カウンター 読書日記 ●大日本帝国の「阿片ビジネス」。
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●大日本帝国の「阿片ビジネス」。
 ●松本清張の遺作『神々の乱心』(未完)の一節の紹介からはじめる。

 ★大連阿片事件

 
 《 ・・・
 大正十二年八月三十日の関東庁高等法院の第二審が、大連阿片事件の被告・木原茂三郎、同川崎友次、同加藤音松に対し、一審判決の背任罪を事実誤認とし、阿片煙罪と改めて判決した背後には、政友会の高橋内閣が瓦解し、加藤友三郎、山本権兵衛と反政友会内閣の出現に影響を受けている。

 満洲の阿片問題は大正八年ごろから世界各国の関心を集め、注視を受けるところとなった。わが帝国が満鉄沿線の特別権益と関東州の租借地の特権をいいことに、シナ人に対し傍若無人な阿片侵略政策を行なったことが白日の下にわかれば、国際連盟の阿片取締法をはじめわが外交はきわめて窮地に立たされるであろう。事は政党と政商の結托から起っている。

 時あたかも台湾では大正十一年六月から翌年六月まで星製薬株式会社社長・星一他二名が台湾阿片令に違反した犯罪行為ありとして検挙された。

 関東州には当時阿片令はなく、「指令書」がそれに代るものとされていたが、台湾と朝鮮は立法化している。

 しかし、星一は(第一次)大戦で医薬用のモルヒネ、コカインなどの輸入が途絶してわが国の医療界が苦しんだ経験から、大正四年台湾専売局から粗製モルヒネを払い下げてもらい、塩酸モルヒネを製造することができた。研究の結果、日本に於て製造された最初のモルヒネである。その成功がモルヒネのほかにコカイン、キニーネなどのアル力ロイド薬品製造を起すことになり、内務省の許可をとった。これも星が日本で最初である。

 しかるに、これを嫉妬した他の製薬会社は連合して星製薬に当った。星が粗製モルヒネの大量買い付けにトルコ阿片を輸入して基隆港に荷揚げしているのに目をつけた競争製薬会社は、(星側が内務省・台湾専売局ならびに関係官庁の諒解をとっていると主張しているにもかかわらず)星の外遊中に手を回して、台湾検察当局に阿片令違反として起訴せしめる陰謀をなした。

 社長の星一は公判廷の最終陳述で云う。
「当社の発明を基礎とした低温工業株式会社の創立中に阿片事件が起り、全く破壊的打撃を与えました。さらに会社経営上一台打撃を受けております。加うるに台湾専売局より大正四年以来払下げを継続していた粗製モルヒネが、もう二年以上も一ポンドも払下げてもらえないのです。この三月に粗製モルヒネの払下げを出願せしもの三十三社あったということですが、これら三十三の出願社が直接間接に本事件の上に私及び私の会社の上に与うる悪影響は恐るべく重大なものがあります。さらに本事件は一大悲劇を起しております。昨年当社の取引関係について常務取締役・安楽栄治氏を台湾検察局に出頭させました。この善意の出頭者に対して検察官は、『何ノ為メニヤツテ来タカ、少シデモ間違ヲ云フト獄二投ズルゾ』と叱り短き訊問をし、更に何人にも会う事は絶対にならんと云うので、安楽君はホテルの一室に閉じこもり、食事も室内でなし、廊下にも出ず、ホテルの同宿者にも会わないようにして帰りました。この安楽君は本年一月直腸癌の手術を受けました。その時医師の診断によると、病気の発生期がちょうど台湾に来た時と一致するのであり、いま築地の聖路加病院に加療中ですが、危篤状態で、私の帰京まで生命がもつかどうか悲しむべき様子であります。さらにこの阿片事件で重大な関係のある前内務省医務課長・野田忠広氏は先月病死せられました。台北でこの事件のために牢死したものがあると聞きました。今もなお、ロンドンやニューヨークの競争者は、星は牢屋にいるから競争するのはこの際だとして、彼らより猛烈な競争を受けつつあります」

 この台湾阿片事件の星一の立場と、かの大連民政署の阿片事件の古賀、木原、川崎ら一味の立場とを比較せよ。星は粗製モルヒネからわが国最初のアルカロイド薬の抽出に成功した。その発明が競争会社の嫉視を買って、阿片事件を捏造され、星製薬会社の非運を招いたのである。古賀、木原、川崎ら輩とは、名は同じ阿片事件でも、まさに月とスッポン、天雲と汚泥の違いではないか!》 ・・・後略。

 ***************                      
 

 星一の周辺から事件前後の状況を見てみると、こうなる。

以下は、落合莞爾氏の論考「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(24)」の終章である。 
 

 ★大日本帝国「麻薬ビジネス」の本質


 明治三十七年にアメリカから帰国し、伊藤博文の朝鮮行に随行した星は、翌三十八年に星製薬所を設立し、胃腸薬などを製造販売した。米国で新聞社を経営した星が、帰国後に製薬業に乗り出したのは不自然で、もともと台湾総督府絡みのアヘン製剤を睨んで始めたものと思う。

 星が二ューヨークで知り合った新渡戸は、欧米差遣中の三十五年六月に臨時台湾糖務局長に就くが、帰国後京大教授を兼ね十月から京大教授専任となった。星が帰国した時には新渡戸は総督府を去っていたが、星は新渡戸の親分の後藤新平が三十五年に欧米出張した時に、ニューヨークで知り合っており、何よりも「根源的人物」の杉山とは渡米前からの知己であった。大正三年に第一次大戦が勃発、重要医薬品モルヒネの輸入が途絶えた日本ではモルヒネ国産化が急務となるが、翌年には星製薬がモルヒネ国産化に成功する。予め台湾に製薬所を作っていた星は、まるでモルヒネ製造の国内化を予測していたように見えるが、真相は世界情勢を知る後藤・新渡戸ないし杉山の勧めによるものであろう。内務省から独占的製造許可を与えられた星製薬は、総督府から払い下げられる生アヘンでモルヒネ・ヘロインを製造し、製薬王と呼ばれた。

 総督府の生アヘンは内地産で、麻薬王を自称した二反長音蔵が全国の農家を奨励して量産したものである。明治八年に大阪府三島郡の福井村に生まれた川端音蔵は、三十四年に二反長家の養子となったが、実家の姓が示す通り、三島郡豊川村から出た作家・川端康成の近親と聞く。音蔵がケシ栽培に眼を付けたのは、新領土となった台湾は阿片吸引が盛んで需要が多い、と聞いたからである。元来、摂津地域では幕末からケシ栽培とアヘン製造が多少行われ、道修町の薬種問屋を通じて清国・台湾に輸出していたが、邦人の需要は少なく、明治八年阿片専売法が制定されて自由栽培が禁止されたこともあり、二十年代にはほとんど絶えていた。ところが台湾には三百万人、五万貫の阿片需要があると聞いた音蔵は、国産化を思い立ち、二十八年から台湾統計府・内務省・農商務省に建白書を提出する。当初は取りあって貰えなかったが、繰り返すうちに三十一年三月、台湾総督府民政長官(六月までは民政局長)に就いた後藤新平の眼に止まる。全量を輸入に頼る台湾アヘンの国産化を急いでいた後藤は、福井村を視察した時に引見した音蔵に期待をかけ、生アヘンの全量政府買い上げを決めた。後藤が星をアヘン製剤業に起用したのは、杉山が誘導したものと思える。

 日本はモルヒネ国産化以来わずか二十年にして、モルヒネの生産世界一に達し、国産せず国内需要も少ないコカインにおいても主要取引国となった。麻薬ビジネスは元来在英ワンワールドが最も得意とした分野で、儲けも大きいが、日本はそこへ易々と進出した。その真相は、日本に対露戦争を強いた英国が、日本の軍費を補償するために麻薬ビジネスを譲与したと思う。日英の媒介をしたのは無論杉山であろう。

 ***************                      
 

  その杉山茂丸・『百魔(正篇)』には、星一について、

 16・異郷の天地に星一氏と遇う に始まり、
 24・新聞売子より製薬王になる まで9章に及ぶ記述がある。 

 
 (★書肆心水版=2006年8月刊で、P102~152。)
  
 
 その紹介は後日にして、●「疑史」上原勇作(3)の終章部を少し。

 ここでは、後藤=二反長ラインが取りあげられている。
 二反長音蔵とは、「阿片王」とも「阿片狂」ともいわれた人物である。  

 
 以下引用する。***

 新領土台湾におけるアヘン漸禁政策の採用から十数年、後藤新平の意を受けた篤農・二反長(にたんちょう)音蔵の努力によりアヘン製造の内地化が始まり、ケシ栽培者も岡山県と大阪府では千人前後に増えたが、他府県では数人から百数十人しかおらず、量産にはほど遠かった。後藤・二反長系列だけでは国内需要に満たず、他からも応援が欲しい状況だったが、周蔵は量産化に向かわず、特種ケシの栽培とモルフィン純度の極めて高い特殊なアヘンの製造を志向した。(*周蔵が一時入学した)熊本医専にはケシ専門官がおらず、周蔵は極めて少ない関連書物を漁り外国文献に頼りながら、独自に研究を始めたが、戸田某が陸軍嘱託の立場で派遣されて指導に当たることとなった。しかし戸田は、個人的に上原大臣の思想と合わないとの理由で直ぐに辞した。白樺派に共鳴する帝大農学士というから、諸侯系華族に六家ある戸田家のどれかの出であろう。

 大正三年春、ギンヅルから「渡辺ウメノという老婆からケシ関係の古書を貰って来い」と言われた周蔵は、京都に行き御霊前の医師・渡辺家を訪ねる。ウメノは田舎に行ったとのことで、「綾部ナル所マデ訪ヌルト 大本教ノ教祖ノ住ヒナルニ、大部不審ヲ抱ヒタ」とある。

 母が丹波穴太村のアヤタチ・上田家から出たウメノは、上田吉松とはいとこであった。大本教(正しくは「皇道大本」)の実情は、上田吉松・渡辺ウメノと出口ナオが手を組んで立教したもので、吉松の伜の上田鬼三郎(通称喜三郎、のち出口王仁三郎)が婿入りした綾部の出口家を本拠とした。

 出口和明『いり豆の花』は、当時の大本の発展ぶりを次のように記す。
〔まさに、「日に日に変わる大本」で、大正二年から三年にかけて大本近隣の土地を買収、大正三(1914)年一月一日には上野に三千五百坪の地ならし工事が開始され、金龍殿と統務閣の新築が決定された・・・王仁三郎が綾部に腰を据えてからの成長ぶりは、目覚ましいものがあった〕。

 正に多忙を極めた大本教団を手伝うために、ウメノは綾部の出口家に寄留していたのである。この時周蔵は、出迎えたウメノの胸元になぜか銀の十字架を見たと、後に家族に語った。ウメノは周蔵に、秘伝書の他に特種の黒いケシを呉れた。前述した多神教イスラエルの子孫のアヤタチ上田家は「在日マカイエンサ」でもあり、その種はオランダ渡りという物であった。

 アヘンの主用途は大凡三つあり、誰もが知る「鎮痛用ケシ」と「快楽用ケシ」の他に、余り知られていないが「延命用ケシ」がある。この時周蔵が貰ったケシは延命用で、これから作った純質アヘン粉が万病に効き、長寿をもたらすことを知った周蔵は、上原の許可を得て、以後はその増産に専念して、上原に献上するのが主要任務となった。上原の財界の盟友・久原房之助もこれを渇望し、周蔵は思いもよらぬ財運に恵まれて一生を過ごす。

  続く。
 
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