カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)-2
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)-2
  -台湾そして満洲へ外征のキーパーソン児玉源太郎と後藤新平
                                   ◆落合莞爾   


 ★後藤―児玉コンビの真相 そして杉山の正体を観る

 明治32年6月児玉源太郎台湾総督は後藤のために総督府民政長官のポストを作る。児玉には重要な国務があったから、31年の渡台以来39年12月まで8年に亘って総督府の民政を総覧した後藤新平が、実質的な総督として阿片政策をはじめ台湾の行政・経済政策をすべて牛耳った。
児玉は33年、杉山茂丸に説得されて桂太郎・杉山と3者同盟を結び、対露戦争に向けて伊藤博文に政友会を設立させて御用政党とする重大な工作を始めた。杉山が長州派の次期最高首脳と結んだのは、高島鞆之助引退の穴を埋め、高島が果たした筈の機能を担うためと思われる。これに応じた児玉はその重責を担いながらも台湾総督の地位に強く固執し、33年陸相、36年内相兼文相、同年参謀本部次長と、軍政はおろか内政のトップに就く傍ら絶対に台湾総督の座を放さなかった。はては37年満洲軍統参謀長と、満洲の野営に身を置きながらも総督の座に拘り続け、戦勝後38年に参謀本部次長事務取扱となってもまだ辞めず、39年4月の陸軍参謀総長就任に際して、やっと明け渡した。巷説これを論じて「児玉は初めは総督を後藤に譲ろうとしたが、総督は武官限定職なのでやむを得ず民政長官の職を設けて後藤を任じ、その後は総督の椅子に自分が就いていることで、文官の後藤に実質上総督の働きをさせた」というが全くの子供騙しで、真相は児玉が後藤と同様、阿片の威力と国際商品としての価値を知っていたからであろう。

 後藤にとって児玉は、表面上は最良の上司であったが、実は目の上の瘤であった。また児玉にとって後藤は、有能すぎて腹を見せぬ油断のならぬ大鼠で、両者の確執は、横浜・台湾間の定期航路の拡張問題にも顕れた。

 すなわち、児玉が命じた船会社の選定を後藤が独断で日本郵船に決めたところ、既に大阪商船に決めていた児玉は後藤の僭越を詰り、日本郵船との契約の破棄を命じ、ために後藤は進退伺いを出すに至った。杉山の『児玉大将伝』はこれを評して「台湾派遣軍人たちが後藤を侮らぬよう、後藤の背後には常に児玉が控えていることを示すために打った芝居」と取り成すが、これこそ世間を騙すための虚報で、杉山はこの一言を世間に流すために『児玉大将伝』を著したとおぼしい。そもそも杉山とは何者か。私(落合)は以前には杉山を、薩摩派総長の高島鞆之助の意を受けて台湾政策を児王総督に吹き込む役目と考えたが、これは浅見であった。今は杉山こそ在英ワンワールドの直参で、薩摩派総長の高島と副長樺山に在英中枢の方針を伝える一方、長州派首脳を目的方向に誘導する役目を果たしたと推察する。彼の著作の大半は、右の真相を隠す目的を以て、故意に偽情報を混じた「発信」と観るべきものである。


 ★満鉄案の淵源と児玉急死の企て

 明治38年7月、日露戦勝後の奉天に赴いた杉山茂丸は、満洲軍総参謀長・児玉源太郎の居室に泊まり、児玉副官の満洲軍参謀・田中義一中佐(士官生徒8期)を交えて南満洲鉄道の経営案を練った。大本営陸軍部副官・堀内文次郎中佐(当時)の言によれば、「関東州に軍政を敷いて、その地を租借して日本的な自治をしたのも、更には満鉄経営の計画を立てたのも、すべて杉山茂丸であった」(堀雅昭『杉山茂丸伝」)。杉山と児玉・後藤は、軍政による台湾経営の成功を満洲統治に応用せんとしたが、満洲は台湾と同様にはいかなかった。日露戦の最中は占領地に総督府を置いて軍政を敷き、大島義昌大将を関東(遼東半島)総督に据えたが、日露講和後に満洲の開放が問題となる。陸軍が徒に軍政を長引かせて外国人を締め出していては、やがて国際問題になることを憂慮した韓国統監・伊藤博文は、39年2月に大磯の私邸に井上馨、大山参謀総長、山県枢密院議長、児玉台湾総督兼参謀本部次長事務取扱、加藤外相ら関係者を呼んで満洲問題を論じた。席上、児玉は満洲(東三省)における総督制の実施を主張し自ら総督に就く意思を表したが、清国領の満洲に日本が総督を置くことはできない。結局、国際的配慮を重視する伊藤の主張により総督制を採らず、関東州(遼東半島)を租借して関東都督と関乗軍を置くこととなり、民政はイギリス東インド会社に倣い、南満洲鉄道会社が満洲を経営する〔自治策〕が採用される。これすべて、杉山の発案だと堀内は証言するのである。

 これより先、井上馨と渋沢栄一が満鉄を米国の鉄道資本家・ハリマンに一旦売却したが、小村寿太郎の猛反対に遇い、小村の進言で、満鉄を東インド会社に倣った国策会社とする案が9月になって閣議決定した。4月に参謀総長に就いた児玉は兼職の台湾総督を辞め、7月13日付で満鉄設立委員長を兼ねたが、総裁人事に当たる最中の23日に急死する。その後は杉山の強力な運動で、後藤が初代満鉄総裁(11月付)になるが、巷説に「児玉が死ぬ前夜、後藤は児玉に総裁就任を要請され、それを固辞したが、翌日の児玉の突然死により総裁を引き受けざるを得なくなった」というのは例の子供騙しである。児玉急死の前夜、両人が会して満鉄総裁人事を論じたのは事実だが、伝えられる会談内容はすべて後藤の□から出たもので、真否は分からない(古川薫『天辺の椅子』)。近来児玉の急死に関して後藤の関与が疑われだしたのも当然だが、1件はいかにも切迫した状況で行われたと見え、直情径行に走り、何らかの証拠を残した様子さえある。

 児玉の死の直前、杉山は後藤に電報を打ったが、その内容から杉山が児玉を見限って後藤に乗り換える意図が窺われるそうで、電文中に「朝鮮モ(満洲と)共二併呑スルコト」とあるので、満鮮政策に関し児玉と杉山らの間に食い違いが生じ、児玉が用済みにされたことが推察される(古川・前掲書)。児玉から後藤に乗り換えた杉山が、後藤を満鉄総裁に就任さすべく急死1件を企てたと思われるが、後藤自身は満鉄総裁にはあまり乗り気でなく、杉山から迫られて止むなく1件を決行した感がある。大義親を滅ぼすというが、あれほど親しかった児玉の急死1件を、杉山自身が発意したことはありえない。裏面で杉山に指図したのは在英ワンワールドを措いてあるまい。いずれにせよ、杉山がわざわざ『児玉大将伝』を著したのは、1件から世間の眼を逸らすためで、彼らの言葉で言う「発信」に当たる行為だと思う。因みに、私(落合)はこれまで杉山を在英ワンワールドの直参と推定してきたが、明治30年代になり、在英ワンワーールドの直参として杉山の上に立つ者が現れたように思う。堀川辰吉郎その人である。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)   <了> 


 以下、ブロガー記。*****

 後藤新平については、大杉栄との「関係」(諜報活動に伴う金銭授与など)が取り沙汰され、今では衆知の事実と化している。

 
 (★『疑史』第15回 なども参照されたい。 -左のカテゴリー『疑史』 から。)

 
 奇しくもただ今、アメリカと日本で首長(片や大統領、此方事実上の総理大臣)選挙という舞踏会が催され、それは連日これでもかというほど報道されているが、

 マスコミ総動員の茶番劇に過ぎぬ、という賢者の見解も日米両国の候補者を見れば肯ける。

 ありもせぬ「民主主義」を気取った一大ページェントもミスキャストでは台無し!というわけだ。

 **************

 偶々、わが「積読本」の整理中に目についた吉野作造の後藤新平宛書簡-
 (大正13年11月=大杉虐殺後1年余り後!)を以下に紹介しておこう。
 >>吉野作造選集 別巻 岩波書店 1997年3月24日、p41~42 より。

 <吉野作造-後藤新平-笹川良一>という繋がり=絡み合いも興味深いし、

 あの若き周恩来が駐日時、何とか聞きたかったのが吉野作造の講演会だったし、吉野宅へ何度も訪問した(果たせなかったが)ことも★周恩来『19歳の東京日記』(小学館文庫)には明記されており、

 <後藤新平-吉野作造-笹川良一>プラス 周恩来 という図式を「妄想」することも、

 少なくとも、思想的なそれとしては許されるだろう。

 ************

 以下、引用・紹介します。


 (大正13年11月23日 後藤新平宛 〔封書、封筒欠く〕)

 謹呈 久しく御無沙汰致して申訳ございません不悪御ゆるしを願ひます
 さて急に差迫った事なので風邪病臥中の不自由を忍びつつ、此手紙を捧呈します 失礼の段は之亦御宥しを願ひます
 用件は大坂(ママ)の国粋会幹事・笹川良一といふ青年は多分明朝御訪ねするだらうと思ひます 昨夕私の所へ見えました 
 思ふ仔細ありて病床で遇ひました際閣下に紹介して呉れとの事でしたが紹介は友人間の事 先輩に対しては軽々しく出来ぬ併し子爵は元来客を喜ばれるから往訪面謁を願って見たら可いだらう 紹介はしないが折を見てあなたの御人柄を子爵に御伝して置くからと申して分れたのでした

 笹川といふ青年は本年春、大坂で始めて遇ったのです 私を訪ねた目的は怪しからぬ非国民だとて謂はば厳重に詰責に参ったので 場合に依ては暴力にも訴へ兼ねまじき見幕でございましたが私が事理を尽して平素の宿論を卒直に述べると遂に自らの誤りを詫び夫れ以来私を先生扱ひにして非常に親みを有つ様になりました


 私の観る所では教養が乏しいので是非得失の判断を誤り無用の事に昂憤するの嫌はありますが相当に説明してやると直に納得して善に移る珍らしい青年です 
国粋会にも斯んな青年が居ると思へば頼もしくさへ感じて居ります 私がもし引続き朝日新聞に関係して居りまして大坂に参る機会が頻繁にあったら同君を通して国粋会の有志ともっと接触して見たいとさへ思ったのでありました
 
 兎に角一寸人にそゝのかされて禁酒演説の妨害に往て其の演説に感服して禁酒禁煙を決心したといふ程の男ですから之を適当に後援指導したなら社会の為になると考へて居るのでございます 
尤も御邸を御訪ねする目的は金銭上の援助を求むるのではないかと思ひますが決して徒らに乱暴する様の人物ではございませんから其の辺御ふくみの上然るべく御取扱を願ひます
相当子分もあってヒョット誤解するとまた飛んでもない事をやる素質はまだあると思ひますので此辺御参考までに申上げたいのです

 作日遇った際には子爵に多額の御無心をするなどの間違って居る事を申しましたら自分のやってゐる雑誌の新年号に御話を承りたいのだと申してゐました 大体閣下には好感を有ってゐる様に見受けました

 私一己の希望としてもあんな類の青年には是非御面会を願ひたいと思ふのですが十分に知っても居ないものを一時の印象に依て御薦めする訳には参りませんので只右あらまし御参考までに申上ぐるのです                               草ゝ不尽
   11月23日                            吉野作造
   後藤子爵閣下

 *************** 


 注:蛇足ながら、1899年大阪府豊川村(現箕面市)に造り酒屋の息子として生まれた
   笹川良一はこのとき25歳で、豊川村の村会議員に当選して政治活動を始める
   1年前のことである。 


 ★訂正

 上に「・・あの若き周恩来が駐日時、何とか聞きたかったのが吉野作造の講演会だったし、吉野宅へ何度も訪問した(果たせなかったが)ことも★周恩来『19歳の東京日記』(小学館文庫)には明記されており、・・」と書いた。例えば、1918年6月21日(金曜日)の日記には確かにこうある。

 ************

 6月21日(金曜日)   気候:雨

 【治事】
 朝、読書、10時に個人教授のところに行く。午後、友人への返信を数通出す。
 6(18)時、鉄卿、東美があいついで来て、 
 吉野博士を訪ねるが、会えず、帰る。
 【通信】 略
 
 *鉄卿とは留日仲間で〔同学会〕の組織者・陳鋼、
  東美とは劉のことで、共に恩来に経済援助をしていたという。(同文庫より)

 ***********

 しかし、再通読したところ、「日記」(小学館文庫版)では恩来の吉野作造訪問(会えずじまいだったが)に関する記述はこれだけで、「・・吉野宅へ何度も訪問した・・」と記したことは「日記」の範囲では誤りでしたので、訂正します。

しかし、同文庫の<注>にもあるように「・・・吉野作造は、かつて天津で教鞭をとっていたことがある。袁世凱の長男・袁克定の私教師でもあった吉野は、直隷督処翻訳官として参謀処付き将校に「戦時国際法」を講義し、北洋法政学堂(1907年天津に開校)では〔国法学〕〔政治学〕を講義して」おり、「周恩来も、南開学校時代から吉野の名前を聞き知っていたのかもしれない。」し、「1916年中央公論の巻頭論文で唱えた民本主義は、大正デモクラシーの根本思想となった。」ことから、恩来が吉野訪問を試みたのがこの日記に記された1度だけとは考えにくいのも事実です。
 

 
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