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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(26) 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(26)  落合莞爾

  高島鞆之助、薩摩ワンワールド総長の座を上原勇作へ禅譲 
 
 
 ★乃木希典を台湾総督に据え 仲人も務めた高島鞆之助 


 明治27年8月30日、歩兵第一旅団長乃木希典少将に動員令が下った。歩兵第一旅団は10月18日、宇品港を出発して大連に向かい、旅順攻囲戦で勇名を馳せた。28年4月に乃木は中将に進級、第二師団長に補された。第二師団は9月に台湾島台南に移動、乃木は南部台湾守備隊司令官に就いた。

樺山資紀台湾総督の要請で急遽現役に復帰、8月21日付で台湾副総督に任じた高島鞆之助の指揮下で、土匪の討伐に当たるためである。高島は28年12月に帰還、副総督を辞し、翌年4月2日付で伊藤内閣の拓殖務大臣に就く。乃木の第二師団はその後も討伐に携わり、29年4月20日に仙台に凱旋した。

 29年9月19日、高島は松方内閣の陸軍大臣を兼摂する。翌10月某日、陸軍省高級副官(官房長に当たる)山内長人大佐が山形県の演習地にいた乃木師団長を突然訪れ、至急上京せよとの高島陸相の密命を伝えた。台湾総督は初代の樺山資紀が辞め、6月から第三師団長・桂太郎が二代目総督に就いたが、これは暫定的な腰掛けで、実際には赴任しないまま東京防禦総督に転じることとなった。拓殖務大臣・高島は、その後任を乃木に頼みたいとの主旨で、山内大佐を送ったのである。ところが乃木がなかなか上京しないので、高島は陸軍次官・児玉源太郎に依頼して、乃木の台湾総督受諾を促す書簡を送らしめた(『大阪偕行社附属小学校物語』)。

 高島と乃木は、明治9年秋の萩の乱で知り合った。陸軍教導団長・高島大佐は佐賀へ派遣され、大阪鎮台の歩兵第八連隊を率いて萩に向かう。萩の乱には、乃木の恩人・玉木文之進と実弟の玉木正誼が参加していたが、熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得・乃木少佐が肉親の情を断ち、国家の干城としての立場を貫いた姿勢に高島は感じたのである。10年の西南戦争で奮戦した乃木に、凱旋後の11年に高島は縁談を世話し、高島夫妻の媒酌で乃木は薩摩女性・湯地シヅと結婚した。高島と乃木はかくまで睨懇な仲であったから、乃木を陸軍長州閥の一人として算するのは大きな誤りである。明治38年、日露戦役で世界の名将となった乃木が、明治天皇に凱旋を申告した後、イの一番に報告に駆けつけたのは紀尾井町の高島鞆之助邸であった。

 初代拓殖務大臣となった高島が、当初から台湾総督を乃木と決めていたのは、その武弁一点張りでない人情味ある人格を知悉していたからである。しかし、同時に乃木の就任拒否をも予測していた高島鞆之助は、その際には陸軍次官の児玉に台湾総督に転出を願う積もりで、児玉の内諾を得ていた。結局、乃木は知己・高島の要望を受けて10月14日に台湾総督に就き、高島が根本を定めた台湾政策を実践した。

 台湾の民俗はさすがに乃木の性格に適せず、土匪跳梁もなお治まらず、繊細な乃木はやがて休職を願い出たので、児玉は第三師団長に就いたばかりだったが、31年2月乃木に代わって台湾総督になる。児玉は民政長官に後藤新平を起用し、自らは各大臣を兼務しつつ台湾経営に8年も関わるが、その政策はすべて杉山茂丸の唱えたものであった。乃木・児玉の台湾政策の根本が高島に淵源することも明らかで、要するに、高島と杉山の間には秘かなしかし重大な共通項があったのである。
 
 ★鈴木商店、大日本精糖・・・台湾利権と日本産軍複合体 

 
 台湾領有の影響を受けて日本産業界には変化が訪れた。変化は、まず樟脳業・製糖業・ケシ栽培に現れた。明治32年、台湾総督府は樟脳と食塩に関する専売制を実施し、神戸の砂糖・樟脳商鈴木商店に台湾樟脳の65%の販売権を与えた。樟脳は当時、先端物資・ベークライトの原料であり、最新兵器の無煙火薬の原料としても必須の、最重要物質であった。お家はん(未亡人)を店主と担いだ鈴木商店はこれを機に異常な発展を遂げ、大正経済界の最大の惑星となった。巷説では、大番頭の金子直吉が独断指導したとされる鈴木商店は、実は日高尚剛の母方の縁戚で煙草業者の〔安達リュウー郎〕という人物が陰から牛耳っていたと伝わる。つまり、鈴木商店は、実は薩摩ワンワールドの配下として、台湾利権に深く関わっていたのである。当然、台湾総督府民政長官・後藤新平ともつながっていたわけで、ここから後藤と薩摩ワンワールドとの問の秘められた関係も窺える。

 製糖は台湾産業の根幹である。台湾では、杉山茂丸の提案により明治33年、三井財閥の益田孝の出資により、台湾製糖が設立された。内地では発明家・鈴木藤三郎の個人経営を基盤にして28年に設立された日本精製糖が、39年渋沢系の日本製糖と合併して大日本製糖となり、同年台湾に進出したが、その後は過剰輸入・放漫経営により経営は危機に瀕していた。

 これより先の35年、政府は有効5年の時限立法「輸入原料砂糖払戻税法」を制定して内地製糖業者を保護していたが、大日本製糖がその44年までの期間延長を願い、大規模な議員買収を行ったのが42年の日糖事件である。これにより倒産寸前に陥った大日本製糖を建て直すべく、渋沢栄一は長崎出身の実業家・藤山雷太に経営参加を懇請した。藤山は直ちに台湾に進出し、生産規模を拡大して瞬く間に日糖の経営を建て直したが、巷間には桂太郎首相兼蔵相を籠絡し、大いに便宜を得たとの噂がある。詳細は未詳だが、桂が台湾を舞台に何か便宜を図ってやったことがあるのだろう。

 しかし、実際には在英ワンワールド薩摩支部として、台湾利権を深奥で管理していた元陸相・高島鞆之助と元海相・樺山資紀の両枢密顧問官が、藤山雷太に特殊の便宜を与えたものであろう。台湾進出により巨大企業となった大日本製糖は、以後薩摩ワンワールド系の主要企業となるが、戦前の日本大企業の番付上位は悉く製糖・紡績が占めたことを見ても、その重要性が分かるであろう。台湾利権を掌握していた高島にとっては、巷間言われるような家政の窮乏は、ワンワールド系の事業を隠蔽するための見せ掛けではなかったかと思う。

 最後にアヘンに関しては、台湾は生産に適さなかったが、巨人な需要地で、これに関する台湾総督府の漸禁政策が見事に奏功したことを知らぬ者はない。内地でも、水田裏作の畑作物としてケシの重要性が認識されたが、大いに広がったのは、欧州大戦によりアヘンの輸入が杜絶してからである。
 
  
 ★孫文を匿った別邸も持つ? 高島「家計窮乏」の真相は 

 
 明治31年1月、陸相を桂太郎に明け渡した高島鞆之助を、起高作戦と称して参謀総長に就けようとした宇都宮太郎ら参謀本部の少壮将校らは、後年にも朝鮮統監に就任させようと工作したが、彼らの計画は悉く桂・寺内らの長州派に阻まれた。以後の高島は、枢密顧問官以外のいかなる官職にも就かず、家計の逼迫もやがて取り沙汰された。明治43年、高島は大磯の別荘を中橋徳五郎に売却したが、太磯市宇簾田七百二十番地所在のその別荘は、昭和16年に木村大吉に売却され、戦後になって料亭「あら井」を開業したが、今は廃業しマンションが建つという(吉薗周蔵が大正14年に奉天から招来した紀州徳川家秘宝に関連する事件が、昭和40年代にここを舞台に展開するのだが、それは別稿とする)。

 明治45年3月、紀尾井町の本邸もイエズス会に売却した高島は、麻布箪笥町に移った。これより先の44年12月、参謀本部第二部長の宇都宮太郎少将が東亜同文書院長・根津一を訪れたところ、根津は孫文の革命党を支援する善隣同志会の創立を図り、その会長に高鳥鞆之助を仰ぐ所存であった。根津は陸軍を去った後も、高島の腹心であったのである。


 高島は支那問題に関しても独自の見識があり、孫文の支那革命を支援していたが、このことは高島と玄洋社との密接な関係をも示唆している。大正2年、第二革命に失敗した孫文の日本亡命を、首相・山本権兵衛に認めさせたのも高島であった。
孫文は赤坂の頭山満邸の隣家に匿われたが、高島邸に保護されたことも伝わり、高島の神戸別邸を用いた可能性もあるという(『大阪偕行社附属小学校物語』)。明治末年の高島の家政が窮乏していたとする記載が、『宇都宮太郎日記』に頻りに出てくるが、神戸に別荘を持っているようでは、実際はどうかと思う。尤も神戸の別荘は、或いは鈴木商店あたりが秘かに手配したものかも知れぬ。

 ★陸軍での地位がどうなろうともアヘン事業だけは維持  
 
 高島鞆之助が吉薗ギンヅルの事業上のパートナーであったことは『周蔵手記』によって明らかである。周蔵の祖母ギンヅルが、愛人の公家・堤哲長から、哲長が丹波のアヤタチ上田家の出の渡辺ウメノから教わった特殊な医学の伝授を受け、幕末にはケシ製剤の<一粒金丹>や<浅山丸>の製造で巨利を上げて堤一家を養っていたが、維新後には京都の薩摩屋敷で知り合った吉井友実や高島鞆之助の協力で、その商売を広げていた。

 吉井友実が薩摩ワンワールド総長を高島に譲った時期は、むろん吉井が24年4月に薨去する以前のことで、吉井が宮内次官を辞めて枢密顧問官に就いた21年4月あたりと見ておきたい。当時の高島は、18年5月以来大阪鎮台司令宮(21年5月の官制変更により第四師団長)に就き、21年偕行社附属小学校を創立するなど、軍人の枠を超えた教育家・行政家として実績を積み、有数の軍政家として令名を馳せていた。大西郷後継として評価が定まった高島は、吉井薨去の翌月24年5月、大山巌に代わって第一次松方内閣の陸相に就き、名実ともに薩摩ワンワールドの総長となったのである。

 高島は31年1月、桂太郎に追われる形で陸相を辞め、以後は枢密顧問官として公的活動から全く遠ざかったが、これ恐らくは、台湾領有により薩摩ワンワールド総長の極秘事業が多忙になったからではあるまいか。つまり、薩摩総長としての事業の大半は台湾の産業政策に関わるもので、パートナーの杉山茂丸をメッセンジャーとして、隠然処置していたものであろう。

 以上が明治・大正の過渡期、すなわち上原勇作が陸相にいた時期の様相であった。明治45年4月5日に陸相を拝するまでの上原の経歴を遡れば、41年12月からの4年弱は師団長として田舎回り、その前は39年2月から3年弱の陸軍工兵監、その前は野津第四軍の参謀長として日露戦役に従軍していた。これでは何ぼなんでも、民政や経済に関わることはできない。

 大正元年8月22日、陸相の上原が上総一ノ宮の別荘で引見した吉薗周蔵に、「草」になってくれと頼むに至った経緯は、いかなるものと見るべきか。増師問題を閣議で否決され、12月21日願いにより陸相を辞した上原は、陸軍分限令により待命を命ぜられて故郷・都城に帰省し、鹿児島城下山下町の日高尚剛邸に静養した。明けて2年3月1日付で第三師団長に補せられた上原は、赴任途上に病気を発して大阪赤十字病院に入院、加療3ヵ月に及び、結局名古屋には赴任しないまま、6月9日付で待命を命ぜられた。ギンヅルから託されたケシ粉と浅山丸を届けに行った大阪赤十字病院で出会った高島鞆之助から、将来のことは上原を頼って良いと言われた周蔵は、その一言で草になる決心を固め、鉄道学校に籍を置きつつ熊本医専でケシの研究栽培を始める。

 高島鞆之助が総長の座を上原勇作に譲ったのはその頃で、上原がケシ栽培とアヘン研究に急遽乗り出したのは正にその事と関係している。大正2年6月8日、実験栽培で得た初収穫のアヘン70㌘を届けた周蔵に、その翌日付で病気休職が決まっていたのにも関わらず、上原はこれからも頑張れと、大枚一千円を賞与して周蔵を驚かせた。つまり上原は、今後陸軍での地位がどうなろうとも、アヘン事業を進めることを決意していたのである。吉薗ギンヅルと日高尚剛が、高島の意を受けて、上原をそのように誘導したのであろう。上原が陸相に就き、ようやく政治家として活動する立場になったのを機に、高島はワンワールド薩摩派総長の座を譲ったものと思われる。

  
 ★欧州大戦、シベリア出兵 戦争の世紀の極秘戦略物資

 
 病気で第三師団長を辞して待命中の陸軍中将上原勇作は、10ヵ月後の大正3年4月22日、陸軍教育総監として陸軍中央に復帰した。教育総監は維新時期の監軍から発した職で、陸軍大臣、参謀総長と並ぶ陸軍三長官の一つである。

 7月28日(*?サラエボ事件は、6月28日)、セルビアのフリーメーソン会員の青年プリンチップ(*ガブリオ・プリンチップ、無政府主義者といわれる)が、オーストリア皇太子夫妻を狙撃して、欧州大戦の幕を開いた。8月、ロシアと連合した英仏がドイツ・オーストリアと開戦して戦争は本格化する。わが国も8月15日、ドイツに最後通牒を発して参戦したが、4年1月3日、青島出征軍は凱旋し、日本の参戦は一応終わった。

 教育総監として戦役事務に鞅掌した上原は4年2月大将に進級、軍事参議官を兼ねた。7月10日、3年目のケシの収穫を届けてきた吉薗周蔵に、上原教育総監はようやく本音を吐いた。
「阿片は極秘の重要戦略物資である。自給が出来なければ、それが軍の敗囚となる。陸軍はどうしても自給体制を立てねばならぬ」。
その翌日、上原の長女で19歳の愛子は、内務官僚の徳島県警察部長・大塚惟精に嫁した。大塚は、後に栃木・福岡・石川県の知事を歴任し陸軍司政長官になるが、戦時中広島県知事から中国地方総監になり、原爆で死去した。

 11月10日、京都において大正天皇即位の大礼が挙行され、参列のために京都に赴いた子爵・高島鞆之助は、宇治観月橋畔の高島友武邸に滞在した。高島友武は吉井友実の次男で鞆之助の養子となっていたが、当時は陸軍少将で京都十九旅団長であった。病を得た鞆之助は、そのまま友武邸に滞在、静養していたが、病態が急に悪化し、5年1月11日を以て薨去した。
 12月17日、陸軍大将・上原勇作は陸軍教育総監を罷め、陸軍参謀総長に補せられた。後任の教育総監は津軽藩士出身の一戸兵衛大将で、日露戦では乃木第三軍隷下の金沢第六旅団を率い、第一次旅順総攻撃で唯一旅順本要塞を占拠した猛将ながら、隠忍自重・思慮周到の名将である。

 前任参謀総長の元帥・長谷川好道は陸軍長州派の中心人物の一人で、日露戦役の最中の37年6月、乃木希典・児玉源太郎と同日に陸軍大将に進級し、戦役中は朝鮮駐駐留軍司令官として韓国統合を進める役割を成した。41年に軍事参議官、45年1月には奥保鞏に代わって参謀総長に就き、4年近くもその座を占めたが、泰平の時期でもあり、さしたる行跡もない。5年7月、欧州大戦における参謀総長の功績で伯爵に陞爵し、10月には朝鮮総督に就き、8年8月まで在任した。従一位大勲位を賜わったが、今日その名を知る人はまずいない。

 参謀総長・上原勇作に課せられたのはシベリア出兵問題であった。大正6年10月にロシア革命が成就して、ロシアの政権はレーニンが掌握しケレンスキー内閣が成立したが、その翌月、ロシア労兵会が共和政府を顛覆し、講和宣言を発した。この時、日本をしてシベリアからロシア革命に干渉せしめんとの意図を持つ在英・在仏のワンワールドは、ドイツ・オーストリア軍に対しても、ロシアに代わって日本に当たらしめんとし、種々の工作を行った。文豪サマセット・モームが来日したのも諜報活動のためである。また日本は日本で、対ロシア緩衝地帯をバイカル湖以東に設置することで、満蒙を完全に支配下に置くことを念願した。当初、日本のシベリア出兵にアメリカは反対したが、それは出兵の成果を日本が独占することを牽制したのである。

 大正7年7月8日、米国大統領ウィルソンから日本に、シベリア共同出兵への提議があり、13日寺内正毅内閣は出兵を決議し、15日には出兵に関する元老会議を開いた。そして16日には外交調査会は出兵を議決、米国にその旨を回答するに至った。

 
  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(26)  <了> 
               
 
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