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●原爆投下(15)
 ●第6章 天皇と神と原爆と

 ★原爆で死んだ人々を見つめて  


 私は前項で、昭和期最高の聖者といわれる賀川豊彦が『天よりの大いなる声』の中で広島の8月6日を「地面は美しく掻き清められたようになり、死骸はなにも残ってはいなかった。物質はすべて蒸発してしまったのだ。気化したのだ。いや、光化したと言った方が美しいだろう」と書いているのを紹介した。
 『原爆の秘密』「国外篇」「国内篇」と書き続けてきた私のこの本は、この項をもって終わりとなる。
 私は8月6日の広島と8月9日の長崎の惨禍の姿を描かずにきた。それは、書くに忍びなかったからである。しかし、ここに、2つだけ、惨禍の様子を伝えたい。私は8月6日の広島についてたくさんの記録を読み続けてきた。その中で、心に残るものの中から一つの物語を記すことにする。

 財団法人広島県警友会編集発行『原爆回顧録』の中に収録されている、平川義明(当時18歳、練習所巡査)が語る1場面である。

 ・・・
 「お願いします」
 と岩壁の端に座っていた1人の老婆が私にひよわい(ママ)声をかけてきた。半裸になっている老婆の背中は、まっ赤な生身をむき出しにして、皮膚がぼろぎれのように腰のあたりまで垂れ下がっていた。
 「お兄さん、助けると思うて、私の背中に小便をして下さらんか。火傷には小便が1番いいのじゃそうです・・」
 虫のような小さな声だった。〔中略〕
 それだけがその日の良心であった。私はうなずいて老婆の後に回り、赤い背中に向かってやうやくかまえた。老婆はやっと動かせる両手を胸のあたりに組んで、不器用に合掌した。そしてしきりに念仏を唱えていた。私は、かまえただけで身体がよろめいて、どうしても果たせないのであった。
 「おばあさん、駄目です。御免」
 しばらくして私は断わった。
 「いいえ、ありがとうございます」
 老婆は急に涙声になり、
 「あなただけでした。私の声に耳をかしてくださったのは」
 と、感謝のこもった声でかなりはっきりと答えた。
 老婆は、私に背を向けたまま合掌して深く頭を垂れると、次の瞬間、私の股間に向かって上向きに倒れてきた。老婆の頭に押され、私はそのまま一緒に後ろへ倒れた。老婆は、それっきり息をひきとった。ひきつった目だけが空を見つめていた。・・・

 私はこの『原爆の秘密』を書こうと思ったとき、まず原爆被害者に多数会おうと決心していた。しかし、数多くの文献を読み漁っているうちに考えが変わってしまった。私が想像していた以上に、原爆投下までの謎の深さに私は戦慄感を憶え、原爆関係の文献の中に身も心も埋まってしまった。その間、私は会いたいと思う人物(死んでいるか、生きているかは別にして)のリストを作成していた。何人かの人に手紙を出してはみた。しかし、彼らは生きていても80歳を超えていた。返事はこなかった。(返事をよこした)福島菊次郎は例外中の例外であった。

 私の住む温泉町別府市には、広島原爆に遭った人々のための保養センターがある。また、長崎、広島で原爆に遭った人々も、何人かは別府に住んでいる。私は考えを変えた。それはいつであるかは分からない。偶然に賭けてみようと思ったのである。予備知識もなく、ある1人の原爆被爆者に会ってみたい、そしてその人の人生を知り、私の本がどのように変化するのかを試してみたいと思うようになったのである。
 広島に住む山岡健志さんは、私の過去の本を読んでくれている。私は手紙を差しあげ、自分の要件を書いた。返事が来て、広島に行った日は2007年10月18日であった。彼は私を東広島にある、長城飯店という中華料理店に連れて行った。そこで私は、掛井千幸さん(当時78歳)にお目にかかった。
 掛井千幸さんは2冊の本を持参していた。彼女たちは1949年に「広島市女原爆遺族会」を結成した。そして「流燈」という名の同窓会誌を発行している。1977年に出た第3編と1979年に出た第4編を彼女は私に見せてくれた。彼女の同意を得て、私は別府に持ち帰り、この2編をコピーした。

 この同窓会誌の中の「第二総軍司令部の入隊」(第3編)からその前半部分を、「両親の三十三回忌に想う」(第4編)から後半部分を引用する。重複する部分を避けたためである。また、第4編には、第二総軍司令部のことが書かれていず、8月6日とそれ以降のことが第3編より詳しく書かれているためである。両編をあわせて読むことにより、掛井千幸さんと原爆との関係が鮮明に甦ってくる。

 ・・・
 第二総軍司令部の入隊 24回生 掛井千幸

 命を捧げるつもりで第二総軍司令部の募集試験を受けたのは20年7月、日本製鋼蟹屋工場の1室であった。幸いにも合格し、いよいよ8月1日に仮入隊の通知を頂く。〔中略〕

 いよいよ8月1日、第二総軍司令部の門をくぐり仮入隊となる。見廻せば市女のみでなく、県女、山中高女もきておられ、それぞれ心構えの出来た顔、落着いた凛々しい乙女の姿があった。早速、任務は前線と司令部を結ぶ暗号モールス要員である事、1日は仮入隊で8日より入隊し軍人と共に第一線に配属されることになっていた。行先は高知県。土佐湾に地下壕があり、その中で行われる様子である。すぐ研修教育を受ける。暗号は数字を5桁ずつ、縦、横共に5段ずつあり、どの部分がその日の何に当るのかは分からないが、毎日組立てが変更になるので早く記号を捕えるよう指導される。1週間の待機中勉強するようにと、重要書類とされた手引きの用紙と、記号の計算方法と数字の練習宿題を渡された。書類を手にすると、要員の任務の重さを思わざるを得なかった。

 帰宅し父母に1週間の自宅待機を伝えると、父は厳しい食糧事情の広島にいるよりも父方の田舎行きを勧めた。1人で行くのは気が重かったが、せめて父の心に素直になりたくて行く事にし、8月6日に帰って来るようにした。早速3日の朝5時前に起きると、母は何もまざらない御飯を炊いて私のために、おにぎりを作って下さっていた。その白さに思わず「後でお米が足りなくなるよ」と言えば、ニッコリ笑って「何とでもなるよ、心配しないで食べてちょうだい」と手渡して下さる。電車も未だ走っていない時間の薄暗い道を、父が「駅まで送ってあげる。切符が手に入ればよいが」と言って天神町の家を出る。薄明りの中を見送って下さった母
のうす水色のワンピース姿。これが別れになるなんて誰が思っただろう。

 両親の三十三回忌に想う
 父と朝五時頃天神町の自宅を出て駅迄歩いた。長い列の末やっと手にした切符をしっかり持ち、父と最後の別れになることも知らず2人は、微笑ながら広島駅を後にした。田舎で口にするものは皆父母にも食べさせて上げたい物ばかり、心の重い日々だった。いよいよ帰広する日、駅迄出て汽車を待っていると、その時、運命の8時15分であった。
 汽車の開通を待ってやっとの思いで帰ったが、矢賀から汽車は不通、見たこともない怪我人の行列、父母の顔が変る変る目の前に浮び足は飛ぶ様に市内に入る。が、出た時の広島の姿はもうどこにも無く、ガレキの山々、電車の焼けただれた線路づたいに、我が家の方向へと一生懸命、死人の男女は全然分らない。唯赤黒く、むごいの一言。西練兵場近くになる。馬がお腹一杯にふくれ黄色の腸を裂け目から出して死んでいる。始めは目をそらしていたが、至るところでさけようもない。やっと相生橋にさしかかる。麗の水槽には身体が半分漬かったままで唸り声を上げている人。元安川の両岸辺に、川面に死人の連なり。まるで地獄の中に異色の人間が立ちすくんでいる。我が家跡へもう一息、運動靴の裏は灰でもう熱い、アーやっと我が家らしき水槽、玄関らしき石畳、庭の空地迄見通せる焼跡、台所の食器の散乱、ビンの溶け跡、父や母の姿ぞ何処、きっときっとどこかで生きていて欲しい。天に向って精一杯祈る。
 だが、21日間の後、其の場所で白骨となった両親に会えようとは・・
 あれから33年の歳月、やがて私の歳もあの頃の両親に近くなった今日、我が子は、19歳と、15歳。当時両親亡きあと1人死ぬる事も考えたが、やはり一生懸命生き抜く事に意義を感じた。母校市女の4年生の夏、自ら体で学んだ教訓であった。・・・

 私が掛井千幸さんに会ったときの第1印象は「この人は本当に原爆の惨禍の中にいた人なのか」ということであった。私の前にいる人は、微笑んで、原爆の体験を私に語り続けていたからである。
 「原爆症はでなかったのですか」
 「ええ、ずーっと元気です。父の田舎に行ったら、食べるものがなかったのです。毎日、トマトばっかり食べていました。それがよかったのかもしれません」
 彼女は、父母の骨が発見される過程も話してくれた。どのように戦後を生きてきたかも話してくれた。しかし、彼女の書いた文章に優るものを、どうして私が再現しえようか。
 彼女は幾度も死を決意した。そして、「やはり一生懸命生き抜く事に意義を感じた」
 その苦しみの中から、この世を生き抜く力となる〔微笑み〕が生まれてきたのだ。
 彼女は乙女のように微笑んでいた。年を超えた美しい人である。「ああなんと美しい人なんだろう・・」と私は思い続けていた。
 この「両親の三十三回忌に想う」には前文がある。ここにその前文を記すことにする。

 ・・・
 歳月というものは心の疵をも水に流し、又癒すことも出来ると或る人は云う。だが私には拭えども拭えども消し去る事の出来ない、昭和20年8月6日がある。
 第二次世界大戦の最中、学業も取り捨てひたすら必勝を願って、飢えを忍びながら汗した学徒動員、15歳の手に被服廠の作業、日本製鋼蟹屋工場の作業、それでも未だ足りず第二総軍の通信兵に志願した。当時は幸にも採用になった。両親に取っては1人子である私の入隊がどんなに心痛んだ事だったのか。親心を知るよしもない私には唯、世相の真直中に存分な存在でありたかった。・・・

 彼女の級友たちは皆、広島にいて原爆死したのである。彼女が生きているのは奇跡に近いのである。そして、彼女は微笑みつつ、自らの過去を語り続けたのである。
 私はこの場面を書きつつ、1つの出来事を想い起こしたので記すことにする。それは、数年前のある夜のことである。私は小さな居酒屋で、日本の大企業の社員に英語を教えているイギリス人講師と酒を飲みつつ雑談をしていた。彼が私に「酒池肉林」とはどういう意味なのか、と問うた。私は居酒屋の主人にボールペンと紙を借りて、この日本語を英詩にし、彼に見せた。すると彼は「第二次世界大戦」の詩を作ってほしい、教材に使いたいと言った。私は次のような詩(英詩を日本語訳する)を即興でつくり、彼に渡した。

あなたは第二次世界大戦で
日本が敗北したと思っている
そうだ、日本は敗れ去ったのだ
がらくただらけの廃墟となってしまった
しかし、そのがらくただらけの町中で
子供たちは微笑みをたやさず遊んだのだ
私はしっかりと億えている
あの微笑みが今の日本をつくったのだ
見よ、その微笑みが、今も、これからも
日本を美しい国にしていくのだ

 私はこの原爆という、重い重いテーマに取り組んでやっと書き終えることができた。
 そして、私は自分が仕掛けた〔賭け〕に勝つことができた。全く予備知識もなく、偶然に賭けて私は掛井千幸さんに会った。そして、あの手記にあるような名文にも巡り合えた。いかなる作家でも、広島のあの日、あの時を、彼女のようには描けないであろう。簡潔にして的確、そして詩情が悲しみの中から漂ってくるではないか。

 私は、この重い重い物語を書き続けて、最後に原爆のほんとうの悲劇を伝える掛井千幸さんの名文を読者に提供できてよかったと思う。
 私は。〔賭け〕に勝った。私は〔微笑み〕を私の心の内に持ちえた。これ以上の幸せがあろうか。ここで、ながい、ながい物語の終わりとする。

  〔了〕 


 ★引用文献一覧登場順  
 但し、以下は『原爆の秘密 〔国内編〕のもで、〔国外編〕文は後記します。

 
ゴードン・トマス十マックス・モーガン=ウィッツ『エノラ・ゲイ』松田銑訳 TBSブリタニカ 1980年
『米軍資料 原爆投下の経緯』奥住喜重+工藤洋三訳 東方出版 1996年
上坂冬子『東京ローズ』中央公論社 1995年
読売新聞社編『昭和史の天皇』角川文庫 1988年
リチャード・ローズ『原爆から水爆へ』小沢千重子十神沼二真訳 紀伊国屋書店 2001年
リチャード・ローズ『原子爆弾の誕生』神沼二真+渋谷泰一訳 紀伊国屋書店 1995年
★岡田良之助十立花誠逸十山極晃編『資料マンハッタン計画』岡田良之助訳大月書店 1993年
黒木勇司『原爆投下は予告されていた』光人社 1992年
日本児童文学者協金十日本子どもを守る会編『続・語りつぐ戦争体験』草土文化 1983年
NHK広島放送局原爆取材班著『原爆搭載機「射程内二在リ」』立風書房1990年
広島市編集兼発行『広島原爆戦災誌』 1971年
織井青吾『原子爆弾は語り続ける』社会評論社 2005年
財団法人広島県警友会編集・発行『原爆回顧録』 1988年
★岡田良之助十立花誠逸十山極晃編『資料マンハッタン計画』大月書店 1993年
宍戸幸輔『広島原爆の疑問点』マネジメント社 1991年
宍戸幸輔『広島が滅んだ日』読売新聞社 1972年
宍戸幸輔『広島・軍司令部壊滅』読売新聞社 1991年
畑俊六『続・現代史資料4・陸軍「畑俊六日誌」』伊藤隆十照沼康孝編・解説 みすず書房 1983年
NHK出版編『ヒロシマはどう記録されたか』日本放送出版協会 2003年
広島県編集・発行『広島県史 原爆資料編』 1972年
畑俊六『元帥畑俊六獄中獄外の日誌』小見山登編著 日本人道主義協会 1992年
中条一雄『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』三五館 2001年
諏訪澄『広島原爆 8時15分投下の意味』原書房 2003年
原爆遺跡保存運動懇談会編『広島爆心地中島』新日本出版社 2006年
淵田美津雄『真珠湾攻撃緯隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年
奥住喜重十工藤洋三訳『米軍資料 原爆投下の経緯』東方出版 1996年
長崎総合料学大学平和文化研突所編著『新版ナガサキ 1945年8月9日』岩波ジュニア新書 1984年
林三郎『太平洋戦争陸戦概史』岩波新書 1951年
ジョージ・ウェラー『ナガサキ昭和20年夏』アンソニー・ウェラー編/小西紀嗣訳 毎日新聞社 2007年
渡部悌治『ユダヤは日本に何をしたか』成甲書房 2003年
湯川秀樹『原子と人間』甲文社 1948年
有馬哲夫「元CIA長官A・ダレスの『原爆投下阻止工作』の全貌」月刊現代2008年1月号所収
トマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』鈴木主税訳/福武書店 1994年
小畑弘道『被爆動員学徒の生きた時代』たけしま出版 2007年
仁科芳雄『仁科芳雄往復書簡集I 現代物理学の開拓』中根良平・仁科雄一郎他編/みすず書房 2006年
ロバート・K・ウェルコックス『ジャパン・シークレット・ウォー』未邦訳 ニューヨーク 1995年
湯川秀樹十朝永振一郎十坂田昌一編著『核時代を超える』岩波新書 1968年
湯川秀樹十朝永振一郎十坂田昌一編著『平和時代を創造するために』岩波新書 1963年
ジョセフ・マークス『ヒロシマヘの七時間』日本経済新聞外報部訳/日本経済新聞社 1969年
アルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』広瀬隆訳・解説/小学館 1994年
中国新聞社編『証言は消えない 広島の記録I』未来社 1966年
有末精三『終戦秘史 有末機関長の手記』芙蓉書房 1976年
家永三郎十小田切秀雄十黒古一夫編『日本の原爆記録1』日本図書センター 1991年
戸田秀『ドキュメント被爆記者』健友館 2001年
松野秀雄『あの日のナガサキ』市民出版社 1985年
長崎の証言の会編『地球ガ裸ニナッタ』汐文社 1991年
泰山弘道『完全版長崎原爆の記録』東京図書出版会 2007年
秋月辰一郎「死の同心円』講談社 1972年
家永三郎十小田切秀雄十黒古一夫編『日本の原爆記録(11)』 日本図書センター 1991年
奥住喜重十工藤洋三十福林徹『捕虜収容所補給作戦 B29部隊最後の作戦』私家版 2004年
林えいだい監修『戦時外国人強制連行関係資科集(I)俘虜収容所』明石書店 1990年
小路俊彦『長崎医科大学潰滅の日』丸ノ内出版 1995年
広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ』岩波書店 1985年
W・L・ローレンス『Oの暁』崎川範行訳/創元社 1950年
今堀誠二『原水爆時代』三一新書 1959年
中島竜美「〈ヒロシマ〉その翳りは深く 被爆国政府の責任の原点を衝く」『月刊社会党』1985年7月号所収
マルセル・ジュノー『ドクター・ジュノーの戦い』丸山幹正訳/勁草書房1981年
大佐古一郎『ドクター・ジュノー武器なき勇者』新潮社 1979年
大佐古一郎『平和の勇者ドクター・ジュノー』蒼生書房 1989年
松本重治『昭和史への一証言』たちばな出版 2001年
高松宮宣仁『高松宮日記』中央公論社 1997年
入江相政『入江相政日記(第三巻)』朝日新聞社編/朝日文庫 1994年
志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会 1969年
朝日新聞社編『原爆・500人の証言』朝日新聞社 1967年
福島菊次郎『ヒロシマの嘘』現代人文社 2003年
週刊朝日編集部編『1945-1971 アメリカとの26年』新評社 1971年
吉川清『「原爆1号」といわれて』筑摩書房 1981年
小野勝『天皇と広島』私家版 1989年
濱井信三『原爆市長』朝日新聞社 1967年
児玉隆也『君は天皇を見たか』潮出版社 1975年
ジョン・ハーシー『ヒロシマ』石川欣一十谷本清訳/法政大学出版局 1949年
スティーブン・ウォーカー『カウントダウン・ヒロシマ』横山啓明訳 早川書房 2005年
日本基督教青年会同盟編『天よりの大いなる声 広島原爆体験記』東京トリビューン社 1949年
永井隆『長崎の鐘』日比谷出版社 1949年

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 ★印はダブり。
 
 


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