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●感想ひとつふたつ。
「渡辺京二評論集成」という全4巻の評論集(葦書房 2000年7月刊)がある。
その Ⅳ・『隠れた小径』 のなかに、収められている ★逢わざりし師に逢う と題した一文で 吉野作造について書いているので、先ずその紹介から。(初出は『吉野作造選集』第13巻月報、1996年)

 若き笹川良一が師(先生)と仰ぎ、留日受験中の周恩来が会いたかった人物-吉野作造についてである。

 *************  


 ★逢わざりし師に逢う

 私(渡辺)もかつて人並みに『憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず』は読んだ。正論ではあろうが、まどろっこしくてかなわなかった。これは該論文をけなすのではない。「早とちり」と人から評される私の気質をいうのである。
 しかし私は、もとから吉野作造という人に好意をもっていた。この人の骨頂は丸山真男まで系譜をたどれそうなりベラリズムにあるのだろうから、昭和の「春のいそぎ」の季節に人となった私などとは情念の質がちがう。にもかかわらず、私はどうもこの人は、丸山流のデモクラシー、リベラリズムとは教養の源泉がちがうらしいという感触を早くから得ていた。

 というのは、この人は宮崎瑫天と北一輝の実に公正な理解者であったからである。周知のように、大正15年、瑫天の『三十三年の夢』が明治文化研究会から復刻されたとき、吉野先生は解題の労をとられた。その中で、先生は多面にわたってこの本の特色を論じておられ、それもいちいち肯綮に当っているが、私がとくに感銘するのは「私の敬服に堪えないのは、彼の態度のあらゆる方面にわたって純真を極むることである」という1行に対してである。

 瑫天はけっして純真一途というのではなく、デリケートかつ複雑なところがあった人である。ひがみ心も結構なくはなかった。というのもこの人は語の正しき意味で知的であったからである。にもかかわらず、瑫天のかなしさはその「純真」にあった。吉野先生はよくここを見て下さったと『評伝宮崎瑫天』を書いた私は彼のためによろこぶ。

 また私は『北一輝』の著者として、先生が次のように書いて下さっているのをよろこぶ。「北君は・・第三革命の始まって間もなく長文の意見書を発表したが、其1本の寄送に与った私は・・同君の見識の高邁なるに敬服して態々(わざわざ)同君を青山の隠宅に往訪して謹んで敬意を表したのである。尤も北君の意見書の後半は全然承服し難い点はある。けれども其前半の支那革命党の意気を論ずるの数章に至っては、恐らく此種類の物の中、北君の書をもって白眉とすべきであろう」。

 ここにいう意見書とは、もとより『支那革命外史』を指す。該書は名文家たる北の著作のうちでも、第1等の名文である。気合1本、面ありという文章である。しかも北なりの歴史観の透徹が画幅の後景をなしている。先生はそこを看られた。「見識の高邁」とは北の歴史観をいうのである。その歴史観は先生のそれとはセオリー、パラダイムが異なり、従って先生は「後半は承服し難い」といわれたのである。しかし、むかしの学者は度量がひろかった。おのれとは思想の立脚地がちがうと感じ、かつそれを明言しながら、おのれの歴史観と異なるそれをも、また一見識として正当に評価されたのである。

 思想の立脚地とはつまりイデオロギーであろう。先生はイデオロギーをともにしても阿呆は阿呆であり、それを異にしても偉才は偉才だということをご存知だったのだ。学者は往々にして公正を装いつつ、党与偏頗の言をなしてみすからを省みない。むろんそんな学者は学者の名に値せぬといえばそれまでだが、先生のえらいのは、真の意味で公正な評価ができたところである。たといわが敵であろうと、敵の見識才能は認めねばならぬ。だから信玄は敵に塩を贈った。先生は敵に塩を贈ることのできる学者であった。

 これはひとつは江戸・明治前期の人としての教養・わきまえのなせる業だったのかもしれない。むかしの学者は、よほど変な自己狂でないかぎり、そのくらいの度量はもつか、もしくはもつふりをしたのである。しかし先生にはそれ以上の、余人と異なるところがあったと思う。というのは「純真」というのは実は先生のためにとっておかねばならぬ言葉であったからだ。この人は他人にさいわいをもたらすべく生れたエンジェルだったのである。おのれの才を誇る以前に、ひとの才を当人以上に理解し、賞翫できた。生れついてのアプリシェイターだったのだ。

 先生は、大正デモクラシーの淵叢をなした例の民本主義鼓吹の論文のことを、後年、大変クールに卑下しておられる。理論的独創、透徹はないとご自分で感じておられたのである。これは謙遜というのではなく、ご自分で真にそのように感じておられたのだと思う。というのは頭のとびきりいいこの人には、自分が全部見えていたのである。だからこそ私はあえて「卑下」といういやらしい言葉を遣った。

 でも私は先生のそこが好きだし、また尊敬を覚える。世にも独創の人は多い。少なくともそう称する人は多い。キャピタリズムはつねに新商品を開発せねば倒壊するのだから、ジャーナリズムの世界でも自己のトレードマークを印象づけねば、物書き商売は成り立たない。人と変ったことがいえねば、誰が原稿料を払うか。

 しかし実は世に独創は少なく、文章としても真にすぐれものは少ない。いかに当世流行の現代フランス思想などを装着しようとも、そんなものはかつての最新思想マルクシズムとおなじく、数十年すればアウトオヴデートなのだ。そういう小林秀雄流にいうと「意匠」を去ってみればあとに残るのはその人の人生をもってあがなった思想と文章の力である。そしてそういう思想と文章で世に抜きんずる才能はやはり存在する。だとすれば、そういう真にすぐれたものを、真に読解し評価できる人がいなければ、この世はあまりにもさびしい。

 先生はちっぽけなトレードマークで売文をする人ではなかった。事情は存ぜぬことなれど、★先生は売文をされた。この点については往々反省めいた言も洩らされているが、先生はけっしてそのことにおいて恥じておられなかったと思う。なぜなら先生の売文は、自己を売りひろめるためのものではなく、真によきものとおのれが信じたものを世に知らしめるためのものであったからだ。だから私はこの人を、ひとのために生れたエンジェルだというのである。

 ただこのエンジェルは、なかなか喰えぬところがあって、この世の辛酸も、人の信じがたきもよくご承知たった。理想は現実とのかねあいにおいてしか行われぬこともご存知だった。つまり俗な意味でなく、ほんとうの意味の大人で、このエンジェリックな永遠の少年はあったのである。

 例の有名な民本主義の論文について、先生は前述のような謙抑の言をなされたが、一方、世の批評などものともせぬ自信をもっておられた。それは、理論的独創は皆無としても、このような啓蒙が当時の現実においては絶対必要だったという点である。つまり先生は、デモクラシーを真によきものと信じられただけでなく、それが現今の時点において社会に必要たた信じられたから、あの論文を書かれたのだ。無私の業とはこのことをいうのである。

 私はこのたびの『選集』第12巻に収められた人物論の卓抜について強調しておきたい。思いやりと礼節と抑制をそなえつつ、いわねばならぬことはちゃんといっておられる。たとえば中村正直の自己修養の敬すべきを説きつつ、「明治の時代になっては実は斯うした方針では駄目なのだ」と喝破されているように。先生の人物論を当人が読めばみな、「よくぞここまで見てくれた」というにちがいない。その意味でも先生はこの世に遣わされたエンジェルであった。有島の情死のさいの先生の発言も、有島が先生とひとしく1個のエンジェルであり、その共感があったからこその苦言だった。

 私が吉野作造を先生とよぶことを、奇異に感じる人もあろうから、一言断っておく。私はこのたび作造の文章をまとめて読み、なんだか自分の少年の頃の先生に出会ったような気がしてならなかった。また、日本近代史をなんとか途中まででも仕遂げて死にたいと思っている私にとって、明治文化研究会を主宰された先生は大先達である。先生とよぶのはその意味であって、他意はない。<了>

 ************


 ★「・・(吉野)先生は売文をされた。・・」と渡辺は書くが、1例を挙げておこう。

 洋々学人・『答案の書き方』、閑川学人・『受験答案の書き方』の2著のことである。

 吉野作造記念館研究紀要(発行:古川学人 TEL0229-23-7100)の第2号(2005年3月31日発行)に山口輝臣氏の解説で(当該資料も氏の蔵になるものだった)<史料紹介>として掲載されたもので、(後に史料は山口氏から記念館へ寄贈された。)
 「・・ここに部分的に紹介する」理由は2著が「・・要するに、洋々学人=閑川学人=吉野作造である」からということである。

 吉野作造日記、昭和6年1月15日には「・・午後はいよいよ〔答案の書き方〕の稿を起し始む・・」とはあるのだが、現物は未確認であったという。 


 以下、『研究紀要』から概略を紹介しておきたい。

 **********
 
 <史料紹介>

 洋々学人『答案の書き方』、閑川学人『受験答案の書き方』 解説 山口輝臣

 [解説〕
 ここに部分的に紹介する『答案の書き方』と『受験答案の書き方』は、解説などなくとも、存分に楽しめる。よって私の拙い解説など読み飛ばしていただいて一向に構わない。ただ両書の紹介が、なぜこの『吉野作造記念館研究紀要』の貴重な紙面へと載せられているのかと、疑問を抱かれた方もいらっしゃるだろう。そうした方々のために、若干の説明を加えておくことにしよう。

 なぜ本誌に載せるのか? すでにあらかたお察しのこととは思うが、要するに、洋々学人=閑川学人=吉野作造であるからである。 

 洋々学人著『答案の書き方』吉野作造の手になると一部で知られるようになったのは、吉野の死(昭和8年3月18日)からほどない6月に刊行された『古川余影』(編輯兼発行・川原次吉郎)あたりからだろう。〔略〕 その後はこの著作目録の記述が踏襲されるものの、現物については「未見」という状態が続いてきた。〔略〕

 (上述のように吉野作造日記の昭和6年1月15日の記述=「午後はいよいよ〔答案の書き方〕の稿を起し始む」=は確認されても、現物は未確認のままであった。)

 すなわち洋々学人著『答案の書き方』は、存在のみ知られ、現物を確認することのできなかった吉野作造の著書なのである。たまたま現物を所蔵している筆者が、あえてこの場を借りて紹介するのは、そのためである。〔略〕

 洋々学人著『答案の書き方』は、版元であったフロラが、同書刊行後まもなく事実上倒産したこともあり、ほとんど世に出ることがなかったようだ。それで吉野は同書を再刊しようと、いくつかの出版社を当たっていることが、日記から分かる。しかし朗報の記述がないままに日記は中絶、そして逝去。そのため再刊は実現しなかったものと思われていた。

 ところが復刊は、吉野の死から8ヶ月後にひっそりと実現していた。それが閑川学人著『受験答案の書き方』である。存在することだけは知られていた洋々学人著『答案の書き方』に対し、こちらの閑川学人著『受験答案の書き方』は、存在すら想定されていなかったものである。そうなった理由のひとつとして、同書の刊行が、以後の著作目録の原型となった『古川余影』所収のものが世に出たのより5ヵ月ほど後であったことが挙げられよう。本稿ではこちらもあわせて紹介することにした。

 さてここまで読んでこられた方の多くは、次のような疑問を抱かれたかもしれない。吉野作造ともあろう人が、『答案の書き方』や『受験答案の書き方』などという書物を、しかも洋々学人やら関川学人などという筆名で書いたのはどうしてなのか、と。

 この点については、すでに★①三谷太一郎氏が、「家計上の必要」と簡潔に指摘しておられる。また家計の実際に関しては★②松尾尊氏の考察がある。日記の本文にも関連する記述があり、これらから推計すると、吉野晩年の収入は、最盛期の4分の1以下となっている。そしてこれに病気の療養が加わる。「全く仕事を休止して、1ケ月も熱い処へ往って寝て居ればいいのだらうが、生活の為めに多少の労働を必要とする点から考へると然うも行かず」。この日も『答案の書き方』の原稿は書き継がれた。
 ★①:三谷「晩年の苦闘」 『吉野作造選集』15巻
 ★②:松尾「民主主義鼓吹時代の日常生活」同上14巻

 すると次なる問いは、なぜそれが『答案の書き方』であったのか、となるだろう。その点ておそらく決定的なのは、吉野には類書を出した経験があったことである。明治39年に、瀋陽先生の孚で刊行した『試験成功法』(昭文舎)がそれである。同書は雑誌『人民』の連載をもとにしたものであり、太田雅夫氏の懇切な解説を付して、復刻もされている。吉野は、20余年のときを超え、再び類似の企画を立て、実行した。ただしその内容はかなり異なり、『答案の書き方』はさすがに四半世紀の蓄積を感じさせるものとなっている。 〔略〕 


 因みに、後藤 新平は 昭和4年(1929年)4月13日に急死している。
 吉野作造の死亡に先んじること4年である。後藤の急死がなければ、と考えたくもなる。
 そして、大正13(1924)年11月22日に吉野宅へねじ込んで説得された、あの笹川良一は、
 訪問の翌1925年、豊川村の村会議員に当選して政治活動を始め、芸能事務所経営を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。
 その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援、1930年には右翼団体・国粋大衆党(後の国粋同盟)を結成し総裁に就任する。
 もう1人の訪問者(遂にあい見えることのなかった)周恩来は、1931年当時共産党中枢として、江西省の瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、長征に参加していく。


 紹介を続ける。

 (本紀要で)紹介するのは、下の左に○をつけた各章である、という。
 また、山口は「・・『答案の書き方』という名の通り、すこぶる実践的であるとともに、いかにも吉野らしく、倫理的な香りの漂う書物でもある。」と書くがどうだろうか。 

○序
○筆記試験
○答案は読ませるものに非ず見せるものである
○入学試験に於けるモ一つの特徴
 試験問題
 準備教育
○答案の書き方
 答案の書き方の続き-注意すべき2,3の例
 答案の書き方の続き-附随的注意2,3

 以下、一部を紹介する。

 **************

 『答案の書き方』(抄録)

★ 序

1。此の本さえ読めば試験に及第すること疑いなしと買被られては困る。試験に成功するには矢張り誰しもがやる様に一生懸命本筋の勉強に骨折らなくてはならぬ。併しこの本筋の勉強をさへ十分にやれば必ず及第すると自惚れるのも間違ひだ。何故か。それを即ち本書が詳しく説明せんとするのである。

1。そこで、此の本さへ読めば試験に及第し得ると思ふのは誤りだけれども、此の本の教ふる所を十分に呑み込まずして試験に及第する困難なることは事実だ。当節の試験に及第するには本筋の勉強ばかりでは足りない、更に之をどんな風に答案に現すかを識ることが肝要なのだ。之をも十分に呑み込めば、夫れこそ真に鬼に金棒である。

1。本筋の勉強をしただけで試験場に飛び込むのは切符を買わずして改札口を突破しようとするが如きものである、旅行の道順を予めどんなに詳しく研究して置いても、切符を買はなくては汽車に乗れぬ。
汽車に乗るに切符の入用なるは誰しも知って居るが、試験に於いて本筋の勉強以外にモ一つの先決要件あることを知る者(又之を教ふる者)は殆んどない。云って了へば極めて卑近の事だ、卑近の事だけにまた多く人の顧みぬ所となる。著者は多年の経験に鑑み実際上この事の極めて重大の関係あるを思ひ、本書に依って之を篤と世上の青年男女に告げんと欲するものである。
                   
1。人の運命は、今日多くの場合に於て、試験に由ってきまる。此の事のいいか悪いかは別論として、現に世に処する上に於て我々は幾度も試験の関門を突破すべく余儀なくされる。一寸した不注意から此処に無残の失敗を演ずるは悲しむべき事である。本書は之等無用の惨苦を救ふ上にも多少の貢献を為すものであらう。
                          洋々學人

★筆記試験

 去年の冬開かれた府立中等学校長会議で、本年度の入学試験方法として筆記試験を採用する事に決ったと、新聞は報じてゐる。東京府学務部でも之に異議が無いやうだから、小学校を卒へて更に上級の中等学校に入らんとする都下幾万の児女は、嫌でも応でもそれぞれ志望の学校に就き筆記試験を受けねばならぬことになった。そこで筆記試験とは一体どんな風にして受くべきものか、と云ふことが、児童本人は勿論、父兄諸君等までもの頭を悩ます問題となる。私はこの点につき、多年各種の試験官として数限リなき答案を調べた経験に基づき、受験者並びに父兄諸君の御相談相手にならうと思ふのである。

 私の受験者諸君に切に警告したいと思ふのは、答案の書き方の「骨」を呑み込んで貰ひたいと云ふことである。私の永年にわたる経験に依れば、試験答案の肝腎の要素たるこの「骨」に少しでも注意を払っていると思はるる答案に接したことは滅多にない。 〔略〕

 続く。

 

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