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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(24)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(24) 
   ― 超一流の「浪人政治家」杉山茂丸と在英ワンワールド  落合莞爾  

   『ニューリーダー』誌・12月号。 (はあと出版、TEL 03 3459 6557)

 ★長閥を操りつつ政界を雲上から見下ろす怪物  


 伊藤博文第二次内閣の拓殖務大臣高島鞆之助は、明治29年9月、 松方正義第二次内閣が成立するや陸軍大臣を兼ねた。25年8月に大選挙干渉の責任者処分に憤激して陸相を辞任した高島は、以来陸軍中枢から遠ざかっていたが、留守を預かっていた大山巌に代わり、再び陸相に返り咲いたのである。これで高島は大西郷の後総者となり、迫り来る曰露戦争に向けて軍政方面の準備に勤しんだ。その地歩を将来継ぐべき軌道に乗った上原勇作は時に工兵中佐で40歳に満たなかった。

 29年5月、参謀本部第四部長兼工兵会議議員を命ぜられた上原は、30年10月11日付で大佐に進級、鉄道会議議員と港湾調査委員を命ぜられ、対ロシア戦に向けてインフラの整備当った。この間、伊藤の後継となった松方内聞が30年9月、行政整理のために拓殖務省を廃止して事業を内務省に移したので、高島は事務を樺山内相に引き総いで陸相専任となった。

 31年1月、松方に替わって伊藤が第三次内閣を組織すると、長州の寵児・桂太郎が策謀の限りを尽くして高島を陸相から追放、自ら陸相に就いて人事権を掌握、薩摩人を陸軍の中枢から遠ざけた。陸軍三長官の人事では、陸相が桂太郎中将、監軍改め教育総監に寺内正毅少将と、長州が二つ取り、薩摩は川上操六中将が小松宮彰仁親王に代わって参謀総長に就くに停まった。

 進歩・自由の両党に内閣を断られて窮地に陥った伊藤内閣は、松山茂丸が建白した興業銀行設立案を無視されたのに怒り、増税案否決を煽ったので、同年6月を以て倒壊し、大隈重信と板垣退助が隈板内閣を組織するが、これも10月に崩壊、その後に成立した山県有朋第二次内閣の手で杉山永年の悲願だった京釜鉄道施設と曰本興業銀行設立が実現し、松山は山県から興銀総裁の就任を要請されたが断った。

 長州派を操りながら政界を雲上から見下ろした杉山の数々の念願は、すべて政治的なもので個大的願望は一つもない。これだけを観ても杉山が一介の浪人ではないことは自明で、畢竟在英ワンワールドの意を受けた「浪人政治家」と呼ぶしかないのである。

 31年秋、陸軍三長官が揃って進級、桂と川上が大将に、寺内は中将になった。32年1月、参本第四部長から外国軍事地理諜報統計を所管する第三部長に異動した上原は、蘭国ハーグの万国平和会議に出席する男爵・林董の随員を命ぜられ、4月14曰に出発し10月6曰に帰朝した。
この間、5月11曰に起きた参謀総長・川上操六の病死は、陸軍はおろか曰本帝国の大椿事とされるが、実は1月にも本稿に関係ある大人物が長逝していた。伯爵・勝海舟である。帝国海軍の創業と発展に関して、勝と吉薗ギンヅルが手を組んで重大な役割を果たしたと仄聞したので、維新以来の勝の動静を探って見るに、確かに明治15年前後の動向は興味深いが、本稿は当面これを論究する余裕がない。
 
 川上の長逝から5曰後、参謀総長に大山巌が決まる。宇都宮太郎大尉ら参本の青年将校は、大山が長州流非戦主義の桂太郎陸相に遠慮して軍拡を積極的に主張しないことに焦り、翌33年初頭から「起高作戦」と称して参謀総長に高島前陸相を担ぐ運動を開始した。青年将校たちの高島推戴運動は、薩摩軍人の賛成を得たが、遂に実現せず、同年4月に教育総監・寺内正毅が野津道貫(薩摩)に後を譲り、自らは大迫尚敏(薩摩)に替わって大山の下の参謀本部次長に就いた。いかにも<薩長たすき掛け>の原則に沿った形だが、これにより桂陸相と寺内参謀次長の長州コンビが陸軍の人事権を掌握し、「起高作戦」をぶち壊してしまう。
 

 ★桂太郎、児玉源太郎との三者密約で日露戦実行ヘ 
 
 33年5月31日、山県内閣は憲政党の星亨の絶縁宣言で窮地に陥る。折しも生じた北清事変に処するため、6月15日の臨時閣議で義和団鎮圧を目的とした陸軍の清国派遣を決定したが、外国軍との合同活動となるため統帥権問題で紛糾する。この間早くも山県に見切りを付けた杉山は、年初から伊藤に対して秘かに政党設立を持ち掛け、新党設立資金として10万円を与えた。

 これ恰も平成6年の小沢政変の相似象で、新進党の場合は湾岸戦争の日本協力金の一部が☆アマコスト米大使から返戻されたと囁かれているが、政友会設立の資金源は日清戦争の軍需成金小美田隆義とも、実業家岡田治衛武とも言われている。両方とも、その実は不明である。
 
 ☆どこが強面なのか「面」以外には不明だが、幹事長時代には、アマコストの写真を額に入れて悦に入っていたことは有名な話だ。(ブロガー註)


 9月13日、憲政党が解党して政友会との合流を決め、同15日を以て立憲政友会を結成、初代総裁に伊藤が就く。同12月、桂太郎は陸相を辞して児玉源太郎に譲る。これより前、杉山はまず児玉を調略し、次いで桂を呼び込んで三者間の密約を結んでいた。日露戦の実行を大目的としそのために先ず国論を統一する一大政党を作り、総裁に伊藤を担ぎ上げ、恐露病者で反政党主義の山県を降ろして伊藤政友会に政権を取らせ、戦争の財務は松方正義と井上馨に担当させる策略で、三者が一致したのである。これが見事に実現し、10月19日、山県内閣総辞職の後を承け、伊藤第四次内閣が成立した。在英ワンワールドの意向に沿い、英露グレートゲームの中で英陣営の一環を担った日本が、対露戦争を決意するためのこれが道程であった。右の三者密約により、在英ワンワールド戦略に加わった桂と児玉の両人に陸軍を委ねることとなり、既にワンワールド薩摩派総長の重責に勤しむ高島をことさら陸軍首脳に担ぎだす必要が失せたのである。しかし高島は腹心に対しても本心を隠し、参謀総長に色気を示すなど、曖昧な態度を示したので、高島を募う宇都宮太郎ら青年将校はこれに惑わされ、その後も高島を韓国総監や首相に担ぐ運動を止めなかったものと思われる。

 高島と陸軍の関係に関する右の説は、落合独自のもので、『吉薗周蔵手記』に見える記載と、時折仄聞する周蔵周辺の話を、堀氏前掲著(堀氏に多謝)で見た杉山茂丸の行状とすり合わせ、更にワンワールド史観に照らすことで、これを洞察するに至った。因みに、数年前の本稿では「明治末年、日本陸軍内では、山県有朋元帥を総帥に仰ぎ、桂・寺内と続く長州閥が全盛であったのに比べ、薩摩は総帥の大山巌が恬淡な性格の上、野津道貰と川上操六が早く没し、大西郷を継ぐべき高島鞆之助は軍を出て宮中に入ったため見る影もなかった。軍令系統(参謀本部)には辛うじて薩摩人が居たが、軍政畑(陸軍省)となると、まるで長州の独占であった」云々と述べ、インターネットにも転載されている。それも全くの過ちではないが、今にして思えば浅かった。傍線部の「宮中に入った」は、伝聞のままを記したもので、正直言うと当時その意味を完全に理解していた訳ではない。今なら「ワンワールド薩摩派の総長に就いた」と記す筈である。かつて仄聞した「宮中」とは、実は杉山の勢力圏の意味で、具体的には杉山の背後の堀川辰吉郎を指すものと思われる。


 ★日英同盟実現に伊藤博文の抹殺が不可避と動く  

 明治33年10月、政友会総裁として四度目の首相に就いた伊藤博文 は、非戦主義者であったが、政友会設立の事情から杉山に敬意を払い、警視総監の職に杉山を誘う。むろん 杉山は受けず、各県知事を歴任した 安楽兼道が警視総監に就いた。財政難に悩む伊藤は、杉山に外債募集を 依頼し、渡米準備のための33年12月11日の会合で、翌年4月26日に出発と決めた。ところが、会合中に伊藤の日露戦反対を覚った杉山は、再び山県に乗換えを図り、山県に向かって対露戦実行には英国の支援が不可欠として日英同盟の必要性を説きつつ、伊藤が内心親露なることを告げた。慎重な性格のために恐露病患者と呼ばれた山県も、英国との同盟が可能ならばと杉山に同調、その実行のため山県は井上馨を通じ、また杉山は児玉と連絡を取り、各々伊藤を監視することを約した。杉山はすぐに桂・児玉と三者会談を開き、両人に日英同盟の必要性を認めさせ、そのためには親露派の伊藤の政治的抹殺が不可避と説いた。英国側の対日策略を警戒する桂に対しては、伊藤をロシアに派遣して日露同盟締結の動きを示し、以て英国を剌激して先方から日本に同盟を申し込ませる戦略を提案したところ、桂と児玉は同意し、34年春から日英同盟に向けた工作が始まる。

 34年1月、伊藤内閣が提出した増税案は衆院で可決されたが貴族院は否決し、詔勅を賜わって可決はしたものの、財政を巡る閣内不統一のため伊藤は5月2日に辞表を提出する。日英同盟の工作に奔走していた杉山は、渡米が予定より遅れて5月半ばにアメリカに着くが、すでに伊藤は辞表を提出し、組閣の大命は桂太郎に下り、6月2日に桂内閣が成立した。起債未実現のまま帰国した杉山は、桂首相から改めて外債募集を依頼されて、トンボ帰りで8月に再渡米する。このことは『公爵桂太郎伝記、乾巻』にも、「一私人」として杉山の関与を示唆している(堀雅昭『杉山茂丸伝』)。杉山発案の日英同盟は、伊藤訪露中の35年2月12日に締結された。思うに、当時の途上国たる日本が「栄光ある孤立」を誇る大英帝国に対して対等の同盟を仕掛け、そのためにロシアを当て馬にする発想は、凡そ日本政治家の域を超えており、英国からの巧妙な仕掛け以外にはあり得まい。

 政府外債の募集や興業銀行の創設、さらには京釜鉄道開設のごとき純粋な政治目的の達成を図る者は、その肩書を問わず「政治家」と呼ぶべきである。政治家にも種類あり、肩書で分類すれば、吉井友実は宮廷政治家、大久保・松方・大隈は官僚政治家、伊藤は政党政治家、西園寺は貴族政治家、高島・桂・児玉は軍人政治家となるが、杉山に至っては浪人政治家と呼ぶしかあるまい。
 

 ★杉山、児玉、そして後藤新平トライアングルが完成 

 
 杉山と背後の在英ワンワールドとの関係は、根本的には杉山の旧主・黒田藩が、実は薩摩の隠れ支藩たったことから生じたものだが、具体的契機は、杉山が明治25年前後に始めた香港との石炭貿易にあるらしい。児玉・後藤の台湾経営は本来高島・樺山の路線を引き継いだもので、根底が悉く杉山に出たことは前述したが、児玉と杉山は既に知己であった。両人は、25年8月欧州から帰国して陸軍次官に就いた児玉に、前陸相・高島が杉山を紹介したのが初会で、28年3月の日清講和談判の時に下関で再会する。講和条件の争点は遼東半島の割譲にあったが、遼東の割譲に反対し、台湾島と澎湖島だけの領有と軍隊駐屯を持論とした杉山は、外相・陸奥宗光の宿舎に押しかけて同宿し、講和談判の動向を監視した。(堀雅昭『杉山茂丸伝』-2006年2月、弦書房 1900円)。

 その理由について堀は「国際通の茂丸らしい考えだが、おそらくこれは荒尾精の影響だろう。荒尾は領土割譲により日清関係が悪化し、長期に渡って修復困難になると語っていたし、日清の確執に欧州諸国が付け込む隙を与えると口にしていた」と解している。
 「国際通」の解釈次第で、それも誤りではないが、はっきり言えば、講和条件を台湾領有に限定するよう誘導すべしとの指令を、杉山が誰かから受けていたと見るべきで、それは間接的にせよ、世界情勢を操る在英ワンワールドからの指令である。三国干渉を見越して遼東割譲を引っ込めるごときは、日本政治家よりも這かに高度の見識で、一介の浪人の所為ではありえない。再び言うが杉山は、伊藤・山県らを上回る超一流の浪人政治家だったのである。

 児玉が後藤に初めて注目したのは28年4月で、復員兵士の検疫に際し臨時陸軍検疫部長を兼ねた児玉次官が、同部事務官長として内務省から来た後藤の手腕に驚嘆した時である。さらに後藤は、四月一日付で「台湾島阿片制度施行に関する意見書」即ち阿片漸禁策を台湾事務局に提出して採用された。伊藤首相が総裁を兼務した台湾事務局は、1年後の29年4月1日に新設の拓殖務省に移行し、阿片漸禁策は初代大臣・高島鞆之助に引き継がれる。28年9月、衛生局長に復任した後藤は、29年台湾総督府衛生顧問を委嘱され、31年3月児玉新総督の要望で総督府に移った。後藤と杉山の関係は、後藤の女婿・鶴見祐輔が語るように極めて深かったが、きっかけは杉山が後藤の岳父・安場保和と親しかったことであろう。この時までに、杉山・児玉・後藤のトライアングルが完成し、これに新渡戸稲造と星一が加わるのである。

 ★製薬王・星一と究極の国際人・新渡戸稲造  

  34年8月の渡米では目的の外債募集に難渋した杉山だが、ニューヨークで星一に会った意義は深かった。明治6年福島県に生まれた星は、自費でコロンビア大学に留学、ペンシルバニア大学に学ぶ同郷の医学生・野口英世と知り合うや生涯の親交を結び、後にスポンサーとなった。星は、渡米前に神田の英語塾で友人から紹介された杉山に31春ニューヨークで再会し、杉山のホテルを訪ねた星に杉山は靴10足を贈った。三度目が、右に述べたように、杉山がトンボ帰りでアメリカに舞い戻った34年8月のことである。首相を辞めて欧米視察中の伊藤がニューヨークを訪れたので、杉山が星を紹介したら、伊藤の気に入り、星は伊藤滞米中の臨時秘書となった。32年からブロードウェイで邦字新聞を発行した星は、日本から名士が来ると取材することで人脈を広げてきたが、その中に後藤新平や新渡戸稲造がいた。

 文久2年(1862)南部藩勘定奉行の家に生まれた新渡戸は、東京外語学校・大学予備門を経て札幌農学校を卒業し、開拓使御用掛に登用され、明治16年から1年間東京帝大専科で学んだ後に渡米、ジョンズ・ホプキンス大学で経済学などを修めて3年後に帰朝、札幌農学校助教授に挙げられた。時に20年3月で、直ぐにドイツに3年間留学、博士号を得て24年2月に帰朝した。W・S・クラーク原土の直門と言えばそれまでだが、右の経歴を観ても新渡戸は極め付きの国際人で、換言すれば在日ワンワールドの寵児である。ドイツから帰国して札幌農学校教授兼北海道庁技師に就いた新渡戸は、31年7月から欧米巡遊に出たが、この折にニューヨークで星と出会ったのかも知れぬ(未確認)。34年1月に帰朝した新渡戸は、直ちに台湾総督府に迎えられて総督府技師を命ぜられ、後藤民政長官の下で殖産課長を経て殖産局長心得に任じ、35年5月から欧米各国へ差
遣された。その時にニューヨークで星に会ったのは確かである。36年1月に帰朝した新渡戸は、後藤から台湾経済政策の根幹を任され、腹心中の腹心となる。その最大の要因は、同人がワンワールドの秘密を共有したことであろう。
 
 ★大日本帝国「麻薬ビジネス」の本質


  明治37年にアメリカから帰国し、伊藤博文の朝鮮行に随行した星は、翌38年に星製薬所を設立し、胃腸薬などを製造販売した。米国で新聞社を経営した星が、帰国後に製薬業に乗り出したのは不自然で、もともと台湾総督府絡みのアヘン製剤を睨んで始めたものと思う。星がニューヨークで知り合った新渡戸は、欧米差遣中の35年6月に臨時台湾糖務局長に就くが、帰国後京大教授を兼ね10月から京大教授専任となった。星が帰国した時には新渡戸は総督府を去っていたが、星は新渡戸の親分の後藤新平が35年に欧米出張した時に、ニューヨークで知り合っており、何よりも「根源的人物」の杉山とは渡米前からの知己であった。大正3年に第一次大戦が勃発、重要医薬品モルヒネの輸入が途絶えた日本ではモルヒネ国産化が急務となるが、翌年には星製薬がモルヒネ国産化に成功する。予め台湾に製薬所を作っていた星は、まるでモルヒネ製造の国内化を予測していたように見えるが、真相は世界情勢を知る後藤・新渡戸ないし杉山の勧めによるものであろう。内務省から独占的製造許可を与えられた星製薬は、総督府から払い下げられる生アヘンでモルヒネ・ヘロインを製造し、製薬王と呼ばれた。

 総督府の生アヘンは内地産で、麻薬王を自称した☆二反長音蔵が全国の農家を奨励して量産したものである。明治八年に大阪府三島郡の福井村に生まれた川端音蔵は、三十四年に二反長家の養子となったが、実家の姓が示す通り、三島郡豊川村から出た☆作家・川端康成の近親と聞く。音蔵がケシ栽培に眼を付けたのは、新領土となった台湾は阿片吸引が盛んで需要が多い、と聞いたからである。元来、摂津地域では幕末からケシ栽培とアヘン製造が多少行われ、道修町の薬種問屋を通じて清国・台湾に輸出していたが、邦人の需要は少なく、明治八年阿片専売法が制定されて自由栽培が禁止されたこともあり、二十年代にはほとんど絶えていた。ところが台湾には三百万人、五万貫の阿片需要があると聞いた音蔵は、国産化を思い立ち、二十八年から台湾統計府・内務省・農商務省に建白書を提出する。当初は取りあって貰えなかったが、繰り返すうちに三十一年三月、台湾総督府民政長官(六月までは民政局長)に就いた後藤新平の眼に止まる。全量を輸入に頼る台湾アヘンの国産化を急いでいた後藤は、福井村を視察した時に引見した音蔵に期待をかけ、生アヘンの全量政府買い上げを決めた。後藤が星をアヘン製剤業に起用したのは、杉山が誘導したものと思える。

 日本はモルヒネ国産化以来わずか二十年にして、モルヒネの生産世界一に達し、国産せず国内需要も少ないコカインにおいても主要取引国となった。麻薬ビジネスは元来在英ワンワールドが最も得意とした分野で、儲けも大きいが、日本はそこへ易々と進出した。その真相は、日本に対露戦争を強いた英国が、日本の軍費を補償するために麻薬ビジネスを譲与したと思う。日英の媒介をしたのは無論杉山であろう。
 
 ☆二反長音蔵については、倉橋正直・『日本の阿片王』など伝記態のものがあるが、彼が作家・川端康成の近親とすると、思い浮かぶのは三島由紀夫(平岡公威)とその祖父・平岡定太郎のことで、松本清張・『神々の乱心』(文春文庫版上、193P~)には大連阿片総局書記・川崎友次と共に阿片密売に関わる前樺太庁長官・平岡定太郎(天津在住)として、その大正10年前後の中国での姿が描かれている。
 川端康成と三島由紀夫、共に自死した親密な二人の作家が戦後縁戚者の「阿片事件」について語り合ったことはあったのだろうか。

 またJ・ネイスン・『三島由紀夫-ある評伝』には、次のようにある。
 ・・・三島が生まれた大正14年頃には定太郎は借家の隠居所に身を落ち着け昔の仲間達を客に迎えては、碁を打ち、「好きな酒に大酔し、・・疲れを知らずに女道楽を続け」、「三島の父・梓によれば『父・定太郎はまったく大変な豪傑で・・家庭経営などにはおよそ不向きでありました』」・・・。
 (☆:ブロガー註)
  

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(24)  <了>。
 
 

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