カウンター 読書日記 ●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (3)。
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●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (3)。
 ●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (3)。

 次=『龍宮神示』第五章、第六章=に進む前に、
主に、『大本神諭 天の巻』(東洋文庫)の村上重良による巻末解説を参考にしながら、初期の出口直―王仁三郎―大本教を見ておく。
 
   
 *************

 出口直(ナオ*東洋文庫他では「ナオ」「なお」と記すが、ここでは「直」で通す。)の前半生は生活苦と家庭的不幸の連続であった。

 大飢饉下の天保7(1837)年、丹波国福知山の大工・桐山家に生まれた直は9歳で父を失い、住み込み奉公をつづけて、16歳で綾部に住む叔母・出口ユリの養女となった。

 18の歳に婿・四方豊助(のち出口政五郎、大工職)を迎えたが、酒好きのお人好しで浪費家の夫と子沢山が重なり、明治17(1884)年一家は遂に破産状態に陥った。子供運にも恵まれなかった。
 明治20(1887)年、病に伏せていた夫が死亡、直は51歳で一家を支えていくこととなる。

 直の回想の言葉を借りれば
 「まず世においては、ほかに一人もいない苦労人」であったということになる。

 貧窮にあえぎながらも、神仏を篤く信じて、忍耐強く頑張りぬいた。

 明治23(1890)年9月、三女・福島ひさは産後の肥立ちが悪く、逆上してあばれ出したため、座敷牢に入れられて、しばしば神の幻影を見るようになる。この神懸りが金光教の布教師の祈祷でおさまった。
 翌24年には、長女・大槻よねが「発狂」した。よねの狂乱ぶりは激しく、悩み続けた直は、各地の加持祈祷に頼る。

 明治25年の正月、直はしばしば神界に遊ぶようになった。そこには白い衣を着た高貴な神々がいた。遂にと言おうか、旧正月の5日―新暦の節分(2月3日)に、直は突然激しい〔神懸り〕に陥った。

 以後の13日間、断続的に〔神懸り〕に陥ったが、そのときには何かが腹中に宿った感じがしたが、その何か(神?)に命令されるとおり寒中に井戸水をかぶり、腹中の者に誰何すると、「艮の金神である」と名乗って、「キツネやタヌキで御座らぬぞ。この神は三千世界を立て直す神じゃぞ。」と応じ始め、有名な「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になったぞよ。この神でなければ世の立替えは出来ぬのじゃ。・・・略」と答えたという。

 13日間も続いた〔神懸り〕はおさまったもののその後の直の生活は激変した。相変わらず異様な言動の続く直に、糸ひきなどの仕事を廻してくれる人も少なくなり、二人の娘(りょう、すみ)も家を出て行き、直は一人暮らしとなる。

 普段はのんびりと紙の行商をしながら、時おり糸ひきの仕事が入ると、遠く亀岡にまで足を伸ばした。6月には亀岡へ2ヶ月ほど糸ひきに通うが、往路、金光教の八木教会に立ち寄ったのをはじめ、亀岡教会には毎日のように通い、教会長の大橋亀次郎と親しくなった。三女・福島ひさの関係で金光教に親近感を抱いていた直は金光教の強い影響下で、宗教者の道を歩み始めた。(亀岡から帰宅して2度目の〔神懸り〕が始まり、今度は10日ほど続いたが、夜ごとに神の声を聞いた。)

 翌明治26(1893)年、雪におおわれた厳冬の綾部の町で原因不明の火災が続き、直に放火の疑いがかかる。近所の住民の密告で、直は警察に連行されたが、間もなく真犯人が逮捕され直は釈放された。

 直は「なんでも無い者は調べても、もっと大きな者は、よう調べんのか。上にいる者を吟味せんことには、今に警察の言うことども聞く者は一人も無うなるぞよ」と抗議した。


 以下、村上〔解説〕から引用していく。(『大本神諭』 東洋文庫 解説 p162~)

 以下、引用。  


 ・・・この留置を機に、年来のナオの〔神懸り〕に手を焼いていた長女・よねの婿・大槻鹿造は、警察に願い出て、ナオを狂人として座敷牢に閉じこめてしまった。座敷牢の生活は、前後40日に及んだが、この間、大槻はナオにろくに食物も与えず、ナオは神に教えられて、掌をしゃぶって、ひもじさを凌いだという。ナオは、座敷牢のなかで、神の命ずるままに、落ちていた釘を拾い、柱に文字を書きつけるようになった。封建社会の貧しい女性として生い立ったナオは、もともと無筆であり、糸ひき場の糸枠の番号すら満足に読めなかったが、柱には、平仮名で文章らしいものが刻まれていった。これが、ナオの「筆先」のはじまりとされている。

 大槻は、ナオが心身ともに衰えたのをみて、ナオの家を売り払うことを条件に座敷牢から出し、ナオの身柄を自宅へひきとった。大槻は、家屋はもとより、ナオのわずかな家財道具類も残らず売りとばし、ナオの手もとには、使い古した石臼と三つ重ねの盃だけがのこった。ナオは、しばらく八木の福島家に身をよせ、秋には綾部の大槻のもとにもどって、ふたたびボロ(古着)買いに精を出すようになった。

 断続する神がかりの間に、ナオは、「今の内は病気も治してやらんと、人民は此の方が神であることを、よう解けまい。病人があったらおがんでやれ」との神示をうけて、病気なおしの祈祷をするようになり、「綾部の金神さん」の評判が、しだいに周囲に伝わるようになった。

 その冬には、ナオから「おかげ」をうけた者の間に、艮の金神の信仰が広がりはじめた。山家村の地主でマユの仲買人をしていた金光教信者の四  方(よも)平蔵をはじめ、出口実太郎、西村庄太郎らはとくに熱心で、翌年春には、この小グループの輪は、綾部の商工民と近在の農民をあわせて30人に拡大した。1894年(明治27)7月、日本は朝鮮半島で清国と戦火を交え、日清戦争が始まった。ナオは、頼みにしていた次男・清吉が、徴兵で近衛兵になっていたこともあって、開戦前夜の緊迫した空気をつよく感じとっていた。開戦に先立つ6月、ナオは「唐へ行け」との神命をうけたが、唐は遠い所にあるということだけしか分らなかったので、ともかく綾部から歩き出して亀岡を経て京都に至り、天理教の河原町分教会を訪れた。

 ナオは、天理教の教師と問答をしているうちに神がかりに陥り、教師から、「これは狐狸ではない、宮賓(天狗の類)だろう」といわれたという。ほどなく神から、「もうよい」との指示があったので、ナオはそのまま綾部に引き返した。日清開戦とともに、綾部の町では、ナオが★日清戦争を予言したということで話題になり、拝んでもらいに来る者が急増した。

 日清戦争中の同年10月、山家村の農民・西村文右衛門の神経障害を治したのが縁で、ナオの布教活動は大きく進展した。10日ほどで全快した西村と妻は、ナオにお礼参りを願い出た。ナオは定まった家もない身の上であったから、かねてから布教活動の拡大について何かと相談していた金光教亀岡教会の大橋のもとに、西村夫妻を伴って行った。金光教は明治20年代に入って、京都府の山間部へ急速に進出し始めていたが、綾部への教線伸張の機をねらっていた大橋は、ナオが信者を連れて来たので大いに喜び、さっそくナオのもとへ布教師の奥村定次郎を送ると言った。住居もなく神を祀ることもできないナオにとって、この提案は願ってもない話であった。

  奥村は大工職の出身で、布教の才腕には自信があった。綾部へ来ると、四方平蔵と協議して、綾部、西原、鷹ノ栖から11名の世話人を選び、何鹿(いかるが)郡長・大島伝一郎の裏座敷の6畳間を月額1円で借り、11月、金光教の天地金乃神と、ナオにかかっている艮の金神を祀って広前(ひろまえ)とした。このささやかな広前は、大本教の最初の宗教施設であった。

 奥村とナオの金光教会は、順調に歩み出した。すでに数十人の信者がついていた「綾部の金神さん」は、金光教の傘下に入って、さらに足しげく布教に出かけるようになり、献金も、信者が広前にもちこむ野菜や米も、日増しに多くなった。翌1895年(明治28)元旦には、広前を、斜め向かいにある四方源之助宅の8畳2間の養蚕室に移した。このころからナオは、半紙に馴れない筆で、さかんに「筆先」を書くようになった。

 仮名と漢数字で綴られた「筆先」を、四方平蔵は、渡されるごとに判読し、こうしてナオの教えが、しだいにその全貌を現わしはじめた。


 二、大本教の発展と第一次弾圧 


 ナオは、復古的農本的な理想世界「みろくの世」の実現を約束し、病気治しを媒介に、近在の農民、市民に艮の金神の信仰を説いた。「筆先」には「きんの世」「われよしの世」として、資本主義社会がはげしく糾弾され、外来の文物にたいするつよい反発が一貫していた。権力者は「鼻高」とよばれ、終末観的な立替えの時節の到来による、その没落が予言されていた。

 ナオの小グループは、開教6年目で金光教から独立したが、この復古的反文明的な小集団は、出口王仁三郎(1871~1948)を迎えて、明治末年から新たな発展の時期を迎えた。

 王仁三郎は、もと上田喜三郎といい、京都府亀岡近郊の貧農に生れ、生活のために苦闘する間に、富者、権力者の横暴を憤り、権力への反抗心を燃やした。1898年(明治31)私的な紛争が契機となって、村はずれの霊山高熊山にこもって7日間の修行をし、宗教者としての道を歩み出した。高熊山での修行では、洞窟に坐っている間に、神使にともなわれて他界を遍歴したとしており、これは、修験道系の入山修行の伝統を受けつぐ行であった。

 こののち王仁三郎は、身につけた霊能で病気治しを始め、静岡県清水の稲荷講社本部におもむいて、官学と習合神道糸の行法を学んだ。帰村した王仁三郎は、同講社所属の霊学会をつくり、鎮魂と幽斎修行を教えた。綾部での出ロナオの布教を知った王仁三郎は、1899年(明治32)ナオに協力して金明霊学会をつくり、翌年、ナオの五女・すみと結婚した。

 金明霊学会の布教は、しばしば警察の干渉をうけたため、信者は減る一方となり、王仁三郎は内紛から一時、綾部を去った。ナオを始め幹部たちは、王仁三郎の開明的な言動に反発し、王仁三郎は「筆先」の現状打破と権力批判の主張には共感しながらも、これを神のことばとして絶対化することには、なお疑問をもっていた。

 王仁三郎は、京都で神職の資格をとって、建勲神社の主典をつとめ、のち御岳教に転じて役員となった。明治末期の関西の宗教界を歩いて、さらに視野を広げた王仁三郎は、1908年(明治41)教勢拡大の構想を抱いて綾部にもどった。当時、大本教は逼塞状態にあり、ナオの周囲で、少数の幹部が細々と活動をつづけていた。

 王仁三郎は、同年、大日本修斎会をつくり、教義の体系化に着手するとともに、活発な布教活動に乗りだした。大本教の教義はナオの「筆先」を基礎に、国家神道をはじめ多様な習合神道説を結びつけることによって展開し、大本教の神秘的な現状打破と救済のよびかけは、第一次世界大戦の時期に、広範な農民、市民の心をとらえた。

 1914(大正3)年、<皇道大本>と改めた大本教は、大戦中から戦後に、鎮魂帰神の集団的神懸りの行法と、立替えの時節到来の予言を大々的に宣伝し、中小零細経営者、軍人、知識人の入信が相次いだ。

 海軍機関学校教官で英文学者の浅野和三郎は、入信して綾部に移住し、教団の機関誌『神霊界』を主宰して、対外宣伝に力を注いだ。大戦末期には、王仁三郎は、みずから救世主・みろくであるとの自覚を抱くように也、立替えの時期の切迫を強調した。
・・・以下<略>。

   続く。                     
 

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