜にして廃墟と化すというできごとがありました。私の家は幸い被災を免れましたが、焼夷弾がパラパラと降ってくる恐怖は、今もはっきり覚えています。そして8月15日、避難していた薄暗い土蔵の中で玉音放送を聞いたときの、身の引き締まる思いは今も忘れられません。小学校2年のことでした。

 終戦の直前、母・中島成子は、延安に野営する毛沢東のもとへ馬を走らせていました。そして、延安に到着するとまもなく、日本の無条件降伏という悲しい知らせを受け、そのまま戦犯容疑で獄中に入れられました。日中両国の平和のために東奔西走していた母にとって、容疑の晴れるのをじっと待つ日々は、どれほど辛かったことでしょう。・・・以下略・・・p202 

 ●『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』  <了>   

 次回は、『日本を動かした大霊脈』 中矢伸一(2002年徳間書店)を読んでいく。


 
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