カウンター 読書日記 ●太秦の地、三柱鳥居。
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●太秦の地、三柱鳥居。
                     蚕の社の三柱鳥居_1
                          蚕の社の三本柱            

 昨年5月18日に
「・・・長谷川(間瀬)恵美氏による「太秦(うずまさ)- カミと仏と一神の交流の場 -」も興味深いもの(*特に<三柱鳥居>の項)だったが、以下は皆さんでどうぞ。」【2007/05/18 10:34】として、未紹介だったので、先ずそれから。
  
 ●太秦(うずまさ)-カミと仏と一神の交流の地- 長谷川(間瀬)恵美  
 『シスモールヴォイス』(5)特集京都-1 2006 冬号 所収。

 ★はじめに

 「京都は日本の伝統」というキャッチフレーズを見て、不思議に思っても、それを否定する人はいないだろう。けれども、日本の文化、日本の伝統、日本人とは一体何だろうか。異文化交流の英語の授業で“l am a Japanese.”と答える学生たちに「日本人」とは何かと問うたところ、「日本語を話す」「日本料理を食べている」「日本で生まれた」「両親が日本人である」等々の答えがかえってきた。しかし、いずれの答えも満足できる答えではない。アメリカやブラジルに住む日系2世、在日韓国人、帰国子女、ハーフの子供たち一今の国際社会に生きる子供たち-は自己をめぐる問題をたくさん抱えている。 日本に安穏と生活していると、とかく忘れがちな日本、その文化、その伝統に関する基本的な問題は、自己のアイデンティティを探ることに関わっている。

 ★日本的霊性

 自分の体験から言えば、「私は日本人である」ということは、実はその根底に日本古来の宗教心が潜伏していることだ、と私は考えている。それは古神道(アニマイズム)だと言ってもいいだろう。日本人が日本文化の脈絡において体験するもの、つまり日本文化の依拠する精神的基盤、それは日本的霊性にほかならない。神道は古代から現代に続く日本の民族宗教として、長い歴史、伝統を持っている。明治時代は国家神道が強制された時代でもあるが、これは天皇が現人神として祀りあげられるという、特異な一神数的神道の形体と考えられる。敗戦後、国家神道は解体し、現在は神社神道、皇室祭祀、民俗神道、宗派神道の4つが主要な形体とされる。そして今日、日本の若者たちの多くは、このような神道の諸形体に頓着することなく、子どもの時から初詣や七五三で神社へのお参りに親しみ、神道を「宗教」と感じることなく、生活の中に取り込んでいる。*1 神道は、人々の生活に深く関わり、精神生活の基盤ともなっている。今日においても、神社では四季を通じてさまざまな祭礼が行われる。春にはその年の実りが豊かであるようにと祈り、夏には災害や災厄を案じ、秋には収穫を感謝し、冬には春に向けて生命の宿りを祈願する。祭礼は神々と人々の交流であり、感謝の気持ちの表現であり、地域の文化や伝統を継承する「場」として定着している。日本の主な年中行事や祝日は、神道や仏教に関係するものが多い。日本人の一生の節目は、人生儀礼として神々のご加護とその恵みに感謝するという行事-お食初め、七五三、成人式、合格、結婚、安産祈願、年祝い等-で祝される。そのような現実を前にすると、神道を日本文化の基層、見えざる国教として解釈し直す必要を感じさせられる。

 ★神道のカミ

 神道のカミの特色は「多の和」である。八百万の神々という言葉が現在も力強く息づいているように、多神が共存する世界観である。神々は他を排することなく、それぞれの場を獲得し、隠れた霊力として現臨する。古来より、日本人は自然の中に霊的な産霊の力を感じ、それが人間を包み育んでくれる、大いなる力であると理解してきた。その霊的な力は自然界に現れる。そこで人々は鎮守の森に神社を置き、神々の依り代として祀った。森の木々、河、山、岩、動物は、カミの宿る神聖な場であった。カミは知り得るものではなく、その気配によって感じられるものであった。やがて、神々と人間の関係は、時に友好的、時に主従関係をとるように理解される。カミは人々に穀物等の自然の恵みをもたらすが、時には自然災害として偉大な破壊力をもって怒りをも表す。人々は「祭礼」において神々と交流し、その霊を労った。神々は一時の交流を楽しみ、またあの世に帰っていく。次第に祖先の霊もカミの一つとして考えられるようになっていった。

 ★太秦(うずまさ)の地

 右京区太秦の土地には、一神教と関係の深い神社仏閣が現存する。[以下では弥勒菩薩の半珈思惟像で有名な広隆寺、摩多羅神の巡行する「牛祭」で有名な大酒神社、そして日本最古の神社の一つである木島座天照御魂神社を取りあげ、日本と一神教の交流とその興味深い歴史を考察する。]

 太秦は秦民族を中心に栄えた。秦民族は朝鮮に逃れた秦の始皇帝の子孫であると言われ、日本に渡ってきた渡来人である。佐伯好郎の『景教碑文研究』の付録に、「太秦(禹豆麻佐)を諭す*2」という論文が収められており、それによると、太秦は471年頃、雄略天皇の時、弓月王帰化の秦酒公(はたのさけきみ)が18,679人を伴って居留した土地とされる。その後、太秦には秦人25,000人以上が帰化した。秦河勝は聖徳太子に仕えた有力人物で、彼は推古天皇から譲り受けた百済の弥勒菩薩を蜂岡寺(太秦寺、現在の広隆寺)に奉っている。現在も、寺の境内には秦氏を祀る社が存在する。

 *2 佐伯好郎『景教碑文研究』大空社1996年所収 「太秦(禹豆麻佐)を諭す」21~50頁。
    この論文は佐伯氏が明治41年1月『地理歴史』に投稿したものである。
    佐伯説に対する批判も提出されているが、日本で初めて提唱された説としてここに紹介する。

 広隆寺から映画村の方に歩むこと数分、秦の始皇帝、弓月王、秦酒公を御祭神とする大酒(大辟)神社がある。こちらの神社は、広隆寺よりも前に建立されている。秦酒公は養蚕技術を伝え、養蚕業を営み、朝廷に絹綿を納めることによって、日本文明に多大なる貢献をなした人物である。献上した際、絹綿が「うずたかくつまれた」ことから、太秦を「うずまさ」と読むという説もある。ちなみに「機織り(はたおり)」は秦氏に由来する。*3
 *3:織物で財を成した三井家(越後屋)は、この神社を守り神として崇め、江戸に進出する際には、全く同じ形の三柱鳥居を江戸の屋敷内に造り、後に向島の三囲神社へ移した。木島神社の神服宮司説。

 同じく秦氏によって建設された、蚕の社という名称で知られる木島(このしま)神社(木島座天照御魂神社)は、日本最古の神社の1つとして数えられる。こちらは天之御中主神を祭神として、600年頃創建された。鳥居をくぐり、拝殿に立つと、左側に本殿、右側に養蚕神社(蚕の杜)がある。本殿の左側に神池(元糺の池)があり、そこに鳥居を3つ組み合わせたような特異な形をした三柱鳥居が建つ。

 5年前(2001年)に訪れた際は、かろうじて池が存在していたが、今は池の水は涸れてしまっている。また、現存の鳥居は約260年前に修復されたものである。「糺」とは「正しくなす」「過ちをただす」という意味で、身の穢れを祓う場所、禊を行って心身を浄める場所である。下鴨神社の糺の杜で行われる御手洗祭が有名であるが、蚕の社では、嵯峨天皇の時代に潔斎の場をこちらから下鴨神社に遷されたという主張から、現在でも「元糺」と呼称している。この三柱鳥居から、秦民族とキリスト教の関係が窺われる。

 *4:ネストリウスはコンスタンチノープルの司教であったが、キリストの神性に反対して人性を強調し、さらにマリアの「神の母」の称号を否認したため431年司教の座を追われ、異端宣告を受けた。エジプトに客死。451頃とされている。


 ★景教と秦氏

 景教(ネストリウス派*4)は635年長安に伝来し、太秦景教と呼ばれて多くの信徒を得た。景教の特色としては、次の点が挙げられる。
1)マリアを神母としない、
2)十字架とそれ以外のイコンを用いる、
3)死者のための祈りを捧げる、
4)聖餐式においてキリストの霊在のみを主張する、
5)僧位の八階級を厳守する、
6)法王の妻帯、断食、菜食を推奨する、
7)聖書、祈祷、讃歌はシリア語が原則。

 781年に、景浄によって世界最古の碑文の1つ「太秦景教流行中國碑」が建設されている。唐の時代は景教流行の時代であり、都には「太秦寺」(キリスト教寺院)が建設されるまでに流布する。しかし、その後、844年に異教禁制が発布され、禁制の時代を迎える。 1625年に「太秦景教流行中國碑」が金勝寺の庭内から偶然発掘され、国外研究者の注目を浴び、景教の研究が再開されることになる。中国においては1860年、北京条約によって禁制が解かれる。

 前述の佐伯氏の研究によると、秦氏は景教を信仰していた。秦氏の建立した太秦寺(広隆寺)は、唐の都のキリスト教寺院「太秦寺」と非常に似ているという。ちなみに「太秦」というのはローマ時代のシリア地方の事である。太秦寺の境内には「井佐良井」という井戸(の跡)があり、これは「イスラエル」という意味をもつ。また、大酒神社はもともと「大辟
」と書き、それ以前には「大闢(だいびゃく)」と呼ばれていた。大酒神社は大辟(ダビデ王)を祀る神社であり、秦氏は彼らの先祖がベテルに石を立てて以来、異邦に流浪して石を立て、祭りをなす氏族、つまり猶太民族であった、と佐伯氏は解釈している。また彼ら自身が「大王の子孫にして平和なるもの」と自称したことについては、それは当時の史家の主観的判断であった、と同氏は主張する。また、佐伯氏は最後に、禹豆麻佐の禹豆は「光」「東」「文化]「開化」、麻佐は「貢物」「賜物」という意義があると結論している。

 この佐伯の研究を受けて、日本バプテスト連盟京都洛西教会の杉野栄牧師は次のような見解を明らかにしている。太秦では「牛祭り」という奇祭が真夜中に行われていた(近年は行われていないようだ)が、これはモーセの出エジプトを祭儀とした名残ではなかろうか。「まだら神」の面をつけた男が牛に乗り、その横を天狗の面をつけた3、4人の氏子達が守り、真夜中に寺を出る。そういえば、天狗の面は鼻が高く、目も耳も異邦人的であるのはユダヤ人の模倣であろうか。秦氏一族がユダヤ民族であり、景教を日本に伝来していたという史実によると、京の都では産業のみならず宗教面でも多大なる渡来文化の影響を受けていたということになる。加えて、日本から中国にわたった遣唐使や空海も、長安において少なからず景教の教えと接触を持ったことに疑問の余地はない。神仏習合を掲げる高野山に「太秦景教流行中國碑」のレプリカが設置されているのも理解できる。思うに、日本文化とキリスト教の交流は、この時すでに始まっていたのではなかったのか。

 ★三柱鳥居

 話を戻せば、蚕の社に建つ三柱鳥居は、入り□ではなく、神社の奥に立つ。これは禊(みそぎ)の場であると同時に、原始キリスト教の三位一体(父と子と聖霊)を表現しているとも考えられる。しかし、問題は、当時の日本人がそれをどのように受け止めていたか、また如何にそれを神社の中の鳥居として受容したか、である。

 『古事記』の神代編には、日本天地開闢の際、まず天御中主神が発生し、次に神皇産霊(むすび)神と高皇産霊神が高天原に出現したと書かれている。そしてこれが、造化の三神とされている。この日本の神話とキリスト教の三位一体の教えが習合した形が三柱鳥居だ、と考えることは素直な解釈でないだろうか。「実生化」とは小さな芽生えのことである。杉野牧師は、「ヨーロッパの苗を植えるのではなく、御言葉の種を蒔き育てることの大切さ」を要に京都の地で宣教を続けている。日本人は異文化と出会い、それを受容する際、拒絶、受容、変容、混淆、重層化という「多の和」の歴史をたどっている。日本人の宗教観の根底にあるものをそのまま維持し、一神教的要素をも積極的に受容し、実生化してきた太秦の歴史はそれを見事に物語っている。このように考えて史跡を歩むと、歴史的・宗教的探求心が大いにそそられ興味深い。

 ★おわりに

 三柱鳥居は日本に1つしか存在しないといわれている。しかし、昨年度(平成17年春)南禅寺の大寧軒(非公開庭園)の茶庭に、石造りの3つの鳥居をみつけた。こちらは蚕の社の鳥居のミニチュアであり、三柱鳥居の下から清泉が湧き出て小川になり、庭の池にそそいでいた。こちらは★茶人、藪之内紹智によって、明治末期に設計されている。彼の茶道とキリスト教の関係を調べるのは今後の課題の1つである。
 
  <了>

 *************  


                       フリーメイソンの三本柱_1
                     フリーメイソンの三本柱と三柱鳥居


 ☆三柱鳥居(三本足の鳥居)について、月海黄樹&石沢貞夫は『古代ユダヤの暗号』で
 次のように述べている。
 (=『古代ユダヤの暗号』 平成13年10月 日本文芸社)   


 ●第6章 「契約の櫃(アーク)」は京都の巨大六芒星のうちにある

 ★メイソン、ミトラ教のシンボルにつながる三本鳥居の秘密  


 太秦には、まだまだ従来の日本の歴史観では説明できない不思議なものが数多く存在している。その一つが「元糺の池」と呼ばれる美しい清水湧く池、それを守るように建っている三本足の鳥居だ。

 現在は完全に鳥居の形をしているが、古代の神社は柱に注連縄(しめなわ)を渡しただけのシンプルな様式で作られることのほうが多かったので、この三本足の鳥居も、もとは三本の柱に注連縄をかけていただけのはずだ。

 三本足の鳥居。このようなものは日本全国のどこを見ても存在せず、宗教的な意味を解明することができなかった。しかし、数々の神殿を設計した秦一族が何の意味もなく三本足の鳥居を作るとは思えない。

 そこで次ページの上の図(*別掲)を見ていただきたい。これはフリーメイソンが自分たちの集団のシンボルとして用いたものを表わした図である。そこには柱が三本立っている。彼らはこれを修行用のボードとして用いていた。

 フリーメイソンたちは実際にこうした石の柱を作っていたといわれている。そう、「元糺の池」に建つ奇妙な三本足の鳥居は、この三つの柱だったのだ。

 三つの柱はフリーメイソン独自の象徴である。ユダヤ教やキリスト教にはこのような三本柱を三角形に配置して建設する習慣はなかった。

 この柱は、フリーメイソンが現在でもスローガンとしている「自由」「平等」「博愛」の三つの理念の柱であり、この柱が非常に重要な信仰の場に建設されることになっていた。

 しかも「元糺」には「洗礼」の意味があり、古代はここで禊ぎが行なわれていた。秦氏と縁の深い下賀茂(下鴨)神社、上賀茂神社にも「糺の池」が存在しているが、現在でも両社には土用の丑の日に「糺の池」で禊ぎをする習慣が残されている。


 ★「稗田阿礼」に隠されたアーク(櫃・ひつ)封印のキーワード


 下賀茂神社、上賀茂神社は秦一族とたいへんに縁の深い神社だが(神社の名称の由来となっている鴨一族は物部につらなるユダヤ系一族。鴨=おう=★大族=太族でもある)、上賀茂神社に不思議な習慣が伝わっている。写真を見てほしい。

 まるで角(つの)のような形に盛土をして、そこに神が降臨する場所を作る。
 角をシンボリックな力の象徴として扱っていたユダヤ民族のことを考えると、牛馬を殺すことを国命で禁じた紀元八世紀までは、本当の角を立てていたのではないかと思う。そしてこの神の降臨場のことを「御阿礼」と呼ぶ。御は尊称。簡単には阿礼。ここに再び『古事記』編纂にまつわる大きな秘密が隠されている。

 『古事記』を読み語ったといわれる稗田阿礼。稗田阿礼は大族と関係があることを第4章☆で示唆したが、実はこれは特定の人物の名前ではないと思えるのだ。

 上賀茂神社の祭神・別雷神(わけいかづち)は父神、大年神=☆(大)の年の神が日枝(ひえ)神社から鴨一族の巫女に夜這いして生まれたことになっている。上賀茂神社のルーツは日枝にあるのだ。

 つまり、☆の年の神がやって来た日枝にルーツを持つ上賀茂神社に阿礼が作られる。日枝阿礼=「ひえだのあれ」となる。そして、阿礼は天宇津女(あめのうずめ)の子孫として工作されていく。これがアーク発見の大きなキーワードになる。

 天照皇大神は、天宇津女が舞うことによって「読みの国」から復活する。
 宇津女とは渦女=☆女であると同時に「埋め」なのだ。

 我々は暗号を解読して、天照皇大神を「埋め」られている場所から発見しなければならないのだ。そしてこの「埋め」の子孫が、『古事記』を「読み」語る「日枝阿礼」であるということは、「日枝阿礼」こそが「読み」を解読することができるキーワードだということになるのである。

 聖徳太子にまつわる伝承を手繰ってみると、母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひと)は丹後の真名井神社にほど近い場所に一時隠遁していたことがわかっている。そして、マナの壷と思われる金の壺を法隆寺の柱の下から発見したとか、真如宝珠と呼ばれる潮満・潮干の玉を連想させる宝珠を持っていたとかの記述が現われる。そして、太子は百済から天皇家と同じく七枝刀を譲渡されている。つまり、三種の神器は太子の手のうちにあったと考えられる。

 もちろん、最もたいせつな生命の木の奥義も持っていたからこそ復活伝説が囁かれるのである。ユダヤの奥義をすべて手にしていた救世主・聖徳太子。そして太子の第一の側近であった秦河勝。河勝の建立した広隆寺。秦一族と関係の深い賀茂両神社。そして同じ元糺の池の存在。これらは何を意味しているのであろうか? 


  ★常世の長鳴き鳥が天照皇大神を開封する 

  秦氏が大秦(ローマ)をわざと太秦と書いたのには、そこに呪詛的な封印がかかっているからだといった。

 実は封印は、その中心にある種=霊が出現するところにかけられ、またその中心の場を示すものともなっている。なぜなら「埋め」られている太陽神の霊は、そこに出現するからである。では、それはいったい、どこなのか?

 ミトラの三本柱が存在する最も重要な聖場、「元糺の池」の中心には「蚕社」なるものが存在し、その祭神は天照皇大神となっている。

 実に意味ありげではないか。アークはその下に隠されているのだろうか?

 いや、そうではない。フリーメイソン・秦氏ともあろうものが、大事な秘宝をそれほど単純に隠蔽するはずがない。三本鳥居と蚕社は、埋め場所の単なる見取り図にすぎない。アークを開封させるもう一つのキーワードがある。
 それは「長鳴き鳥」だ。天照皇大神を岩戸から引っ張りだす準備は、「長鳴き鳥」を鳴かせることから始められた。

 ところで鳥のキーワードは、鶴亀の結びが天照皇大神復活の重要課題だと説いた「駕籠目(かごめ)歌」にも登場している。そう駕籠目歌が浦島太郎と対で解ける暗号だったのと同様に、「天照皇大神の岩戸隠れ」と駕籠目歌、元糺池は対の暗号なのである。
 

 ★駕籠目、駕籠目、駕籠の中の鳥はいついつ出やる?-アークの復活   

  鳥は天照皇大神を呼び出す最初に歌われ、『古事記』では最初に語られる。鳥を見つけ出すことがたいせつなのだ。「駕籠目、駕籠目、駕籠の・・・」と駕籠が三つ歌われることに注目していただきたい。駕籠と鳥が対であれば、鳥も三羽いる。三本柱だ。三角形だ。二羽の鳥はすぐにわかる。上賀茂、下賀茂。鴨がここに二羽いる。

 上賀茂には「読み」を語る「日枝阿礼」もいる。
 上賀茂、下賀茂がニ羽の鳥だとしたら三羽目の鳥を加えると、三本柱のように三角形にならなければならない。そんな鳥が存在するのであろうか?

 それは存在する。小野妹子の創建ともされる三宅八幡神社(京都市左京区上高野三宅町)にいるのである。八幡神は秦氏が祀った神様である。八幡=「八秦」だろうともいわれている。この三宅八幡神社の狛犬は、なんとも奇妙なことに鳩なのだ。(三宅八幡宮のHPで見ることができる。)

 ちなみに、八幡神は金色の鳩となって降臨したという伝承がある。

 いずれにせよこの三つの神社の位置はちょうど、下向きの正三角形(▼形)に並んでいる。

 そこでもう一度、蚕社に目を移そう。
 蚕社の南東の方向には、なんの意味もない八角柱が建てられている。なんの意味もないというところが味噌なのだ。私はこの八角柱は「八坂神社」の方向を示しているのだと思う。とすると見事に三宅ハ幡神社、上賀茂、下賀茂を結ぶ正三角形の南東方向に八坂神社がきている。

 しかもこの正三角形は鞍馬山を上流とする「静原川」「賀茂川」「高野川」からできる三角洲と重なる。

 下賀茂神社の由来書では「糺」には「三角洲のデルタ」の意味があると書かれているから、もう間違いはなかろう。しかもこの正三角形には、三本の川の上流である鞍馬山に船岡山、瓜生山が上向きの正三角形(▲)となって重なる地図ができあがる。(↓写真)

 鞍馬山には皇室と関係の深い貴船神社=尊い船=アーク、船岡山には平安貴族が花祭りを行なった建勲神社、瓜生山には八坂神社の元の御神体があった。

 ここに巨大六芒星が出現する。
 その中心、つまり種・霊が出現する部分、それが三ツ鳥居の中心の御幣の立てられている石山に相当するはずだ。

 するとここにアークが出現するのにピッタリの場所があった。地図のちょうど中心に・・・。それは原始の丘を連想させる山である。ただし残念ながら山の名前は明かすわけにはいかない。なぜならその山は個人の私有地となっていて、「禁足地」と看板が出ているからだ。

 その山の封印がいつ解かれるかわからない。しかし、日本民族とユダヤ民族の奥義であるアークは、終末の日の目覚めを待ってそこにある。

 私は最後に、地名・山名を明かさない代わりに、223pにその手掛かりとしての地図(☆↓の写真参照)を掲載することにした。読者の方々もそこからアークの存在を見いだしていただきたいと思う。

 繰り返そう。なぜなら、終末の目覚めを待ってそこにアークがあるからだ。

  続く。 

                        京の秘宝地図_1
                             
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/611-602f119c



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。