カウンター 読書日記 ●太秦の地、三柱鳥居 (2)。
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●太秦の地、三柱鳥居 (2)。
 『古代ユダヤの暗号』の第6章-を冒頭から紹介する前に、
 ★註:長谷川(間瀬)恵美氏の*2に補記しておく。
 
 主に ●「聖書の雑学」-日本に来た最初の キリスト教徒
     -「景教」の世界的権威、佐伯好郎博士が最晩年に述べていたこと。
 を参照させていただいた。
 →  http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/zatsugaku/firstchristian.html

 
 『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』☆の、740番目に挙げられている氏族名「太秦公宿祢(うずまさのきみのすくね)」の記事を見ると、こう書かれている。(以下、原文)
  ☆「古代氏族の系譜集成。京・畿内に本籍を持つ1182氏をその出自や家系によって神別・皇別・諸蕃に分類。嵯峨天皇の勅を奉じて万多親王らが編し、815年(弘仁6)奏進。30巻・目録1巻。現存のものは抄本。新撰姓氏録抄。姓氏 録。」(「広辞苑」第五版。岩波書店 1998年。)

 「男功満王。帯仲彦天皇[謚仲哀。]八年来朝。男融通王[一云弓月王。]誉田天皇[謚応神。]十四年。来率廿七県百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。以百廿七県秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。次登呂志公。秦公酒。大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐(うづまさ)」

 *******

 『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(九世紀)の、914番目に挙げられている氏族名「秦忌寸(はたのいみきの)」の記事にはそのことが、こう記されている。(以下、原文)

 「功智王。弓月王。誉田天皇[謚応神。]十四年来朝。上表更帰国。率百廿七県伯姓帰化。并献金銀玉帛種々宝物等。天皇嘉之。賜大和朝津間腋上地居之焉。男真徳王。次普洞王。[古記云。浦東君。]大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。賜姓曰波陀。今秦字之訓也。次雲師王。次武良王。普洞王男秦公酒。大泊瀬稚武天皇[謚雄略。]御世。奏餬。普洞王時。秦民惣被劫略。今見在者。十不存一。請遣勅使鬲括招集。天皇遣使小子部雷。率大隅阿多隼人等。捜括鳩集。得秦民九十二部一万八千六百七十人。遂賜於酒。爰率秦民。養蚕織絹。盛・詣闕貢進。如岳如山。積蓄朝庭。天皇嘉之。特降籠命。賜号曰禹都万佐(うづまさ)。是盈積有利益之義。役諸秦氏搆八丈大蔵於宮側。納其貢物。故名其地曰長谷朝倉宮。是時始置大蔵官員。以酒為長官。秦氏等一祖子孫。或就居住。或依行事。別為数腹。天平廿年在京畿者。咸改賜伊美吉姓也」
 (佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』 吉川弘文館,昭和37年。「氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」より。)

 このように、「弓月王」が、応神(おうじん)天皇(在位270-310年)の第14年(西暦283年)に「来朝」し、さらに「百廿七県(あがた)」(127あがた)の民を率いて「帰化」したとある。

 (注:「日本書紀」巻第10「応神紀」の記述によれば、その数は「百二十県(あがた)」とあり「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の記録と少し異なっている。こう書かれている。

 「(応神)十四年春二月,百済王(くだらおう)が縫衣工女(きぬぬいおみな)を奉(まつ)った。真毛津(まけつ)という。これがいまの来目衣縫(くめのきぬぬい)の先祖である。この年、弓月君が百済からやってきた。奏上(そうじょう)して、「私は私の国の、百二十県(あがた)の人民を率いてやってきました。しかし新羅人(しらぎじん)が邪魔をしているので、みな加羅国(からのくに)に留っています」といった。そこで葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年たっても襲津彦(そつひこ)は帰ってこなかった。」
 (宇治谷 孟「日本書紀〈上〉 全現代語訳」講談社、1988年。217ページ。)

 ★因みに、森博達(もりひろみち)の労作、『日本書紀の謎を解く』(中公新書1999年10月刊)によれば、この巻十は、β群として分類されている。
  β群とは、基本的に和化漢文で綴られていて、漢語・漢文の誤用や奇用も多く、文章は倭臭(日本的漢文)に満ちている、というものである。(同書、p225) 

 この「百二十七県(あがた)」(百二十七部(べ))が示唆する人数に関して、佐伯好郎博士は37歳の時に書いた『太秦(うずまさ)(禹豆麻佐)を論ず(諭す)』という小論文の中で、こう述べている。

 「姓氏録(しょうじろく)に依れば,雄略(ゆうりゃく)天皇の時,秦酒公が山城葛野に聚集せし秦氏は一万八千六百七十二人、九十二部にして、其後欽明天皇の朝に於て調査せられたる時に於ても七千有余戸の人口ありしといへば、応神天皇の十六年に於ける百二十七県、即ち,百二十七部の人夫は総数に於て二万五千人以上なりしや明なり。」

 (『歴史地理』という学会誌(喜田貞吉博士主宰)の第100号(第11巻第1号。明治41年(1908年)1月号)の中の佐伯好郎著『太秦(禹豆麻佐)を論ず』という小論文より抜粋。これは,佐伯博士が、37歳の時に書いたものである。
「佐伯好郎遺稿並伝〈上〉伝記・佐伯好郎」大空社 1996年。316ページ。原著は、佐伯好郎伝記刊行会 昭和45年。)

 そんなにも多くの民(2万5千人以上)を率いて日本に渡来した、と記録にはあるのである。

 (注:歴史人口学の研究者、鬼頭宏氏によれば,日本の人口は、弥生時代には約60万人、奈良時代(710-784年)には,約450万人であったと推定されている。(「人口から見る日本の歴史」講談社 2000年。)

 そして、彼らは日本に「帰化」し、日本人となった。
 彼らがいわゆる「秦氏(はたし)」と呼ばれる一族である。

 『新撰姓氏録』(740番目に挙げられている氏族名「太秦公宿祢」の部分)には、秦氏(はたし)の「姓の由来」(なぜ彼らが「ハタ」と呼ばれるようになったのか,そのわけ)が載っている。

 それによると、第16代「仁徳天皇」(在位313-399年)の時代のことについて、

 「秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。」

 (佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』 吉川弘文館,昭和37年。「氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」より。)
 「秦王(しんおう)の献(たてまつ)れる糸,綿,絹帛(きぬ)は,朕(あれ)服用いるに,柔軟(やはらか)にして,温煖(あたたか)きこと肌膚(はだ)のごとしとのたまふ。よりて姓(うぢ)を波多(はた)と賜ひき」と書かれている。
 つまり、仁徳天皇に秦氏が,絹や綿を献上したところ、それが「肌(はだ)」のように柔らかいので、「秦」と書いて「ハタ(または「ハダ」)」(「波多」。『古語拾遺』の記述では「波陀」)と読む姓を与えられたと述べているわけである。

 また、秦氏のハタは、「機織(はたお)り」に因むという説もある。

 あるいは、「ハタ」氏が始めたから「ハタ織り」と言うようになったのかもしれない。
 (久保有政著「日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相」学習研究社 2003年。22ページ。)

 彼らは、「養蚕と絹織物業」にたずさわる人たちだったわけだが、当時の「シルクロード」(“Silk Road”「絹の道」)においては、「絹」の交易は、ユダヤ人かキリスト教徒がほぼ独占していたものということが分かっており、それゆえ彼らは「ユダヤ人」ではなかったか、とも言われている。
(ラビ・M・トケイヤー著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎」徳間書店、1999年。259ページ。久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店、2000年。130ページ。ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店、2000年。58ページ。)
 

  『古代ユダヤの暗号』 (平成13年10月 日本文芸社) ●第6章 「契約の櫃(アーク)」は京都の巨大六芒星のうちにある に戻る。
 
 
************


 ★太秦の奥義・秘められた封印とは何か(p202~)


 京都太秦。太秦(うずまさ)がウズ・マシヤ=「イエス・メシア」であることはすでに紹介した。さらに太秦には二重、三重の暗号が隠されている。

 まず太を渦=★と呼ばせることによって太秦は、「☆★秦」となり、ユダヤ人秦氏にとってすばらしくシンボリックな地名になっている。

 次に、太秦の地名は中国・唐の時代、中国に渡ったユダヤ教エッセネ派(キリスト教ネストリウス派)の信徒たちが大秦寺(ローマ寺、メシア・キリストの生まれた大秦〔ローマ〕を記念する寺)を建立したことに関係がある。

 大秦寺・太秦。両者はとても似ている。しかし、太秦が大秦から由来する名前であることを指摘する研究者が過去大勢いたというのに、「大と太では漢字が違う。だからそれはこじつけでしかない」と主張する学者たちによって、こうした説は論拠のないものだとされてきた。しかし太と大の関係は先にも説明したように、☆がただのシンボルとして使われるか、呪法として実際に使用されるかの違いによるのだ。

 だから秦氏が、大秦をわざわざ太秦にしたのは、その地に呪詛がかかっていることを意味している。
 
何の呪組か? それこそがユダヤの秘宝を封印する呪詛だったのである。


 ★聖徳太子はキリストであり、秦河勝はモーセだった


 聖徳太子。日本史のなかでこの人ほど政治家・宗教家として畏敬をもって尊称された人は存在していない。聖徳太子がイエス・キリストと同じく、馬小屋で生まれ、死後復活したという伝説はあまりに有名で、それゆえ、聖徳太子伝はキリスト伝説をもとに作られたのではないかと指摘する声があるほどだ。

 太秦に秦氏が建立した寺、広隆寺がある。そしてそのなかに聖徳太子を祀る「太子殿」がある。ここの廊下の左上にはしっかりと五芒星=ダビデの紋=救世主の印が掲げられている。現在の額は明治時代の太子講の人々の寄進によるものだが、何の意味もなく五芒星が掲げられるはずもない。初めからあったものが幾度も新調され直して掲げられているのであろう。

 しかも太子殿の扉に刻まれているのは、まごうことなく十字架の紋章である。

 この紋章は、聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女(のちの用命天皇妃)が馬司のところに来たときに、厩の戸に当たった拍子に太子を難なく出産したという伝承と関係している。

 戸=十であり、十は十字架だから、戸=十字架の暗号がここに隠されている。
 というわけで、太子は十字架の力で生まれた子供であると考えられるのだ。

しかも、太子は側近の秦河勝から「弥勒菩薩=ミトラ神」の生まれ変わりであると信じられ、世の人々もまた、太子は弥勒として衆民を救うために遣わされたと信じていたわけだから、聖徳太子=ユダヤのメシアは動かせない事実なのだ。

 それともう一つ、聖徳太子の側近、秦河勝の出生については三輪山の川を流れてきた瓶(=亀)の中から誕生した子供であるという説がある。

 モーセと同じく川から救い上げられ、「亀甲紋」をいただいている。
 つまり、聖徳太子と秦河勝は、ユダヤ伝説の二聖人、キリストとモーセになぞらえられていたのである。

 そしてキリストとモーセが、いわば組んで行なったのが歴史の編纂、律法の設定、王都の建設であった。
 
 ★広隆寺の牛追いの祭りはミトラ神の祭り


  このようななかでは、時代を経てのちの平安朝の王都建設に秦一族が関与しているのはむしろ当然のことである。いや、一部前述してきたように彼らの根拠地の山城(現在の京都府)に、新しいエルサレム=平安京が置かれるのは必然でもあった。

 秦氏=ユダヤ人説は、これまでにもさまざまな傍証が取り上げられては語られてきた。しかし私たちは、前出の大秦と太秦のように、より直接的に、彼らの用いる文字に注目したい。

 さて、ユダヤ教・キリスト教の祈りの言葉である「アーメン」は、漢字で「訐免」と書く。その意味は、「大きく避ける」。つまり、大避の文字はアーメンであるわけだが、秦氏はこの大避に大秦→太秦と同様な操作を施すことで、見事な二重の暗号を作っていたのである。

 秦一族の氏寺・太秦の広隆寺には、大辟神社(現在では大酒神社となっているものの古称)なるものが存在している。

 そして、唐の遺跡にある景教碑文や景教教典のうちには、ダビデ王のことが大闢と記されている。

 ここから大辟神社はダビデ神社ではないのか、と疑う研究者は大勢いる。しかし、この説もやはり「闢と辟では似ているが違う漢字だ」ということで学者からは否定されてしまう。

 しかし、漢字がわずかばかり違っているということが、はたしてそれほど大きな問題なのだろうか?

 むしろ秦氏は大辟に、大避のアーメンと大闢のダビデの両方の意味を持たせた暗号として使っていたと考えられないだろうか。

 秦氏は太秦に来る以前は、丹後の赤穂(ユダヤにもよくある地名)という所に大勢で住んでいた。ここには秦氏が建立したといわれる★大避神社なるものが存在している。
 ★大避神社(おおさけじんじゃ)は兵庫県赤穂市の坂越にある神社。祭神は大避大神(秦河勝)・天照皇大神・春日大神。

この大避神社が広隆寺の大辟神社と同じものであることは間違いない。

 要するに、この時点ですでに秦氏は避と辟とを区別していないのだ。共通は辟の部分にある。そうすると、闢は辟に門構えがあるかないかだけのことだから、当然、この両者に区別はつけなかったはずなのだ。

 大闢と大辟は同じなのだ。するとやはり大辟神社はダビデ神社だということになる。ダビデ神社のある広隆寺。ここに「牛追いの祭り」という奇祭が存在している。

 安永九年(一七八〇年)に出た『都名所図会』によれば、「摩陀羅神」と呼ばれる鼻の高い白面をつけた神が雄牛の背に乗って登場し、それに随伴する天狗面をつけた僧侶が、飛び跳ねる牛の背にまたがり、牛を取り押さえようとするかのように描かれている。

 摩陀羅の色は、ペルシャにおける最高神を表わす色であり、広隆寺の本尊が弥勒菩薩であることからも考えると、この牛にまたがっている摩陀羅が、ミトラであることは間違いない。先に紹介したクノッソスにあったミノタウルスの神殿(バァル神殿)でも同じような祭りが行なわれていた記録が存在している。

 それは、広場に暴れる雄牛を解き放ち、その雄牛の背に乗ってアクロバットのようなものを演じるという奇祭だった。

 まさに広隆寺の「牛追いの祭り」は、古代から脈々と続くミトラ神の祭りなのだ。


 ★耳(33)の秘密とフリーメイソンの系譜


 先ほどまでにミトラの巨大な目が何度も登場したが、ミトラの霊力は「万の目」「燃える炎のような目」だけによるものではない。

 「千の耳」であまねく世界の声を聞くことができるからこそ、ミトラは全能神と呼ばれる。耳=三・三。もうおわかりだろう。聖数である33の暗号が、耳の文字には秘められているのだ。

 ミトラに関係する50、33、さらに生命の木を象徴する「ササラ」「サララ」などの表現が、日本の天皇や皇后名にも数多く登場してくる。

 御間城入彦五十瓊殖(崇神天皇)、活目人彦五十茅(垂仁天皇)、五十瓊殖敷入彦命(垂仁の皇子)、五十日帯日子王(垂仁の皇子)、鸕野讃良皇女(持統天皇)、神渟名川耳(綏靖天皇)、豊聡耳皇子(聖徳太子)などだ。

 聖徳太子の霊力と聡明さの象徴は、「十人の人の言うことを聞き分ける賢い耳を待っていた」ことで表わされる。太子の耳が重要なわけだ。

 耳が33の暗号であることは、聖徳太子が三十三代目の天皇・推古天皇の摂政となったことでも強調されている。

 33の聖教を待ち、ミトラの耳を待つといわれた聖徳太子。太子のなかにも暗号の☆が隠され、さらにその出生と復活神話までもがミトラにたとえられている。また、天皇系図で太子と呼ばれた者は、聖徳太子以外には存在しない。息子が普通である。いや、太子の称号だけではない。事績の点のみなら歴代の日本の天皇のなかにも匹敵する人物は確かに存在するはずなのに、なかでも太子は特別な地位の人物であった、とされているのだ。

 日本建国という大事業は、なんと太子が石工(メイソン)であったからこそ成し遂げられたものなのだ。そう、メイソン。言わずと知れたフリーメイソン。

 太子はユダヤの奥義に通じ、神殿を造る資格を有するメイソンだった!

 それは太子の母方の出自から割り出せる。太子の母・穴穂部(穴太とも記される)は、穴太(=穴☆)の一族であり、穴太一族は有力な石工集団だったのだ。ユダヤ人で、王族につながる石工といえば、それはフリーメイソンにほかならない。フリーメイソンのシンボルには、ミトラの市松模様や巨大な目のほかに、定規とコンパス、そして三本の柱などがあった。

 そこで、次ぺージ下の右の図(*前稿の写真)を見ていただきたい。ユダヤの聖人、イエス・キリストの聖画である。

 そこではコンパスと定規を持ったキリストが描かれている。また、ヨーロッパの民話ではキリストは錬金術師としても語られている。『聖書』では大工とされていた。このようにキリストもまた、フリーメイソンの系譜に属する人であったからこそ、宗教的な智恵に秀でていたのである。
 
 ★聖徳太子も秦氏もフリーメイソンだった 


 そして211ページの下左の図(*前稿の写真)を見てほしい。これは四天王寺に聖徳太子像として伝わる絵だが、ここから大工、石工などの聖徳太子信仰「水子講」が興ったといわれている。その像の手に持つものが、いまでいうコンパスと定規とされたからである。それはなによりも彼がフリーメイソンであったことを雄弁に物語っているとしえないだろうか。

 聖徳太子だけではない。秦一族も平安京や数々の社寺を建設したことで知られる設計士集団だし、彼らの本拠地であった赤穂が金・銀の鉱脈で潤ったことからも明白なように、金属師集団でもある。ミトラ信仰(弥勒信仰)と建築技術、五芒星とダビデ神社、巨万の富をもって日本政治に君臨した秦一族こそ、最も有力なフリーメイソンだったに違いない。

 そして彼らの秦という名は「シン」と読めば金属部を表わす。また、秦は元来「ワタ」と発音されていたであろうともいわれている。「ワタ」は日本語では「海」だし、ヘブライ語では「海水」をさす。

 自ら海水が凝り固まってできた潮の島「音語呂島(おのごろしま)」には、「秦一族が集団でやって来て造ったシオン」の意味が合まれていたのである。

 さて、ここで生命の木について一言ふれておこう。これは「桃の木」で表現されることが東洋では多い。

 桃から生まれた桃太郎が、神人的な力を持って鬼退治ができることは、そういう理由である。

 また、桃太郎物語の鬼の島は、沖縄・九州など南方において、深い穴を下りていった地下王国として表現されている。桃太郎は『古事記』の「イ伊邪那岐命の黄泉の国訪問伝」(死んだ妻・伊邪那美を慕って、伊邪那岐が地下にある死の国に出向き、襲ってきた鬼を桃の実をぶつけて退治する話)の類似話となっていて、地下にある鬼の国(死の国)に対抗する桃の木の力を象徴する物語なのである。

 とすれば、桃太郎物語は、一種のバァル神(ミトラ神)の死克服の神話とみることができるだろう。さらに日本では古来より三月三日(耳の日)が桃の節句として祝われることの源流には、こうした神話が存在していたのである。   <了>
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/612-5dacc334



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。