カウンター 読書日記 ●疑史 第51回 上原勇作(3)
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●疑史 第51回 上原勇作(3)
 ●疑史 第51回 上原勇作(3)  落合莞爾 
  『月刊 日本』12月号 ㈱K&Kプレス ℡:03・5211・0096  


 ワンワールド薩摩派の初代総長・吉井友実は明治2年に逝去した。二
代目・高島鞆之助は大正5年1月11日に他界するが、三代目を上原勇作が襲った時期は大正元年と推定される。陸軍薩摩閥では、明治31年に高島鞆之助が桂太郎に追われ、翌年川上操六が早世した後を、逆縁ながら参謀総長に返り咲いた形の大山巌は、敢えて寡黙に徹し政治に介入しなかった。陸相は桂→児玉→寺内と長州閥が都合13年間も独占し陸軍人事を壟断したので、陸軍内の薩摩健児は寥々たる有様であった。その中でひとり上原勇作中将(士官生徒三期・のち元帥子爵)だけは、陸軍内有数の欧州通として知られ、識見手腕ともに抜群で、長州閥にとって最も手強いライバルであった。それを警戒した寺内陸相の計らいで、上原は軍中央から遠ざけられ、41年から旭川第七師団長、44年には宇都宮の第十四師団長と、3年半にわたり田舎回りをしていた。

 その上原に陸軍改革の期待を繋いだのが7歳年下の田中義一(士官生徒八
期・のち大将男爵)である。長州人の田中は参謀総長・児玉源太郎の薫陶を受け、山県・寺内両元帥の信任も厚く、40年4月4日陸海軍首脳が25個師団と88艦隊による「帝国国防方針」を策定した時、参謀本部作戦班長として陸軍案を作成した逸材である。同年5月から歩兵第三連隊長に出たが在任中大佐に進級、42年1月には参謀本部に復帰し、軍務局・軍事課長の要職に就いた。

 折しも陸軍の派閥解消を唱える運動が参謀本部内に台頭してきた。首謀者は参謀本部第二部長・宇都宮太郎少将(佐賀出身・士官生徒七期・のち大将)と戦史課長・町田経宇大佐(鹿児島出身・士官生徒九期・のち大将)で、改革運動の主柱に上原勇作を担ごうとした。担ぎ手が九州人ばかりでは藩閥抗争と受け取られる虞があったが、長州出身の田中が加わって展開が急に広がった。田中が上原を担いだのは派閥争いよりも政策実現を優先する軍事課長としての見識だが、43年11月少将に進級して歩兵第二旅団長に出る。44年8月30日成立の西園寺第二次内閣の陸相は、上原と二期先輩の石本新六中将(のち男爵)の争いとなったが、田中ら少壮幹部が上原を推戴したにも関わらず(ママ)、寺内は永年にわたり寺内軍政を次官として支えてきた石本を陸相に就け、その2日後、陸軍省の要の軍務局長に田中少将を起用する。折から大韓帝国を併合した直後で、朝鮮半島の治安維持とロシアの南下に備えるため、陸軍は駐韓常備軍として二個師団の新設を必要としたが、日露戦後の財政難と厭戦気運から世論の賛成を得ることが出来ないでいた。ところが帝国議会は海軍に戦艦8隻に巡洋艦8隻を揃える88艦隊を認めたのは、英国が大型戦艦ドレッドノート号(いわゆる弩号)を建造したことで世界が大艦巨砲時代に入ったことが国民に理解されたこともあるが、海軍の総帥・山本権兵衛の政治力による所も大きかった。

 そこで陸軍首脳は、田中の政治的手腕に期待して省内を取り仕切らせ、最重要課題の増師実現を目指したのである。翌10月、孫文が辛亥革命で清朝を倒して東亜の軍事情勢は一層深刻化した。大陸政変に刺激されたロシアが、満洲・朝鮮にどう出てくるか予断を許さなくなったのである。これに対処するため、強引にでも2個師団増設を実現すべき石本陸相は寝る間もなく、45年4月2日、過労で突然死する。お鉢は自然と上原に回り、山県元帥の推薦によって上原は4月5日付で陸相に補せられた。陸軍省では、軍事課長・宇垣一成大佐(士官生徒十二期=士候一期、のち大将)が増師実現に向けて原案を作成、田中軍務局長がそれにより内外の根回しを行い、岡市之助次官(土侯四期・のち男爵)が陸軍省内をまとめ、上原陸相が政界トップに向けて強力な政治工作を展開するという分担となった。

 その最中の大正元年(=明治45年)の8月、上原は奇妙な事を始める。従兄弟の吉薗林次郎の長男・周蔵を呼び寄せ、
「おまん(お前)に草を頼みたか」と頼んだのである。
「草」とは、定職をもって地域社会の信用を得ながら、秘かに情報を集める一種の諜者である。陸軍の特別任務を遂行する軍事探偵なら陸軍省でなく参謀本部の管轄だが、上原陸相は個人的に諜報活動に携わる人材が必要になり、身内の周蔵に眼を付けたのである。
 
 宮崎県小林村の豪農・吉薗家の長男として明治27年に生まれた周蔵は頭脳明晰で、小学校を飛び級で卒業し都城中学に合格したが、中学程度の数学は自習していたから教科に不満で、一週間で退学してしまった。その後、祖母ギンヅルの勧めで、実祖父の公家・堤哲長の縁戚に当たる武者小路実篤の内弟子になったものの、白樺派に偽善を感じたため(*周蔵は「白樺派は二股膏薬だ」と後に断を下す)帰郷した。孫の立身を願うギンヅルは、旧知の海軍大将・山本権兵衛を頼り、熊本高等工業を特別に受験させて貰うが、その入試を周蔵はボイコットした。学生下宿で知り合った五高生たちが解けない数学の問題が解けたから、五高より程度が低い熊本高工に行く気がしなくなったのである。五高生たちの数学師匠・加藤邑に引き会わされた周蔵は、その人格に傾倒し、加藤の勧めで私立熊本医専に入るが、たまたま知り合った少女の接近を恐れて医専を中退し、帰郷した。
 
 時に満18歳の周蔵が、加藤の勧めで「草」を志願した所、9月10日に上原から「熊本ノ鉄道学校土木課に入ルベシ」との命令があり、10月1日から東亜鉄道学校に籍を置き東寮に入った。2学年に編入されたが、教科内容が余りにも低いため時間の無駄と感じた周蔵に対して、上原は「技師トシテ公認サレルヤフニ終了マデ席ヲ置クコト」と厳命し、「海外に出る場合に、技師であれば視察と言う理由が立つからだ」と教えた。

 列強の諜報機関が国境を超える人に注目した当時、諜者は表看板を背負う必要があった。上原は周蔵の理科的頭脳に相応しい測量技師の看板を作ろうとしたのである。上原が周蔵を諜者として抱えた理由は、陸軍薩閥の中心となった上原が、長閥・海軍閥・政党閥の他、台頭しつつある無政府主義勢力に対処するため個人的に諜者を必要としたこともあろうが、奥底は、上原がこの時期に高島の後を継ぎ、ワンワールド薩摩派の総長に就いたからと観るべきものと思う。

 上原から訓令があったのか、欠席しても教官から文句もなく、周蔵は鉄道学校に在籍しながら、もう一つの密命、熊本医専に舞い戻り、麻薬研究部に手伝いとして入ったが、手伝うべき相手がいない。元来麻薬研究科などはなく、今回慌てて作ったものだからである。毎日通うことになった周蔵は、薬事部の入口の脇に臨時に机と椅子を与えられたが、自ら研究を始めるしかなかった。後日の『周蔵手記』はこの段の事情を、
「ダフモ 上原閣下ニハ 何力特別ナ研究ヲ シナケレバナラナイ 確タル理由ガアッタト確信スル。自分二命ゼラレタ折ハ、サホド真剣トハ思ヘナカッタガ、カナリ本気デアルヤフダ」と記している。師団長として3年半も地方勤務していた上原が、陸相に就いた途端にケシ研究の必要を生じたわけを、上原は「陸軍は今や分岐点に来ちょいもす。おいが思ふちょる事を 誰かが試してくれて、そいがうまかいったら、こん日本陸軍は太っとか軍になりもす」と説明した。
 「そいはどげんかこつですか?」と尋ねる周蔵に、「アヘンを植えてみて欲しか、思ふちょいもす」と続け、「アヘンがうまく出来れば軍の裏産業にもなるし、軍人の怪我の治療に一等と聞くから、自力でアヘンを手にいれたかと思ふちょる」と真意を打ち明けた。
しかし周蔵はその当初、上原がさほど真剣とは思えなかった。周蔵の軍師・加藤邑も、報告を聞いて「アヘンと言ったのか、ケシと言わずに。それは上原さんはまだ詳しく知らないね」と判断したほどで、上原自身の考えでなく、誰かから唆されたようであった。しかし周蔵はやがて、「上原には特にケシ研究をしなければならぬ確たる理由がある」と確信するに至る。これ蓋し、上原自身がケシの重要性に目覚めたことを周蔵が感じたのである。

 新領土台湾におけるアヘン漸禁政策の採用から十数年、後藤新平の意を受けた篤農・二反長(にたんちょう)音蔵の努力によりアヘン製造の内地化が始まり、ケシ栽培者も岡山県と大阪府では千人前後に増えたが、他府県では数人から百数十人しかおらず、量産にはほど遠かった。後藤・二反長系列だけでは国内需要に満たず、他からも応援が欲しい状況だったが、周蔵は量産化に向かわず、特種ケシの栽培とモルフィン純度の極めて高い特殊なアヘンの製造を志向した。(*周蔵が一時入学した)熊本医専にはケシ専門官がおらず、周蔵は極めて少ない関連書物を漁り外国文献に頼りながら、独自に研究を始めたが、戸田某が陸軍嘱託の立場で派遣されて指導に当たることとなった。しかし戸田は、個人的に上原大臣の思想と合わないとの理由で直ぐに辞した。白樺派に共鳴する帝大農学士というから、諸侯系華族に六家ある戸田家のどれかの出であろう。

 大正3年春、ギンヅルから「渡辺ウメノという老婆からケシ関係の古書を貰って来い」と言われた周蔵は、京都に行き御霊前(?)の医師・渡辺家を訪ねる。ウメノは田舎に行ったとのことで、「綾部ナル所マデ訪ヌルト 大本教ノ教祖ノ住ヒナルニ、大部不審ヲ抱ヒタ」とある。

 母が丹波穴太村のアヤタチ・上田家から出たウメノは、上田吉松とはいとこであった。大本教(正しくは★「皇道大本」)の実情は、上田吉松・渡辺ウメノと出口ナオが手を組んで立教したもので、吉松の伜の上田鬼三郎(通称喜三郎、のち出口王仁三郎)が婿入りした綾部の出口家を本拠とした。
 (★「皇道大本」を名乗るのは1914年以降のこと。明治41(1908)年からそれまでは、「大日本修養会」を名乗った。)

 出口和明『いり豆の花』は、当時の大本の発展ぶりを次のように記す。
〔まさに、「日に日に変わる大本」で、大正二年から三年にかけて大本近隣の土地を買収、大正三(1914)年一月一日には上野に三千五百坪の地ならし工事が開始され、金龍殿と統務閣の新築が決定された・・・王仁三郎が綾部に腰を据えてからの成長ぶりは、目覚ましいものがあった〕。

 正に多忙を極めた大本教団を手伝うために、ウメノは綾部の出口家に寄留していたのである。この時周蔵は、出迎えたウメノの胸元になぜか銀の十字架を見たと、後に家族に語った。ウメノは周蔵に、秘伝書の他に特種の黒いケシを呉れた。前述した多神教イスラエルの子孫のアヤタチ上田家は「在日マカイエンサ」でもあり、その種はオランダ渡りという物であった。

 アヘンの主用途は大凡三つあり、誰もが知る「鎮痛用ケシ」と「快楽用ケシ」の他に、余り知られていないが「延命用ケシ」がある。この時周蔵が貰ったケシは延命用で、これから作った純質アヘン粉が万病に効き、長寿をもたらすことを知った周蔵は、上原の許可を得て、以後はその増産に専念して、上原に献上するのが主要任務となった。上原の財界の盟友・久原房之助もこれを渇望し、周蔵は思いもよらぬ財運に恵まれて一生を過ごす。

 ●疑史 第51回 上原勇作(3)  <了>。                       
 

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