カウンター 読書日記 ●疑史 第52回 上原勇作(4)
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●疑史 第52回 上原勇作(4)
 ●「疑史」 第52回 上原勇作(4)  落合莞爾  

 大正元年、吉薗周蔵にケシの栽培を命じた時、陸軍大臣・上原勇作は次のように説明した。
 「実際にケシを栽培し、アヘンを製造して見ん事には、それがどげんなもんか分かりもっさん。毒ちゅふてもどげんな毒か、薬ちゅふてもどげん役に立つか、(中略)現に、日本でも作ってはおるが、俺いにはやふ分からんのでごあんが」。

 アヘンの実際を自分で直接知りたいから、直属の部下に研究させる必要がある。「お前んにそれを頼むは心苦しかも、お前んが一番頼みやすか。だが、自分がその毒に負けんやふに、心してもらわんなりまっせん」。

 新領土の台湾では島民の阿片吸引が盛んであった。台湾総督府は急激な禁止は得策でないとして阿片漸禁策を施行したが、民政長官・後藤新平は、従来輸入に頼っていたアヘンの国産化が国策上・財政上どうしても必要と考え、折から摂津三島郡福井村の篤農・二反長音蔵が畑作物としてケシに注目、全国を行脚して宣伝に務めているのを知り、収穫全量の政府買上げを決めた。こうして日本国内にケシ栽培が根づき、「現に日本でも作ってはおる」状況であったのに、上原陸相は自らアヘン研究を試みたのである。

 私立熊本医専の薬事部の片隅に急拵えで設けられた麻薬研究科に席を置き、薬事部の阪井事務主任に手伝って貰い、吉薗周蔵は五反歩の畑でケシの栽培を始めた、熊本藩の薬事の家筋でハンセン病のために隠棲していた七歳年長の加藤邑に兄事した周蔵は、大藩には古来の忍者アヘンの伝統が残っていることを教わり、熊本藩に伝わる真田流の薬事書を与えられる。以後、周蔵は日本伝統のアヘンの知識を堀り起こすことを研究課題とする。

 大正元年12月、二個師団増設問題で単独上奏して陸相を辞任した上原勇作は、大正2年3月1日付で第三師団長に補されたが赴任せず、6月9日付で待命となる。周蔵が初収穫した70グラムのアヘンを上原に献上したのはその前日の6月8日であった。自宅療養で待命の立場にも関わらず、上原は今後も研究を続ける資金として大枚千円を与え、周蔵を驚かせた。

 その時、周蔵は加藤の教えにより、輸血には血液型分離法が必要なることを上原に具申する。大正3年4月、上原は陸軍教育総監として陸軍中央に復活した。2年目は重要な時機(ママ)に雨に遇い収穫率は落ちたが、4町歩で4百グラムを収穫した周蔵は、それを献上するために7月3日、代々木の教育総監部に上原総監を訪ねると、折しも山東駐在の内示を受けた陸軍兵学校教官・貴志弥次郎中佐を紹介された。その席で周蔵は、後ろ盾の加藤邑が6月に死んだため特務に就く自信を失ったとして、1年間の猶予を請い、今後は3~5年後の収量を7キロに増やすため、協力者・阪井の妻の実家の北海道で畑と栽培者を確保する所存を陳べた。

 上原は「量は少ないが、お前んの薬は非常に純度の高か出来である。三~五年後を考ふるなら、それは良かこつでごあん」と了承してくれた。つまり、周蔵のアヘンは、微量しか取れないが、モルフィン純度の極めて高い品種だったのである。

 大正4年になり、周蔵は津軽、五所川原、中里、金木と青森県の各地にケシ栽培の用地を確保し、アヘン生産を指導するが、当地では古くからケシを栽培しており、津軽という品種もあった。しかし周蔵の栽培品種は、熊本医専と細川藩しか知らない特殊のもので、前年の春、綾部の皇道大本の本部で渡辺ウメノから貰ったアヤタチ上田家秘伝の延命種が新たに加わる。二反長音蔵の(つまり後藤新平の)アヘン生産が量産を目的としたのに対し、周蔵の(つまり上原の)研究はアヘンの品質を目指したので、それぞれ向かう方向はかなり違っていたのである。

 大正4年7月10日、3年目の収穫を届けに上京した周蔵に、上原は鎌田なる人物を紹介した。満鉄奉天公所次長・鎌田弥助で、上原が満鉄に送り込んでいた腹心であった。そのまま、千葉一宮の上原別邸に招かれた周蔵は、正式軍属として陸軍に勤める気はないかと問われ、自分は「草」に決めていることを即答した。上原からは、本日を以て陸軍特務とする。自分の目の黒いうちは上原勇作付特務で良かが「草」は世には出られんぞ、と念を押された。ここで周蔵は、ようやく上原勇作の本音を知った。

 「アヘンは軍の勝敗を左右する重大な物質である。それも極秘物質である。現在は支那・インド・朝鮮にその供給を頼らねばならず、いざという時に、生産地に裏切られたら敗囚になる。そこで陸軍はアヘンの自給体制が必要である」との説明を受けたのである。

 大正3(1914)年7月に欧州大戦が始まり、翌8月に日本もドイツに宣戦した。貴志中佐の山東派遣は大戦に備えたもので、貴志中佐は単身ドイツ軍と戦い偉勲を挙げる。日本軍は11月に山東半島を占領して軍政を施行した。日露戦争から戦争の形態が決戦型から持久戦型に変わり、飛躍的に増大した火薬の使用により将兵の負傷が激増した。鎮痛・治療に用いるモルフィンの原料たるアヘンは、火薬にもまして必要不可欠の軍用物資となったが、欧州大戦が始まるや生産地からの輸入がストップし、日本軍と医療界を困惑させた。

 つまり、後藤新平流の台湾民政・財政上の観点からではなく、軍用物資としてのケシの国内確保が喫緊の課題となったのである。陸相に就いた大正元年の時点で、上原勇作が欧州大戦の勃発とアヘン需要の激増を予想し得たのは、在仏ワンワールドからの秘密の示唆と見て間違いない。ワンワールドからの指示により、陸軍独自のアヘン確保を決めた上原は、調査のために吉薗周蔵を起用し、ケシ栽培とアヘン試作を命じる一方、私立熊本医専に麻薬研究科の設置を命じてアヘン研究の根拠とし、帝大農学士・戸田二郎を派遣した。さらに周蔵を支援するため、函館開発で有名な若松忠次郎に頼み、忠次郎の片腕で実子分の若松安太郎を周蔵のコーチとして付けた。若松忠次郎は北海道開拓使・黒田清隆の側近で、「屯田兵の父」永山武四郎中将とも親しく、北海道財界で名を成した後、東京で不動産を買い込んで財閥となった。

 安太郎は本名を堺誠太郎といい、青森県下北郡大畑港の回船業・堺屋甚兵衛の七代目で、樺太・沿海州漁業で知られた島田商会の妹を妻として、島田商会支配人を表看板としていた。元来海軍の下働きを受けていたが、日露戦争時に陸軍とも関係を生じたので、陸軍での名前を若松安太郎としたのである。大正4年2月に陸軍大将に進級した上原は、12月17日に陸軍参謀総長に就き、以後8年もの間、日本陸軍のトップとして君臨する。

 大正4(1915)年7月を以て上原勇作付陸軍特務になった吉薗周蔵は、9月16日に上京、京橋区新栄町五の三の若松忠次郎の東京宅に転入し、牛込区新小川町の若松の持家にアジトを設けた。
輸血には血液型分離法を必要とする旨の大正3年6月8日の具申を採用した上原は、大正5年に周蔵を欧州に派遣することに決めた。
周蔵は渡航準備として帝大医学部教授・呉秀三の講義を受け、英語をも習った後、旅券に久原鉱業技師・武田内蔵丞?の名を借りたのは、鉱山開発の土木部門を視察する名目である。周蔵は、久原鉱業技師・遠藤某の名を借りた陸軍予備少佐・石光真清に護られて、シドニーから南アメリカ沿岸を回り、地球を一周して大正5年10月26日ウィーンに至る。

 台湾総督・明石元二郎から予め、日露戦争当時、明石が欧州に張りめぐらした諜報網に対する紹介状を貰っていた周蔵は、そのルートで下宿を数ヶ所転々とし、やがて知り合った画家エゴン・シーレの従兄弟で医学生のフエビュール・シーレを通じて、ウィーン大学医学部のラントシュナィダー教室に出入りすることが出来た。5千円の対価を払って血液型分離法の資料を見せてもらい、大正6年3月18日までに全部をドイツ語で写し取った周蔵は、大正5年6月に帰朝した。

 上原は喜び、呉秀三ほか額田兄弟を始め数人の陸軍軍医に報告せしめた。こうして、本邦血液型分離の発端は吉薗周蔵が成したのだが、医者がなし遂げなかったことを恥辱と考える日本医学界は、面子のため、今もこれを秘しているという。

 明石が日露戦役時に張った日本陸軍の諜報網は、上原勇作がフランス留学の際に加入した在欧ワンワールドが協力したもので、見方を変えれば、ワンワールド諜報部門の下部機関でもある。
上原の陸相時代に陸軍軍医総監に就いた藤田嗣章は、元台湾総督府陸軍軍医部長で、第五師団軍医部長を経て日露戦争時には第四軍軍医部長であった。野津道貫が司令官の第四軍は参謀長が上原で、この両人が懇意なのは当然である。
上原は藤田の次男・嗣治の才幹に注目していた。兄・嗣雄は東京帝大法学部卒の軍事法制学者で後に陸犬教授となるが、嗣治は次男で明治19(1886)年、東京市牛込区新小川町に生まれた。ここに後年、周蔵がアジトを構えたのは奇縁である。
父の勤務の関係で、明治21年には熊本に移転、熊本尋常師範附属小学校に入学した。小学校の先輩に石光真清がいるのも奇縁である。
やがて家族は東京に戻り、東京高等師範附属小学校へ転入、明治38(1905)年東京高師附属中学校を卒業し東京美術学校に入るが、西洋画科主任・黒田清輝にその画風を認められず、明治43年に卒業した後、文展に応募するも3年続けて落選。遂に渡仏を決意して大正2(1913)年8月、パリに着いた。時に26歳であった。

 後年パリを根城に上原の「草」として活躍する藤田嗣治は、佐伯祐三の場合とよく似ている。西本願寺系寺院の次男の祐三は秀才校の北野中学に合格して大谷光端師に見込まれ、本願寺の「草」としてすでに中学時代に実績があった。光端師の意向で、将来画家を「表看板」とすべく東京美術学校に入れることになったが、美校は海軍の管轄で黒田清輝が牛耳っていたから光瑞師も力及ばず、上原勇作に海軍工作を頼んだ。

 上原は海軍の総帥・山本権兵衛への工作を周蔵に命じたが、周蔵のコーチ役・堺誠太郎が権兵衛に道を持っており、その筋で佐伯を美校へ裏口入学させることができた。
後年、周蔵は佐伯夫妻をフランスに留学させた時、フランスで佐伯夫妻を引き受けたのが、周蔵が文通で知っていた藤田嗣治である。北野に劣らない秀才校の高師附属中学に学び、美校も自力で入った才能に目をつけていた上原は美校を出て3年も無職の嗣治に手を延ばして渡仏させたと見てよい。

 留学当初から「草」であった藤田は、パリで上原の諜報網に加わった。大正5年渡欧した周蔵は、明石から渡された手紙を相手に渡すだけで次の相手を指示され、次々と辿って自然にウィーンに入った。周蔵はその時には藤田に遇わなかったが、上原の諜報網の存在を察知し、「閣下はフランスに相当草を張っている」と記している。それは同行した石光の動きから察したものと思われ、石光はこの時おそらくパリで藤田に遇っていたものであろう。

  ●「疑史」 第52回 上原勇作(4)  <了>。 

    

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