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●疑史(第49回) 上原勇作(1)
 ●疑史(第49回) 上原勇作(1)  

 ワンワールド薩摩派の初代総長は多分吉井友実で、高島鞆之助が2代目を継いだとおぼしいが、3代目を継承したのは上原勇作であった。安政3年(1856)生まれの勇作は、高島より12歳の年下で、都城島津藩で家老格の龍岡資弦と同藩士・四位次兵衛の長女・タカとの次男に生まれた。明治元年に明道館訓導補に挙げられた勇作は、翌年には藩主島津久寛の学友として鹿児島に赴き、造士館に学ぶ。4年春、維新政府は薩長土三藩の士から御親兵を募るが、これに応じた実兄を追って上京した勇作は、麹町の陸軍少佐・野津道貫邸に落ち着く。そこには従兄弟の高島鞆之助の家族が同居していた。野津は天保12年生まれでこの時30歳、高島はその3歳年下だが、妹トメが野津の妻であるがら、義兄になる。戊辰で戦功のあった2人は御親兵に応募するため上京し、野津は4年7月の初任で陸軍少佐、翌5年に中佐、7年に大佐に昇る。ところが高島は、吉井・西郷・大久保の薩摩三傑が岩倉と謀って決定した宮中改革を実行するため、軍政の重職を棄てて敢えて宮内大丞となった吉井友実を補佐せよとの三傑の命で、同月宮中に入ることとなった。初任は侍従で、その官等は中佐に相当し、翌年には大佐級の侍従番長に昇った。初任の時から野津より一格上の待遇を受けた高島にも上には上で、大西郷の従兄弟の大山巌には及ばない。野津の1歳下の大山は、戊辰の偉功により明治2年に普仏戦争観戦のため欧州に差遣され、プロシア軍のパリ包囲の実状を観察して帰朝したが、4年7月の初任では大佐で兵部省権大丞に補され、翌月には29歳の若さで陸軍少将に昇進した。三傑の一角たる吉井が4年7月に宮内大丞、11月に宮内少補となったのに対して、兵部権大丞から少将に任じた大山の官等は、早くも吉井の塁を磨すに至ったのである。だが少将に任じた大山は直ぐに辞して再び渡欧し、仏語研修を名目とする私費留学なのに、わざわざパリを避け、3年間をジュネーブで過ごす。後年にはひたすら軍務に専心し政治に介入しなかったことで知られる大山だが、吉井の女婿ということからしても薩摩ワンワールドの主流だったことは当然で、その再渡仏は、将来の総長としての特訓を受けることにあったと観るべきであろう。

 明治5年の早春から勇作が寄留した野津邸には、野津・高島2組の夫妻のほか、高島と野津夫人トメの実母・高島貞子も同居し、薩摩から呼んだ下男・女中・書生を合わせて総勢18人が住んだ。『元帥上原勇作伝』の解説では、「勇作は予告もなく上京して兄を訪れたが、陸軍軍曹の官舎では同居もならず、同郷の実業家・柴田藤五郎の家に寄留すること1週間、その後やはり同郷人の斡旋により、野津の書生となった」と語る。その間の経緯も詳しく記すので、誰も疑わないのだろうが、勇作が野津邸の1書生として東京生活を始めたという記述は表向きで、下記の真相を隠蔽するためのものである。

 勇作の祖父・四位次兵衛の妻・有馬氏は、長女・タカを生んだ後に夭折したので、次兵衛は岩切家の女を後妻にする。ところが四位家に足入れ中に生まれたのが双子の女児だったため、「畜生腹」の誹りを受けた岩切氏は、姉娘のギンを抱いて入水した。妹娘・ツルは四位家に入らず母の実家の岩切家で暮らすことになり、姉の名も併せてギンヅルと称したと『周蔵手記』は伝える。ギンヅルの生年は、孫の吉薗周蔵が残した『吉薗周蔵手記』の昭和2年条に数えで87歳と記しているから、天保12年(1841)の筈である。しかし周蔵は、ギンヅルが旦那哲長の心をつなぎ止めるために6歳ほどサバを読んでいたと察しており、それが正しいならば実は天保6年(1835)ということになる。実母の妹が宮崎県西諸県郡小林村の土豪・吉薗吉佐に嫁入りする時、その連れ子とされたギンヅルは、普通なら吉佐・岩切氏夫妻の養女というべき関係にある。ところが戸籍では、ギンヅルは吉佐と岩切氏の子の萬助の妻のごとく記されている。これは萬助に子がなく、ギンヅルと堤哲長の間に生まれた林次郎を萬助の後継とした際に、林次郎を実子とし、ついでに母のギンヅルをあたかも萬助の妻のようにしたもので、何ともややこしいが、ギンヅルが勇作の叔母たる事実は動かない。

 養母が吉薗家の継嗣・萬助を産み、吉薗家に居辛くなったギンヅルは少女の身で単身上京し、京に数軒あった薩摩屋敷のどれかに岩切家の縁で住み込んだ。時期は1850年代と観てよいが、当時の薩摩藩は嘉永4年(1851)に島津斎彬が藩主に就き、後の薩摩三傑を登用して藩政改革に取り組んでいた。安政5年(1858)当時、大坂倉屋敷の留守居役だった吉井は、大坂に訪ねてきた西郷に大老・井伊直弼の日米条約無断調印の一件を伝え、国事のため連れ立って京都へ向かうが、その最中に斎彬の急死に遭い、藩政改革と勤皇運動は頓挫した。西郷の同志として倒幕運動を進めていた清水寺の月照上人が幕吏の追及に逢って危うくなる中、月照を九州に落とすため、威しい監視の目を潜って秘かに渡船を手配したのは大坂倉屋敷の留守居役吉井であった。ギンヅルが京の薩摩屋敷の女中頭に就いたのは正にその頃で、京大坂で薩摩藩の支配人だった吉井と極めて咤懇だったことは疑えない。

 やがてギンヅルは、家格が名家で家禄が蔵米30石3人扶持の公卿・堤哲長と知り合ってその妾となり、薩摩屋敷を出て市中に1軒を構えた。文政10年生まれで、薩摩三傑と、2歳しか違わない哲長から医学・薬学の手ほどきを受けたギンヅルは、製薬販売の両面で意外な商才を発揮する。哲長の医薬知識は、もと堤家で女中をしていた渡辺ウメノから伝授されたものであった。ウメノは宮中に出入りしていた町医師・渡辺氏の娘で、母は渡米イスラエル族の末裔でアヤタチ家を称する丹波・穴太村の上田家の出で、皇道大本の聖師・出口王仁三郎こと上田鬼三郎の実父たる上田吉松とはいとこの関係で上田家伝の医術に詳しかったが、その特徴はケシを用いる処にあり、中でも「一粒金丹」は万能薬であった。

 ところが同薬は、薩摩の伝統的な民間薬「浅山丸」とほとんど同じ内容であった。思うにこれは偶然でなく、貿易を通じて室町時代に南蛮人が薩摩に、紅毛人が丹波に、それぞれもたらしたもので、遡れば古代オリエントに発祥した多神教イスラエル族に由来するものと思われる。

 哲長の妾となったギンヅルは、堤家の生活を支えるため、都城・島津家との共同事業として浅山丸の製造販売を行い、そのために京の薩摩屋敷に相変わらず出入りしていた。幕末、皇居守衛のために薩摩から若い藩士が続々と出京し薩摩屋敷に住み込むと、ギンヅルは彼らと交誼を結ぶことになるが、中でも親炙したのが川上操六・高島鞆之助・野津道貫・山本権兵衛らで、彼らとの親交は後に貴重な無形財産となった。父の四位次兵衛から孫の勇作を頼まれたギンヅルは、勇作の資質を見抜き、その大成を期して東京遊学を勧め、勇作の父・龍岡資弦の反対を押し切って実行に移させた。その傍ら薩摩藩士の歴々に勇作応援団を結成せしめたが、中でも団長格となった高島に勇作の身柄を預けたのが右の野津邸への寄留となったわけで、勇作応援団員への報償には、製薬事業による収益が充てられたらしい。右の真相を世間に隠すため、勇作自身は固よりギンヅルも勇作応援団も、『元帥上原勇作伝』のごとき虚報を流したわけである。そこまでして秘密を守ろうとした理由は、ワンワールド薩摩派が秘密結社だったことに尽きるのであろう。

 明治5年6月、勇作は南校(いわゆる大学南校)に入り官費生として仏語を学ぶ。創設に尽力した大隈重信が、ワンーワルドの上司フルベッキ宣教師を教頭として送り込んだ南校は、ワンワールド人材の養成を目的としており、生徒には寮生活を義務付けていたが、例外的に野津邸から通学することを許された勇作は、校外でフランス士官から個人教授を受け、兵部省出仕の洋学者・武田成章の私塾にも通ってフランス語を学んだ。これらを『元帥上原勇作伝』はすべて野津少佐の厚意に帰すが、実は高島を通じたギンヅルの差し金であった。

 五稜郭の設計者として知られる幕臣の武田は4年から兵部省に出仕し、7年3月に工兵大佐に任じ兵学大教授に挙げられ、幼年学校が8年5月2日に兵学寮から独立して陸軍幼年学校となるや、その校長を兼ねた。勇作は、陸軍幼年学校の新設を機に南校からの転校を図り、提出した願書は入学年齢超過のために一旦は拒絶されたが、野津が年齢を偽って無理やり受験させ、6月7日に無事入学できた。伝記にはこのように記すが、強引な転校は、野津もさることながら高島とギンヅルの意向が強かった筈である。
7年5月に侍従番長から陸軍大佐に転じた高島が、6年10月に兵学寮から独立した下士官養成学校の陸軍教導団長に就いたのは8年の2月であった。その3ヵ月後に陸軍幼年学校長に就いた武田大佐が、陸軍教育部門で同僚の高島の要請を断る筈がなく、しかも武田は己の私塾に通っていた勇作の実力を知悉していたから、年齢詐称を不問にして入学させ、おまけにフランス語の実力に相応して第3学年に転入させので、転校による年季の遅れもなくなった。実に至れり尽くせりである。

 幼年学校から陸軍士官学校に進んだ勇作が、工兵科を選んで首席で卒業し、フランス留学を命じられた詳細は8月号の本稿に述べた。明治14年7月、グルノーブルエ兵第四連隊付となった上原少尉は、翌年フォンテンブロー砲工専門学校に入学、中尉に進級し、明治17年には大山陸軍卿の欧州巡視に随行してツール要塞を見学、翌年大尉に進級して帰朝した。この間、詳しい事情は未詳だが、アルザス地方定住のユダヤ人ポンピドー氏と識り、一族の女性と親しくなったものと思われる(その名を、前月号ではイザベルと記したのはうっかりミスで、慥かジルベールと聞いた事を思い出したので、ここに訂正します)。

 帰朝後の上原は、陸軍士官学教官から臨時砲台建築部事務官となり、国内各地で砲台建設のための調査に当たり、明治22年3月、臨時砲台建築部長・小沢武雄中将の欧州派遣に随行を命じられた。東欧・ロシアから北欧諸国・ドイツ・オランダ・ベルギーを巡り、7月25日にパリに到着した上原は、イギリス・南欧にも足を延ばした外はほとんどフランスで過ごし、12月15日に帰朝の途に上った。後の昭和4年春、フランスで吉薗周蔵・藤田嗣治と逢った時、甘粕正彦は「アルザスで上原閣下の子供と思われる混血女性に逢った。歳は少なくとも35歳位で、母は昨年亡くなりましたと上原に伝えてほしい」と託かった、と語った。小沢中将に随行中に出来たなら、昭和4年には39歳になる勘定だから、その時の子ではないかと思う。          (続)

 

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