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●「民主主義」と選挙
 ●「民主主義」と選挙 について、考えてみる。 

 木田元『反哲学入門』の1節から。

 第2章 古代ギリシャで起こったこと 

 
 ★古代ギリシアの思考改革

 西洋を西洋たらしめた人はソクラテス(前469/70~399)とプラトン(前427~347)です。西洋哲学はすべて、プラトンのテキストヘの注釈だという言い方もあるほどですが、ここでは、日本人のわたしたちにとっても重要な意味をもつ2人の登場について考えてみたいと思います。

 夏目漱石は「夢十夜」の第六夜のなかで、運慶がどうやってあの彫刻を生み出したのが、その秘訣を、木のなかに埋っている眉や鼻を、鑿(のみ)の力で土の中から石を掘り出すように掘り出すという言い方で述べています。この考え方は、自然のままを尊び、人為を否定する日本人の芸術観の典型です。しかし、この話は、明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないことを悟るという皮肉な結末を与えられています。

 漱石は鋭敏な芸術家の感性で、西洋化された日本では、かつてもっていた美質である「自然」そのままという芸術が成り立たなくなっていたことを感じ取っていたのではないでしょうか。先駆者として、西洋と東洋という問題に深刻に悩んだ漱石は、明治という時代の味わった変化の本質を、たった1夜の夢として表現したわけです。

 ところが、西洋では、漱石が感じ取った変化がすでに遠い昔、古代ギリシアで起こっていたのです。その根本的転換を惹き起こした張本人は、いうまでもなく、ソクラテスとプラトンという西洋哲学の始祖です。

 ソクラテスは、第2次ペルシア戦争終結のおよそ10年後、紀元前469年にアテナイに生まれ、ペロポンネーソス戦争終結後間もない前399年に刑死しました。ソクラテスが誕生する前の半世紀ほどのあいだのギリシアは、大国ペルシアの侵攻にさらされて、都市国家であるポリス同士が連合して対抗しなくてはならず、2大大国であるスパルタとアテナイのどちらがその盟主になるか、という状況でした。

 しかし、スパルタは1種のモンロー主義をとり孤立していたため、自然とアテナイがポリス連合体、デロス同盟の盟主になりました。アテナイは、ペルシアがいつ攻めてくるかわからないなか、同盟下のポリスから同盟費を集めて同盟軍を組織し、戦費を貯えます。はじめは、デロス島に同盟の本拠地を構えて、同盟軍も基金もそこに置いていたのだけれども、だんだんアテナイに本拠地を移し、その同盟費を流用してパルテノンの神殿を作ったりするようになります。アテナイはかなりの帝国主義国家になりました。

 アテナイとスパルタの両大国には、はっきりとした違いがあります。ポリスは、いわゆる少数寡頭政体、少数の貴族による合議制で政治を行なうのが一般的であり、その代表格がスパルタでした。その政体を、市民の全員参加による直接民主政体に変えたのがアテナイでした。とはいえ、ポリスでは女性には選挙権がなく、市民の暮らしは奴隷労働によって支えられていましたから、現在の民主主義国家とはかなり性格の違ったものでした。市民は、戦争の捕虜を奴隷として使っていました。選挙権のある市民は、納税や徴兵に応じる義務がある一方、選挙に出て当選すればすぐにも国政-といっても、将軍職に限られていたようですが-に直接参加できるシステムでした。

 紀元前5世紀初めの2次にわたるペルシアの侵攻に辛勝しているうちに、ペルシア国内で内紛が起こって、ギリシアまで侵攻してくる余力がなくなりました。しかし、ペルシアの脅威を口実にデロス同盟を組織したアテナイは、同盟に加わっているポリスに民主政体をとるように強要したり、裁判に介入したりして、同盟諸国に横暴な圧力をかけ続けました。このあたりで、ギリシアのポリスに直接民主政体か少数寡頭政体かという対立の構図が浮かびあがってくるわけです。

 デロス同盟に加入したポリスのなかにも、アテナイの政治的干渉をきらい、スパルタに頼ろうとするものも出てきました。こうして、ギリシアの全ポリスがアテナイ側とスパルタ側とに分かれ、前431年から前404年まで20年間戦うペロポンネーソス戦争が始まります。ちょうどそのころソクラテスは成人していて、市民としてこの30年戦争に3回従軍しています。


 ★アテナイvsスパルタ

 当時のアテナイは地中海交易の中心地の1つでした。焼き物の壷を開発するという小規模な産業革命が起こり、それを周辺諸国に売り、アテナイはポリスのなかでは極めて豊かな国でした。海外の植民地から渡航してきた人びともみなアテナイに集まるから文化的にも多彩ですし、ペリクレスという有能な指導者が出て、ペリクレス時代と呼ばれる黄金時代を現出しました。

 とはいえ、アテナイではひどい衆愚政治がまかり通っていたんです。1人のデマゴーグが出てきて、議会で調子のいいことを言えば、みんながワーッと同調して、ひどいこともしました。ペロポンネーソス戦争のあいだにも、メロス島事件と呼ばれる大虐殺をおこなっています。メロス島はミロのヴィーナスが発見された小さな島ですが、戦争中にはっきりとスパルタがわについたために、圧倒的に優勢なアテナイ軍が占領しました。その時アテナイの議会では、メロス島の男の市民は全部死刑にし、女や子どもなどはみんな奴隷にしてしまえなんて提案が出されて、しかも、喝采をもって可決されてしまいました。すぐ命令書をもった使いが船で出発したのですが、1晩寝て冷静に考えるとやっぱりあれはひどい決定だったと思いあたり、もう1度その命令を中止するための使いの船を追いかけて出したものの、もう間に合いません。ついに、メロス島の男の市民は全員殺されてしまいました。

 ところが、そうしたデマゴーグのなかにソクラテスの昔の弟子もいたんです。その代表格がアルキビアデース(前450頃~404)でした。名門の出で、堂々たる偉丈夫だし大変な美男子で大金持ち、頭の回転も早く弁舌も爽やかで、若いころはソクラテスの恋人だった男です。25歳になると被選挙権が得られるので、たった3人しかいない将軍職に立候補してみごと当選し、アテナイの将軍(軍事指導者)になりました。ちょうど、アテナイとスパルタが休戦条約を結び、「ニキアスの平和」と呼ばれる休戦期間だったんですが、アルキビアデースは得意の演説で議会を動かし、その休戦条約を破って、スパルタの物資補給基地であるシシリー島に大遠征を仕掛けます。

 ありったけの船と軍勢を連れて遠征し、最初は奇襲攻撃だから上手くいったものの、上陸するとスパルタ軍に海岸線を遮断されて、6千人いた兵隊がみんな山に追い上げられ、大理石を切り出したあとの石切場に追いこまれて、ほとんどが餓死したと言います。アルキビアデース本人はシシリー島到着と同時に出発前のある罪で本国に召還されたのですが、その途中逃亡し、こともあろうに敵国のスパルタに逃げこんで、アテナイをやっつけるにはどうすればいいかという秘策を洗いざらい教えてしまいました。

 アテナイには、近くにペイライエウス(現ピリウス)という港があって、スパルタはそれまで、夏の間はこの港とアテナイを遮断してアテナイに籠城戦を強制するんですが、冬になると包囲を解いて国に帰ってしまいます。その間に、アテナイは港から物資を運びこんで夏の籠城戦に備えていたわけです。ですから、冬もペイライエウスとの通路を遮断してしまえば、アテナイはお手上げです。アルキビアデースはこうした攻略法をスパルタに授けたのですから、ひどい話です。アテナイ市民は大変な飢えに苦しみます。これが大きな敗因になりました。その一方で、アルキビアデースは、スパルタ王の奥さんに手を出して、子どもを産ませたりしましたので、スパルタにもいられなくなってペルシアに逃げこみ、またしても王侯貴族のような暮らしをする。その揚げ句、今度は、サモス島にあったアテナイの海軍基地に乗りこみ、得意の演説で篭絡してその指揮官になる。スパルタとペルシアの両方の内情に通じているわけですから、最初は赫々たる勝利
をおさめて再び凱旋将軍になってアテナイに帰還するものの、次の海戦では大敗北を喫し、またペルシアに逃げてゆきます。最後はペルシアで入浴中にスパルタの刺客に刺されて死んでしまいます。なかなかの傑物には違いなく、プルターク(46~120)の『英雄伝』のなかの「アルキビアデース伝」はとても面白いものですが、アテナイ市民にしてみればたまったものではありません。

 ソクラテスの周りにはほかにも若くて政治的野心のある良家の青年たちがいっぱい集まっていました。アテナイの現状を嘆き、こんな衆愚政治ではどうにもならないから、なんとかしなければいけない、と思う若者はみなソクラテスの弟子だったといって過言ではありません。当時のポリスでは、アテナイ的な直接民主政体をとるかスパルタ流の少数寡頭政体をとるかという議論が盛んにされていましたが、現実のアテナイは、ことを政治に限れば、豊かであることをいいことに、無定見な多数決で事を決し、いわばその場しのぎの成りゆきまかせでした。デマゴーグが出てきて煽動するとすぐそれになびくようないいかげんな政治になっていました。けだし、直接民主制というものは、そうなりがちなのです。 

 
 これは現代でも変わりません。もともと、多数決による民主主義というのは政治理念ではありえないのです。20世紀でも、第二次大戦前は、デモクラシーなど政治イデオロギーではないというのが1種の常識になっていました。ちゃんと真面目に政治を考えている人間の1票と、なにも考えていない人間の1票が同じでいいのか、という認識は右翼にも左翼にも共通していました。私の子どものころの記憶でも、戦前の日本、あるいはドイツあたりでは、ファッシズムかコミュニズムか、どちらかを取るしかないという二者択一を迫られていると思われていて、デモクラシーを同じ資格の政治的な立場とみなす人はあまりいなかったと思います。 

 
 第二次大戦でアメリカが勝ったのが大きな分岐点でした。敗戦国、あるいは大きな打撃を受けた国が、おおむね全体主義国家、つまり寡頭政体だったために、結果的に民主主義が1つの政治イデオロギーに昇格することになりました。政治にはさまざまな考え方が存在するという以前に、民衆は誰がどんなことを考えていてもまったく無視するというのが常です。だとすれば、少なくとも、民主主義が無条件でいいということにはならないのではないか。でも、今の日本やアメリカでこうした主張は、ほとんど目にしませんし、ソクラテスの時代の少数寡頭政体支持者たちのように多数決を否定することなどタブーに近い印象があります。当時、ソクラテスは少数寡頭政体支持者たちのイデオローグと見られていたわけですが、アテナイとスパルタとの緊張関係を考え合わせると、かなり危険な立場だったことは言うまでもありません。〔略〕

 ************ 

  
 ●竹内芳郎・『ポスト=モダンと天皇教の現在』(1989年4月 筑摩書房)
 Ⅳポスト=モダンにおける知の陥穽 

 
 (*1986年当時の「ポスト=モダン」、「近代の超克」という思潮の昂まりのなかで提起されたもので、著者・竹内氏によれば、「・・執筆の背後に暗い危機意識と鬱屈した怒りの情念がたぎっていた」という。以下紹介する。)

 ・・・〔略〕・・・(ヨーロッパの教育の場に〔イジメ〕がないのは日本のように効率第一主義や競争と選別の論理が貫徹することがないからだ。その効率=競争原理からみれば、)
日本よりもはるかにムダが多く、日本よりもはるかに「おくれている」からなのだ。なにも教育の場だけのことではない。そういう目で見れば、ヨーロッパ社会は実にいたるところ穴ボコだらけで、企業の論理が貫徹せぬことおびただしく、これではエコノミック・アニマルの効率性において、わが日本に太刀討ちできなくなるのは当然のことなのだ。「おくれた」欧米近代と「進んだ」日本近代と-この2つを混同して近代超克論を立論することがいかにバカげているか、この例からももはや自明であろう。
 *だからアメリカの経済ジャーナリストR・C・クリストファーも、「日本の教育制度は、経済第一主義の国家目標からすれば、世界無比の高能率の教育制度だ」と絶賛し、しきりに羨しがっている。

 ④しかしながら、欧米近代よりも日本近代の方がより「進んでいる」のは、なにも教育の場だけのことではない。もっと広く、いわゆる「先進国」社会の支配的イデオロギーたる〈民主主義〉の点でも、日本近代は欧米近代よりも「進んでいる」らしい。理由はこうだ-

 このあいだの衆参両院議員の同日選挙において自民党が圧勝したことについて、マスコミをつうじて世の賢者たちがさまざまな理由づけを述べ立てているが、それらに共通して言える難点は、
今日の選挙制度における投票で示される〈国民の意志〉なるものが、「今後日本はどうあるべきか」についての個々の国民の自由な意志表明ででもあるかのような擬制を、あらかじめ前提としてしまっていることだ。しかし、この擬制は、およそ日本の選挙の実態からはほど遠いのではないかと、私なぞはかんがえる。わが国のマスコミは、選挙まえにはうるさいほど実態調査をしながら、ひとたび選挙がおわってしまうと、投票がどのような仕方でおこなわれたのかについての追跡実態調査をまったくといってよいほどしてくれないので、所詮は憶測にたよるほかはないが、私見では、すくなくともわが国の選挙では、たとえば、誰かに金をつかまされてしたとか、つき合い上の義理でしたとか、人情にほだされてしたとか、あの候補者はなんとなくカッコイイから趣味上でしたとか、地元や所属集団に金をおとしてくれそうだからしたとか・・・といった〈私的〉関心から投票がおこなわれるのが大半であって、私的利害とは関係なく純粋に〈公的〉な立場から、わが国の将来を慮りつつ政策を見て投票するような人は、左右を問わずごくわずかしかいないのではないかと思われる。投票が〈私的〉関心によるのか〈公的〉関心によるのかを峻別しないで〈国民の意志〉なるものを云々することがいかに怖るべきことになるかそれを私にはじめて実感させてくれたのは大分まえのこと、あの60年安保闘争後まもなく『読売新聞』だったかの片隅に出た1つの囲み記事を見たときだった。それによると、或る寒村でのこと、選挙のときには当然ながらいつも自民党が圧勝するのに、或るとき党や人とは無関係に日本の進路についての政策に関して意見投票をしてみたら、なんと当時の共産党の掲げていた政策に最も近いものが最も多くの票を集めた、というのである! むろんいつもこういう結果になるとはかぎらないにしても、公と私とのこのようなはなはだしい乖離を前提としなければ、今日のわが国で、一方では反核署名を実施すればたちまち1千万もの名が集まるのに、他方では、選挙をすればレーガンの核軍拡路線を無条件に支持している自民党がいつも大量の票を獲得するという珍現象も、とても理解することはできないだろう。
 *選挙のたびに莫大な金がばらまかれ、買収費1票あたり平均7200円〔警察庁しらべ〕という相場までついているのに、この投票の仕方を無視して選挙結果を論ずるのは偽善もはなはだしい。

 実際、わが国の選挙制度のもとで表明される国民の意志なるものは、根本的にはいつも〈私的〉意志表示以外のものではなかった。このことを最も劇的に実証したのは、その前の衆参院選挙(83年12月)のケースであって、マスコミでは「田中判決選挙」と命名されていたこの選挙で、当の田中角栄氏が未曾有の驚異的得票を集めただけではなく、全国的にも田中軍団が大勝利を博し、自民党内で最大派閥を形成するにいたった-当時の世論調査の結果では、国民の85%までもが「田中は議員をやめろ」と叫んでいた(これはむろん〈公的〉意志表明)にもかかわらずだ。このとき田中を支持する秦野章氏は、「政治家に倫理をもとめるのは八百屋で魚をもとめるに等しい」と言い、「この程度の国民にはこの程度の政治家がふさわしい」と放言していたが、この言たるや、この言に憤慨して金切り声をあげていた野党政治家たちの意見よりもよほど正確に実態を衝いていたのであって、まことに日本の戦後民主主義は、制度的に金権政治と不可分なのである。〔略〕

 けれども、ここでの問題はそこにはない。それよりもむしろ、これこそが実はブルジョワ民主主義の最も「進んだ」形態ではなかろうか、という点なのだ。

 『国家と民主主義』〔現代評論社刊〕第1論文で論じておいたように、近代民生生義にはもともと2つの源流があり、1つは公私分裂を前提として私有財産保全をめがけるロック出自の自由主義的民主主義、他は破私立公を前提として人間的自由実現をめがけるルソー出自の権力人民化の民主主義。

 近代市民社会でほんとうに実現して行ったのはむろん前者であったが、それでも後者との抗争のなかで後者の本質的部分をも吸収せざるを得なかったせいか、すくなくとも欧米では前者が純粋に自己を貫徹することはなかったかにみえる。ところがわが国の戦後民主主義では、前者がなにものによっても妨げられることなく純粋に自己を貫徹することができたのであって、その端的な表現が、金権政治を本質とした自民党の永久独裁政権だったわけである。

 そして資本の論理、企業の論理からみて、これほど効率のよい政治形態はないはずであって、実際、欧米でのように、2大政党(しかもその一方は多少とも社会主義的性格をもつ政党)間でしばしば政権交替をやらかされていたのでは、企業としては長期展望をするのに不都合を生じ、苛立たしくて仕方がないのである。とすれば、近代社会のご主人たる企業の目からすれば、わが国の金権民主主義こそ欧米のそれよりもはるかに「進んだ」近代民主主義形態であるはずであって、こうしてわが国では、人権思想は私権擁護へと転化し、欧米の個人主義は利己主義へとおのれを純化したわけである。

 両者を区別する装置ももたないで、ポスト=モダン思想が〈近代的自我〉を超えるのだと無邪気にはしゃいでいるのは、けだし噴飯ものだと言うほかはないだろう。
 *戦後日本で自民党が永久独裁政権だという事実に比すれば、今回の「圧勝」なぞまったく二次的意味しかもたない。

⑤ 欧米近代と日本近代との今日における逆転現象は、「第三世界」との関係においてさえも見られる。欧米近代は第三世界の植民地化によって肥え太ったものであり、その自由や民主主義や人権はその犠牲のうえに華ひらいた徒花にすぎぬというのが、昔も今もかわらぬ近代超克論者の主張だが、この主張は、このかぎりではむろん正しい。けれども、今日までくると、ここでも奇妙な逆転現象がおこっているのだ。

 今日、いわゆる先進国つまり旧植民地保有国は、第三世界つまり旧植民地諸国にかなり多額のいわゆる「経済援助」なるものをおこなっているが、この経済援助は、その美名にもかかわらず、その実、に一方では相手国の独裁腐敗権力を支え、貧富の差を拡大し、人民をますます苦しめると同時に、他方では自国の企業に甘い汁を吸わせてますます肥え太らせる巧妙な装置となっていることは、いまではよく知られている。問題は、これにたいするいわゆる「先進国」国民の反応であって、周知のようにわが国では、左翼労組に組織された労働者をもふくめて、まったくといってよいほど無関心であって、むろん金権民主主義選挙の争点なぞになったことはいまだかつて1度もない。企業の論理が労働者階級をふくむ全国民の魂の底までしゃぶりつくした最も「進んだ」民主主義をもつ国に、まことにふさわしい反応ではある。
 * 私の知るかぎり、武藤一羊氏の主宰する「アジア太平洋資料センター」ぐらいが活溌な情報活動をしている程度だ。

 ところが「おくれた」民主主義しかもたぬ西欧では、事はこんなにスムーズには運んでいないことを、『朝日新聞』に連載された松井やより編集委員のすぐれたリポート「市民と援助-西欧の〈第三世界運動〉」が詳細に報告していてくれる。保守政権なら企業寄りとなるのはどこの国でもおなじだろうが、企業の論理にまだそれほど魂をしゃぶりつくされていない西欧・北欧の一般市民や労働者たちは、そうはさせじと開発援助と南北問題解決との矛盾を鋭く衡き、〈人権〉を楯にとって政府に援助政策を諦めさせるだけでなく、さらにすすんで小中学どころか幼稚園ですら全科目に第三世界問題をとり入れさせ、「第三世界の文化を破壊したのはわれわれであり、われわれこそが彼らの貧困と飢餓に責任がある」と教えているのだから、ただただ「すごい」の一語につきる。南ア制裁やニカラグア支援の諸課題についても、態度はまったくおなじだ。尤も、こんなことが可能となるのは、彼の地では日本の文部省のような悪質な教育破壊機関が蟠歔踞していないせいでもあろうが、ともあれ、伝統的に近代主義者と近代超克論者との重要な1争点となってきた第三世界との関係の問題においてさえ、近代西欧と近代日本とはかくも大きな相違をつくってしまう事情にたいして、世のポスト=モダソ思想家たちは一体どんな解答を用意できるというのだろうか?

 三 最後に、現代日本のポスト=モダソ思想の致命的欠陥は、以上の考察からも推測できるように、それが観念のうえだけでの遊戯にかわって現実との対決を完全に忘却している、という点にある。これは『こころの科学』誌論文でも強調しておいたとおり、実は戦時の「近代の超克」座談会にも見られた根本的な欠陥であって、このゆえに、そこでの部分的には今日もなお聞くべきものをもつ高度の議論も、現実には徹頭徹尾、当時の日本の帝国主義的侵略戦争への知的協力という度しがたいものにまで転化してしまったのである。今日のポスト=モダン思想がおなじ轍を踏むならば、またもや「パンパンと天皇とのあいだを振子のようにゆれ動く」あの不毛な往復運動にもう1往復付加するだけにとどまらず、こんどこそ最終的な破局へと途をひらくこと必定だろう。したがって、ポスト=モダン思潮にぞくする思想家だらけ、自分たちの主張の背後で現実に進行している歴史的諸過程にたいして、ぜひとも透徹した認識をもつ義務があるのだ。 〔略〕 
 
 (竹内は、ポスト=モダンの【現実世界との対決姿勢の欠如】を批判しながら、それが西田哲学の可能性(ここでは「近代の超克」という可能性だが)とその復権を「企てる」思想の安易さ撃つ。)・・・

 ただ、西田哲学が戦時中、日本の帝国主義的侵略戦争-これはあきらかに〈近代的原理〉の貫徹そのものだった-を批判し得る視点をまったく呈示しなかったばかりか、遂にこれを聖化しつつ多くの真摯な青年たちをこの醜い戦争へと煽動して行ったことがすでに周知である以上、すくなくともこの哲学形態での近代の超克、ポスト=モダン思想だけは現実には有害無効なのだという自明の事実に、どうして目を開こうとしないのか、私にはまったく不可解なのである。

 実際、中村(雄二郎)氏は私と同世代の哲学者なのでよくわかっているはずだと思うが、私たちの旧制高校時代には、西田哲学はその難解な思弁の論理でもってあの愚劣な戦争を正当化すべく、さまざまな形態のもとで実に猖獗をきわめていた。もうあのころになると、多少とも左翼的な社会科学書はすべて権力によって弾圧されて国禁の書となっていたわけだから、あの戦争を正確に把握する途は私たちにははじめから完封されており、したがって西田哲学による戦争美化に抗する知的用具は私たちになにひとつ残されてはいなかった。にもかかわらず、私個人としては、時代を生きる人間の肌で感ずる直観として、この戦争がとうてい肯うことのできぬ醜悪なものだ、ぐらいの見当はすでについていた。尤も、そんな見当がついていたからといって、徴兵を間近に控えた身でどうするすべもあるわけがなく、せいぜい私のとり得た唯一の抵抗手段は、すでに東大法学部に在籍していたがゆえに入隊後も約束されていたもろもろの特権享受を一切放棄して最下等の1兵卒として入隊すること(したがって、おのれの学問を戦争のために役立てることは一切しないこと)、戦場に立ったらとにかくできるだけはやく死ぬように志すこと、ぐらいのもので、そのような決意のもとに、『歎異抄』から書き抜いたささやかな1文を軍服のポケットにそっと忍ばせながら、もう敗戦の色濃い44年の晩秋、遠い中国の戦場に赳くほかはなかった(なにしろ、当時、どうにもならなくなって最後に私が辿りついた地点は、法然・親鸞の浄土真宗的信仰でしかなかったのだから)。そのような戦争体験を踏まえつつ、戦後、あらたに哲学徒として再出発を志したとき、まず最初におこなった決断は、まかりまちがっても、西田哲学のような、現実との対決を回避してただ観念の歯車をまわすだけですべてが解ったような顔をする哲学だけは断じてすまい、ということだった。それゆえ、52年4月、東大文学部卒業直後に書いた1文「新しく哲学に志す者の1つの独白」〔季節社版『実存的自由の冒険』所載〕のなかに、つぎのような言句が見えるのも、主として西田哲学系のものを念頭に置いてのことであった

 「このとき、ぼくらの背後に聳えていた哲学の殿堂は、たちまち一変してことごとくのり超えられるべき累々たる屍の堆積となる。ドイツ哲学の強靭な伝統を継承し、すでにわが国独特の哲学を育成しつつあるかにみえた優れた先輩たちが、その難解な論理の鎧の下に実は〈ホメロス以前〉的思惟しか秘めていなかったという事実は、何と無意な幻滅であったことか・・現代の哲学の沈滞こそは、一般大衆の哲学にたいする無言の不信の表明ではなかろうか。哲学者とは哲学することによって馬鹿になった人種だと、健全な常識がいみじくも合点したためではないのか・・哲学することがただ人をコケおどしてそのなかに安眠し得るいかめしい哲学体系を建造することであったなら、一体そこに何の意味があろう・・〔略〕
 
 現代日本知識人のあいだで支配的なこうした真の意味での知の解体は、大衆レヴェルにおけるあの自民党圧勝の今日的ムードと、ぴったりと歩調を合せた現象なのであろう。だが、大衆の保守ムードの単なる受動的反映にしかならない知的営為を臆面もなくする知識人は、さっさと知識人たることを廃業した方がましではないだろうか。 〔略〕

  最後に、『戦前の思考』 柄谷行人 (1994年2月 文芸春秋)より。
 
 
 ●議会制の問題(1992年11月早稲田大学園祭の講演)

 1 民主主義と自由主義の違い

 ものを考えるのは、ある意味で、例外状況あるいはアブノーマルな事態から考えることです。たとえば、誰でも重い病気になると人生について考えますね。ノーマル(規範的)ではない形態から出発するというのは、ものを考える上での基本的な姿勢だと思うです。しかし、それはノーマルな状態を軽蔑することではない。ただ、日常的なノーマルなものが、どんなに複雑であるか、またそれが堅固に見えてどんなに脆弱であるか、そういったことを知るために不可欠なのです。ニーチェはそれを「病者の光学」と呼んだと思います。それは、他のあらゆる事柄についてもあてはまります。
 たとえば、経済学にかんしていうと、普通の経済学はいわば経済現象がノーマルにはどのように動いているかにのみ関心をもっています。しかし、本当は経済にかんして考えるためには、例外的な事態、つまり恐慌から見なければならない。マルクスはそこから考えた人です。心理学にかんしていえば、それは精神病から考えなければならない。フロイトはそうしました。同じことが、法や国家にかんしてもいえるでしょう。法や国家にかんしては、それを戦争から考えなければならないはずです。通常の状態から考察したのでは、その本質が見えてこないのです。私の知るかぎり、そのように考えたのはカール・シュミットです。

 シュミットは、ナチの理論家です。もちろん、彼の考えは、一般的にナチを特徴づけていた「人種主義」のようなものと異質だし、そのために彼は途中失脚しています。戦後、彼はそのことをもって自己弁護しているのですが、それは見苦しいだけで、とうてい彼を免罪するものにはなりません。しかし、シュミットには、われわれが無視てきないような洞察があります。それは、彼がつねに例外状況から出発し、それによって通常科学ではけっして見えないようなものを見いだしたからです。そして、彼が思考のある極端さを実現しているかぎりにかいて、それを無視することはできません。

 しかし、ここで、注意しなければならないことがあります。われわれが例外状況から出発するのは、それが本来的だからだという意味ではないのです。それは、先にいったように、むしろノーマルな状態がいかにあいまいで複雑かを理解するためです。ある種の人間、ロマン主義的人間にとっては、例外状態のほうがなじみやすく、日常的な状態のほうが耐え難い。明らかに、シュミットはロマン主義的です。彼は『政治的ロマン主義』という本を書きロマン主義者を鋭く批判していますが、それは自己分析というべきもので、彼自身がまさにそのようにふるまっているのです。

 たとえば、自由・民主主義という言葉があります。自由主義と民主主義はほとんど区別なしにあいまいに使われています。これを明確に区別したのがシュミットです。彼は、『現代議会主義の精神史的地位』(みすず書房)において、こういうことをいっています。普通、民主主義というと、議会制民主主義だと考えられていますが、シュミットは、現代の議会制は、根本的に自由主義であり、これは民主主義とは異質なものだというのです。いいかえると、議会制でなくても、民主主義的であることは可能だというわけです。

 民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということです。これは現実の政体とは関係ありません。たとえば、マキャヴェリは、どのような権力も大衆の支持なしに成立しえないといっています。これはすでに民主主義的な考え方です。彼はたしかに『君主論』を書いた人ですが、もともと共和主義者でした。しかし、問題は、どのようにして、大衆の意志が最もよく「代表」されるのかということにあります。
 
 デモクラシーにおいて重要なのは、人民の意志が基底にありながら、それが何であるのかを誰もいえないことにあるのです。なぜなら、現実に存在する人々は、さまざまな利害の対立のなかにあるからです。議会とは、それらを調整する場所だといってもいいでしょう。そして、そこでは公開的な討論を経て多数決によって「人民の意志」が実現されることになっています。しかし、ここに問題があります。それは、多数だからといって、それが真に人民の意志を実現するとはいえないということです。むしろ、少数者のほうがそれをあらわすということがありえます。

 
 これはプラトン以来の難問です。それは、真理は、多数決で決定できるのかという問題です。すなわち、真理はいつも少数の者によって把握されるのではないのか、多数の同意は真理を保証しないのではないか、しばしば真理は多数が同意するものに反しているのではないか、というような問題です。プラトンは、政治形態にかんしてもそれを拡張し、議会制に反対して、哲学者=王こそ真理を代表すると考えました。

 同じ問題は、ルソーが個々人の意志を超えた「一般意志」を想定したときにもあらわれています。これは、市民社会が利害の対立のなかにあるのに対して、そこから中立的な国家官僚こそ一般意志を実現するという見方につながります。具体的にいえば、それは、国家機構が議会あるいは諸政党の上に存在することです。ルソーは民主主義の祖といわれますが、この意味では国家主義の祖でもあります。現在でも、日本の官僚は、議会を自分たちの政策を承認させる単なる手続きとして、また、しばしば民間的な特殊利害によって「一般意志」をゆがめるものとして見ているはずです。

 ところで、マルクスは、議会制を、実は特殊な意志(ブルジョワ階級の意志)であるものを一般意志たらしめるものだと考えました。それに対して、マルクスは「プロレタリア独裁」を主張しました。それは「プロレタリアートの解放が人類の解放である」がゆえに、プロレタリアートの特殊的意志が一般的なものたりうるということを意味しています。しかし、マルクスはその具体的内容については何も語らなかったのです。しかし、そこに、それならプロレタリア階級の「真の意志」は、どのように代表されるのかという問題が出てくるはずです。その場合、晩年エングルスやカウツキーは、議会制をとっていました。

 それに対して、レーニンは、少数の前衛としての党がそれを代表するという考えを出しました。したがって、共産党はプラトンのいうような哲学者=王ということになります。このレーニンの考え(ボルシェヴィズム)が、俗に知られているマルクス主義です。こうして、「プロレタリア独裁」は「党独裁」、さらに「スターリン独裁」ということに帰結します。しかし、それはスターリンの誤りということではすみません。それは実質的には官僚の支配なのですから。さらに、それは「真の意志」を誰がいかにして代表するかという問題にかんする、一つの考え方の帰結ですから。さらに、それは「民主主義的」でないとはいえないからです。

 シュミットは、共産主義的な独裁形態が民主主義と反するものではないといっています。もちろん、彼はヒットラー総統の独裁は民主主義的であるというのです。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし、必ずしも反民主主義的であるわけではない》。実際、ヒットラーはクーデターではなく、議会的選挙を経て合法的に権力を握ったのです。そして、その政策は、基本的に官僚による統制経済です。それはワイマール体制(議会民主主義)においてなすすべもなかった失業問題を一挙に解決して、「大衆の支持」を獲得したわけです。

 こうして見ると、逆に、自由主義が何であるのかが見えてきます。それは、「人民の意志」が公開討議による合意によって決定されるという考え方にもとづいています。もちろん、このことは、哲学における「真理」の問題とつながっています。自由主義によれば、真理はとりあえず合意によって承認された暫定的なものでしかありません。この意味では、近代科学における真理は、暗黙に自由主義にもとづいています。

 それを批判したのはハイデッガーです。彼によれば、真理は、討議や多数決によってあるのではない。また、それは表象(代表)によってつかまれるものでもない。真理は「存在の隠れ無さ」であり、それは少数の者(詩人)の言葉において開示される、というのです。そして、それは政治的には、次のような考え方としてあらわれます。彼はハイデルベルク大学総長として、次のように演説しています。

 ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。
 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただし党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。
 (「アドルフ・ヒットラ~と国家社会主義体制を支持する演説」1933年)

 いいかえると、投票はするが、それは代表制(議会)における投票のごときものではない、というのです。つまり、ハイデッガーもシュミットも、議会という形態そのものでなく、そこに存する自由主義に反対しているということができます。彼は、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにあるというわけです。ハイデッガーの近代哲学・近代科学への批判が標的としているのは、実際は、表象=代表representationによってもたらされるような真理なのです。〔略〕

 

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