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●疑史 第50回 上原勇作(2)-1
 ●疑史 第50回 上原勇作(2)-1  落合莞爾  

 前月号で言い忘れたことがある。南方でカラユキさんの娼館を経営した樺山伊平次を描いた☆神坂次郎『波瀾万丈』に、日本領事から頼まれた伊平次が上原勇作中尉の従者となり、明治20年6月23日から5ケ月に亘り、行商に身をやつして北支・満洲に潜入したことである。フランス留学中に大尉に進級した上原の階級は誤っているが、これは典拠の『伊平次回想録』の誤りを受け継いだからで、話の大筋は正しいと思える。『元帥上原勇作伝』はこの間の事績を、「19年12月臨時砲台建築部事務官に補せらる。20年1月士官学校御用掛を命ぜらる。同月臨時砲台建築部の命により相州(神奈川)三浦郡出張、3月対馬並びに馬関(下関)に出張、11月相州横須賀地方に出張」と記すのみで6月から11月にかけての軍事探偵行の記録をすっぽり抜かしている。軍事機密のため、正式軍歴にも軍事探偵行を載せない結果、上原元帥が弱年の砌りにせよ間諜をした事実を隠蔽する偽史作業となる。この場合は相棒の伊平次が記録していたので、端なくも真相が顕れたのだ。


 ☆『波瀾万丈』は、新潮社 1997年8月刊。
 ここでは、「樺山」伊平次は「椛山」伊平次となっている。


 因みに著者は近年、上原の後継者の一人甘粕正彦の真相を明らかにしてきたが、その拙論を、理由もなく「荒唐無稽」と謗る論者がいるが、夫子自身が史料を発見し得ぬだけのことである。世には故意に記録されぬ事実も多いわけで、もし夫れ文献以外を信じぬというなら、論者自身も四、五代前の父祖の実在を証明できまい。

 さて、臨時砲台建築部長・小沢武雄中将の欧州派遣に随行した砲兵大尉上原勇作は、8ケ月に亘る視察旅行の後、23年1月25日に帰朝し、5月砲兵少佐に進級、10月には本職の臨時砲台建築部事務官を罷めて、野津道貫中将隷下の第五師団に属する工兵第五大隊長に補せられた。翌24年5月6日、山県有朋に代わって松方正義が第一次内閣を組閣し、陸相は大山巌から高島鞆之助に代わる。海相は前年に西郷従道から樺山資紀に代わっていたから、ここに松方首相・高島陸相・樺山海相と勇作応援団の内閣が現出したのである。組閣の二週間前に逝去した前宮内次官・枢密顧問官・吉井友実が占めていたワンワールド薩摩派初代総長の地位は吉井の生前に高島が継ぎ、副長に樺山、別格の金融総帥の地位には松方が就いていたと考えられる。

 参謀本部でも総長に有楢川宮熾仁親王を仰いだが、参謀次長・川上操六中将が22年から実質的に取り仕切っており、ここに上原勇作応援団は、政治・金融・軍事に亘って日本国家の権力をほぼ完璧に掌握したのである。

 野津道貫の長女・槇子が満十八歳に達するのを待っていた勇作は、24年10月槇子と結婚式を挙げた。明治4年暮に単身上京した勇作は、5年の春から麹町区下二番町三十三番地の野津邸に寄留して南校に通ったが、翌6年10月に誕生した槇子は、生まれると同時に勇作の将来の妻と決められた。この縁組は、勇作の叔母・吉薗ギンヅルと勇作応援団長の高島鞆之助が望んだとおぼしいが、槇子の両親=野津道貫・トメ夫妻も歓迎し、槇子の祖母で高島鞆之助と野津トメの母の貞子にも異存はなかった。槇子が若過ぎたため二人の婚姻が遅くなったので、ギンヅルはこれより先に番頭日高尚剛の姉を三軒茶屋に住まわせて勇作のゼロ号夫人とし、当座の不便を解消しながら勇作の監視を図ったと伝わる。勇作は、留学先のフランスでもアルザスのユダヤ人ポンピドー一族の娘(ジルベール?)を与えられたが、これらの事実を岳父の野津が知らぬ筈はなく、大目的のために小瑕を顧みなかったのである。
 彼らの目的は、ワンワールド薩摩派の将来の総長候補としての軌道に勇作を載せることであった。

 明治25年8月、勇作は本職(広島の工兵第五大隊長)を罷めて参謀本部副官に補せられ、陸大教官を兼補する。陸軍の人材を参謀本部に集めた参謀次長・川上操六の計らいで、勇作応援団の総意にも合致した人事であった。広島時代には、単なる技術屋に終わるとの見方もあった勇作は、参謀として陸軍中枢に加わり、参謀総長・有楢川宮熾仁親王の高級副官に挙げられて特別大演習と観兵式に臨み、また国内各地を巡視したが、26年7月から安南(ヴェトナム)・シャム(タイ)に派遣された。これは、メナム河左岸の地を欲するフランスがシャムに戦争を仕掛け、シャムはビルマを併呑した大英帝国から既に圧迫を受けていた上、さらに安南を領有するフランスからも侵略を受けることとなり、シャムを巡って英仏関係が緊張するに至ったからで、フランス帰りの陸軍少佐・大迫尚道が、仏シャム戦争の結果が日清両国の利害に関係するとの報告を参謀本部にもたらしたので、参謀次長・川上操六は上原少佐と山田良圓中尉を道び、該地方の視察を命じたのである。上原は視察の傍ら、安南・シャムで図らずも日本人遺跡を見て感懐を催し、11月に帰朝した。

 明けて27年日清戦争が始まり、野津中将率いる第五師団は韓国派遣を命ぜられた。上原少佐は第一軍参謀に補せられて平壌攻撃に参加、平壌陥落の直後中佐に進級するが、当時の戦況や上原の戦功なぞは他書に譲る。
28年5月に日清の和平成立、わが台湾領有が実現して樺山資紀が初代台湾総督、高島鞆之助が副総督となるが、その経緯もすでに詳述した。戦功により功四球金鶏勲章を受けた上原中佐は、29年2月ロシア皇帝戴冠式参列のため差遣される陸軍少将・伏見宮貞愛親王の随行を命ぜられ、8月に帰朝した。

  勇作応援団の動向を見ると、高島鞆之助は29年4月、第二次伊藤内閣の初代拓殖務大臣に就いて台湾政策の根本を建て、9月に松方と大隈が金本位制を目的とした連立内閣を組閣するや、その陸相も兼ねて日露戦争に備えた。31年1月、伊藤博文の第三次内閣に際し、長州陸軍閥の寵児・桂太郎中将が権謀を尽くして高島を陸相から追放し、自ら陸相となって長州派を抜擢したので、薩摩勢は川上操六が参謀総長に昇格した以外は凋落の体をなした。以後高島は、枢密顧問官の外に何の職にも就かず18年の余生を送ることとなる。史家は挙ってこれを評し、長州の勝利・薩摩の失墜と論じる。近年発掘された『宇都宮太郎日記』の33年1月以後の条は、参謀本部の青年将校・宇都宮大尉らが、日露戦に備えるために高島を参謀総長に坦こうとした「起高作戦」の内幕と顛末を述べており、高島の参謀総長就任に失敗、朝鮮統監に就任さす運動も長州勢に妨げられた宇都宮らの、長州派の専横を憤る切歯扼腕が伝わってくる。その文中、起高作戦の有志として宇都宮の上官・上原大佐も登場するが、野津の女婿且つ高島の姪婿たる上原にして、さほど起高作戦に躍起とは感じられないのは先入観か。

 あれほど順風満帆だった高島が31年を以て急に失墜したのは、長州派の陰謀に負けたのではなく、24年に長逝した吉井友実を継いでワンワールド薩摩派総長に就いたため、世人の期待に敢えて背き、参謀総長・朝鮮統監などの要職を自ら避けたのが真相であろう。死去の数年前まで薩摩派総長に徹した高島の、仕事の一つは間違いなく台湾政策で、鈴木商店や日糖などを秘密基地にしたフシがある。いずれ根底には、高島の属するワンワールド薩摩派と、在英ワンワールド直参の杉山茂丸(その背後は堀川辰吉郎)との間の業務提携ないし分野調整があったものと思われるが、後日に論究したい。

  (2)-2へ続く。                      
 

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