カウンター 読書日記 ●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (5)。
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●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (5)。
 ●次に、『評伝 北一輝』から引用・紹介していく。 
 
 ★ Ⅲ・中国ナショナリズムのただなかへ
   第7章 『日本改造法案大綱』 

 
 ・・・
 北と大川の「喧嘩」については、後にふれよう。この文章には、北に対する大川の親愛感が横溢している。それは、北が刑死してから16年も時がたっている懐かしさもあろうが、それ以上に猶存社での北との蜜月時代が活気もあり、楽しさもあった事実として、かれの記憶に刻まれていた事実を示していよう。

 この蜜月には、気性の激しい大川と北のあいだに、「天神さん」とよばれた満川亀太郎が緩衡帯として介在していたことも大きく役立っていた。老壮会でも猶存社でも満川はほとんど世話役として、組織をまとめる立場にいた。かれは大正元年1月に大日本社をやめ、猶存社の運動に専念していたのである。かれの生活費は、東洋大学教授をつとめて捻出していた。

 猶存社は、国家改造運動に情熱を傾ける人びとの梁山泊の観を呈すようになった。そこに集まってくる人びとの名を紹介する意味もふくめて、このころの猶存社の活気を『三国干渉以後』から写してみたい。

 猶存社には多くの同志が出入しだした。大川君が沼波瓊音氏(武夫。一高教授。国文学者、俳人として有名だが、後述する宮内省怪文書事件では北のところに三千円を運んだー引用者注)や、鹿子木員信(かのこぎかずのぶ)氏(ドイツ哲学者、海軍機関学校卒で慶応義塾教授-同)、島野三郎君(満鉄調査部員。ロシア語に精通し、北から「シマノフ」のアザナをつけられた-同)等を伴ふて来た。満洲建国に重要な役割を演じた笠木良明君や、今満洲国の要職に就いてゐる皆川豊治、中野琥逸、綾川武治諸君とも知り合った。
 北君の旧友たる清藤幸七郎氏や、西川光次郎氏も来訪された。中にも異彩を放ってゐたのは宮崎民蔵翁であった。滔天の兄に当るところから、猶存社の若者は皆「あんぢやもんさん」と呼んだ。悪戯盛りなのが、「妙法蓮華経アンジヤボン第二十」など、襖の蔭から独り言を云ってゐた。
 渥美勝氏(桃太郎主義者。『日本の宣言』の著者-同)も殆ど毎日のようにやって来た。「そら神さんが」と言ふ間もなく、氏は汗を拭ひ拭ひ階段を上って来た。堀保子さん(太杉宋の最初の妻-同)や権藤誠子女史(権藤成卿の妹-同)もよく見へた。岩田君が顔芸が巧みで、殊に権藤女史の真似をするときには一同腹をかゝへて笑った。
 猶存社には後に抹殺社を創めた角田清彦対等の労働運動者もやって来てゐた。

 大本教の★出口王仁三郎なども訪ねてきた。とにかく、多士済々で、猶存社の思想的性格は満川のいうように「革命主義、国家主義で、而して民族主義であ」る、という大ざっぱなものであった。そのため、草創期にあっては「まるでエタイの知れぬ結社として怪しまれ且つ恐れられたのである」。

 当然、活動費がどこから出ているか、という穿鑿などもおこなわれ、ロシアから金が出ているなどと噂されたこともあった。・・・<略>・・・P224~5

 *************

 ・・・実際、かれ(北一輝)が秘密出版した『国家改造案原理大綱』は、そこここに波紋を描きはじめていた。もちろん、47部しか刷られず、それも要路の人びとに送られたものが大半だったが、にもかかわらず一方では、筆写というかたちで秘かにその波紋をひろげていったのだった。

 たとえば、昭和16年の東条内閣の商工大臣で、戦後に首相になった
岸信介である。かれはこのころ東京帝大の学生で、「天皇主権説」を唱えていた憲法学者・上杉慎吉の主宰する木曜会のメンバーであり、上杉から学校に残ってその学問的後継者となってくれ、とたのまれていた。しかし、その「極端なる国粋主義や古陋な保守主義を無条件に受入れることが出来なかった」ため、大学生のとき、猶存社をたずねてきたのである。

 それもこれも、北の『国家改造案原理大綱』に魅せられたことがきっかけである。岸は『我が青春--生い立ちの記/思い出の記』(広済堂、昭和58年刊)という半自叙伝に、次のように書いている。

 ・・・北一輝氏の爛々たる隻眼ににらまれ、魁偉なるその風貌と烈々たる革命家的気愧とには完全に圧服されて了った。その頃同氏の書いた『日本改造法案』(ママ)なる秘密出版を徹夜して読み、且つこれを写したことがある。この北氏は大学時代に私に最も深い印象を与えた一人であった。而して北氏は後に二・二六事件の首謀者の一人として遂に銃殺されたのであるが、辛亥革命以来一生を通じて革命家として終始した。恐らくは後に輩出した右翼の連中とは、その人物識見に於て到底同日に論ずることの出来ぬものであった。『日本改造法案』は最初社会主義者であった同氏の国家社会主義的な考えを中心として、一大革新を我が国体と結びつけたもので、当時の私の考えて居た所と極めて近く、組織的に具体的に実行方策を持ったものであった。


 大学生の岸信介は、「天皇主権説」の上杉慎吉の「人間的な一種の魅力」にはひきつけられていたが、それよりも「天皇機関説」に立った北一輝の「組織的」、「具体的」な革命的国家構想にじぷんと近いものを感じとったのである。もちろん、そのカリスマ的な革命家像にも「圧服され」たわけであるが・・・。

 なお、このとき岸信介がたずねていった猶存社が牛込南町のものか、千駄ケ谷九〇二番地の広大な邸宅かは、はっきりしない。・・・<略>・・・P227~8

 **************

・・・北の女性観および婦人労働観を、一言でいえば-女性は「男子ト等シキ牛馬ノ労働」などに携わるべきではない。天がなぜ、かの女らの「心身」をあのように「優美繊弱」に作ったかを思え、というところだろう。きわめてロマンチックな女性観ともいえようが、これは当時の「良妻賢母」思想とも重なりつつも、それ以上に女性崇拝的である。

 こういった女性観は、この大正9年8、9月ごろに、東方に偉人ありという啓示をうけて上京し、北一輝に会った大本教の出口王仁三郎の女性観によく似ている。北は二・二六事件の取調べのさい、大本教については「邪教」であるという批評をのべているが、大正の同じころ「大正維新」をいっていることといい、世界共通語にエスペラント語を採用しようとしたことといい、発想がどことなく似ている。それは、日本的カリスマがその超能力の根源を、天皇=女神=女性=生む力=自然の豊饒力、に求めるがゆえの近似性であろうか。

 出口王仁三郎が昭和4年に発表した「おんなの世界」という寓話的エッセイには、かれの女性観、ひいては男性についての見方がきわめてよく出ている。そしてそれは、北のロマンチックな女性観を思い出させないでもない。

 ・・・神は天地をつくり、樹草を生み、つぎに一人の女をつくったという。つくられた女は、雲のような花に彩られた周囲の蒼巒(そうらん、青い峰-引用者注)を眺め、花のような雲のちらばった蒼空を
あおいで、おぼえず感嘆の声を放ち、天地の壮観を讃美した。
 天も地もなんとして美しいことよ、神さま、私のためによくもまあこんな清らかな住所をつくってくださいました、といって涙ぐましくなるほど神さまに感謝を捧げていたが、たちまち躍りあがって叫んだ。
 それは、その傍なる沼の清らかな水に映じた自分の艶麗な姿を見たからだ。いや山の曲線美も清らかだが、自分の肌や面の美しさにくらべては問題でない。なるほど花も見事は見事だが、自分の手先の美しさとは比較にならぬ。いかに川水のせせらぎがさわやかでも、所詮、自分の声の美しさ、さわやかさにはおよばない。

 出口王仁三郎の女性讃美は、女性じしんが自らの美しさを称えるという形をとっているが、かれは男-といっても本性は女の「変性女子」と自己規定している-なのである。それゆえ、その女性讃美には、かれの女性への本質的憧れが根底にあったようにおもわれる。かれは髪を切らず、長く長く伸ばし、朝起きて最初にすることはその長髪をくしけずることであった。

 では、その美しい女性から見て、男とは何であったか。「おんなの世界」では、女は神さまにたのんで、じぶんの美しさを「讃めたたえてくれる」小鳥、「まねてくれる」オウムと猿、「心地よさを与えてくれる」蛇、「守護してくれる」獅子をつくってもらう。しかし、それでも満足できない。わがままな女は、なおも神さまにたのんで、男をつくってもらうのだ。

 私か怒ればなだめてくれ、泣けば慰めてくれ、疲るればいたわってくれ、どんな無理難題をいってもよろこんで聞いてくれ、私のいうことすることをまねてくれ、一生私の玩具(おもちゃ)となって私を養ってくれ、守護してくれ、たとえ私がなぶり殺しにしようとも満足して死んでくれるものをつくっていただきたい、と願ったので、神さまは女の頤使(いし、アゴで使うこと)に甘んずる、そして玩具になる男というものをつくってやられた。

 ここには、出口王仁三郎の男性観、すなわち男は美しい女のために、ひたすら額に汗して働けばよいのだ、という発想がよく出ている。北一輝の考えも、これに近いのである。・・・<略>・・・

 *************

 
 『評伝北一輝』  Ⅴ・北一輝伝説 より。

 Ⅱ 北一輝伝説
 第2章 虚実いり乱れて

 ★朝鮮人にとっての幻想

 
 ・・・大学生の岸信介が猶存社に北をたずねたころ、北のもとには『支那革命外史』や『日本改造法案大綱』を読んで感銘をうけた人たちがぽつりぽつりと訪れるようになっていた。たとえば、民本主義者で東京帝大教授の吉野作造、のち『彦一頓智ばなし』(昭和10~16年)を書く小川勝清、のち『丹下左膳』(昭和8年)を書く林不忘(長谷川海太郎)の父親・長谷川淑夫(清)、大本教の出口王仁三郎、それに大正15年に大逆事件で死刑判決をうける朴烈といった人物である。

 吉野作造は大正5年のころ、北から『支那革命外史』を贈られ、その「見識の高邁なるに敬服し」で、みずから敬意を表するため、当時青山にあった北家を訪問している。このときの吉野の北評を記しておくと、「あの人の頭は無類に鋭いですね、説の善悪は別として鋭い事は無類に鋭いですね、其鋭さに於ては、日本人とは思われない、外国に行っても一寸珍しいと曰(い)っても良いですよ。先般出した支那革命及日本外交革命(『支那革命外史』の原題-引用者松本注)は、前半は非常に立派なもので近来の名論と思ったので国家学会で批評しようと思ったが、後半が私と意見が違って居りますので差控えました」となる。北を訪問した帝大教授の吉野作造と学生の岸信介とがたまたま出会い、『支那革命外史』あるいは『日本改造法案大綱』をめぐって議論をするなどというのは、極めて刺激的な空想である。

 小山勝清は、大正なかごろ高尾平兵衛(白色テロに倒れた)や茂木久平といった社会主義グループと近しく、謄写版で秘密出版された『国家改造案原理大綱』には思想的違和感をおぼえたものの、その革命的情熱、人間的な優しさ温かさに魅かれて、交際を重ねている。小山は昭和になって北から南洋産の大きな貝一小川平吉鉄道大臣が北からもらった西瓜と同じく、南大東島の産か-をもらっているらしい。高田宏は小山勝清の評伝『われ山に帰る』(昭和57年刊)に、二・二六事件のときの小山と妻玉枝との会話を、次のように書いている。

 
「北さんとおれとは、考えが別だからな」
「でも、あんないい人、あなたのお友だちのなかでもとびきり・・・」
玉枝は、すこし前に北が持ってきた南洋産の大きな貝に目をやっていた。


 ここに「すこし前」とあるのは、二・二六事件という大変事を人が回想するとき、「そういえばあの少しまえ」というかたちで心理的な時間短縮がなされるパターンといってよいだろう。林不忘(長谷川海太郎)の未亡人・和子などは、昭和11年2月25日、つまり二・二六の前日、北と夫人のすず子が大きな黒い自動車にのって鎌倉の家を訪れ、「しばらく焼香にこれないからと、ひとかかえのお線香と燭台を置いていった」(室謙二『踊る地平線』昭和60年刊)と回想しているほどだ。

 亡き林不忘に対する焼香の日付が昭和11年2月25日などということは到底ありえないが、その1ヵ月ほどまえの北の『霊告日記』には、妻の夢として次のように林不忘に関することが記述されている。

丹下左膳亡キ後ノ家ノ事。
男三人在リ、妻何モカモ大工ニヨイ様ニサレテ居ルト告グル夢

 とすると、この日の前後に北がすず子と一緒に林不忘なきあと(昭和10年6月に急死)の鎌倉の家へ焼香にいった可能性が強い。林不亡の父親は、長谷川淑夫といい、これよりはるか昔、佐渡中学での北の英語・西洋史の教師であった。長谷川淑夫の長男が海太郎(林不亡・牧逸馬・谷譲次)であり、四男が作家の長谷川四郎である。四郎の息子・長谷川元吉は、数年まえ吉田喜重監督の二・二六事件と北一輝をモデルにした映画『戒厳令』のカメラを担当した。めぐりめぐって、というところだろう。ちなみに、海太郎のペンネームの一つ林不忘は、父親の淑夫が林(儀作―若き北一輝のライバル。長谷川淑夫とともに佐渡から北海道に渡り、長谷川の新聞事業および生活を助けた)の恩を忘れるな、とつねづねいっていたことに由来している。

 長谷川淑夫は北海道から上京すると、よく北一輝のもとを訪れたが、あるときはそこから帰ってくるなり「北の思想はよくない」、とぶりぶりしていた。大川周明の行地社の社友となった長谷川とすると、奔放な浪人の北より学者肌の大川のほうが気に入っていたのかもしれない。北が敵視した牧野伸顕でも、大川周明の「真面目」さを気に入っていた(『牧野伸顕日記』)。大川も長谷川も、学者としての吉野作造あるいはその民本主義を高く評価していた。大川周明の弟子である金内良輔の「北・大川・満川三先主」には長谷川淑夫が「支耶事変頃よく上京して、笠木良明や僕のところを訪ねて来た。息子(林不忘)の資料にと剣道関係の『大阿記』のことを笠木君に質ねてくれと頼まれたこともある」と記されている。

 北は中里介山の『大菩薩峠』も好きだった-嶋野三郎に「大変おもしろいから読め」と手渡している-が、林不忘の『丹下左膳』も愛読していたらしく、昭和10年1月1日付の年賀状に「謹賀新年/新年に際し丹下左膳の続画なきは寂しく存候/北一輝」と書き送っているほどだ。北と中里介山、林不忘とのあいだにどのくらい深い交流があったのかは不明だが、かれらの大衆小説におけるヒーローがともに無明(失明)の机龍之肋、片眼片腕の丹下左膳であるというのは、北が隻眼であることと微妙な符合をかたちづくっているようにもおもわれる。

 ところで、大本教の出ロ王仁三郎については、北の最初の評伝である田中惣五郎の『北一輝-日本的ファシストの象徴』(昭和34年刊)に、「大本教主・出口王仁三郎が東京に片目の偉人がいるというお筆先が出たので、大川周明とあってみたが満足せず、次いで北と会見したところ、出口はガタガタと慄えて北に圧服され、北の偉大なることをみとめた」と記されている。これは北吉(実弟)の戦後の談話によっていて、当然身びいきがあるだろう。ただ、出口が大川にあって満足せず北にあって慄えた、というのは、カリスマがカリスマに出会って慄えたという意味で、ある真実味をもっているような気がする。

 北自身は二・二六の『警視庁聴取書』で、大正8、9年に出口王仁三郎と会見したときのことを、次のように語っている。

 
 ・・・私、大川周明、満川亀太郎の三人で始めて同人(王人三郎)と会ひました。大川は私と出口との会談を見て、只一回で出口は下劣な取るに足らぬやつであると断定しまして、私等に向っても再び会見の必要なしと申した位で、私も変な姿の様な印象丈けを残して其の後は心に止めない様にして居りました。自分の信仰に因る、神秘的経験から見ますと、大本教は神ではなくて相当通力を以て居る邪霊である事が判りました。・・・

 ここで北が大本教のことを「相当通力を以て居る邪霊」とよんでいるのは、大本教がこの二・二六事件前年の昭和10年12月に第二次不敬事件をデッチあげられ大弾圧をこうむっていることを配慮してのものだろう。「首魁」の北がこの大本教と関わりがあるとなっては、二・二六も不敬事件に発展させられる怖れがあるからだ。権力がこの二つの事件を結びつけて考えようとしていることは、大本教の側から西田税の名がでている事実からして当然であった。大本教はこの事件によって出口以下の幹部が逮捕され、本部が破壊されたばかりではなく、二・二六直後の昭和11年3月に「結社禁止」になったのである。 
   

 いや、北と関わりのある人物についてのエピソードをこう長く書くつもりではなかった。わたしが書きたかったのは、大正15年3月に妻の金子ふみ子とともに大逆罪で死刑判決(のち無期に減刑)をうけた朴烈のほうなのだ。朴烈=ぼくれつ・パクヨル(朴準植)は朝鮮慶尚北道の生まれで、大正8年に東京にきた。大杉栄らアナーキストと交わって、朝鮮独立の運動に尽力している。大正11年ごろには、運動のため海外から爆弾を輸入しようと試みたりもしている。大正12年9月、関東大震災のさい保護検束され、訊問されているうちに大逆事件の陰謀を自供したということになっている。大正13年3月に死刑判決をうけたが、4月5日に恩赦によって無期懲役に減刑された。このあと、朴烈とふみ子が千葉と栃木とに別々に服役するさい、拘置所で一緒の写真がとられ、これによって北は西田とともに「朴烈・文子怪写真事件」を作成した。

 ところで、朴烈は関東大震災のおり、朝鮮人狩りを逃れるため北一輝に匿ってもらっている。しかし、北の家は大正8年の帰国(東京への帰着は大正9年はじめ)以来つねに警察の監視するところとなっていたから、ここに長居はできず、北から「早くにげろ」といわれて、20円を与えられている。

 朴烈はなぜ北のところに逃げこんだのか。小山勝清と同じように、北の人間的優しさ、温かさに魅かれたこともむろんあったろう。人はその危難にさいして、思想を同じくしようとも人間的に信頼できないもののところに逃げ込んだりはしない。しかし、人間的な信頼だけだったろうか。当時、朝鮮は日本の植民地とされていた。その朝鮮の独立を希求する人びとにとって、北の『日本改造法案大綱』は朝鮮の独立問題をまがりなりにも採りあげている、ほとんど唯一の思想であった。そのことが朴烈の北に対する人間的信頼の根底にあったのではないか。

 もちろん、北といえども、そこで朝鮮の独立を公言していたわけではない。ただ、『日本改造法案大綱』の一章に、わざわざ巻七「朝鮮其他現在及ビ将来ノ領土ノ改造方針」を設け、そこにこう書いていた。

 ・・・朝鮮ノ郡県制。朝鮮ヲ日本内地ト同一ナル行政法ノ下二置ク。朝鮮ハ日本ノ属邦二非ズ、又日本人ノ植民地二非ズ。日韓合併ノ本旨二照シテ日本帝国ノー部タリ、一行政区タル大本ヲ明ラカニス。(傍点-引用者)

 つまり、北は日韓の「合併」という本来的な趣旨に照らして、この合併は、韓国併合でも併呑でもなく、対等の合併である、と主張するのだ。対等の合併であれば、むろん、朝鮮は日本の「属邦二非ズ」、また日本人の「植民地二非ズ」ということになる。ここには、朝鮮民族と日本民族が何ら優劣関係にないことが明らかにされている。明治・大正のころの社会主義者(たとえば幸徳秋水)が中国人、インド人とは対等に交際したが、朝鮮人は植民地人として劣等視していたのと、歴然たる違いである。

 大東亜戦争の終結後、朝鮮は解放され、呂運亨が副大統領に選ばれた。呂はアメリカに亡命していた李承晩とちがって、朝鮮で地下独立運動をつづけていた朝鮮独立党の指導者だった。かれは、一方で日本の近衛文麿、宇垣一成、大川周明らに接触し、他方で中国共産党の拠点、延安に潜行してもいる。かれは戦後、副大統領に選ばれたが、まもなく暗殺されてしまった。

 この呂運亨と北一輝との会見説がある。わたしがその真偽について朝鮮史家の安宇植から質問されたのは、昭和52年のことだったろう。そのときわたしは答える材料をもたなかった。あとで調べてみて、かれらが会見したという事実は見付からないものの、北が大正8年末に上海から帰国した日付と、呂が上海から日本に来、東京のステーション・ホテルで府下の新聞記者を集めて「独立宣言」を発表した日付とが、あまりに合いすぎていることに気づいた。ただ、事実問題とすれば、かれらが東京で会っている可能性はなく、会っていたとすれば上海でという可能性が強い。

 そういった事実関係とは別に、朝鮮人のなかには戦前の日本で朝鮮独立問題をまともに考えてくれたのは、ただ北一輝がいただけだったという幻想があるようにおもわれる。そしてそれは、北が二・二六で刑死してしまうことによって、「あの人が生きていれば朝鮮の独立は・・・」という幻想をよりふくらませたような気がするのだ。これは、朴烈が関東大震災のおり匿われたという事実や、『日本改造法案大綱』の巻七の記述が、底にあるのにちがいない。

 自身のうちに何分の1かの朝鮮民族の血をひく立原正秋は、昭和40年に発表した『剣ケ埼』に、日朝混血の主人公を描いた。その主人公石見次郎の父親は、日本の陸軍士官学校を卒業した日朝混血の李慶孝という朝鮮軍人で、戦後、日本に育った主人公をたずねて来てじぶんの半生を語り明かすのだが、その話のなかに次のような条りがある。

 ・・・私は陸士(陸軍士官学校)時代に、中国人の級友を通じてその西田(税)にあった。陸士三十四期生で、広島の師団に籍をおいていたが、病気をして軍隊から退いた。その西田が、私を北一輝のもとにつれて行ってくれた。大正十五年の秋だった。私はそれまで、西田にすすめられ、北の〈国体論〉〈日本改造法案大綱〉を読んでいたが、とりわけ後者のなかの一節、〈朝鮮其ノ他現在及将来ノ領土ノ改造方針〉にかなり惹かれていた。私が日本人として生きるには限界があったが、朝鮮人として生きるなら限界がなかった。(中略)北という男は、ごろつきのような一面もあり、狡猾な面もあった。
 しかし、彼の朝鮮に関する一文は、なお私のなかで生きていた。純粋の朝鮮人なら、ついて行けないその一文に、私ならついて行けると思った。私の混血がそうさせた。・・・

 この話のなかにある「朝鮮其ノ他現在及将来ノ領土ノ改造方針」とは、わたしがさきに引用したものにほかならない。立原正秋は小説のなかの登場人物に北の『日本改造法案大綱』のその条項を語らせることで、日本帝国主義の支配下におかれた朝鮮人の独立願望と、それが北一輝によって引き取られるかもしれないという幻想の屈折した道すじを示した。それは、立原のなかの朝鮮民族の血が幻想した、『日本改造法案大綱』の隠れた読みかただった。

 朝鮮民族のこういう屈折した心理は、戦後40年たった時点での在日朝鮮人にも徴妙に引き継がれているらしい。数年まえにわたしが会った在日朝鮮人は、当時心配されていた東京大地震にふれながら、「また関東大震災のような出来ごとがおきたら、じぶんは北一輝のような人物のところに隠れますね」と語ったものである。「もちろん、現在にもまだ北一鮮のような人物がいると仮定しての話ですがね・・・」という、註釈つきではあったが。

 『評伝 北一輝』より  <了>。 
 

 ★月海黄樹 『龍宮神示』に戻って 、第五章 から始めます。
 

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