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●疑史 第48回
 ●疑史 第48回 高島鞆之助と樺山資紀  

 明治初期から日露戦争前にかけて日本の政界を真に牛耳っていたものは、実は薩摩勢-正確に言えば在英ワンワールド薩摩支部で、初代総長は吉井友実、その後を高島鞆之助が引き継いだとの推断を述べてきた。総長の座は、大正期に入って高島から上原勇作に受け継がれるのだが、それは後述することとし、今月は右の背景たる世界事情すなわち★グレート・ゲームについて略述したい。
(ブロガー註:★に関連して、田中宇の国際ニュース解説 http://tanakanews.com/080903russia.htm の一読をお薦めします。)

 グレート・ゲームとは、一般には地政学上の最重要地たる中央アジアの覇権を巡る大英帝国とロシア帝国との戦略的抗争とされる。初期のグレート・ゲームは1813年から1907年にかけて行われた。インド亜大陸を領有した大英帝国は、中央アジアでロシア帝国と境を接することとなったが、元来遊牧文化が支配するこの地帯には明確な国境線はなく、ただ砂漠に点在する都市を結ぶ通商交通路があるだけで、しかもそれら都市が両帝国のいずれに属するか、まだ定まっていなかった。そこで勢力圏の拡大を目指す両帝国は、中央アシア全土にわたり、直接戦闘以外のあらゆる情報・外交工作を用いて暗闘したが、中心地はアフガニスタンであった。南下の勢いを強めるロシアがアフガニスタンをインド侵略の拠点とするのを虞れたイギリスは、土豪シャー・シュジャー及びランジート・シングと三者同盟を結び、シュジャーの地域覇権を擁立する目的で第一次アフガニスタン戦争を始めた。時に1838年、阿片戦争の前年であるが、イギリスの支援をアテにした傀儡政権は長続きせず、シュジャーは殺され、イギリス軍は一旦占領したカブールから撤退するが、その帰途現地民に襲撃されて民間人を含めて全滅した。時に1842年、阿片戦争で清国が降伏した年である。

 アジア・アフリカの各地に侵入し、土候を軍事的に屈伏させた欧州列強は、やがて列強相互の軍事・非軍事的抗争に移行した。その典型がグレート・ゲームであるが、英露協商の成立を以て終焉したとされる。英露協商は1907年、日本の対露戦勝の直後に結ばれ、アフガニスタン・イラン・チベットにおける両帝国の勢力範囲を定めた条約だが、これで解決した位なら所詮はアフガン問題に帰するわけだが、勿論そうではない。航空機発達以前の国家戦略理論たる地政学によれば、大陸国家ロシアが帝国主義の論理で勢力拡張を目指せば、ユーラシアを南下して沿岸に幾つかの不凍港を獲得する以外にない。ロシアの南下策には、インド亜大陸ルートのほか、極東ルート及びバルカン・小アジアルートの3つがあったが、いずれの方面においても究極的に立ちはだかるのは、海洋国家イギリスである。日露戦争の結果、極東ルートを閉されたロシアが、残る2ルートのうちイギリスの抵抗の大きいインド亜大陸ルートを避けて、当面バルカン・小アジアルートに絞ったのが英露協商であったが、これ位ではゲームは解消しない。

 そもそもグレート・ゲームとは、アフガン・イランに止まらず、上の3ルートを包摂してユーラシア全体で行われてきた在英ワンワールド(英王室十ロスチャイルド)とロマノフ王朝の間の全地球的な闘争である。大英帝国が解体して連合王国となり、ロマノフ帝国が共産政権を経てロシア共和国となった現在においても、ゲームが全然終焉していないのは、先年のプーチンによるイギリス系石油資本の押収などを見れば明白である。因みに、在英ワンワールドと在欧国際金融資本は言うまでもないが、これに対立したロマノフ王家も今日のプーチンも、所詮はワンワールドの一員と観るべきであろう。ワンワールドの最高中枢は、世界史進行のための効率的手段として、配下の勢力を英露の2大集団に別け、互いに戦わせる弁証法を用いて、人類社会の改新を早めてきたものと思われる。

 両帝国の対決は全ユーラシア的に展開するから、対決線上にある国家はすべてゲームに巻き込まれるわけで、新興の明治日本とて例外ではなかった。日本は世界ワンワールド配下の在英・在欧・在米の各勢力によって開国から文明開化への道筋を付けられて維新を実行したが、明治以後は在英ワンワールドの対露グレート・ゲームのための重要な駒として働かされたのは、日本そのものが海洋国家であることと、ロシアに近い地政学的な特性である。その折、在英ワンワールドが日本長略の拠点としたのが他ならぬ薩摩勢であったのは、薩英戦争が契機であろう。薩摩勢にもワンワールド思想を受容する素質があったのは、薩摩人と島津家が、古来の東南アジア貿易により国際性を獲得していたからである。

 1492年、スペインを追われてポルトガルに逃げ込んだ1神教徒はカトリック教徒の装いで明国に渡来し、海禁政策に付け込んで、マカオを拠点とした日明間の仲介貿易を興した。彼らは日本に生糸・鉄砲・火薬をもたらし、代わりに銀銅の地金と男女労働力(奴隷)を持ち出した。交易先ですぐに混血するのが彼らの戦略で、その例はゴア・マカオ・ボルネオなど各地で見られるが、日本でも同じことをしたが、皇国史観に溺れた史家はそれを記さない。

 南蛮貿易の拠点であった摂泉州境の堺と薩摩・日向の沿岸部で大勢生まれたポルトガルとアジアの混血人を、マカオではマカイエンサと呼ぶが、日本ではなぜか【タカス】(高須・鷹栖)と呼ぶらしい。因みに吉薗周蔵の親族には赤毛・茶眼が多く、周蔵が調べたところ、母方の隼人族の数代前に西洋人船員の種が入っていたという。鹿児島城下の鍛冶屋町方限は伊集院の鉄砲鍛冶に淵源するが、ここにもタカスが混入した。鍛冶屋衆は薩摩藩では郷士として藩政に参加したが、薩英戦争後に英人からワンワールド思想を学び、英国に圧されて強行した戊辰戦役を革命と見立てて自ら実行者に任じ、維新政府と東京新宮廷と御親兵の要職を占めて、この国の実権を握った。

 タカスの存在を別にすれば、長州とて戊辰戦功では薩摩に劣らぬから、維新政府と政府軍における要識者の数は薩長互いに匹敵した。大西郷と彼に従う村田新八以下の多くの俊秀が西南役で世を去り、新政府の最高権力者・大久保が暗殺されてからは、政府・陸軍における権力はむしろ長州に傾いた。それが明治30年の陸軍人事において顕れたのが、桂太郎による高鳥鞆之助の追放である。

 明治初年以来、政府・軍部内における抗争の本質は薩長の確執で、これにグラバー直参の大隈や機会主義者の陸奥が介入し、外部から土佐の民権派がつついたが、大局をみれば薩長がミニ・ゲームを争っており、遂に薩摩が政府(伊藤・井上)と陸軍(山県・桂)を長州に譲り、僅かに金融(松方)と海軍(樺山・山本権兵衛)を手中に残す結果となったが、この色分けだけで具眼の士なら、いずれが在英ワンワールドの直系となったか分かる筈だ。

 薩摩が外征を主張し、長州(木戸)がこれに反対する図式は、明治4年の台湾征討問題に始まる。朝鮮問題に関し日清間の武力対決を主張する高島・樺山の薩摩勢を擁した第一次松方内閣に対しても、長州は山県も伊藤も外征に消極的で、軍拡実現のために企てた大選挙干渉においても、秘かに協力の手を抜いた。対清戦争は日本が朝鮮半島を掌握して自ら対露緩衝地帯を構築するためで勝算も充分だったが、常に非戦を唱えていた伊藤が首相として対清開戦を宣言するに至ったのは、歴史の皮肉である。以後も、薩摩(松方)と長州(伊藤・山県)が交替で政権を執るが、常に薩摩が外征派で長州が非戦派であった。この間、しきりに長州派領袖を煽動して外征策を鼓舞したのが玄洋社の杉山茂丸で、その背後を在英ワンワールドが直接押していたと観るべきである。例の大選挙干渉では杉山と玄洋社の活動が目立つが、事の真相は杉山が松方内閣に協力したというより、松方内閣の方から杉山に協力したと囁かれている。とすれば、高島・樺山の外征論も、畢竟在英ワンワールドから指令されたもので、その中継人は杉山だったと観るべきこととなる。

 日清戦後は日露戦が焦点になる。これは日本が英国を代理する戦争で、実質的にグレート・ゲームの本番である。杉山は対露戦推進の目的で伊藤を調略し、資金を提供して作らせたのが政友会で、陸軍長閥の総帥・山県が恐露病者で非戦的なのに鑑み、伊藤を主戦派に取り込む目的であった。杉山はあらかじめ児玉源太郎と桂太郎を取り込み秘密結社を作り、対露決戦を必ず実行するために、政友会を開戦派にして国論統一を図ろうとし、予想される山県の反対に対しては、伊藤を首相に就けることで山県を政権から外し、伊藤内閣に対露戦を実行させた後はすべてを伊藤の功績とし、戦争中の財務は松方と井上馨に任せるというものであった。そんな密約を知らぬ伊藤は33年10月、第二次山県内閣に代わり政友会内閣(第四次伊藤内閣)を樹立し、杉山に警視総監就任を打診して断られると、財政難打開のための外債募集を杉山に依頼した。杉山が31年に渡米してモルガンと纏めてきた興業銀行設立案を第三次伊藤内閣が潰した際、伊藤は杉山の国際金融面における不思議な実力を知ったからである。しかし、伊藤が本心から親露派であることを知った杉山は、秘かに伊藤を見限って山県に乗換え、対露戦のために日英同盟が必要と訴えて恐露病者山県の賛同を得た。桂・児玉との会談で杉山が打ち出した奇策は、伊藤をロシアに派遣して日露同盟を持ちかけさせ、これに焦慮するイギリスの方から日英同盟を申し込ませようとするものであった。栄光ある孤立を診る英国との同盟に加えて、政界第1人者の伊藤を捨て駒にする発想は破天荒で杉山の如き浪人から出る筈もなく、在英ワンワールドの指令と観るほかない。34年春から日英同盟工作が秘かに勧められ、5月に首相を辞した伊藤は桂太郎に後を譲り、35年1月から欧米巡遊に出る。伊藤が外遊に出た翌月の2月12日、桂内閣により日英同盟は締結された。ここで政治的生命を実質的に断たれた伊藤は、その後も非戦主義と大陸消極策を唱え続け、安重根を操った玄洋社と明石元二郎麾下の朝鮮軍により、ハルピン駅頭の露と消える。グレート・ゲームに巻き込まれた日本が必死に対応してきた軌跡が明治史で、杉山を政治ボランティアくらいに観ていては、歴史は理解できない。薩長のミニゲームで勝利を得たつもりの長州は、実は杉山に操られていただけである。

 負けた形の薩摩は何をしていたか。それを知るには政・軍界の顕職を棄てた高鳥鞆之助の行蔵から探るほかなく、本稿はこれまで吉井・樺山・松方の軌跡により、それを証明したつもりである。

 
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