カウンター 読書日記 ●『龍宮神示』を読む。第六章。
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●『龍宮神示』を読む。第六章。
 ★天の岩戸を開けるのは我々自身である

 終末の世から、平和の世へ移行するには、厳(いづ)と瑞(みず)の結びがなされなければならない。
 王仁三郎は、その奥義を次のように説いている。

1、天の岩戸の鍵を握れるものは瑞の御霊なり。
1、岩戸の中には厳の霊かくれませり。
1、天の岩戸開けば、二つの御霊そろうてこの世を守りたまわん。
さすれば、天下はいつまでも穏やかとなるべし。

 天の岩戸の鍵を握っているものは瑞の御言(スサノオ命)であるが、それには宇津女神の力が添えられなければならない。宇津女神は「古事記」の中で、巫女(みこ)として語られる女神である。

 それは彼女が神懸かりする者(神の霊を宿す人間)であることを意味している。

 前回の天の岩戸開きの時には、天照大神の籠もった天の岩戸の脇に天手力男命(あまのたぢからのみこと)が隠れて立ち、天宇津女が神楽を舞った。
 神懸りして乳房をあらわにして桶を踏みならす派手さに、八百万の神が天地も揺れんばかりに大笑いする。

 その騒ぎに天の岩戸の中の天照大神が不思議に思い、岩戸を開けてわけを問いかけるのであるが、「貴方より尊い神様が現れたので、みんな喜んで笑い、楽しんでいます」と嘘をつき、そのスキに隠れていた天手力男命が天照大神を引きずりだしたのである。

王仁三郎は「嘘」と「力ずく」で引きずり出した天照大神は偽物であったと語る。
 しかもこの天照大神は天宇津女のつく墟によって、【見栄と嫉妬にかられた虚構の神】であった。

 すべての過ちがここに始まっている。

 「三千世界の世の立替えと申すのは、世界の人民の身魂の立替えのことであるぞよ。世界の身魂がみな総ぐもりになりてしもうて、言い聞かしたくらいには、改心でける身魂はないようになりておるぞよ。むかしの弥勒の世は結構でありたなれど、暮れいきよると、身魂にくもりがでけてきて、天照皇大神宮どののおりにも世の立替えをいたしたが、天照皇大神宮どののおこりは、ここまでにもなかりたなれど、こんどの二度目の立替えは骨がおれるぞよ。まえの天照皇大神どののおり、岩戸へおはいりになりたのを、だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸開くのが嘘を申して、だまして無理に引っ張り出して、この世は勇みたらよいものと、それからは天の宇津女命どののうそが手柄となりて、この世が嘘でつくねた世であるから、神にまことが無いゆえに、人民が悪くなるばかり」
(明治三十八年、旧四月二十六日・大本筆先)

 宇津女である我々は、この岩戸開きに際して、「誠」と「和合」の心で、スサノオの働きを手助けしなければならない。


 ★「霊界物語」と「ヨハネの黙示録」に見るバールとヤハウェイの逆転劇


 スサノオの持つ「愛」と「和合」の精神こそが「一厘の仕組み」と主張する「霊界物語」と聖書の謎の預言書「ヨハネの黙示録」をあわせ読むと、「黙示録に秘められた一厘の仕組み」が浮かび上がってくる。

「黙示録」をよくよく読むと、そこにはバールとヤハウェイの二つの神が登場しているのである。

 まず、「黙示録」の冒頭には「天上におられるキリストの姿」と題して、神としてのキリストの姿が描かれている。その神は自分のことをこう語る。
「恐れるな。私は最初の者にして最後の者。見よ。世々限りなく生きて、死と冥府の鍵を持っている」
 ここでキリストである神は、死んでまた生き返る神・バール神であることが分かる。

 次にサタンと呼ばれる年をとった蛇・龍が終末の災いを呼ぶことが描かれている。
 その龍がどのような龍かといえば「女と龍」の章に龍の姿が次のように記載されている。

「見よ、火のように赤い大きな龍である。これには【七つの頭と十の角】があって、その頭に七つの冠を被っていた。・・・龍は子供を生もうとしている女の前に立ちはだかり、女が子供を生んだら食べてしまおうとしていた。女は男の子を生んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国民を治めることになっていた」

 ここで前述したユダヤの神話を思い出して欲しい。
「バールは七頭の龍と戦って、鉄を手に入れた」という神話である。

「黙示録」の龍は、明らかにバールと戦った七頭の龍のことであり、生まれてくる男の子は鉄の杖をもって、すべての国を統治するという記述からバール神の生まれ変わりであることがハッキリする。

 しかしこの龍は「千年の支配」の章で神によってしばらく活動を許されるはずだと語られている。
 この場合の神とは明らかに龍と敵対するバール神ではなくヤハウェイである。
 龍の手下である世紀末の世を支配する二匹の獣は666という数字によって表されるが、666とはソロモン王の立てた「契約の箱」を収めるヤハウェイ神殿の建築に使われた金の延べ棒の数と同じになっている。

 つまり、さまざまな終末の演出をしている神がヤハウェイであり、それを救おうとしている神がバールなのである。

 我々は二神を「神」という言葉に惑わされ、一人の神として解釈していたので、ジキルとハイドのように豹変する神の性格と、酷く矛盾する「黙示録」の内容に悩むことになったのである。

 バールこそが終末の救いの神であることは、終末戦争の後に出現した新しいエルサレムの様子からも証明される。
「その新しいエルサレムには(ヤハウェイの)神殿はなく、契約の箱も存在しない」とはっきり記されている。
 そしてそこは愛と平和が約束された千年王国なのである。

 ○ヨハネの黙示録 千年王国・キリストの再臨 ― 

 聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下ってくるのが見えた。
 神の都は栄光に輝いていた。その輝きは最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。(中略)
 私は都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と子羊が都の神殿だからである。この都にはそれを照らす太陽も月も、必要ない。神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分の栄光を携えて、都に来る。
 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は栄光と誉れを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りをおこなう者は誰一人都に入れない(筆者注・神は都の門を閉ざさず、誰をも受け入れるにも係わらず、御霊の曇ったものは、その都に入ることが出来ないのである)。(中略)
 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはαであり、ωである。最初のものにして、最後のもの。始めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術をおこなう者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。わたし、イエスは使いを遺わし、諸教会のために以上のこと(黙示録)をあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。【霊】と花嫁とが言う。『来て下さい』これを聞く者も言うが良い。『来てください』と。渇いている者は来るが良い。命の水が欲しいものは値なしに飲むがよい」
 
 ★三千人の救世主が用意されている


 本来ならば百二十巻までを完成させる予定であった「霊界物語」の完結が無理だと踏んだ王仁三郎は、晩年、陶器作りに没頭しはじめる。作ったのは皿や茶碗のような器・・・。

 王仁三郎が焼き物を焼くと、なぜか滅多に起きるものではない窯変が続出する(窯変とは上薬の状態や、窯火の様子で計算できない模様や色が浮き上がる現象)。
 作風は自由闘達、無碍自在。いかにもおおらかな王仁三郎の人柄が現れている。専門家の中には王仁三郎の作品を「国宝級のものだ」と絶賛する人も存在する。
 しかし、それらは国宝などというようなチンケな品物ではない。世界の宝と言ってもいいような意味が存在しているのである。
 王仁三郎は『霊界物語』の執筆という急務を打ち切って、いったいなぜ、陶器づくりに熱中していたのであろう?

 生前、王仁三郎は「人は神様からいただいた分霊を入れる器なんや」と語っていた。
 『霊界物語』が完成され得ないことを悟った王仁三郎は、自らの残りの使命を託す器を用意するために、焼き物作りに没頭していたのである。
 王仁三郎が焼き物を焼く行為は、霊界に王仁三郎の後を引き継ぐ器を生みだすという神業の一つだった。それ故に、そこに霊妙な神意が働き、器たちは神の手によって模様や色を刻まれるという現象が発生したのである。

 王仁三郎は生涯を閉じる前に、およそ三千個の器を作ったと言われている。つまり、少なくとも三千人の救世主が終末の世に出現することが約束されているのである。

 それはどこからどのようにして現れるのであろう?
 確かなことは、それが特定の宗教からや、特定の地域、特定の民族から現れるものではないということである。
 救世主が特定の何かから現れてしまえば、そこだけが偉いということになってしまう。
 王仁三郎は「弥勒の世は平等の世や」「弥勒の世に宗教は必要ない」と断言した。
 また、「わしは大本の王仁三郎やない。世界の王仁三郎や。世界を救うためやったら、大本がどうなってもかまわん」とも叫んだ。
 世界を救うために、救世主の御霊をもった人間は、世界中の至るところから出現するのである。そしてそれはむしろ、何の宗教にも、何の団体にも属さない無垢な御霊である必要があるのである。

 「近ごろは、いろいろの神の名を語(嘱)り、その気になるものが大勢現れておるな・・・これも地の岩戸開きの時代であるから。見せてある、いろいろの型じゃ。○九十(真)の○九十の高神、大神は一人の身のみに憑(よ)る事はないのじゃぞ。神霊を分かちて、あらゆる所にその働きを現す事もある。龍宮の乙姫は此の天地の始めからの大神で、地球を七回り半の大龍体と申してある。そのような天地創造の神が一人の身に憑る事は無いのじゃぞ。
 乙姫と申せ何段階もあるのじゃぞ。その使いしめもある。○九十(まこと)の龍宮は一万年や二万年前の御霊では無い。元の元の天地創造の神であるから、取り違えをいたされるな・・・今に判りて来るが・・・今の世に神の名を語る者は皆型じゃ。○九十、新生の世を築く、まことの身霊の者はこれから芽ぶきてまいるなり。世の片隅に現れて芽ぶきの用意をいたして居るなり。今栄えて居る宗教も、是は花じゃ。花は散りてこそ実を結ぶのじゃ。龍宮神界の○九十の入口は○OOOであるから、此の事を忘れては龍宮の○九十の道は立たぬなり。各地に龍宮の入口はあるなれど、元の元を忘れてはならぬぞよ・・・神示も霊示も、我身の都合の良いように受け取れば、どのようにも取れるが、それは真実では無い。己が身魂の磨き第一と受け取りて下されよ」(平成7年1月6日 弥勒神示)
 
 ★王仁三郎の弥勒国家論 


 では現実の「弥勒の世」というものが、いかなる社会構造によって実現されるべきだろうか? この点について王仁三郎は重要な国家構想論を幾つか語っている。

 まず人間生活においては最小の共同体単位をもって相互扶助を行う。
 この最小の共同体単位というのは、農業・林業・漁業・畜産業などの人間生活に絶対不可欠な産業を行うために必要とされる人数が寄り集まった単位をいう。これをもって自給自足を条件とする。
 かつ、土地の所有権はすべて団体に対して奉還される。この場合の団体というのは、国家ではなく、国民であり、かつ共同体の構成員のことである。
 元来、神のものであるはずの土地を人間が所有し、その所有権を争ったり、私有財産を増やすことに夢中になったりすることが、貧富の差や社会構造の歪みを生んでいく。
 土地の所有権というものを消滅することが、社全経済に大きな変革をもたらすのである。
 この場合、住居は家族の構成人数によって必要なだけの敷地を供給されることになる。そして、税金制度は撤廃する。
 国家に必要以上の力を与えることは帝国主義を生み出すだけで、国民生活に何ら利益をもたらすものではない。一部の権力者が富める構造は排除する。
 こうした共同体が構成してつくる都市の単位は十万以上のものを作らない。地域による偏りをなくし、日本全土をくまなく有効利用しなければならない。

 ここでわかることは、王仁三郎の構想する社会構造は、構造的には権力や貧富というものが発生する以前の、極めて原始的な社会構造を理想としているということである。
 そうなると、ついつい私たちは国家としての文明が立ち遅れるのではないかとか、統制がとれないのではないかといった心配をもってしまう。
 しかしそれこそが、私たちが現代社会の毒に冒されている証拠なのである。
 実際、文明が遅れるとか、文明が進歩するというのはどういう観点をもっていうのであろう。

 現在の人間は、十分自然の脅威と戦う文化を有しているし、電話やFAXや新幹線といった便利な道具ももっている。日本の国土開発も、原始的社会構成にしたとしても不便がないほど、進んでいる。

 文明は追求する限度を知らなければいけない。
 我々は便利な道具をいっぱい生み出したが、その結果どうなったであろう?
 無尽蔵に文明機器というものの生産を続け、それを消費することに汲々とし、経済的にも精神的にも疲れ切ってしまっている。
 「機械文明の限界を知らない開発は悪である」と王仁三郎は言及している。
 我々は便利な物をドンドンと生み出し、それによって消費する電力も増す一方となった。そのため、原子力発電所などの開発を迫られ、その核廃案物の処理に頭を痛めている。あるいは、オゾン層を破壊するフロンガスを生み出したりする。
 機械文明は自然と戦い、自然を破壊し、人間の生命を脅かす結果になっているのである。

 王仁三郎は「文明開発というものは、人間に恵みを与えてくれる自然界をよく観察、検証して、調和するところを成さなければいけない」と語っている。
 文明と自然が調和して人間生活を豊かにする丁度いいころ合いという時代があったはずである。それを急ぎ過ぎて度を越した結果が、自分で自分の首を絞めるような現代に至っているのである。
 文明開発は、自然と良く相談し、調和しながら行うものであり、それが多少遅れたからといって、何ら不都合は存在しない。
 決して国家や人類の発展などという目的のために行うものではないのである。

 こうした社会構造を受けて、貨幣制度をも撒廃すべきであると王仁三郎は主張している。

 「由来、金銀を貴重視する習慣は古今世界の分野を通じ人間社会の条理のように信仰されつつある。このため、大変裕福な者が出る一方、住居もままならない者もいる。そして又、国家の競争、産業の競争、国家の興亡、戦争の動機、人心の腐敗、諸多の犯罪は黄金の獲得欲望が原因である。この金銀本位の財政経済の結果は、限りある財貨で、限りない欲望を満足させようとするが故に無限の罪を醸成するようになる。元来、金銀をもって国家経済は、物質交換の不便を克服したのであるが、もともと国そのものの存在理由や価値観が不明瞭なために、普遍的な価値観である財力の強大なことで、その不明瞭さを解決しようとするのが大きな誤算なのである。人間も同じことで、自分の存在理由や価値観が不明瞭なために、それを財力や、金の与える満足で補おうとする過ちがあるのである。しかしそれが間違っていることは、過去の人間の歴史の大戦などを見ても確実である」(簡略・意訳)

 この王仁三郎の構想した国家は、極限の民主主義の姿であろう。
 このような構想を明治生まれの王仁三郎が侍っていたことは驚異である。
 王仁三郎をよく知らない人の中には、王仁三郎を右翼として評する方たちがいる。しかし、それが大いなる誤解であることが、王仁三郎のこの国家構想を知れば判るだろう。

 王仁三郎の論ずる国家構想は、極めて社会主義国に似ているものの、社会主義との大きな相違点は、社会主義国家が民衆・労働者主体といいながら、全体主義を意識し、国家中枢に富と権力を集めていった点に比べて、王仁三郎の構想では、国家はむしろ解体され、実体のない理念的な共同体として作用し、権力や富が国家の名のもとに集中しないという現象が生じる点である。
 現代の多くの社会主義国家は、王制といった封建時代的な政治形態から、民主主義を経ず、民衆の意識レベルが育っていく過程なしに突然生まれてきた。これでは、王が国にすリ変わっただけの全体主義国家になってしまうのはやむを得ない。王仁三郎の理念は、現代社会主義の欠点を鋭くついて、その欠陥を補ったものだということが出来るだろう。
 しかし、こうした理想国家は体制だけをそのように作り上げれば出来るという問題ではない。まず先に、我々の意識レベルでの改革が行われた上に成立するものなのである。
 その時、初めて王仁三郎の国家構想は「夢物語」の枠を越え、現実的かつ具体的な国家構想へと変身を遂げるのである。
 
 ★王仁三郎追想 


 蒙古から帰った王仁三郎は、教団本部である綾部を抜け、一人亀岡に入った。
 そして一面竹藪だらけのジャングルのような敷地を、もくもくと草を引いてかたづけ、すこしずつ開拓していった。こうして開拓した亀岡天恩郷に、王仁三郎は神殿を建てることを嫌った。
 「もうこれからは宗教のない世の中になるんや。しやから神殿なんて必要ない。石でも積んで拝んどいたらええ」
そう言って、信者が一つ一つ集めて持ち寄った石を積み上げ、王仁三郎が霊界で見たという月の大神の神殿をモデルに月宮殿という石のモチーフが作られた。
 亀岡には王仁三郎を慕う若い信者が集い、歌詠みや陶器作りなどの平和な芸術活動が展開されていった。
 しかし、亀岡も綾部も第二次大本弾圧、第二次世界大戦で破壊されつくす。
 その後の再建の際にも王仁三郎は神殿を作らず、石積みのモチーフを二つの拠点に作っただけであった。
 「もう宗教なんか必要のない弥勒の世がすぐ来るんや」
 そう言いながら王仁三郎はもくもくと陶器作りのために轆轤を回し、上薬を塗る。
 もうすでに王仁三郎の目の中には、弥勒の世の出現に顔を輝かせる人々の顔が見えているのである。
 「もうちょっとやでえ」 出来上がった器を見ながら王仁三郎は呟いた。
 王仁三郎78歳、1月19日、すでに病院において口も利けぬ程の朧朧たる意識の状態であったが、王仁三郎は臨終の間際に言った。

 「最後はいつ・・・臨終はどこですか?・・・亀岡に帰りたい」
 無茶な話であったが、王仁三郎のたっての願いで、寝台車によって亀岡の自室へと運ばれた。
 「ここは、わしの部屋?・・・お筆先、お筆先はどこ・・・。わしでなければ分からないメモがあるんだ」
 しかし、それは叶わぬ願いであった。王仁三郎の息づかいが次第に静まった。
 「西へ向きを・・・手を胸に・・・すそ直して・・・」
 一生を神劇の役者として生きた男の魂は、こうして天に召されたのであった。

 ******************

 『龍宮神示』を読む。第六章 <了>。  
                      
 

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この記事に対するコメント
銀花さん、おはようございます。
リンク・転載ともにご自由にどうぞ。
わたしも訪問させていただきます。
【2011/02/22 09:03】 URL | ひろもと #- [ 編集]

記事素晴らしいですね!
今、この時に読ませていただけることがありがたいです。
ルーツを探す旅のブログを書いているのですが、
こちらの龍宮神事について書かれた記事をご紹介させていただいてはいけませんでしょうか!?
今、この時期、多くの方に是非読んでいただきたいです!
厚かましいとは思いますが、リンク&転載を是非させてください。
どうかよろしくお願いいたします。



【2011/02/21 13:58】 URL | 銀花 #- [ 編集]

中里さん。
いたずらコメと勘違いして一度削除。
大変失礼しました。
仙台も雪こそ少ないですが、風の強いところで、南国産には、厳しいです。
【2009/01/23 19:24】 URL | ひろもと #- [ 編集]

こんにちは
寒いのはつらいけど、頑張って下さいね。
応援、ポチ、ポチ。また来ますね!!!
【2009/01/23 07:57】 URL | 元塾講師中里によるアフィリで楽しく毎日が給料日 #- [ 編集]


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