カウンター 読書日記 ●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (4)。
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (4)。
 ●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (4)。
 

 村上「解説」の以降の記述は、既に紹介した記事とダブルので、略すが、
 次のことだけは、確認しておきたい。
  
  
 「解説」の著者・村上はここで、第一次(1921年2月)~第二次弾圧(1935年12月8日)について記しながら、王仁三郎と北一輝の「二・二六事件」の資金25万円提供をめぐる会談(北一輝サイドからの訪問-12月6日とされる。)については言及されていない。

 序に記しておくと、★鹿島・『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎』
 (1997年1月20日、自由国民社)の巻末に<解説-万物流転>(松重正・地方史研究家)として次のような記述があるので、紹介しておく。

 ***************

 ・・・(南朝支持の被差別部落出身の青年たちは、奇兵隊に集合、〔維新〕戦争では見事な戦いぶりを見せたが、明治2年奇兵隊は解散を命じられ、彼らの抗議も無視・圧殺された。)・・・


 「 かくて部落解放の夢は露と消え、あわれ荊冠旗は泥にまみれたのである。・・・

 しかし、その怨念の火はなお消えず、・・<略>・・

 昭和10(1935)年、陸軍の皇道、統制両派の対立が激化して不穏な状況となる。

 同年末★、石山山頂の河村某の家で催す茶会の客であると称し、田布施駅で下車した

 人々が神道天行居の前を通って三々五々登ってきた。

 この人たちはそれぞれ変装していたが、

 実は北一輝、陸軍大将・真崎甚三郎ほか陸軍皇道派の青年将校であって、

 茶会の目的は、昭和維新のクーデター計画謀議のためであった。

 この時、将官がもう一人いたといわれているが定かではない。

 昭和11(1936)年2月、雪の降る帝都を血に染めて、二・二六事件が起こる。

 ・・・以下略・・・」
 
  
 **************

 ●<大本教・出口王仁三郎>=<北一輝>=<二・二六事件>という視点で、続ける。
  
 ①、『出口王仁三郎の生涯』 百瀬明治(PHP研究所 1991年)

 ②、『評伝 北一輝』全5巻 松本健一(2004年1~9月) の2著・6冊から。
 
  
 **************

 ●先ず、百瀬明治・『出口王仁三郎の生涯』の当該部の引用・紹介から始める。

 *************
 
  
 ★第8章 燃えつきる日

 ★第二次弾圧事件はじまる 

  
 第一次弾圧事件から14年たった昭和10年12月8日、大本はふたたび警官隊の襲撃を受け、弾圧の深淵にたたきこまれた。

 この第二次弾圧事件が生じた原因については、いくつかの見方がある。

 その第一としては、大本が人類愛善運動や昭和神聖会の活動を通し、宗教面のみならず社会面でも広い影響力を備えるようになったことをあげることができるであろう。そのころ、包容力のある王仁三郎の人間性に惹かれ、思想・信条を異にしながらも尖鋭意見をもつ人々が亀岡を訪れては天恩郷に草履(わらじ)をぬぎ、教団が危険人物の巣窟のような観を呈していたのも、当局の警戒感を高めた。

 また、昭和神聖会の活動目標に農村救済を掲げたはよいものの、機関紙などで「農村未曾有の窮状 現代の不祥事なり 天日をおおう暗愚の為政者」といった調子で、政府の無策ぶりを容赦なく批判したことも、支配層の感情をいたく剌激した。

 そこへもってきて、大本を快く思わぬ人々の誣告が、いっそう大本の立場を悪くした。

 事件発生よりも7年前の昭和3年3月3日、王仁三郎は綾部・天王平の開祖なおの奥津城(おくつき)に参拝し、ついで五六七(みろく)殿で「みろく大祭」をとり行なった。神事が終わったあと、王仁三郎は次の一首を朗々と詠む。

  万代の 常世の闇も 明けはなれ 
  みろく三会の 暁 清し

 時に王仁三郎は、満の56歳7ヵ月(5・6・7)。王仁三郎としてはこの日を境に、弥勒菩薩の心境でこれまでにもまして立替、立直しに邁進する決意を披瀝したつもりであった。

 ところが、この教団内の行事がいつの間にか大化けする。王仁三郎がみろく大祭を挙行した真の目的は国体を変革し、万世一系の天皇制を転覆することにあった、と取沙汰されるようになるのだ。

 王仁三郎と面識のあった右翼の大物に、北一輝がいる。彼は、二・二六事件の黒幕として警察に逮捕されたあと、大本との関係を問われ、こう供述している。

「大本教は神ではなくて相当通力を以て居る邪霊である事が判りました。殊に皇室に対して呪咀するものと私は数年前から看破しております」
「大本の建替へ、建直しと云ふ事は国家を極度の混乱に陥入れ畏くも皇室をも滅ぼさんとする邪霊の大活動と見て居ります」

 北一輝は日蓮宗に深く帰依し、陸軍の青年将校からカリスマと仰がれた人物である。だが、同じカリスマでも北は理論派だったから、霊力を云々する王仁三郎とはよほど肌があわなかったのであろう。それにしても、王仁三郎を「邪霊」と決めつける北の口調は、何とも手厳しい。それはまた、当時の反大本派のインテリ層を代表する王仁三郎観でもあったのであろう。(*ブロガー註:何ともナイーブな見解だが、この書、事実関係を見ていくには有益なので、引用を続ける。)

 しかし、当局が大本の第二次弾圧に踏み切った一番の狙いは、もっと別のところにあったようだ。

 当時の内務省警保局長・唐沢俊樹は、のちに『信濃往来』において、その辺の事情をこううち明けている。

「京都綾部の大本教本部というよりも、出口王仁三郎が右翼と気脈を通じてはたした役割は、けだし想像を絶するものがあった。澎湃たる右翼革命の蠢動が露骨化し、どうにも手におえぬ情勢になっており、大本教を通じて広く全国の信者からすくいあげた浄財の巨額が、出口の手から右翼に流れ、これが軍資金になって、右翼の勢力は燎原の火のように延びて、やがて手のつけようがなくなることはわかりきっている。そこで右翼弾圧のために、大本教手入れを断行することになったのである」

 唐沢のこの手記が事実を伝えているとすれば、大本と王仁三郎は右翼弾圧のための生贄とされたようなものだった、といってよい。

 しかも、唐沢は今回の手入れにあたり、「大本教を地上から抹殺する方針である」という、強硬な指令を発していた。

 その指令を受けた警官隊は、12月8日の未明を期して綾部・亀岡の両本部に襲いかかった。彼らは、大本の青年部隊の反撃に備え、腕に白布を巻いたり白だすきをかけたりして、同士討ちを防ぐ目印にしたという。あたかも、赤穂浪士の吉良邸討入りを思わせるような光景ではある。

 しかし、大本側は抵抗らしい抵抗をいっさいしなかった。

 警官隊は、亀岡に滞在中の(出口)日出麿を拘引し、綾部にいたその妻・直日を軟禁したあと、6日間にわたって徹底的な捜索を行ない、関係物件をことごとく押収した。

 王仁三郎はこのとき、亀岡にも綾部にもいなかった。島根の大祭に出席するため、3日前に亀岡天恩郷を発し、すみ夫人とともに松江に逗留しているところだった。

 だが、前々から王仁三郎の動静を内偵していた警察は、抜け目なく王仁三郎の所在を確認していた。

 それゆえ、島根県の特高課長の率いる86名の警官隊が松江別院に踏みこんだのも、亀岡や綾部の場合と同じく、12月8日の未明のことだった。当局が大本を一網打尽にし「抹殺」するのに、どれほど周到な配慮をめぐらせていたかがよくわかる。

 王仁三郎もむろん、警官に抗うようなことはしなかった。

  寝こみをば たたきおこされ しとやかに
  われは煙草を くゆらしにけり

 王仁三郎はそんな悠揚とした態度で布団に座り、警察官のなすがままにまかせた。

 王仁三郎の逮捕容疑は、治安維持法違反と不敬罪であった。この二つの容疑は、罪状ははっきりしないもののともかくも治安上好ましくない人物を当局が逮捕するのに用いた、伝家の宝刀のようなものであった。

 王仁三郎はいったん松江署に連行されたが、即日京都に護送となり、中立売警察署の留置場に収容された。警察側は、信者たちが王仁三郎奪還の挙に出ることを警戒し、武装警官を沿道に配置するなど、万全の警備態勢をしいた。

 警察の検挙の手は、綾部、亀岡および王仁三郎にとどまらず、全国の信者の上にも伸ばされた。そのため、事件の規模は第一次弾圧の数倍に膨れあがり、逮捕されたり取調べを受けた関係者の総数は、軽く千人を突破したという。


 ★裁判所で「赤ンベー」  

 
 王仁三郎をはじめ、逮捕された大本関係の主要人物の取調べは、京都地検が一括して担当した。その一方で、綾部・亀岡ほかの大本の諸施設の強制破壊が執行された。開祖なおの墓は掘り返されるわ、地上の建物はことごとく取壊し、爆破されるわで、官憲の破壊ぶりは実に徹底していた。亀岡の天恩郷などは、連日のようにダイナマイトの爆発音が響き、樹木や石段までがその犠牲となって、一帯はすっかり廃墟と化してしまった。

 まだ刑は確定せず、そもそも裁判すら始まっていなかったのだから、これは現代なら絶対許されない官憲の横暴といわなくてはならない。逆に言えば、「大本を地上から抹殺する」という官憲の意図は、それほど強固だったわけである。おまけに、官憲は神苑の破壊・撤去の費用をすべて王仁三郎に負担させるつもりであったというから、どこまでも念が入っている。

 さて、王仁三郎が正式に起訴されたのは、翌昭和11年3月13日のことだった。
 折しもその2週間ほど前、陸軍若手将校が国家改造を要求して武装決起した二・二六事件がおきている。彼らは、斎藤実内務大臣や高橋是清大蔵大臣らを殺し、警視庁や新聞社を襲い、国会議事堂を中心とする中央官庁街を占拠した。

 二・二六事件は、陸軍首脳が武力討伐の方針をかため、近衛師団ほか2万4千の兵を出動させたため、勃発から4日にして鎮圧されたが、首都を舞台にしたこの大規模な体制内反乱は、世間に騒然たる気配をかもし出さずにおかなかった。

しかも、彼ら若手将校が唱えた国家改造は、大本の立替、立直しに通じるニュアンスを含んでいる。それゆえ、二・二六事件は大本裁判にとっても軽視できない不利な作用を及ぼしたようである。

 はたして、大本に対する警察の取調べは峻烈をきわめ、容赦ない拷問を加えて自供を引き出そうとした。戦前の警察は、拷問に関してまったく罪悪感を抱かず、被疑者を自白に追いこむ正当な手段のように考えていたから、手を替え品を替えての責め苦には、さすがの王仁三郎も正気を失いかけたことがあった。

「いかに大怪物とはいえ、生身をもった人間だ。さすがの大ワニもついには白い腹をみせてノビてしまうのである。ところが、警官はワニがノビるとよってたかって(でっちあげの供述書用の)押印をとっていった、というのであるから、どだい話にもなににもなったものではない」(『巨人 出口王仁三郎』)

 精神、体躯ともに強靭な王仁三郎でさえこのありさまであるから、大本関係者のなかからは拷問に耐えかね、自殺・獄死・病死・発狂する者など、痛ましい犠牲者が相ついで出た。しかし、それにもかかわらず、改宗や転向を申し出る者はきわめて少なく、ほぼ9割が信仰を守り通した。戦前の警察の苛酷な拷問にさらされた団体のなかで、大本ほど非転向者の率が高かったのは他にないといわれる。信仰におけるこの粘り強い抵抗精神は、幕末・明治初年にかけて生じたいわゆる浦上崩れの隠れキリシタンの殉教精神を彷彿させるものがある。

拷問の数々は、主として警察に留置中に加えられ、予審の際にもくり返されることがあったらしい。
 予審というのは旧憲法に定められた制度で、被告事件を公判に付すべきか否かを決定するため、裁判所が主導する下調べの手続きをさす。だが、それによって作製された予審調書は、警察調書や検事調教書をなぞった内容のものが多く、しかも公判に際しては判決を左右する大きな効力を発揮した。

 王仁三郎ら関係者一同は、昭和12年12月からおよそ10ヵ月、予審判事の取調べを受けたすえ、いよいよ本裁判に付されることになった。
 このころ、表の世界では、大本を淫祠邪教、大逆不逞の怪教などと中傷するマスコミの大合唱が、またぞろまきおこっていた。なかには良心的な報道を行なう新聞もあったが、するとたちまち当局が圧力をかけてくる。そんなわけで、マスコミの集中砲火は第一次弾圧事件の際よりはるかに激しく、非難のオクターブも高かったので、一般市民のあいだにも大本に鉄槌を下すべしとの風潮が広まった。

 もっとも、事件の真相を見ぬいて諷刺する者もいないではなかった。ノンキ節で知られた石田一松もその1人である。だが、「京都でワニを檻に入れて、出口わからずもてあまし、・・・へへ、ノンキだねー」と歌いはじめた途端、一松はブタ箱への直行を余儀なくされた。

 大本と王仁三郎にかけられた嫌疑は、前述のように治安維持法違反と不敬罪だった。しかし、それはあくまで当局が大本を抹殺し、右翼を弾圧するためにでっちあげた□実であり、裏づけとなるべき実体はなかった。少なくとも、当局側が「大本教団は、尊厳無比のわが国体を転覆し、彼王仁三郎をわが大日本帝国の統治者たらしめんと企図しつつあった、不逞大逆の集団」だと声高に指弾したようなことは、大本の教義のどこを探しても記されてはいなかった。

 そのため、裁判ではもっぱら王仁三郎の『霊界物語』の内容が論議の対象となった。といっても、『霊界物語』は王仁三郎が自身の神秘体験をもとに、古今東西の霊界のありさまを物語風につづったものであるから、読みようによってはどうにでも読みとれる、茫漠とした二重底、三重底の構成をなしている。

 そのため、検察と弁護側の応酬はとかく噛みあわず、法廷は一種珍妙な宗教裁判の観を呈するにいたった。

 被告の王仁三郎も余裕綽綽たるもので、裁判官の尋問にワイ談をまじえて答えたり、あまり審理が退屈だと大げさに仮病を言いたてて裁判の続行を中止させたりした。その他、公判をめぐるいくつかのエピソードが伝えられているが、裁判所にとって王仁三郎はよほど扱いにくい被告だったようである。

 王仁三郎もそのことを自認し、「検事も判事もわしからみれば子供のようなものじゃ」とうそぶいていたそうだ。

 しかし、昭和15年2月29日に下った第一審の判決は、世人のだれもが予想した通り、きわめてきびしいものだった。被告とされた45人が全員有罪となり、懲役刑の宣告を受けたのである。
 王仁三郎が言い渡された刑は、むろんのことにもっとも重く、治安維持法違反と不敬罪を適用されての無期懲役だった。
 この宣告がなされたとき、王仁三郎は傍聴席のほうに顔をむけ、長い舌を出して「赤ンベー」をしたという。王仁三郎がどういうつもりでそんな態度をとったのかは、よくわからないが、蕭然と頭をさげて判決を聞くのが普通なのに、まったく意表をつく王仁三郎のこの「赤ンベー」事件は、ひとしきり法曹界の話題の種となったそうである。

  <続く>。                     
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/623-2909bd89



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。