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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22) -2
 ★西園寺公望の懐刀にして台湾銀行頭取、中川小十郎  

 恐慌劇の主役たる台湾銀行は、台湾領有の3年目すなわち明治30年に創立され、32年に開業したが、その創立に杉山茂丸が深く関わったことは周知である。大正9年から15年まで、台湾銀行と鈴木商店が最も密着した時期に台銀頭取を務めた中川小十郎は、慶応2年(1866)生まれで、出自は丹波弓矢隊で西園寺家の家臣だった。大学予備門時代には夏目漱石・南方熊楠・正岡子規、さらに上原勇作と旧制士官生徒で同期(第3期)の秋山好古(秋山真之の兄)と同窓だった中川は、明治26年帝大法科を出て文部官僚となったが、31年に辞職、33年に京都法政学校(後の立命館大学)を創立して西園寺家の私塾・立命館を継承する。39年に第1次西園寺公望内閣が成立すると首相秘書官に就いた中川は、41年の西園寺内閣総辞職に伴い樺太庁第1部長に就いた。これは、日露戦後に南半部がわが領土となった樺太に軍政施行を望む陸軍の要求を阻止すべく、西園寺が送り込んだとされる。45年に樺太庁を辞職した中川は、杉山茂丸の計らいで台湾銀行副頭取に就任し、大正9年に頭取に昇任し、14年まて在任した。正副頭取の在任は実に14年に及び、この間の鈴木商店に対する過剰融資は実に中川が行ったもので、その背後に杉山がいたことは自明である。

 中川の樺太庁第1部長当時の上司・樺太長官は、大学予備門で杉山?の同期(帝大卒業は1期上)だった☆平岡定太郎で、原敬の腹心として政友会の政治資金を捻出するために☆郵便切手の不正払下げを行ったとして、大正3年に免官、翌年横領罪で起訴された。三島由紀夫の祖父である。原敬は山県有朋に接近したためか、薩摩派とはいわゆる反目(はんめ)で、その大正8年の☆暗殺に関しても、後藤新平・上原勇作の関与が近来囁かれ始めた。


 ブロガー註:
 ☆参考:
 「・・(平岡)定太郎の長官任命に力を貸した政治家達の圧力で、定太郎は漁業と缶詰業の認可と引き換えに金を受け取り、その金を選挙資金として東京に送ることを余儀なくされた。ライヴァルの漁業会社がこのニュースを洩らし、スキャンダルが広がって、定太郎は退官の止むなきにいたった。しかも、定太郎の退官はその後の目のまわるような失墜のほんの始まりにすぎなかった。・・」 『三島由紀夫 ある評伝』 ジョン・ネイスンより。
 因みに、今は関係のないエピソードだが、この三島由紀夫(平岡公威)の祖父・定太郎は、帝大法科卒業の翌明治26年、著名な武士の家系の永井夏子という女性と結婚する。
 少女時代から、「しばしばヒステリーの発作」を起こし、長女にして「一家の厄介者」だったといわれる女性である。
 この夏子が生後まもない孫の公威(三島)を母親から奪い取って12歳になるまで独占したという。

 ☆「原敬暗殺」に関して、例えば、
 「原敬日記」 大正10年2月20日条には次のようにある。
 「・・・ 夜、岡崎邦輔、★平岡定太郎、各別に来訪。余を暗殺するの企てあることを内聞せりとて、余の注意を求めくる。余は厚意は感謝するも別に注意のなしようも無し。また、度々かくのごとき風説伝わり、時としては、脅迫状などくるも、警視庁などに送らずしてそのまま捨ておくくらいなれば、運は天に任せ何ら警戒等をくわえおらざる次第なり。狂犬同様の者にあらざるかぎりは、余を格別憎むべきはずもこれ無しと思うなり。」。

 
 引用に戻る。


 西園寺公望の腹心だった原敬は、長州派に加担したため後藤・杉山と路線を等しくする薩摩ワンワールドの反対側に回った。原は腹心の平岡定太郎を樺太長官に起用して樺太の材木利権を確保しようとしたが、西園寺が第1部長に送り込んだ家臣で実質筆頭秘書だった中川がどこかで杉山と繋がっていて、台銀の最高幹部となって台湾運営に深く関与し、結局、薩摩派のダミーたる後藤・杉山・中川と長州派のダミー原敬・平岡組の対立に発展したが、その原因の一つに、樺太の木材問題を巡る利権的対立があると推定するが、別に論及したい。

 ともかく、高島鞆之助が陸相の座を追われた明治31年から、高島と組んだ吉薗ギンヅルが日高尚剛をダミーとして鈴木商店に深く関わり、鈴木商店を通じて東亜煙草との関係も深まった.その利権は、元来ワンワールド薩摩派総長の座に由来するもので、上原勇作が明治45年の陸相就任を機に高島から引き継いだと見られるが、引退した高島は大正5年に死去する。後藤と上原の関係は知られていないが実に深く、後藤の右腕・中村是公が息女を上原元帥の嗣子・七之助に嫁がせている所に、後藤の隠れた1面が浮かぶ。


 ★まさに〔いつか来た道〕 取付騒ぎと公的資金注入  

 第一次大戦の好景気の反動が顕れてきた大正15年11月20日、政府・日銀は、鈴木商店及び日本製粉を救済するために資金援助措置を決定した。明けて昭和2年、年初から地方銀行の一部が休業し始めたが、3月14日の国会で片岡蔵相が東京渡辺銀行の手形が決済不能と□にしたのを切っ掛けに、各地で銀行取付けが発生し、瞬く間に全国に広がった。その間に鈴木商店の経営破綻が明らかになり、鈴木商店に貸し込んだ台湾銀行も経営危機に陥った。日銀の鈴木商店への貸出は総貸出の半分近くに膨らみ、しかもその9割以上が固定貸出であった。昭和末年から平成初頭に掛けての日本長期信用銀行と高橋治則のイ・アイ・イ・インターナショナルの関係もこれに近いものがある。

 帝国議会は3月31日を以て閉会していたが、旧憲法第八条では、帝国議会閉会中に緊急の必要がある場合、天皇が法律に代わる勅令を発布することが出来た。そこで政府は、緊急勅令を用いて日銀特融による日銀救済措置を実施しようとし、4月17日に枢密院に諮詢(しじゅん)したところ、19対11で否決されたので、首相・若槻礼次郎は即日内閣を投げ出す。この事態は、枢密院の主といわれた伯爵・伊東巳代治が元来若槻の政策に不満で、反対に回ったために生じたものであったが、議長の男爵・倉富勇三郎及び副議長の男爵・平沼騏一郎も同じく反対に回った。

 ★明治天皇の母方のいとこ? 伯爵・伊東巳代治の政治力


 伊東巳代治は、長崎町年寄で書物役の伊東善平の三男として安政4(1857)年に生まれた。原敬と上原勇作の1歳下、後藤新平とは同じ年で、彼ら大正三傑と全く同期している。伊藤博文を腹心中の腹心として支えた伊東の政治力は、伊藤の死後もなお隠然たるものあり、実に上の大正三傑に準ずるものがあった。

 ワンワールド薩摩派は、フルベッキ、グラバー及びアーネスト・サトウの直接指導を受けて倒幕開国を進めた吉井(1827生)、西郷(同
年生)、大久保(1830生)の薩摩三傑を第1世代とするが、維新の時分には30代で戊辰役では方面指揮官や隊長に就いた樺山資紀(1837生)あたりもこの世代に相当する。慶応から明治初頭に生まれた彼らの子女が第2世代である。その中間の第1.5世代というべき高島鞆之助(1844生)は、吉井の引きで明治政府での出世は樺山らよりずっと早く、年齢差もグッドタイミングで、吉井から薩摩派総長の地位を譲られた。

 因みに長州では、薩摩三傑に同期しているのが大村益次郎(1825生)、広沢兵助(1833生)、水戸孝允(同年生)が長州三傑と言うべきで、ここから井上馨(1835生)、山県有朋(1838生)までが第1世代で、伊藤博文(1841生)も早熟のため第1世代に入る。高島のライバル桂太郎(1847生)は、高島と同じく第1.5世代に属したため、山県有朋(1838生)から長州陸軍の棟梁の座を譲られたのである。

 大正三傑は薩摩・長州の枠を超えた日本ワンワールド三傑だが、伊東巳代治がこれに準ずるのは、伊藤博文から長州派の2部門を引き継いだからである。ワンワールドが金融・軍事・宗教の3部門に分かれることは前述した。その外に情報宣伝分野の存在を忘れてはならないが、これは広義の宗教部門に含まれる。伊東は明治5年に15歳で工部省電信寮修技教場を卒業し、長崎電信局に入るが、翌年1月に辞職、「兵庫アンド大阪ヘラルド新聞社」に入社した後、兵庫県属に転じて訳官(通辞)になる。10年には再び工部省に入り、権大属に任じた。電信に携わったために国際通信事情に通じた伊東は、工部卿・伊藤博文の注目を浴びて腹心となり、伊藤が憲法調査のために明治15年2月から1年半にわたり渡欧した時同行し、その後は金子堅太郎・井上毅と共に、伊藤の下で明治憲法の草案を練った。25年8月の第二次伊藤内閣で内閣書記官長に就き、28年には早くも男爵を授けられ、31年1月に第三次伊藤内閣の農商務相に就き、32年から枢密顧問官となる。以来昭和9年に死去するまで実に35年間を枢密院に居続け、枢密院の牛耳を執って憲法の番人と称された。

 伊東巳代治といえば、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』は「明治天皇の母方のいとこでもある」と解説している。奇説なのに根拠を明らかにしないのは不思議だが、わざわざ書くほどだから根拠がある筈だ。それだけではない。清末の洋務運動で知られる譚嗣同の子孫でジャーナリストの譚路美が著した『父の国から来たスパイ』とか題した書にも同じ事を述べるが、やはり根拠を示さない。両者は同じネタに接したのだろうが、ネタが明らかでない。甚だ興味深いことであるから、脇道に逸れるのは承知で、次号で若干の探究を試みたい。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22)   <了>。
 

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