カウンター 読書日記 ●疑史(第53回) 上原勇作(5)
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●疑史(第53回) 上原勇作(5)
 ●疑史(第53回) 上原勇作(5) 

 陸軍大将・上原勇作は大正4年12月、欧州大戦の最中に陸軍参謀総長に就いた。陸軍における上原九州閥の台頭と長州閥の凋落はここに始まる。

 前参謀総長の長谷川好道は朝鮮総督に転じた。その到達した官位勲等は、世界的名将に数えられる乃木と陸軍大将・功一級・伯爵までは同じだが、元帥・従一位・大勲位では一格上である。長谷川は陸軍長州閥の中心人物の一人であるが、その存在を知る人は今日皆無と言って良い。いかに戦後憲法の第九条が戦争放棄を宣言したとはいえ、この人類社会に戦争が厳然として存在することを認めないのは余程の痴人である。戦争がある限り兵力は必須であるから、わが国が仮装してでも軍備を保有したのは当然だが、仮装に塗れた国民は自国の軍事史を顧みず、軍事常識は全く欠乏してしまった。国民が長谷川の存在を知らぬのもその一端である。

 長谷川は嘉永3年(1850)生まれの岩国藩士(長州人)で、御親兵に応じた明治4年8月の初任は少尉だったが12月に大尉に飛び級、翌5年の4月には少佐に任ぜられた。さらに6年11月には23歳で中佐となる超高速の出世ぶりであった。同じく長州人の乃木希典は長谷川より1歳年上で、4年11月の初任は少佐であったが、その後は5年半も掛けて10年4月に中佐になった。これも長州人の桂太郎は乃木よりも2歳の年長で、戊辰の功績で賞典禄二百五十石を受けた佐官級であったが、行賞としてドイツに留学していた間に、薩長間で初任は大尉以下との取決めがなされたため、帰国後の7年1月の初任は大尉に甘んじた。6月に少佐に進級したものの、その後は4年も掛けて11年11月ようやく中佐に進級した。同じ月に長谷川は28歳で早くも大佐に進級する。乃木は2年遅れて13年4月に任大佐、桂は15年2月に至って大佐となる。

 乃木と桂は18年5月に揃って少将に進級したが、長谷川は6月から仏国留学に出て1年半後に帰国し、19年12月に少将になった。軍政畑で著しく台頭した桂は23年6月に中将に進級、日清戦役には第三師団長として出征し、戦後の29年に台湾総督に就いた。乃木は19年から1年半を独国留学、プロシア陸軍の軍紀に触れて自ら人格を転換して帰国するが、10年間も少将のままで、日清戦役には歩兵第一旅団長で出征し、戦時中の28年4月に任中将、第二師団長に補される。長谷川も10年近く少将のままで、歩兵第十二旅団長として日清戦役に出征、29年6月に任中将、桂が台湾総督に転じた後の第三師団長に補された。

 この3人に迫ってきた長州の成長株は長谷川より2歳下の児玉源太郎である。明治4年に数えの20歳で、4月の初任は准少尉だったが、8月に少尉、9月に中尉と進級した。翌5年7月には大尉に任じられ、7年には僅か23歳で少佐となったが、中佐には6年掛かり、16年に大佐、22年に少将と進む。24年から欧州に出張してワンワールドの洗礼を受けてきた児玉は、帰国直後の25年8月に陸軍次官となる。このとき前陸相・高島鞆之助から杉山茂丸を紹介されるが、その重大な意味についてはすでに述べた。

 28年8月、日清戦役の論功行賞があり、桂中将は子爵、乃木中将と長谷川少将は男爵に叙せられた。児玉少将も男爵に叙せられ、29年には中将に進む。そもそも軍人の階級は、中将が一応の終点で大将はむしろ異例である。台湾総督から東京防禦総督に転じた桂は、31年9月、一人、大将に進級、高島鞆之助中将を陸相の座から追放して、自分が代わった。第二師団長の乃木は29年10月、桂の後任の第三代台湾総督に就くが、これが高島鞆之助の要請と見るべきことは前に述べた。しかし乃木は台湾経営の心労に耐えず21年2月に休職し、10月に第十一師団長に就く。第三師団長の長谷川は31年1月に近衛師団長に転じ、後任の第三師団長には児玉が就くが、乃木が3月に突然台湾総督を辞めたので、僅か2ケ月でその後任に転じた。台湾こそは、英露のグレート・ゲームに関する枢要の地であり、ここを守ることが日本が在英ワンワールドから与えられた任務であったからである。乃木は予てから高島の隠れた股肱であり、児玉も杉山茂丸を通じて高島の意向に従っていたものと見られる。その高島の背後には在英ワンワールドが控えていたのである。

  陸軍の軍令を統べる参謀本部では、32年5月に参謀総長・川上操六が突然死し、宇都宮太郎ら青年将校は後任に高島を期待したが、長州派が固めた陸軍中央は、薩摩の長老大山巌を参謀総長に担いだまま、次長に長州の寺内正毅を配した。寺内も長州人で、出生は児玉より20日だけ早く、明治4年8月に少尉、11月中尉、5年2月大尉と、児玉とほぼ同じスタートを切る。その後は児玉よりも数年遅れたが、軍政の手腕あり27年8月に任少将、28年男爵を授かった。31年1月、桂太郎の陸相就任と同時に陸軍教育総監に就いた寺内は、10月中将に進み、33年には参謀本部次長に就いて大山総長を祭り上げた形となった。長州支配下の陸軍中央は、35年4月、寺内次長を今信玄と呼ばれた甲州人・田村恰造に換え、実質的な参謀総長として日露開戦を迎えようとした。

  その間、軍政のトップ陸相の座は、桂が32年12月に辞めた後を台湾総督・児玉源太郎が兼ねていたが、35年3月寺内に譲った。桂は34年6月に首相に就き、国政の最高レベルから日露戦に備えることとなる。日露の戦雲が迫り来る36年10月、参謀本部の田村次長が激務のため過労死したので、児玉台湾総督が敢えて参謀本部次長を兼ね、実質上の参謀総長として開戦準備に当たることとなった。かくして、それぞれが迫りくる日露戦争に備える中を、第二師団長の乃木だけは35年5月から休職していた。

 右(上)に観たごとく、日清戦役後の陸軍は長州が完全に牛耳を執り、殊に軍政系統は桂と寺内が専断していた。軍令系統でも大山巌を参謀総長に祭り上げ、児玉が次長として実質上の総長に就いた。陸軍三長官の一つ陸軍教育総監には薩摩の野津道貫が就いたが、政治力を伴っていなかった。このような薩長不均衡の淵源を、古く大西郷の早世に因ると説く者、或いは大山巌の性格に帰する者も多い。中には大西郷の後継者たる高島鞆之助の政治的成長・発育が停止したと説く★三宅雪嶺のごとき者もあるが、その真相に就いて本稿は既に述べてきた。

 ★註:「疑史」(第41回)-2008年6月5日アップ。

 37年2月、桂内閣の時に日露の戦端が開く。長谷川の近衛師団に動員令が下り、休職中の乃木にも留守近衛師団長として動員下令があった。満洲軍が編成され大山が総司令官に就き、後任参謀総長には山県が就いた。大山隷下の前線司令官は、第一軍が鹿児島の鍛冶屋町方限生まれの黒木為禎大将、第二軍が小倉藩士の奥保鞏大将、第三軍が長州の乃木中将、第四軍が薩摩の野津道貫大将と、九州勢が4分の3を占めた。乃木は6月に任大将、長谷川・児玉も揃って大将に進級、児玉は満州軍総参謀長に転じ、長谷川は9月付で韓国駐箚軍司令官に補された。言うまでもないが、この間桂は首相で、寺内は陸相兼陸軍教育総監であった。

 日露戦役が終わった39年4月、桂首相は大勲位に叙され、児玉も子爵に陞爵、8年続けた台湾総督を辞めて参謀総長に就く。論功行賞は40年9月21日に行われたが、桂は伯爵から侯爵に陞爵、長谷川好道と寺内正毅も功一級を賜わり、男爵から子爵に陞爵した。39年7月に死亡した児玉は既に子爵に陞爵していたが、功一級を授かり伯爵に陞る。因みに、山県参謀総長と大山満州軍総司令官の二大長老は功一級と大勲位頚飾を授かり、侯爵から公爵に陞爵した。各軍司令官も全員が功一級を賜わり、黒木・奥・乃木は男爵から伯爵に陞爵、野津が伯爵から侯爵に陞爵した。

 日露戦後はロシアの報復に備えることが陸海軍の大命題になったが、これは対ロシアのグレート・ゲームを戦う在英ワンワールドにとっても重大な課題であった。陸軍内部では、対露防備の師団増設を目指すための改革運動が芽生え、その気運に圧された寺内は35年から占めてきた陸相の座を44年に股肱の石本新六(兵庫)に譲ったが、石本が過労で急死してしまい、後任には薩摩の上原しかいなかった。その上原が師団増設問題で単独上奏して陸相を辞職した後を継いだ木越安綱(加賀)は、日清戦役で第三師団長・桂太郎の参謀長を務めた桂の腹心であったが、山本権兵衛内閣の陸相として軍部大臣現役制度を廃止せんとしたため軍部から猛反撃を食らい、大正2年6月に退陣を余儀なくされた。その後を継いだ砲兵中将・楠瀬幸彦(土佐)は技術屋で政治力に欠け、大正3年4月京都出身の第三師団・長岡市之助が代わった。上原・楠瀬より陸士で一期後輩の岡は軍政面に秀で、遂に朝鮮常駐二個師団の増設を果たしたが、結核のため5年3月に辞職して7月に死去した。

 この間、参謀総長児玉源大郎が急死し、後任総長・奥保鞏はロシアの報復に備えて師団増設を図ったが、生粋の武人精神を貫き政治介入を避けつつ、45年1月まで5年半を在任した。奥の後任が長谷川好道で、大正4年まで4年足らず在任した後を上原に譲ったのである。

  以上を観てくると、日清戦役後の日本陸軍は、薩長の権力争いが展開する中で明治31年以来、長州に駒が揃ったため薩摩を圧倒してきたかに見えるが、その実は薩摩の川上操六が早世し、高鳥鞆之助が軍政から身を引いたことで、薩長間の人材バランスが崩れただけである。対露対英の政策バランスは、杉山茂丸の調略により長州の桂と児玉が在英ワンワールドに加担したため、日本陸軍は長州の親露志向に流れず、薩摩流の対露強硬策を常に保持し続けたのである。

 その間、高島・野津・樺山・松方ら薩摩ワンワールドの領袖に養成された上原勇作が台頭してきたのは、石本が急死した後、長州派に余人が居なかったこともある。つまり、薩長の人脈バランスが自然に復元したとも言えようが、焦点を絞れば、公職を完全に退いた形で鈴木商店、大日本製糖、東亜煙草など台湾に由来する産業を秘かに押さえ社会的勢力を貯えてきた高島が、その秘めたる力を上原に譲与したからではないかと思う。上原が軍人の枠を超えた政治家に変じたのは大正元年で、4年の総長就任で方向が確立し、上原時代が始まったのである。 


 上原の背後には杉山茂丸が、その杉山の陰には
貴公子・堀川辰吉郎が居た。後年の上原が頭山満・中野正剛ら玄洋社勢力を秘かに、しかし有効に使役していたことがその何よりの証拠である。結局、堀川こそ日本近代史の最大の謎と言ってよく、堀川を無視しては何も見えてこないのである。
 

  ●疑史(第53回) 上原勇作(5)   <了>                      
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/632-6fd1c9ee



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。