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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(25)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(25)
  上原勇作元帥の「草」にして、ケシを植える男・吉薗周蔵 ◆落合莞爾   


 ★薩摩軍人の星・上原勇作 対露非戦派・長州閥と対決 

 明治31年に高島鞆之助が桂太郎に追い立てられる形で去り、32年には川上操六が病死した陸軍にあって、トップの参謀総長に就いた薩摩の大山巌は、敢えて寡黙を装い、政治に関与するのを避けた。若い頃からチャリ(滑稽)好きで知られた陽気な性格からすると、真に不思議なことで「薩摩型統帥の理念を大山が自ら具現したもの」と俗流は解している。

 しかし、これには相応の理由があった。英露の世界史的抗争=グレートゲームの中で、在英ワンワールド首脳が薩摩支部に与えた責務はロシアに対する軍事的対抗で、そのため薩摩派の将領たちは、維新政府の中でなりふり構わず軍拡を主張してきた。
即ち吉井・高島・樺山・松方らで、大山もむろんその一人である。これをずっと妨げてきたのが長州派で、理由は民力涵養のための非戦主義と言ったところであろう。

 そこで、玄洋社を看板にした杉山茂丸が、折から台頭してきた長州の新興勢力たる児玉源太郎と桂太郎を英同盟構想によって取込み、この両人の工作で、恐露病者で慎重派の山県有朋と非戦主義者で親露派の伊藤博文との間を分断し、伊藤を枢密院議長に祭り上げて政治力を封じた結果、国内が一転、対露積極策で固まり、大山が大声を出す必要が消えたのである。

 大山が寡黙を徹したため、陸軍内部では長州勢が人事権を握ったが、これには薩摩から長州に対する報償の一面もあった筈だ。とにかく陸軍の薩摩健児の寥々たる境遇は、真相を知らぬ九州軍人たちの同情を買ったが、その中で上原勇作だけは陸軍有数の欧州通として知られ、識見手腕ともに抜群で長州派にとっては最も手強いライバルであった。

 明治32年に男爵・林董の随員としてハーグ平和会議に派遣された上原は翌年少将に進級し、砲工学校長兼参謀本部第三部長に補せられ、34年には工兵監を命ぜられた。軍事スパイとして知られる石光真清の手記によると、大連に滞在していた石光は36年7月末、上原少将が信濃丸で到着した知らせを受け、船上に上原を訪ねて情勢を報告したところ、上原は石光の境遇や将来の方針、経済状態まで詳しく質問して労を謝した。

 これは、ジュネーブで9月から開催される万国赤十字条約会議に際し、7月20日付で委員として参列を命ぜられた上原が、渡欧の途上、大連に寄港した時のことである。上原は石光に日露の戦雲接近を告げ、交通機関、特に鉄道輸送力につき精密な調査をするように注文したのは、あくまで陸軍工兵監としての立場であった。対露戦に備えるため、自ら予備役編入を願い出て陸軍特務となった石光が、永年の活動を記録した有名な手記の中に、上原勇作の名が出るのはこれきりである。

 予備役少佐として裏から陸軍の支援を受け、時には現役に復帰して、生涯を陸軍のための諜報活動に挺身した石光だが、その後半生はむしろ上原元帥の私的諜者であった。むろん極秘の事で、長男・石光真人の編集になる『石光真清手記』が、石光と上原との右の関係を隠したのは、当然というべきであろう。
 37年2月19日欧州から帰朝した上原は、6月に勃発した日露戦争で、第四軍参謀長として岳父の第四軍司令官・野津道貫を助けて活躍した。39年1月に凱旋するや、戦功により功二級金鶏勲章及び年金一千円を賜わり、7月6日付で陸軍中将に進級、40年9月21日に男爵を授爵し、41年には勲一等瑞宝章に叙せられた。


 ★湧き起こる陸軍改革運動 増師実現へ上原を担げ


 明治40年4月4日、陸海軍首脳は陸軍二十五個師団・海軍八八艦隊による「帝国国防方針」を策定した。その濫觴は39年8月の第二次日英同盟調印に際し、英露開戦となった場合のわが軍の対処方針につき、前参謀総長・山県元帥を中心に検討したものとされる。当時の陸軍三長官は参謀総長・児玉源太郎、陸軍大臣・寺内正毅と長州が占め、教育総監だけが薩摩の西寛二郎で、三人の上に陸軍のドン山県有朋がいた。かつて恐露病者と揶揄されていた山県は、杉山茂丸の調略により日英同盟に依拠した対露積極案に鞍替えし、日露戦争で運良く功績を挙げた。「帝国国防方針」は、対ロ積極論の延長線上にあるもので、英露のグレートゲームに巻き込まれた日本には、英国の傘下たる以外に選択肢はなかった。恰も戦後日本が60年経っても米主日従体制を抜け出せないのと同様である。「帝国国防方針」の陸軍案を作った参謀本部作戦班長・田中義一中佐は、児玉源太郎の薫陶を受け、山県・寺内ら陸軍首脳の信任も厚い長州の寵児であった。

 陸相・寺内正毅中将は長州閥の意識が強く、軍人として声価を高めていく上原を警戒し、軍中央から遠ざけるために上原を41年12月21日付で旭川第七師団長に飛ばした。長州派の露骨な派閥人事に対する欝積が嵩じて、明治42年頃から陸軍改革運動が参謀本部内に澎湃として起こる。陸軍内の派閥解消を目指す運動で、首謀者は佐賀の参謀本部第二部長・宇都宮太郎少将(士官生徒七期)と薩摩の戦史課長・町田経宇大佐(同九期)であった。彼らは改革運動の中心に第七師団長・上原勇作(同二期)を担ごうとしたが、担ぎ手が九州人ばかりでは藩閥抗争と受け取られる虞があったところ、軍事課長・田中義一大佐(同八期)が加わったため、展開が急に広がった。長州閥の寵児・田中が派閥よりも政策を優先し、上原を担いだのは見識である。

 43年11月少将に進級した田中は、歩兵第二旅団長として10か月を過ごした後、44年9月1日付で陸軍省軍務局長に就いた。前年に大韓帝国を併合した日本は、朝鮮半島の治安維持とロシアの南下に備えるため、駐韓常備軍として二個師団の新設を必要としたが、日露戦後の財政難と厭戦気運から世論の賛成を得ることができないでいた。ところが海軍が戦艦8隻に巡洋艦8隻を揃えるいわゆる八八艦隊の保有を帝国議会で認められたのは、折から英国が大型戦艦ドレッドノート号(いわゆる弩号)を建造したことで世界が大艦巨砲時代に入ったことを国民が理解したこともあるが、海軍の総帥・山本権兵衛大将の政治力による所が大きかった。そこで陸軍省は悲願たる増師の実現のため、省の要の軍務局長に田中少将を就けて省内を取り仕切らようとしたわけである。田中らの共通認識は悲願達成のために担ぐべき神輿は上原以外にないというものであった。

 田中就任の前々日、8月30日に第二次西園寺内閣が成立するが、朝鮮総督に専任するため9年も就いてきた陸相の座を去る寺内の後任を巡り、上原と石本新六(士官生徒一期)の争いとなる。田中らの思いにも関わらず寺内が後任陸相に選んだのは、永年にわたり陸軍次官として支えてくれた石本であった。上原は9月6日付で宇都宮第十四師団長に転補されて都合4年も田舎回りとなる。まことに露骨な寺内の派閥意識というほかない。ところが10月、孫文が辛亥革命で清朝を倒した結果東亜の軍事情勢は急変した。すなわち、大陸政変に刺激されたロシアが満洲・朝鮮にどう出てくるか、全く予断を許さなくなったのである。これに対処するため、強引にでも註韓二個師団の増設を避けられない状況となった陸軍で、新任の石本陸相が45年4月2日に過労死したので、お鉢は自然に上原に回り、山県元帥の推薦によって上原は、4月5日に陸軍大臣に就く。増師案の実現に向けて原案を作ったのは、軍事課長・宇垣一成大佐であった。陸士の学制改正により士官生徒十二期は士官候補生に移行したが、宇坦はその第一期生で、石光真清の兄・真臣(のち中将)と同期に当たる。軍務局長・田中義一少将が宇垣案を以て内外の根回しを行い、陸軍次官・岡市之助中将(士官四期・のち男爵)が省内をまとめ、陸相の上原中将が政界トップに向けて強力な政治工作を展開するという分担となった。


 ★三居ギンヅルの計らいで 「上原閣下ニ オ目通リ」 


 私(落合)が明治日本の裏面史に目覚めたのは、外でもない。読者も御存知の『吉薗周蔵日記』にたまたま接し、その解読にこの10年を捧げたことによる。『周蔵手記』の第一冊は「上原閣下(時二陸軍大臣、陸軍中将)ニ オ目通リニツヒテノコト」と題するもので、本文は「大正元年八月二日有名ナ上原閣下ノ 手先ト称スル人物 三居二来ル。九日 上原閣下二 オ目通リノ為 東京二出ルコト決ル。 周助ヲジト 前田治兵トガ同行」で始まる。

 明治45年は7月30日を以て大正元年となる。その2日後に陸軍大臣・上原勇作の手先と称する人物が宮崎県西諸県郡小林の吉薗家に三居を訪ねてきた。【三居】とは、当主以外が隠居した場合を指す宮崎方言で、この場合はギンヅルである。四位氏を父として生まれたギンヅルは、母の実家の岩切家で育ち、吉薗に嫁す母の妹の養女分として随行、吉薗家に入った。叔母は吉薗家の跡取り・萬助を生むが、萬助には子供がなく、義姉・ギンヅルが公家・堤哲長との間に作った林次郎に吉薗家を継がせた。
当主林次郎の実母で先代の養姉でもあるギンヅルは、まさに吉薗家の三居なのである。ギンヅルの姉が龍岡家で生んだギンヅルの甥は上原家の養子となり、上原勇作となった。

 陸相・上原勇作の手先を名乗る前田治兵衛の用件は、林次郎の長男・周蔵を上原に目通りさせる一件であった。長男の出郷を渋る林次郎夫婦の説得のために、ギンヅルがわざわざ呼び寄せたのである。吉薗夫妻も納得したので、周蔵は上原閣下にお目通りするため、8月9日の上京が決まり、大叔父の木場周助と前田治兵衛が同行することとなった。

 陸相就任に至るまでの上原の経歴は上に陳べた通りで、34年7月、参謀本部第三部長から工兵監に転じ、以来41年11月まで(日露戦中を除いて)工兵監を務め、日本工兵の中心的存在となる一方、陸軍きっての欧州通として陸軍内の輿望を担った。警戒した寺内陸相により旭川の師団長に飛ばされたが陸軍内の人気はいよいよ高く、陸軍改革運動では改革派の星とされ、寺内陸相の後任争いでは陸軍次官・石本新六に敗れるも、石本が45年4月に急死して遂に陸相に就いた。陸軍改革派が上原を担いだのは「北の守り」即ち朝鮮常駐二個師団の増設実現を期待したものであった。

 永く陸軍中央から遠ざけられていた上原は陸相就任以来、増師に全力を傾ける。寸暇も無いはずの上原は19歳の吉薗周蔵を宮崎から呼び寄せ、8月9日、上総一ノ宮海岸の別荘で引見に及び、「お前んに【草】を頼みたか」と切り出した。「草」とは忍者の一種で「草の根を張る」とも謂い、正業を表看板に掲げて定住し、周囲の信用を得て、裏で諜報活動に従事する者の謂である。  


 ★「アヘンヲ ウヘテミテホシカ」 唐突過ぎる懇請


 明治末から大正に掛け、政界が増師問題に明け暮れていた時、当の陸相が急にアヘンの研究を始めたのは何故か。『周蔵手記』によれば、周蔵に草になってくれと頼んだ後、上原はこう言った。「自分は今、陸軍に対して一つの大胆な事をせねばならぬと思っておる。本当の事を言うと陸軍は今分岐点に来ている。自分が思っていることを誰かが試してくれて、それがうまく行ったら、この日本陸軍は大変な軍になれる」と丁寧な口調で語った。

 イギリスの支援もあり、辛うじてロシアを撃退し得た日本の将来を考えた上原は、陸軍は今や分岐点に来たと判断し、今後は軽重いずれの道を取るべきかが課題と規定したのである。周蔵が「そいはどげんこつですか」と聞いたが、まだ草になるとは答えていない。自分ではやっても良いかと思ったが、ギンヅルに聞いてからと思って即答を避けた。それを聞いた加藤邑は、「即答しなかったのは君にしては上出来だ」と褒めた。

 それでも上原閣下は、自分に内容を話して下さった(以下、カタカナ表記は『周蔵手記』より)。
 「コゲンコツ 思フチョルノデゴアス」と目上の者に言うように―
「アヘンヲ ウヘテミテホシカ 思フチョイモス」。
「アヘンと言ったのかケシと言わずに。ウーン」と加藤は唸る。
「ソレハ 上原サンハマダクハシクハ知ラナイネ」。

 上原は続けて「アヘンがうまく出来れば、軍の裏産業にもなるし、軍人の怪我の治療にも一等と聞くから、自力でアヘンを手に入れたかと思ふちょる」と言いながら、「然しそれはアヘンを余り詳しく知らん、軍の人間の考えでごあんが。アヘンちゅふもんを過大評価し過ぎている可能性もあるのでごあんが」と自ら反問した。誰かからアヘン生産を勧められていた上原は、周蔵の前でその是非を自問自答したのである。アヘンが毒とか薬とかいうが、
  「ドゲンモンカ 身ヲ以テ知ランモンガ アーダコーダ云ッチョイモス。実際二栽培シテ アヘンヲ製造シテミンコトニハ ソレガドンナモンカ分リモッサン。現二日本デモ作ッテハヲルガ 俺イニハ ヤフ分ランノ
デゴアンガ」。

 曰本では古来宗教者や忍者がアヘンを用いたが、主たる用途は自白剤であった。摂津辺でも細々と作っていたが、道修町で薬種屋奉公の太田四郎兵衛が、清国から入ったケシ粒を実家で栽培させた天明8年(1837)が近代国産アヘンの始まりという。その後は、国内需要が少ないためケシ栽培は大して広がらず、明治12年阿片専売法が出た後はほとんど立ち消えの状態であった。ところが曰清戦争で新領土となった台湾では島民の吸引が盛んで、清朝政府も手を焼いていた。政府は内務省医務局長・後藤新平が提案したアヘン漸禁策を採用し、明治31年(1899)の台湾阿片令で台湾島に於けるケシ栽培を禁止したが、吸引用アヘンは輸入に頼っていたので国産化が課題となった。

 摂津三島郡福井村の二反長音蔵が、有望な畑作物としてケシ栽培を勧誘しているのを知った台湾総督府民生局長・後藤新平は、全量の政府買上げを決めて以来、ケシ栽培農家はしだいに全国に広がった。上原が「現二 曰本デモ 作ッテハヲルガ」と言ったのは後藤・二反長系のケシ栽培を指したのである。平時にはアヘンなぞ無関係な陸軍で、しかも永く中央から遠ざかっていた上原は、アヘンと言えばケシ粉で肺壊疸が治った医薬品としてしか認識していなかった。誰かから突如アヘン生産を指示されて泡を食い、「俺イニハ ヤフ分ランノデゴアンガ」と愚痴っぽく言ったのである。


 ★阿片は極秘重要戦略物資 在英ワンワールドの狙い


 戦争史は、攻撃兵器の進化とこれに対する防御手段の発達の弁証法的発展過程である。クリミア戦争では火器が格段に発達し将兵の死傷が激増して、ナイチンゲール率いる従軍看護婦が活躍したが、曰露戦役では旅順要塞のごとき防衛手段が発達し、ナポレオン以来の決戦戦争を持久戦に変えた。勢い戦場に傷病者が累積する中で、火器と同等の重要軍事物資として注目を浴びたのが、麻酔・治療に用いる麻薬モルフィンで、これはケシから取れる生アヘンを精製して作られる。当時は帝国主義の最終段階で、欧州の戦雲は妖気を孕んできた。アヘンの需要は激増するだろう。したがって「軍の裏産業にもなるし、軍人の怪我の治療にも一等と聞くから、アヘンの実際がどのようなものかを、直接知りたいと思うから、お前ん(周蔵)に頼むのは心苦しいが、一番頼み易いお前んに頼みたい」のである。

 周蔵は大正2年6月8曰、70グラムの初収穫を上原に届ける。第三師団長に補されたが赴任せぬまま、その翌曰に待命が発令になる上原は、今後も研究栽培を続けよと金一千円を賞与して、周蔵を驚かせた。大正3年4月、陸軍教育総監として中央に復活した上原に、周蔵は7月3曰、2年目の収穫4百グラムを届けに行く。上原は「量は少ないが、お前んの薬は非常に純度の高か出来である」と今後の増収を期待した。周蔵の栽培品種は、熊本医専と細川藩しか知らない特種で、これに前年に綾部の☆皇道大本で渡辺ウメノから貰ってきた延命の黒ケシが加わった。曰本古来の特種ケシに始まった周蔵のケシ研究は以後もその方向を目指したので、二反長流の量産志向とは異なるのである。

 3年目の収穫を届けた大正4年7月10曰、周蔵は上原の本音を聞いた。「アヘンは軍の勝敗を左右する重大な物質である。それも極秘物質である。現在は支那・インド・朝鮮にその供給を頼らねばならず、いざと言う時に、生産地に裏切られたら、それが敗因になる。陸軍は阿片の自給体制がどうしても必要だ」。上原は周蔵にケシを作らせていた3年間に軍の方針を立て、ケシ栽培に踏み切ったのである。☆これは結論を言えば、在英ワンワールドが、高島鞆之助が杉山茂丸を通じて上原に指示したものであろう。明治40年の英露協商くらいで英露のグレートゲームが収まる筈もなく、現に今でも続いている。戦争手段の発達は世界を縮小するが、イギリス海軍の実力がいまだ極東まで及ばなかった当時、大陸国ロシアを牽制するには極東に海軍力を必要とし、それをイギリスは曰本に頼らねばならぬ段階であった。ところが、曰本の世情は財政難のため、非戦気分に満ちていた。そこで、在英ワンワールドは、軍備の財源として、曰本に阿片ビジネスをやらしてみようかということになったのではないかと思う。 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(25)   <了>。

  続く。                       
 

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