カウンター 読書日記 ●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (2)。
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●月海黄樹 『龍宮神示』 を読む (2)。
 ●第一章 悪の世の写し鏡「大本」はユダヤ教の〔型写し〕でもあった
 

 ★三種の神器はアークであった? (P58~61) 


 これらの記述(☆「伊勢神宮縁起帳」・「先代旧事本紀 伊勢神宮縁起」・「丹後風土記 浦島子」の三書のことで、この三書をあわせ読むと元伊勢神宮の御神体が天皇家の「三種の神器」になった経緯が明らかになると月海は主張する。)をつなぎ合わせて行くと、次のような神器譲渡の物語が出来上がる。

 「雄略天皇の二十二年七月、海部の先祖である浦島子は三種の神器の入った玉手箱を、大和朝廷に譲渡する。倭姫がそれを収めて建立したのが伊勢神宮である」

 しかしながら、玉手箱の中には現実には「マナの壷」「塩盈珠・塩乾珠」という二種の神器しか存在していない。それをなぜか「三種の神器」とするのは、過去に神器が三種類あった記憶を当時の人々が持っていたからなのではないだろうか?

 大正から戦前の日本において、「三種の神器」=「ユダヤのアーク」は、「日本人」=「救世主」論を立証するものとして、国粋主義者たちに熱っぽい期待をもって受け止められた。

 彼らは、「アジアに日本を中心とする連合国家を建国する」という前の大戦で西洋列国に勝利した日本が次に見た夢を、「日本人」=「救世主」の物証を楯に、正当なものとして評価したかったのである。

 「ロスチャイルドが真尼宝珠を買いつけに来ている」という情報も乱れ飛び、軍人、宗教家、政治家三つどもえの神器を巡っての獲得戦が繰り広げられることになっていく。

元伊勢神宮の秘密に深く関与していると注目された大本教は、各分野からの権力介入を受け、宗教とはかけ離れた過激な政治団体と化していく過程に踏み込み始めていたのであった。


 ★悪の世の写し鏡としての大本 (P61~) 


 第二次世界大戦前の不安定な国内状況の中、大本教内部にも複雑な派閥構造が生まれていた。

 その派閥とは、
①「開祖・直を生け神と崇める開祖派」
②「直の三女・久を中心とする八木派」
③「王仁三郎を無条件に信じる大先生派」
④「海軍将校を兄に持つ浅野和三郎派」
⑤「浅野派と対立し、陸軍との結びつきの強い天皇絶対論の石井皇道派」であった。

 すなわち、大本は内部に海軍と陸軍の勢力を抱え持ってしまうことになったわけであるが、彼らが大本に期待していたことは、信仰の礎などではなく、資金援助や民衆の煽動による右翼国体思想の擁護であった。

 特に、陸軍との結びつきの強い石井派には他宗教の介入も存在した。それは当時の国体主義と緊密に結びついた日蓮宗である。

 その頃の日蓮宗は最も過激な国体主義を提唱した宗教の一つであり、その代表的な例は陸軍中将・秦真次を囲んで組織された「日蓮宗知法思国会の座談会」であった。彼らは「天皇陛下万歳をさけんで笑って死ぬ道が皇道である」と主張していた。
 (注:国体主義と結びついた日蓮主義の代表者としては、他に国柱会の田中智学。血盟団事件、五・一五事件に関与した右翼日蓮主義者・井上日召。満州事変を指揮した石原莞爾などがいる)

 この軍事勢力の大本教への介入は著しく、時にはスパイ的な行為をして王仁三郎が秘密を握る「三種の神器」の在り処を掴もうと必死であった。

 後に王仁三郎が記した「霊界物語」においては、教団史とも取れる部分で、権力を争って「玉」の争奪戦が繰り広げられることに危機感を持ったスサノオ命によって、「玉」が秘匿されたことが記されている。

 現実に王仁三郎はある一人の男に、教団関係者に内緒で「箱に入った大切な品物」を預け、教団から去るようにと命じた。この段になると大本の内部は宗教団体という有り様ではなくなってゆく。

 王仁三郎が軍事勢力による強引な介入にしばしば悩まされていたことは十和田龍氏の著書『第三次大本事件の真相』にも描かれているが、特筆すべきは、二・二六事件の首謀者、北一輝(彼も狂信的な日蓮信奉者であった)が昭和十年十二月六日に、こっそり天恩郷にいる王仁三郎を訪ねていることである。

 北一輝はクーデターの計画をもらして、その資金二十五万円を王仁三郎に求めた。

 王仁三郎が「そんな金は手もとにないし、神様が人殺しのために金は出してはいかんと言われる」と軽く一蹴すると、北一輝は「国家の大事を打ち明けた以上、命を頂く。京都に十二人の刺客が伏せてある。命か金か二つに一つだ」と食い下がる。

 「とにかく四、五日待て」と王仁三郎は宥めて帰した。運よくその二日後に王仁三郎は検察により不敬罪で検挙されたため、事なきを得た。

 しかし、これはほんの一例であり、軍事勢力は大本を自らの傀儡にしようと虎視延々と狙っていたのである。

 権力が介入してくる所には欲が生まれ、腐敗が始まる。
 大本もその代表的な例であった。

 内部には王仁三郎もその洗礼を受けた宗教的虐待の例が多数存在し、皆神山に建設された大本営の工事では無理やり引っ張ってきた朝鮮人労働者を何人も殺していたという事実を証言する人たちもいる。

 このような状況の中、王仁三郎自身の言動も当然のごとく制限されており、誰とも敵対・迎合することなく神業を続けようとする王仁三郎の微妙な動きが、はたから見て不可解なものになることは否めなかった。

 同時代の理論派霊学者・友清歓真(ともきよよしざね)は一時大本教の役員であったが、派閥争いから一方的な追放勧告を受け、憤慨して「乾坤一擲」と題する檄文を配付。そこには「大本教の裏の秘密を見破って、撲滅の決心をするに至った。艮の金神は世を惑わす邪神である」とまで糾弾している。それほど、大本教の内部は魑魅魍魎の巣窟といった様相を呈していた。

 そもそも大本という宗教は、清冽なようでいて俗悪、正義であるようでいて邪悪であった。

 なぜなら大本の筆先にも「出口家と言うのは悪神の懸かる家系である」「日本にこういう悪いことが起こってくるぞ、ということを大本にしてみせる」と示されるように、実際は「悪の世の写し鏡」となる型を大本が持っていたからである。

 これ(第一次弾圧事件時に大本に潜入した京都府警のスパイ(の調書)によると、王仁三郎の人格は破天荒で摑み難く、朝令暮改もしばしばみられたという。)には警察側もどう判断を下すことも出来なかった。

 こうした王仁三郎の摑み所のない性格は、終始一貫して伝えられている。
 例えば、開祖・直はどんな真冬にでも一日たりと水行をかかさなかった。当然、幹部たちもこれに従う。しかし王仁三郎だけは、この光景を横目で見て、「わしは蛙やないんやから」と、一人温かい風呂に入っている。

 また、少しでも寒いと火鉢を抱え込んで放さない。しかし、ただの小人であれば、少しは周囲の目も気になり、水行の一度にでも付き合おうというものである。
 ところが王仁三郎はそれもしようとしない。こうした王仁三郎の態度が反発を買うのは当然であるが、なぜか王仁三郎の居る所は華やかで和やかな雰囲気が漂い、王仁三郎をひたすら慕う人々が集うのも不思議な現象であった。


 第三章 霊的天才「王仁三郎」はフラクタル理論で世界を変えてゆく!


 ★大本教弾圧の歴史が日本に移写される(p130~133)


 大正三年五月、王仁三郎が信者の前で「まもなくヨーロッパで大戦争が起きる」と預言した直後の六月二十八日、ボスニアの首都サラエボで、オーストリア皇太子夫妻が暗殺され、これがきっかけで第一次世界大戦が勃発した。

 この世界的な大戦の勃発は、日頃「世の立替えが来る!」と主張している大本教にとって大きな追い風となり、機会を逃さず大宣伝したことも功を奏して飛躍的に信者の数が増大した。

 そしてカリスマティックな大本の教義にひかれて、現役軍人や知識著名人の入信が相次ぎ、「大本」の名は世間に知れ渡るようになっていった。

 例えば、海軍少佐の浅野正恭、和三郎兄弟を始め海軍中佐の飯森正芳、東郷平八郎元帥、元帥の副将を務めた秋山真之中将(好古の実弟)などが入信あるいは密接な関係を持つようになる。

 大正六年には子爵の水野直、岩下成一、昭憲皇太后の姪にあたる男爵夫人・鶴殿親子が入信。さらに大正十年には久邇宮良子(現皇太后)の養育係であった山田春三が入信する。大本の成長は、その後も戦後不況の不安な国内要因の中で止まることを知らず、こうした急成長ぶりに時代の支配者層はしだいに警戒感を募らせていった。特に、大本の軍事勢力との繋がりは、国家転覆を志すものとして、大正八年頃より警察は王仁三郎検挙に向けて大本内部にスパイを侵入させ証拠固めを始めている。

 そして二度の警告を発するが、王仁三郎はまったく聞く耳をもたず、この警告を無視し続けた。

 その当時から、浅野和三郎は大本お筆先の内容から大正十年に大峠(ハルマゲドン)が来ると信じ込み、当時大本が買収した日日新聞を媒体として「大正維新論」を展開し始め しかしこの浅野の説に対して、王仁三郎は紙面を借りて「大峠の時期はいつとは言えぬ」「浅野氏は十字架を背おって殉教せんとする勇者」と意味ありげな対応をする。

 王仁三郎は、お筆先に記された「大正十年の大峠」が世界や日本に起こるのではなく、大本に起こるものだということを知りながら、浅野を好きにさせていた。

 なぜなら国家権力による大本の弾圧の演出は、王仁三郎に課せられた神業の一つだったからである。

 浅野の言動はますます激化していき、大正十年に入るなり「いよいよ大正十年なり」と書いた貼り紙を社内(*日日新聞)各部屋に貼り、「世の立替えが始まったから集金をする必要はなし」と通達をするという具合で、日日新聞の経営は悪化の一途を辿っていった。

 こうした大本の過激な宣伝活動についに国家権力は業を煮やし、大峠が始まるとされる大正十年一月十日、検事総長・平沼騏一郎は、京都地検の古賀検事に対して「大本」検挙の最終命令を下す。

 かくて二月十二日未明、京都府警部長・藤谷庄平の率いる武装警官二百名は綾部全町を包囲し、郵便局や電報電話局を管理下におくなどの厳戒態勢を敷いた上で、一気に大本を急襲したのであった。

 「三年先になりたら、余程気をつけて下さらぬと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞ。辛酉(かのととり)の年は変性女子(王仁三郎)にとりては、後にも先にも無いような、変わりたことが出来てくるから、前に気をつけておくぞ」(大正八年一月一日。辛酉は大正十年に当たる)
 という大本のお筆先は、警察の王仁三郎検挙という形で現実のものとなったのであった。

 この預言の真意と、神業の内容を把握していたのは王仁三郎ただ一人であった。
 これを契機に宗教大本は国家の危険分子とみなされ、たび重なる迫害を受けていくことになるのである。

 
  第四章 大本に起きたことは日本に起こり世界に拡大される!


 ★雛型経綸(ひながたけいりん)の仕組み
 
王仁三郎は、かねてから「大本は宗教団体ではない。神業団体だ」と言っていた。
 王仁三郎によれば、「大本」には日本ひいては世界の「おおもと」という意味が込められており、「大本教の動き」があたかも鏡に写されたように「日本の動き」・「世界の動き」として投射されていくと考えられている。
 そのため、王仁三郎にしてみれば、大本教は神を信仰してその教義を守っていればいいという単純な構造のものではなく、日本や世界に現実のものとなって現れてくる国常立大神の神徳を大本で行われる神劇的な行をもって促進することこそ、その本分としなければならないと考えていた。

 大本に起こる、あるいは大本で行われるすべての出来事は、そのことがモデルケースとなって日本と世界に起こることを約束された出来事である。
 これを「雛型経綸」と呼ぶ。

 大本の雛型経綸には、王仁三郎によって取り決められた三つの法則が存在している。

1.大本に起こる経綸は(松竹梅)三段の型になっている
2.経綸は「立替え」と「立て直し」の二度に分かれて行われ、この二つの時期には同じような事が起こる仕組みになっている
3.大本で起こったことは六年後に日本に投射される
 というものである。

 この法則を的確に理解しておかなければ、大本の雛型経綸から正確な預言を導き出すことは不可能である。だからこそ、筆者はこの際、この三つの法則を厳然と整理しておきたい。

 それには王仁三郎の生前の預言や、直の筆先にあらわれる言葉を注意深く考証していかなければならない。まず1の「松竹梅の仕組み」については、大本の筆先において「梅で開いて松で治める仕組み」と結ばれている。
 この場合の「梅」とは、直に神懸って「三千世界に一度に開く梅の花」と自称した艮の金神のことである。

「梅」で始まるとは、「大本教の誕生で始まる」ことを意味している。
「松で治める」の意味は、王仁三郎の守護霊「小松林命(こまつばやしのみこと)」のことであり、王仁三郎が経綸を治める役目であることを意味している。
 また「松」は冒頭で紹介した三保の夫婦松のところに築かれた「錦宮」のことも同時に示している。

 神示によって辻天水が、夫婦松を訪れたのは昭和二十五年八月十五日。

 艮の金神は第一次・第二大世界大戦という二つの大きな戦争と世界の立替えを叫んで産声を上げたが、それは第二次世界大戦の終結とともにおさまった。
 正しく「松で治める」仕組みである。
「松で治める仕組み」は「待つでおさめる仕組み」でもあり、預言された天災や戦争の一幕目が終わり、次の幕を待つことになる。

 最後の「竹の仕組み」とは何か?
 王仁三郎は、「三代目教祖の時に仕組みが変わる」「竹は中が空である。教団の内容が空になり、内部分裂を起こす仕組みである」と預言している。
つまり「松の仕組み」から「竹の仕組み」に変わるのは三代目教祖の時代であって、それは内部分裂という現象だと言う。

 正に、王仁三郎の預言通り、大本教は三代目教祖・出口直日の時代に三つに分裂した。

「松竹梅」の仕組みの構造で注意しなければならないのは、これが三段の仕組みに見えて、実質的には二段の仕組みである点である。
「梅で始まり松で治める」。そう艮の金神は叫んでいるが、「松」と目される辻天水の「錦宮」は大本教の本部「錦宮」と同じ名前を持つことから見ても、梅と松は基本的に同質のものと考えて良い。それであるから三段の仕組みの現実は「梅松・竹」の構造だということである。

 ここに、2の仕組みは「立て直し」と「立替え」に分かれて行われ、この両者には同じようなことが起こるとされる法則を加える。すると「竹」の時代には「梅松」時代と同じようなことが起こってくるぞ、という解釈になるのである。

 では実際に「竹の時代」とはいつかというと、三代目教祖・直日の時代に「竹田」に別会が出来て大本教が分裂を起こし始めたのが昭和五十五年(一九八〇年)。

 3の法則から日本が「竹」の時代に突入したのが昭和六十一年(一九八六年)。
 この年はリクルート疑獄が中曽根元首相によって、実質的に実行された年であり、これを契機に次々と噴き出す政治汚職問題から政界が分裂し、現在の政界再編に至っている。その発覚が昭和六十三年(一九八八年)。

 時の内閣は「竹下登」まさに「竹」の時代と言えるのである。

 そして世界もこれに連動して東西の壁が壊された。
 これは一見、平和への道に見えたが、今現在において分かるように世界各地に内戦を呼び覚ます結果になっている。

 「竹」の時代の我々がこれからどのような出来事に遭遇していくのか。
 それは「梅松」時代と同じ出来事なのである。
 具体的にそれが何を意味しているのか?
 そのことを論じる前に第一次・第二次大本事件と「梅・松」の仕組みを考証することにしよう。

 
 ★第一次大本事件と日本の連動

 
 開祖・直の生前も王仁三郎は直の代行として実質上大本の一切を統制していたが、あくまでも教祖補佐の役であった。

 直の死去によって王仁三郎は名実ともに教祖の地位に立つ。
 しかし大本の世継ぎは筆先によって末代肉体が女のものがなること、二代目教祖には直の末子の澄、三代目は直日が決められていたため、王仁三郎はあくまでも神示に従順にしたがい、直の死後一年の教団の動乱期を乗り越えた後は、二代目を澄に譲り、自分はもとの補佐役へと回る。

 大本の講演と文書による全国的なキャンペーン(教線拡大)は、国内外の不安な情勢の中で国民の間に浸透していった。しかしその一方で大本を邪教・危険宗教として批判する声も高まり、ついに大正八年、京都府警が大本の綾部本部に乗り込む。

 その当局を刺激するかのように王仁三郎は次々と過激な行動に出る。
 同年十一月には明智光秀の旧亀山城跡を買い占め、天恩郷と命名して宣教の場とする。さらに当時大阪朝日、毎日新聞と比較される程の規模を誇った日日新聞を買収して布教活動を拡大した。
 「無謀」「狂信的」とも非難を受ける王仁三郎のこうした行動自体、一つの神業経綸だったのだが、当時の王仁三郎は教団側に一切の心中を知らせることなく黙々と神の指し示した仕事に着手していた。

 当時の大本には前章で詳しく述べたように、派の対立があった。開祖を生き神として信じる「開祖派グループ」、福島久を中心とする「八木グループ」である。
 この二つを旧派とするならば、新派は王仁三郎を無条件で信じる「大先生派」と海軍中将・浅野正恭を兄に持つ右翼傾向の強い浅野和三郎を中心とする「浅野派」。軍人でありながら反浅野派で熱心な天皇絶対論者の「石井派」である。

 王仁三郎は、こうした分裂と危険思想が大本の中で育っていけば、やがて日本国自体に深刻な影響を与えると危惧していた。
 王仁三郎の神業は教団内にある腐敗と危険思想を表面化し、大本に粛清を呼ぶことを目的としたものであった。

 大正十年(一九二一年)原内閣の手によって第一次大本弾圧が行われた。
 王仁三郎は当日、日日新聞社・社長室で筆をとっていたが、当直のものに「ちょっと行ってくる。誰もこなくてよい」と穏やかに検挙されていった。

 この日を予知していた王仁三郎は、血気にはやった青年たちが警察に抵抗しないように、綾部を抜け出して大阪で検挙されるのを待っていたのである(このような行動は、最後まで教団内にたてこもって警察に抵抗したオウムの麻原教祖の手本となるだろう)。

 大本の大布教宣伝活動が当局によって制圧された型は、そのまま「日本による東亜圏統一を宣伝して、中国に進出した日本陸軍の動きを止める型として反映していく。
 預言3の法則(大本で起こったことは、六年後に日本の動きに写される)の決まり通りに第一次大本事件のその六年後の一九二七年に、中国に介入する諸外国の帝国主義に反対して南京に樹立した国民政府の党首・北伐軍の蒋介石によって、日本帝国の支援を受けて北京で大元帥を名乗っていた張作霖が打ち破られる。
 このことですっかり気弱になって、任務を辞退したいと申し出た張を、日本陸軍は爆弾を列車にしかけて殺害してしまう。
 しかしこの裏工作が暴露され、作霖の子・学良が国民政府についたため、日本帝国は中国領土を統括する大きな要を失うという墓穴を掘ったのである。

 これを機に中国全土は国民党によって統一された。第一次大本弾圧は、このように日本の中国における帝国主義の土台を覆す型として現れた。
                  
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/621-d19aba77



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。