カウンター 読書日記 ●「怠惰??」と「近代の労働観」
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●「怠惰??」と「近代の労働観」
 ●【必然の到着点】に到るといつも左右の区別が夕闇に溶け込んでしまう。

 1920~30年代の世界恐慌から大戦への過程でもそうだった。

 資本主義と社会主義が混じり合ってその差異が見えなくなってしまう。

 「自由と民主主義」の陣営が社会主義的経済政策を採り、

 社会主義陣営が競争原理を採る、という「世界茶番劇場」を見せつけられたものだが、

 その時からまだ100年も経っていない。

 健忘症にはいい加減で「オサラバ」したいものだ。

 溶け込み合っている政策の根っこには、奇妙な「一致」がある。

 両者の「労働観」=「勤勉万歳」がそれだ。

 「働かざるもの 食うべからず」と。
  


 「読書日記」(2007年7月9日)に、●労働観 として、以下のように紹介した。

 『近代国家とキリスト教』 森安達也 2002.10 平凡社ライブラリー(*原著・『神々の力と非力』は1994年 平凡社刊)
 同書のp103~108より

 ● 宗教改革と近代資本主義社会
 二十世紀の終わりの最大の出来事は、ソ連の解体と東欧の再編であろう。これは共産主義の敗北と資本主義の勝利と宣伝されているが、果たしてそうだろうか。少なくとも旧ソ連と東欧諸国では、社会主義経済体制は崩壊したか、あるいは崩壊しつつあるが、資本主義が勝利したなどとはとうていいえない状況にある。将来の見通しも明るくない。おそらく、「資本主義もどき」の状態が続くのではないかと予想されるが、そう思う根拠のひとつは、文化圏としてのロシア・東欧が東方正教文化圏と一部カトリック文化圏に属しているからである。二十世紀も終わろうとしているときに、いまさら宗教文化圏を持ち出すなど、見当はずれだとの意見もあるだろう。だが、かつて人々を支配した、あるいはいまでも支配している宗教が生み出すメンタリティーは、意外に無視できないものがある。

 これまでの歴史が示すところでは、ある社会における宗教上の少数派が経済活動の担い手としての役割を果たしている。ヨーロッパ各国のユダヤ人、フランスのユグノー教徒、イギリスの非国教会信徒とクエーカー派、ロシアの分離派(十七世紀中葉のニーコンの典礼改革を否認して正教会から分かれた。古儀式派とも呼ぶ)などいくらもあげられるが、これは普遍的な現象といってよい。ところが、宗教改革の結果を見ると、ひとつの傾向としてフランドル地方とイギリスのようなプロテスタント地域が経済上の先進地帯で、他方、イタリア、スペインなどカトリック地域は後進地帯となったと思われるし、あるいはもう少し時代がくだって、プロテスタントの北アメリカとカトリックの中南米という対比もありうる。もちろんそれは気候、風土といった別の要因によるものかもしれないが、プロテスタンティズムの成立と結び付くのではないか、との予見がでるのは当然である。

 十六世紀の宗教改革と資本主義社会の形成が時代としてつながっていることは事実であって、そこになにかの因果関係を見出そうとするのも自然であろう。マックス・ウェーバーは二十世紀の名著というべき『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(一九〇五年発表、日本語訳は大塚久雄訳、岩波書店、一九八九改訳版)において、経済活動に対する規制が厳しい社会で近代資本主義を助長するメンタリティーが生まれたという、逆説的なひとつの仮説を示した。ウェーバーのこの著作は、よく大学の新入生の必読書などにあげられるが、実際には著者の学問上の業績すべてが集約されたかなり難解な書物で、論の立て方はもとより、プロテスタント諸教派についての相当の知識がないと註釈も理解できないであろう。これを引用し論評を加える研究者ですら、全編を理解していないと思えることもある。もちろん、ウェーバーは近代資本主義社会が宗教改革の所産であるなどとは一言もいっていない。 

 ルターが聖書の翻訳に際して、「召命」と「職業」という異なった概念をベルーフBerufと訳しているが、これが「天職」の考え方の起源であって、単なることばの翻訳以上の深い意味をもつ。すなわち、世俗的労働に宗教的な意義を与えたわけで、それがプロテスタント各派の共通の思想となっている。以上がウェーバーの論の出発点である。ちなみに東方正教圈では、現代ギリシア語でもロシア語でも本来「奴隷の状態」という意味のことば(それぞれdouleia,rabota)が「労働・仕事」の意味で用いられており、「天職」に相当する表現はない。さて、このような「天職」の考えは、カルヴァン派の教えである「すべては神の栄光のために」および予定説の積極的な活用と結び付いた。とはいえ、カルヴァン派の神権国家では経済活動に対してもさまざまな規制があり、特に天職義務に適しない消費が圧殺された。それは中世のカトリック教会の規制よりはるかに厳しいものであった。それに対して、天職義務の教育が浸透するにつれ、価値観の転換が起こり、財の獲得が伝統主義的倫理から解放され、近代資本主義のエートスが生まれたというのである。ウエーバーは天職義務を「世俗内的禁欲」とも表現しており、プロテスタントが否認した修道制というものを持ち出して、修道制の禁欲の精神を世俗内的禁欲の先駆者としている。ここでいう価値観の転換は、常識的な思考からして理解しがたいところであるが、ウェーバーによれば、それによって利潤の追求が合法化されたばかりか、神の意志にかなうものと考えられたという。   

 カルヴァン派はのちになって、徴利行為、すなわち利子を取ることを認めた(ただし高利貸は別)が、これこそ中世の性格からの解放であった。現代人にとってあまりにも当然のことであり、また中世とルネサンス期においてもさまざまの便法が講じられたとはいえ、徴利行為は教会法が禁じるうしろめたい行ないであり続けた。したがって、徴利行為の容認だけは、ウェーバーの理念的考察によるエートスの形成とは必ずしも関係なく、宗教改革が近代資本主義の形成に果たした役割といってもよいであろう。

 このことは、イスラム世界における徴利の問題を考えてみると理解しやすい。
 世界の多くの大宗教と同じく、イスラム教の聖典コーランは徴利を禁止している。これは不労所得による財貨の蓄積を禁じるための処置であろうが、時代がたつにつれて、商業活動の疎外要因となったことは事実である。ただし、利子禁止は、投下資本から得られる利潤を禁止するものではなく、また十九世紀になると、利子禁止と明らかに矛盾する抵当権も容認されるようになった。それでもコーランの規定が近代社会の金融と商業の足かせとなっている状態は変わりなく、現在もなお西欧などと同様の銀行活動が可能かどうかの模索が続いている。

 また、カトリック教会の内部でも、経済活動のなかで複雑な様相を見せる利子の扱いについてさまざまな議論があり、十八世紀後半の回勅もそれを反映させながら、結局、「多くの場合、人は無利息の消費賃貸(生産のためではない賃貸)によって他人を援助しなければならない」としている。そして十九世紀になってようやく、質問に対する教皇または聖省の回答の形で徴利が正式に容認されるが、それも消費賃貸において利子(国家の法律によって許されている適度のもの)をとった者に罪の赦しの秘跡を与えてよいという内容である。

 さて、プロテスタントのエートスが近代資本主義の精神を育んだとのウェーバーのきわめて洞察力に富む仮説は、当然のことながらさまざまの批判にさらされた。例えば、イギリスの経済史学者リチャード・トーニーは、『宗教と資本主義の興隆』(一九二六年刊、日本語訳は、出口・越智訳、岩波書店、一九五六~五九年刊)という実証的な研究のなかで、ウェーバーの説を検証している。そして、十五世紀のヴェネツィアやフィレンツェ、あるいは南ドイツやフランドル地方では、「資本主義の精神」が十分に発展をとげていた、といっている。このような批判は、もちろん、ウェーバーのいう価値観の転換、特にカルヴァン派のそれを認めない立場から出ているのであって、近代資本主義の起源をどこで捉えるかといった検証不可能な問題については、さまざまな立場がありうるであろう。

 しかも、禁欲的プロテスタントのエートスが支えた資本主義の精神は、☆一過的なものでしかなかった。すなわちプロテスタントのエートスのほうはその後も保たれたが、資本主義の精神のほうは、やがて利潤の追求そのものが目的となったため、ウェーバーのいうような意味では失われていったのである。それは皮肉な結果であるが、しょせん宗教的熱情が経済制度を支え続けることはありえないのである。〔略〕     


 **************

 冒頭に、 「・・・奇妙な<一致>がある。 両者の「労働観」=「勤勉万歳」がそれだ<働かざるもの 食うべからずと>と。・・・」と書いた。

 この「近代の労働観」誕生をめぐる論争の周辺を少し振り返ってみることから続けよう。(深入りはしないで。)

 その後、近代の労働観(しばしば「労働の喜び」と「勤勉賛美」がふりまかれた)がもたらした現実に向かうことにする。

 二十世紀の名著というべき『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、この名著は最初1904~5年にかけて、2回に分けて『社会科学および社会政策アルヒーフ』誌に連載されたが、ウェーバーは最晩年に宗教社会学関係の著作を整理し、『宗教社会学論集』として出版したとき、補筆をして、1920年に刊行された。

 この著作が成立した背景には<資本主義精神起源論争>と名付けられる論争がある。

 相手はゾンバルトで最大の対立点は☆【アルベルティの位置づけ】をめぐってのものだった。
   
 
 ★資本主義の精神。

 「資本主義の精神」という問題提起は、ウェ-バ-に先立ってゾンバルトがおこなっている。 

 「資本主義の精神」には、かなり系統というか色合いの異なった二つの立場がある。

 資本主義精神はこの二つの対照的なものが絡まりあって展開する、とゾンバルトは言う。

 ① は、冒険、投機、あくどい利潤追求、泥棒的精神という言葉で表現されるもので、

 ② は、 計算、合理主義、市民的精神等でイメージされるものである。

 この② の中に、B・J・フランクリンと共にアルベルティを入れるというのがゾンバルトの理解で、ウェーバーはこれに真っ向から対立した。

 ★レオン・バチスタ・アルベルティについて。

  ゾンバルトはB・Jフランクリンの<倫理>がルネッサンスの偉人アルベルティの諸説と同一であると主張するが、ウェーバーはそれを否定する。

 アルベルティにとって一番重要なのは家政の原則であり、彼の理想は魂の平安と静寂な生活である。また一族の名誉を最高の目標とする。
 彼にとって、何よりも大事なのは家族-一族の財産であり、アルベルティを貫いているのは貴族的な感情である。

 こういう家政の原則は、厳格なピューリタンからすれば、被造物神化の罪悪である、とウェーバーは言う。

 では、ウェーバーはフランクリンをどう見るか。

 ウェーバーは資本主義の精神の例としてフランクリンの『若き商人への忠告(助言)』を採りあげ、一見商売繁栄の通俗的なノウハウ書とみえるこの本の中に、ある倫理的な指向性が認められることに注目する。

 このフランクリンの『若き商人への忠告(助言)』のなかで表明される倫理性には常識的にみると☆非合理と考えられるものが存在する、と。

 ★「非合理性」とは何か

 フランクリンの『助言』を読み込んでいく中でウェーバーが感じた「非合理性」とは、何か。
 常識的には「勤労」の目的は収入=富を得ることで、そのことがもたらす「豊かな生活」だといえる。

 ところがフランクリンの『助言』を読んでいくと、それとは異質な「生涯を職業的な労働に捧げる」という観点が貫かれている。言わば、「労働への献身」が自己目的と化している。

 ウェーバーは、フランクリンのパンフレットの持つこの「非合理性」=あえて言えば「不思議な禁欲的エートス」と「倫理的精神」=に注目する。

 要するに、フランクリンのパンフレットは「幸福や快楽を目的としない労働」について説いているのだが、これは常識的には、不思議な精神のあり方と言える。ウェーバーはそれを「無意味な」「禁欲的、倫理的精神」だと指摘する。労働の目的は幸福や快楽ではないとする不思議さは何に由来するのか。


 ★B・Jフランクリンについて。(後述)

 
 ★「世俗的労働」の位置づけ

 ウェーバーはここでフランクリンのパンフから「ルター訳聖書」の検討にはいる。
 その「ルター訳」で、それまで単に「職務」をあらわす言葉を「ベルーフ」と訳したことの重要性を指摘していく。(上の森安達也著に要約されている。)

 「世俗的労働」と対極に位置するひとつは常識的には☆「修道院的禁欲」だろうし、中世のキリスト教社会では(もちろん、原始キりスト教ではなおのこと)日常生活・行為の中に「救済」があるなどとは考えられていなかった。
 本来、キリスト教とは異質のこのような<世俗的労働⇒救済へ>という思想は宗教改革期において初めてあらわれてきたものである。その過程をみていくことにする。

 ☆上の森安著を再確認しておくと、「・・・ウェーバーは天職義務を「世俗内的禁欲」とも表現しており、プロテスタントが否認した修道制というものを持ち出して、修道制の禁欲の精神を世俗内的禁欲の先駆者としている。」という。

 ★ルターの「後退」か「成り行き」か。

 ルターの「後退」とは何からの「後退」なのか?

 それはルター自身の世俗的労働の認識の変化と言い換えることが出来るし、その「変化」は多分に「成り行き上」(成り行き次第)のものにみえる。
 最初、ルターの世俗的労働の認識は、飲食と同様の意味しか持ち得ないもの(被造物にすぎない人間の行動のひとつとして、)であり、道徳的な意味など持ち得ないというものであったが、カトリックとの対立が深まるなかで、世俗的労働に大きな意味を認めるようになった。強大な権威思想との対立が産んだ「変化」とは、言葉を換えれば「成り行き上」の「変化」ということである。

 ルターはカトリックとの対立が強まるなかで、ヴォルムスの国会での証言に到るが、農民の反乱が拡がりをみせる状況、特にミュンツァー派(急進派)の出現を前にして、彼の「職業労働」という観点を次第に「後退」させていく。そして、それは現世秩序の肯定(=伝統主義)にまで戻ってしまい、ついには神秘主義への傾斜にまで到る。

 禁欲的な職業労働によって救済を得ることができる、という考えは、☆「ある行動」によって救済は可能だということで、それは免罪符を買う(という行為)ことによって救済されるということと同質のものといえるので、当然それを認める方向にはルターは進めない。

 これに対立的なのがカルヴァニズムの労働観(労働=神からの召命)であり、ウェーバーはカルヴァニズムの検討に向かう。

 ★ウェーバーの神秘主義について。

 ウェーバーは類型的に神秘主義を禁欲と対置している。・・・しかし西欧近代資本主義の発展に動機づけを与えたか否か、という視点から見れば、禁欲が光であり、神秘主義は影であった。・・・宗教生活が神秘的な感情の培養に傾いたルター派と、禁欲的な行為に傾いたカルヴァン派との差異を明らかにした上で、・・・後者(カルヴァン派)の倫理性に加担しているのである。
それは、ウェーバーが同時代の文化プロテスタントの神秘主義への過小評価に同調していたからにほかならない。(『宗教と科学』 上山安敏 p226-7 ・・・は省略部分)

   続く。
 

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この記事に対するコメント
<しょせん宗教的熱情が経済制度を支え続けることはありえないのである。
>

同意。
経済<制度>は一種の宗教です。
【2008/10/16 04:02】 URL | 古井戸 #Odn1FXQk [ 編集]


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