カウンター 読書日記 ●疑史 第50回 上原勇作(2)-2 
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●疑史 第50回 上原勇作(2)-2 
 ●疑史 第50回 上原勇作(2)-2  

 高島と上原の関係はあらかた世に秘されたが、ギンヅルの孫の吉薗周蔵の手記と『元帥上原勇作伝』に符合する記載があり、両者を統観すればその一端が浮かび上がる。大正元年12月に陸相を辞した上原勇作は、都城に帰省して鹿児島の日高尚剛邸に静養し、2年1月24日から指宿温泉で静養三週間の後、暴風雨の中を馬車で鹿児島に移る時に風邪を引く。3月1日付で第三師団長の内示を受けた上原は小林駅から乗車するが、車中で肺壊疸を発し、大坂赤十字病院に入院した(伝記)。熊本駅で上原に会った周蔵は「これから広島に寄って上京するから、東京に来い」と命じられ、上京して指定された旅館で待っていた処、「大阪赤十字病院に来い」との伝令を受け、ギンヅルから託された「ケシ粉薬」と「浅山丸」を携えて大坂に向かう。赤十字病院では、上原から頼まれたと称する高島なる人物が現れ、浅山丸を多く持参したと聞くと、「さすがはオギンさんだ」と喜び、上原にその服薬を勧めた(周蔵手記)。上原を見舞うため東京より西下した高島は、玉木看護婦に対し「浅山丸を呑んでゐるか」と問い、玉木が「一日十五粒である」と答うるや「それでは足らぬ。一回に三十粒やれ」と命じたので、玉木は命令通り云々(伝記)。その時に高島さんから「先の事、閣下(上原)に任せて心配ないよ」とはっきり言われて、周蔵は自信をつけ、それから父や大叔父を頼らなくなった(周蔵手記)。

 要するに、重態に陥って日赤病院の管理下にある上原に、浅山丸を確実に服用させるために、元陸軍大臣枢密顧問官・高島子爵が自ら西下したのである。その心情たるや実に勇作応援団長の心にして、その処置は正にワンワールド薩摩派総長が次期総長に為すべき事であった。周蔵を上原付特務とする一件も、ギンヅルと高島が起案したもので、高島は日赤病院で周蔵に会った時、わざわざ言を寄せて周蔵の不安を一掃したのである。難病を浅山丸で克服した上原は、以後は頑健となり、3年4月に陸軍教育総監就任、4年2月に大将に進級、12月には遂に陸軍参謀総長として陸軍のトップに就いた。

 上原が高島の後を襲ってワンワールド薩摩派の総長になったのは、その前後であろう。なお『周蔵手記・別紙記載』の大正6年条にも、「九月になると早く(ギンヅル)婆さんが上京してきた。目的は高島さんに関わる事もあるようだし、(上原)閣下に用もあるのであろうが、例の如くあの人物 (日高尚剛)と同伴であるに、何か企む事でもあるのであろう。閣下も又、まめによく手紙を出すようであるし、婆さんと二人、薩摩の田舎においてこの国の情勢を細んか(細かい)事まで手に取っておる」とある。

 高島は5年1月11日に72歳で長逝し、翌6年9月の初頭、ギンヅルは番頭日高尚剛を連れて上京してきた。その理由に周蔵は高島鞆之助に関する件をあげているが、薩摩派総長の座は既に上原に移っていた筈で、残務処理であろう。この後、ギンヅルに同行して京都に向かった周蔵は、高島の養嗣子の第十九旅団長・高島友武少将を訪ねて所用を果たし、その際にギンヅルと堤哲長の関係を聞いたようだが、それは友武が実父・吉井友実(当時は幸輔)から聞いていた幕末の薩摩屋敷での話であろう。初代総長・吉井の次男で二代総長高島の養嗣子となった友武は大正7年中将に進級、10年予備役入りして昭和18年に死ぬが、ワンワールドでの地位はどうだったのか?
 
 ●疑史 第50回 上原勇作(2)
   <了>。

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