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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)-1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)-1
  -台湾そして満洲へ外征のキーパーソン児玉源太郎と後藤新平
                                  ◆落合莞爾  


 ★台湾政策の根源は高島か、杉山か?

 明治28年4月1日、第1次伊藤博文内閣は台湾統治のために台湾事務局を置き、総裁を伊藤首相が兼務した。内務省衛生局長後藤新平は「台湾島阿片制度施行に関する意見書」、即ち阿片漸禁策を伊藤総裁に提出し、諒承された。29年4月2日、台湾事務局は新設の拓殖務省に移行するが、初代大臣高島鞆之助も之れを踏襲し、実行に移した。

 明治31年1月の陸軍首脳人事は、東京防御総督桂太郎中将が政治力を発揮したもので、薩摩勢の後退と長州派の躍進は眼を峙たしむるものがあった。陸軍3長官の人事では、陸相高島鞆之助中将(薩)を予備役に編入して桂太郎(長)が自ら之れに代わり、参謀総長は小松宮彰仁親王を元帥府に祭り上げて次長の川上操六中将(薩)が昇格した。従来の監軍はこの時に教育総監と改称されたが、第三師団長・寺内正毅少将(長)が初代総監に就いた。陸軍次官・児玉源太郎中将(長)は、後を中村雄二郎少将(紀州・長州派)に譲って第三師団長に転じたが、翌月になって急に休職することになった台湾総督・乃木希典中将(長)を継いで第4代総督となる。

 児玉は台湾最大の社会問題である阿片吸引問題を改善するため、総督府民生局長として後藤新平の割愛を内務省に要望する。総督副官に配された堀内文次郎大尉は宇都宮太郎と同期(士官生徒7期)で、宇都宮や樺山勇馬とともに高島鞆之助を参謀総長に推戴しようとした「起高作戦」の一員であった。後に中将に昇った堀内は、台湾総督府で児玉に親炙した経験を語り、「児玉と杉山は正に異体同心で、杉山の策を悉く児玉が実施した」と語っている。文化人としても知られる堀内の言は、その人格 からしても信ずべきである。
 堀内は、巷間に流れる児玉・後藤伝説の虚妄の訂正を意図したと思われるが、折角の言も世人に顧みられず、虚妄は今も増殖を続けている。その堀内も、杉山と高島の関係には言及していない。これは、高島が堀内ら股肱に対しても実状を隠したのか、逆に堀内が高島の秘密を知ればこそ上の言に止めたのか、定かではないが、あの 饒舌な杉山も高島についてほとんど語っていないのを見れば、杉山と高島の関係は極秘にされたことは慥か(たしか)である。いずれにせよ、高島が台湾政策を発案し、杉山を通してそれを児玉・後藤に授けたと観るべきでなく、台湾政策の根源はむしろ杉山であって、高島ら薩摩派の台湾関連事業でさえも、実は杉山の指導によるものと解すべきフシがある。

 ★「自分は隠れキリシタン」 後藤を生んだ水沢の伏流

 後藤新平は、水沢伊達家の小姓頭・後藤左伝次の長男として、安政4年(1857)に生まれた。安政3年生まれの南部藩上士の次男・原敬と、同年の日向都城藩士の次男・上原勇作を合わせた3人こそ大正時代の3大政治家で、その気宇と実績は現実に首相に就いた大隈重信・寺内正毅・山本権兵衛らを遥かに凌駕している。台湾政策の実行に関わった児玉と後藤を比べる時、後藤が児玉(というより、薩摩派首脳を除くどの日本人)よりも、1段深くワンワールドに染まっていたと思えるが、理由はその出自であろう。大正中期、上原元帥の命令で特種のケシを栽培し、純質アヘンの生産に励んでいた吉薗周蔵は、後藤新平から数回にわたりケシの栽培・利用に関する協力を求められたが、その際に後藤が指定した密会場所は、たいてい神田や中野のメソジスト教会で、そこで後藤は「自分は隠れキリシタンの家筋で、家には数百年以来の伝承がある」ことを明らかにした。水沢は独自の国際化政策を有した伊達家がキリシタンを集めた地で、水沢キリシタンの主頭・後藤寿庵の直系子孫が後藤新平である。

 寿庵は陸中磐井郡の藤沢城主・岩淵秀信の次男として、天正5年(1577)に生まれたが、主君の葛西氏が豊臣秀吉によって滅びると、長崎に落ちのびてキリシタンになり、迫害によって五島列島に逃れた時、五島姓を名乗った。寿庵は、京都の商人田中氏に紹介された支貪常長を通じて慶長16(1596)年に伊達政宗の家臣となり、伊達家中で武勇で知られた後藤信康の義弟となった。寿庵堰と呼ばれる大規模な用水を作り、また東北キリシタンの頭領として、元和元年(1621)ローマ法王パウルスニ世の教書に対する返信を送った寿庵だが、終焉の地は不明で、秘かに渡欧して欧州で卒したとの説がある。寿庵以来、水沢の地に伏流したワンワールドの精神は、2百余年の後に噴出する。すなわち新平の大叔父・高野長英であるが、その行蔵はここに記すまでもない。

 後藤新平の目ざましい出世は、家門の使命を自覚して自ら境遇を切り開いたことに因るものだが、彼を育てた安場保和と長与専斎にも目を向けねばならない。安場保和は天保6(1835)年に熊本藩の上士に生まれ、横井小楠門下の四天王に数えられた。戊辰の戦功で賞典金3百両を授かり、明治2年に太政官に出仕し、胆沢県大参事(県知事に相当)に任じるが、その折、水沢伊達藩士の子弟で当年13歳の後藤新平とその1歳下の斎藤実(後の首相・海軍大将)を書生にし、県庁の給仕に採用した。
 西郷隆盛の推挙で明治4年に大蔵省に入り、大蔵大丞を経て租税権頭に就任したが、その直後に大蔵大輔・大隈重信を弾劾する意見書を提出する。弾劾案は流石に否決され、提出者の安場は岩倉使節団に加えられて11月から欧米出張を命じられた。安場は民族主義的性向が強く、途中で嫌気がさして引き返したが、それでもこの辺りにワンワールドとの接点があるように思える。5年5月に帰国した安場は福島県権令に任じ、県令に昇ると、東京の荘村家で書生をしていた後藤新平を福島県に呼び寄せて6年5月福島第1洋学校に入れ、翌年には須賀川医学校に転校させた。8年12月、愛知県令に転じた安場は、須賀川医学校を卒業して鶴岡の病院に就職が決まっていた19歳の新平を愛知県に呼び寄せ、9年9月付で愛知県病院三等医とした。これを皮切りに新平は、名古屋鎮台病院雇医などを経て12年12月に愛知県病院長兼医学校長職務代理となる。安場は13年3月に元老院議官に転じるが、翌年愛知医学校長兼愛知病院長に昇進した後藤は、15年4月に岐阜で壮士の難に会った板垣退助の治療に当たって有名になる。新平が安場の娘カツ(慶応2年生)を娶るのはこの頃である。

 折から愛知病院長としての実績に注目していた内務省三等出仕の長与 専斎の招きで、後藤は明治16年1月に内務省に移る。長与衛生局長の   懐刀となった後藤は、23年4月から内務省に籍を置いたままドイツに私費留学した。この留学に際し、ミュンヘン医大に留学中の長与の長男称吉(慶応2年生まれ)が現地女に子供を生ませた1件を処理し、称吉を帰国させる密命を帯びた。だが、留学の意義はそれだけでなく、長崎の医師出身でワンワールドの上席であった長与専斎が、後継者と決めた後藤を在欧ワンワールド首脳に謁見さすのが真の目的であったと観るべきであろう。在籍のまま官職を辞しての私費留学は、前にも述べた陸軍少将・大山巌、宮内大輔・吉井友実らの例と同じで、この形に何らかの意味があるようだ。因みに、長与称吉の相手のドイツ女性は、その後歴史に残る社会活動家となり、また2人の間の混血児はドイツ人の家庭に入籍してその家名を名乗り、後年ジャーナリストとして来日し、わが国の最高機密を窺って世紀の大事件となったと囁かれている。奇談というべきだが、真否については未詳である。

(*因みにゾルゲの生年は1895年(明治28年)。鉱山技師のヴィルヘルムとロシア人ニナとの間に9人兄弟の1人としてソ連邦・アゼルバイジャン共和国の首都・バクー生まれ。)


 後藤は25年6月帰国、11月に内務省衛生局長に就く。その1年後に相馬事件に連座して収監されたが、27年5月に保釈出獄、12月には無罪が確定して原職に復帰した。28年4月、臨時陸軍検疫部長を兼務した児玉陸軍次官は、同部の事務官長を兼務して帰還兵の診察に当たる後藤新平の手腕に驚倒し、台湾総督府に迎える背景となった。後藤は総督府民政局長に就き、児玉総督、堀内副官らと共に、31年3月台湾に渡った。

 ★明治外征政策の流れは 在英中枢→杉山→松方

 愛知県令を4年半務めた後、元老院で数年くすぶっていた安場保和が、明治19年2月に福岡県令に就いたのは杉山茂丸の工作であった。全く進展しない九州の鉄道敷設を推進すべく、その前提として筑豊炭田の払下げを企んだ杉山は、払下げを実行すべき福岡県令に安場を就けようとし、安場の上司山田顕義を説得して、安場を福岡県令(7月から県知事)に就けることに成功する。20年3月、杉山は玄洋社の資金源として、海軍予備炭鉱として閉鎖中の筑豊炭田の払下げを頭山満に示唆するが、安場知事も結託して、翌年農商務大臣・井上馨により払下げが実現した。福岡県内の広大な鉱区権を安揚知事が玄洋社に払下げ、頭山満はこれを炭坑主に売却して政治活動の資金を作ったのである。安場が県知事に就くと九州の鉄道敷設は一気に進み、21年6月には九州鉄道に免許状が下りた。
 25年、第一次松方内閣は日清戦に備える軍拡予算の獲得を目指し、総選挙で大選挙干渉を行なう。安場は福岡県知事として杉山の要請に応え、選挙干渉を強行した。史上悪名高い選挙大干渉は、松方内閣が発案して玄洋社に実行を依頼したかに見えるが、もともと杉山の方から、軍拡予算とそのための選挙干渉を松方に指示したとの説がある。

 鉄道敷設といい軍拡予算といい、杉山の視点は常に国家的問題にあり、
常に国際政治のレベルから判断していた杉山は、たとい官員表に名を掲げず議席を有さずといえども、立派に政治家である。いや、当時の日本最大の政治家と言ってもよい。対清・対露における積極策を一貫して保持し、非戦派揃いの長州派政治家を常に対外積極策に誘導する役割を果たした杉山が、英露2大帝国の世界的戦略抗争たるグレート・ゲームに、英国側として加わっていたのは明らかで、彼の背後は在英ワンワールド以外にあり得まい。安場は、福岡県知事以来、明らかに杉山の手の者だが、ワンワールド薩摩派の外郭的存在とも見られ、安場が育てた女婿・後藤新平も薩摩派と繋がっていて当然である。尤も後藤は、長与の配下に入ってからは視野が更に広がり、日露戦後には在露ワンワールドにも接触していくのである。

  続く。
 

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