カウンター 読書日記 ●原爆投下(14)
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●原爆投下(14)
 ●第6章 天皇と神と原爆と

 ★「神の御心のままに」逝った人々  


 秋月辰一郎の『死の同心円』については前述した(「第4章」185頁参照)。
「すべてを奪われてすっとした。これ以上失うものはない」と本の中で書いた医師である。彼は次のように自分の経歴を書いている。

 ・・・
昭和15年春、京大医学部を卒業した私は、結核医を志して郷里の長崎に帰り、まず長崎医大病院の放射線科に入局した。そのころ、放射線科教室は末次助教授が辞任して永井隆助教授が新しい部長に就任していた。したがって、私は永井先生の最初の直弟子だった。
 永井先生はレントゲン学者としてもカトリック信者としても、アララギ派の歌人としても有名で、ユーモアに富み、明るい風貌で〔銃後の街〕の中心的存在だった。それに対して、家族や姉妹に肺結核の患者をもつ私は、浄土真宗を信じて、内向的な性格だった。
 したがって、ややもすれば永井先生の外交的な人類愛やロマン的詩情を白眼視していた。つまり、性格的には先生と合わなかった私は、1年間の勉強をすませると、
 「さらに博土号めざして研究するよう」
 といってひきとめてくださる先生の忠告を退けて、大学病院を離れた。仏教的人生観を近代医学によって生かした結核療養所の建設を、長崎の銀屋町で開業中の高原憲先生とともにしたいと考えたからであった。そのとき、私の姉妹2人はすでに結核で斃れていたのである。
 高原先生は働きざかりの50歳。浄土真宗の信者で、優れた結核医だった。・・・

 秋月辰一郎は運命のいたずらか、カトリックが経営する浦上第1病院の院長になる。この過程は省略したい。私は吉川清の『「原爆1号」といわれて』と秋月辰一郎の『死の同心円』には、何か不思議な深い感銘を受けた。
秋月の本を読んでみよう。神が描かれている。日本の神でなくキリスト教の神である。息子を原爆でなくした母親に対する彼の気持ちが書かれている。

 ・・・
病院を焼かれ、自分たちの持物をすべて失っているのに、なおここに踏みとどまって看護をつづけてきた私たちに、この母親は特別の感情をもったようだった。
 「注射も薬もなくなって、すまなかったな」
 私はだれにも聞こえないようにつぶやいた。遺骸は夕方になってから、例の場所で火葬にした。林君の家は仏教だったので、私は夕闇に立ちのぼる赤い煙を見つめながら、
 「帰命無量寿如来、南無不可思議光」
 と2行唱えた。それはカトリック教徒の、
「天にまします吾らの父よ」とまったく同じであった。
 「死せる人々の霊魂が天主の哀憐によって安らかに憩わんことを」
 というだれもの共通の願いであった。
 翌朝、遺骨とあり合せの紙に書いた死亡診断書を持たせて、お母さんを大村に帰した。彼女は息子の遺骨を抱いて、看護婦や患者たちに何度も頭を下げて、病院の焼け跡を出ていった。・・・

 秋月は「原爆症、放射能障害と、いろいろ名前をつけることはできる。しかし、それはあくまで名前であって、本体は何かわからない。それは最愛の子や妻を奪ってゆく魔物であった。原子爆弾の中心地から5百メートルから2千メートルの距離で被爆した人々が、この40日間のあいだにほとんど死んでしまったのである」と書いている。この事実に基づいて、『死の同心円』という本のタイトルが付けられたのである。原爆後40日間のことが書かれている。良い薬がなかったのである。もし、あのとき、日赤がジュノー博士の申し出を受け入れていたら・・。

 ・・・
 しかもその40日は、混乱の真っ最中で、科学も救助も医療も報道も、きわめて不十分な活動しかできなかった。人々は焼けただれた芋畑や夏草の中で、ある者は親兄弟に見とられながら、ある者は幼い子どもの泣き声を聞きながら、ある者はたった1人で看護を受けられず死んでいったのである。〔中略〕
 だが、それにつづく40日間は、医師としての私にまったく異った苦しみと悲しみを与えた。なぜなら、それ以後の死は、原爆症であれ、化膿症との合併症であれ、じょじょに人間の生命を破壊していったからである。医師としての私は、確実に迫りくる、しかしどうしてもまぬがれることのできない死と対決せざるをえなかった。・・・

 この文章を読む人々は、長崎の惨禍を知り慄然とするはずである。広島よりもその惨禍はひどかったのである。これは最初から計算し尽くされていた、プルトニウム爆弾の威力であった。アメリカが原爆を落としたのは、早期戦争終結のためではなく、ソ連の進攻のためでもなく、ひたすら、原爆産業のためであったと私は書いてきた。キリスト教国アメリカが、キリスト教徒(特にプロテスタント)が、長崎に原爆を落としたのである。この点をしっかりと把握して、心の中に銘記して以下の秋月の文章を読んでほしい。

 ・・・
私は相ついで死んでゆく修道女たちが、最後まで自分たちの不幸を、
 「神の御摂理です」
 といって、苦悶の中に微笑をうかべていたことが、どうしてもうなずけなかった。これは8月9日の被爆以来、いや昭和19年にこの病院にやってきて以来、片時も忘れず、自分に問うてきたことである。私は少し意地わるくいった。
 「あれほどまでにお祈りと人々への奉仕を行なってきたあなたがたに、こんな苦しみを与え給う神がわからない」
 それでも、修道女たちは神を信じた。
 「私たちの罪です。人間の罪です。神様のせいではありません。秋月先生はいまにきっとカトリックになって、負傷者を肉体的にも霊的にも救うかたです」
 私はくすぐったくなった。穴にはいりたかった。しかし、このような祈りと奉仕に生きる人々にまで、こんなむごたらしい傷を与える爆弾を恨み、それを投下したアメリカ軍を呪った。さらにこの無謀な戦いを盲目的に進めた日本の政府を恨んだ。だが、この怨念と怒りをどこにもってゆくことができよう。つぎからつぎへと恨みつづけて、結局はとほうにくれるばかりであった。
 爆心地から5百メートル以内で被爆した人は、8月15日までにすべて死んでしまっていた。
 5百メートルから千5百メートルの距離で爆撃をうけた人々は、最後まで私に神の摂理を説いた修道女たちのように、8月15日以降9月下旬までにつぎつぎに倒れていった。常清女学校にいた23名の修道女と修道女志願者は、こうして全員が死んでいったのである。・・・

 「神の御摂理です」とあるが、この〔摂理〕は、神の意志、神のはからいで死んだことを意味する。もっと俗に表現するならば、修道女たちは、彼女たちが信じた神によって殺されたことを意味する。では、どうして、神は修道女たちを殺したのであろうか。
 「私たちの罪です。人間の罪です・・」
 という言葉の中に明らかに語られている。私たち人間には原罪があるというのである。
 しかし、私は、キリスト教徒にはまことに申し訳ないのであるが、原罪を背負って生まれてこなかったのである。私の父も母も、その先の父も母も原罪とは全く無関係であったのだ。
 原爆投下が神の摂理なら、私はここまで、その原因を追究する必要もなかったのである。

 ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』(1949年)は、1946年9月、シカゴ・サン紙に連載され、単行本は大ベストセラーとなった。広島にあったジェスイェット教会のことが書かれていたからである。その1部を引用する。

 ・・・
 ラサール神父の背中には、窓ガラスの破片が幾十となく埋っているのだ。板の担架ではひどく痛かったに相違いない。市の外れ近くで、焼け自動車が狭い路にエンコしている。よけてまわらねばならない。片棒かついでいた者が、暗さのために足場が見えず、深い溝に落ち込んだ。ラサール神父は地べたに放り出され、担架は2つに折れてしまった。修道院からリヤカーを取ってこようと、1人の司祭が先発したが、間もなく、とある空家の傍で1台見つけて引いてきた。ラサール神父をこの荷車にのせ、それから先の凸凹道を押して行った。修道院長は聖職につく以前医者だったので、司祭2人の傷口を消毒し、きれいにシーツを包んで寝かせた。心づくしの世話を受けて、2人は神に感謝した。・・・

 私はこの全米で大反響を呼んだハーシーの『ヒロシマ』を読んで悲しくなった。どうしてか?主役がいないのである。誰が広島に原爆を落としたのか、の主役がいないのである。ただただ、荒廃し続ける8月6日の広島を描いているだけなのである。
 しかし、長崎にははっきりと主役がいたのである。それは「神の御摂理です」の中にはっきりと主役が明らかにされている。秋月の本を読みながら、中断してハーシーの『ヒロシマ』を読んで、私はそうか、と納得した。罪があるのは日本人なのだ。真珠湾の裏切り者たちに神の御摂理が登場したということなのである。神が真珠湾の裏切り者に罰を与えたということである。これは、日本人にとって、由々しき問題である。
 スティーブン・ウォーカーの『カウントダウン・ヒロシマ』(2005年)に次のように書かれている。

 ・・・
 ただひとり★、はっきりと自責の念を表明したのは、〈エノラ・ゲイ〉の尾部射撃手、1995年に他界したボブ・キャランだった。被爆者たちの写真や映画、特に焼けただれた子供たちの姿を見たときのことを振り返り、次のように述べた。「罪の意識が一時的なものであれば、救われたんだけどね。見なければよかったよ」。戦後、彼は航空機の設計者となった。銃座に飾って広島まで肌身離さずにいた写真の赤ん坊のほかに、さらに3人の子供をもうけた。原子爆弾によるホロコーストの悪夢は、年をとるに従ってますます心を苦しめるようになる。「核分裂爆弾や核融合爆弾を思うにつけ、わたしたちは神様の国へ行けないのじゃないかと心配になるよ」・・・

 広島に原爆を投下した操縦士ティビッツは「爆撃を指揮したからといって、眠れなくなったことなど1度もない」とうそぶいている。スティーブン・ウォーカーは次のようにも書いている。

 ・・・
 〈エノラ・ゲイ〉が離陸した滑走路は、今では砕けたサンゴで覆われ、半ばジャングルに呑み込まれている。かつては島で1番警戒の厳重だった極秘の場所、爆弾組み立て棟は廃墟となり、朽ち果てた基礎の上に雑草が繁茂しているだけである。隊員たちが眠り、食べ、国へ手紙を書き、戦争が終わるのを祈った第509混成航空群の敷地も、ジャングルと化した。標識もなければ銘板もない。鬱蒼としたジャングルが人の進入を拒む。ここにいた人たちは、もうずいぶんと前に家へ帰ってしまったのだ。・・・

 私は原爆投下の原因を探して長い旅を続けてきた。眠れぬ夜の連続だった。悪夢を見続けた夜だった。あの「エノラ・ゲイ」のリーダー・ティビッツは眠れぬ夜などないと語った。彼を神がしっかりと守っているのが理解できた。それが神の御摂理であることも私は理解した。
 中国新聞社編『証言は消えない 広島の記録I』の中に、カトリック宣教師のドイツ人司祭ウィルヘルム・クラインゾルゲ(帰化して日本名・高倉誠)へのインタビュー記事が載っている。彼は広島原爆で被爆した。その高倉誠の原爆観である。

 ・・・
 人間は原罪のために神の恩恵の手から落ちたのです。この世の悪は神が与えたものでなく、人間の祖先が神の恩恵にそむいたために生まれたものです。原爆も個人が招いた苦難でなく、人類が招いた苦しみです。病気や貧乏は苦しいが、それは肉体の苦しみです。だから私の心には病気のときでも、いつも平安と喜びがあります。キリストが十字架で死んだため、多くの人が救われるのです、神の御心のままに罪をつぐなうだけです。
 一見すると、日本人好みの美文調である。しかし、読者よ、この美文の中に隠れている神に思いを馳せられよ。「神の御心のままに」という言葉を熟慮されよ。そうすれば、彼らが信じ続ける神なるものの正体が理解できよう。
 賀川豊彦★は日本が生んだ偉大なる聖者である。日本基督教青年会同盟編『天よりの大いなる声・広島原爆体験記』(1949年)に、賀川豊彦は「序」を書いている。

 ・・・
 そして、8月6日の朝、午前8時15分がきた。一瞬にして広島が消しとび、16万人の生命が蒸発してしまった。
 地面は美しく掃き清められたようになり、死骸はなにも残ってはいなかった。物質がすべて蒸発してしまったのだ。気化したのだ。いや、光化したと言った方が美しいだろう。・・・

 賀川は広島のあの惨禍に眼を向けない。私はあの人々の苦しみを書こうとしたが書けなかったのだ。なにが、気化なのだ、何か光化なのだ。

 ・・・
 「-汝、心鈍きものよ! 汝、何ぞ悟ること遅き?」
 ガラリヤの湖辺を歩き給うキリストが弟子を叱るように、私達を叱っていられるように思った。-それは、黙示録の言葉がそのまま新しい時代の予言にあてはまるからであった。
 「-血の混りたる雹と火とありて、他にふり下り他の3分の1、焼け失せ、樹の3分の1焼け失せ、もろもろの青草、焼け失せたり-天は巻物の如く去り行き・・他の王たち、大臣、将校、富める者、強き者、奴隷、地主の人々みな洞と、山の岩間にかくれたり・・」(新約聖書黙示録六-八章)
 空想文学だとのみ思っていた黙示録が、私の眼の前の問題となった。
 私は、しかし、黙示録の本質をも考えた。結局真正なる社会の本質は創造のための犠牲、保存のための謙譲、再創造のための贖罪愛による外、道なく-それはキリストの教える民の罪を負う小羊の道であるということであった。・・・

 私は賀川豊彦のこの文章を読んで理解した、黙示録に登場する悪魔の正体を。悪魔は創造し破壊し、小羊たちを殺し、彼らの肉をも喰らうことを。小羊たちは犠牲となり、謙譲を強要され、再び原爆が投下される日まで、贖罪愛に生きよ、と神が説いていることを。
 そして私はまた理解した。原爆を計画し、製造し、投下した人々はすべてキリスト教徒であったことを。
 
 ・・・
 この宇宙創造の愛の意識されるまで、黙示録の記述が、そのまま進行するのだということであった。
 それで、日本の滅亡を予覚しながら、頭は少しも混乱しなかった。世間がさわがしくなるに反し森の中の湖水の如く透徹して行くことを感じた。・・・

 私は賀川豊彦のこの文章を読み、賀川豊彦なる聖者の本質を知った。日本の滅亡を予感してきた私は、この本を書きつつ、眠れぬ夜をすごし、妄想が白日夢となる日々を生きた。賀川豊彦は「湖水の如く透徹して行くことを感じられる」とうそぶく。それは、黙示録を演出し続ける神の意志を、そう、神の御摂理とやらを賀川豊彦が如っているからに他ならない。
 賀川豊彦が日本のキリスト教会における輝ける聖者である。九州の地に、長崎にも偉大なる聖者がいた。その人の名は永井隆である。

  彼が1949年に出版した『長崎の鐘』から引用する。

 ・・・
原子爆弾合同葬弔辞
 昭和20年8月9日午前10時30分ころ大本営に於て戦争最高指導会議が開かれ降伏か抗戦かを決定することになりました。世界に新しい平和をもたらすか、それとも人類を更に悲惨な血の戦乱におとし入れるか、運命の岐路に世界が立っていた時刻、即ち午前11時2分、1発の原子爆弾は吾が浦上に爆裂し、カトリック信者8千の霊魂は一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。その日の真夜半天主堂は突然火を発して炎上しましたが、これと全く時刻を同じうして大本営に於ては天皇陛下が終戦の聖断を下し給うたのでございます。8月15日終戦の大詔が発せられ世界あまねく平和の日を迎えたのでありますが、この日は被昇天の大祝日に当っておりました。浦上天主堂が聖母に献げられたものであることを想い起します。これらの事件の奇しき一致は果して単なる偶然でありましょうか? それとも天主の妙なる摂理でありましょうか?・・・

永井隆博士もまた、他のキリスト者と同じように考えている。「カトリック信者8千の霊魂を一瞬に奪ったのは、間違いなく、聖母マリアに献げられるように神がはかった〔摂理〕であるというのである。神も聖母も、血を求めて人々を殺戮してやまぬ存在であると語っているのと同じではないのか? 私にはそのように思えてならない。黙示録の演出者が神である証しがここにある。

 ・・・
日本の戦力に止めを制すべき最後の原子爆弾は元来他の某都市に予定されてあったのが、その都市の上空は雲にとざされてあったため直接照準爆撃が出来ず、突然予定を変更して予備目標たりし長崎に落すこととなったのであり、しかも投下時に雲と風とのため軍需工場を狙ったのが少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだという話をききました。もしもこれが事実であれば、米軍の飛行士は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされたものと解釈されないこともありますまい。
 終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き小羊として選ばれたのではないでしょうか?・・・

 私はプルトニウム爆弾は最初から長崎を目標としていたと書いた。「その都市〔小倉〕の空は雲にとざされてあったため」は虚構であると書いた。8月8日、八幡は焼夷弾爆撃を受け、heavy smokeであり、決して、clouded やcloudyではなかった、と書いた。煙霧であり、雲ではなかったのである(「第3章」127頁参照)。それにしても永井隆は奇妙なことを書いている。
「神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされた」の後の、「世界大戦争という人類の罪悪の價いとして」日本が攻撃され原子爆弾が落とされたと書いている。「終戦と浦上潰滅との間に深い関係がある」とも書いている。
 私はこの文章を読み続けて、やっとキリスト教の何たるかを理解できた。それは、簡単に説明するならば、血の臭いのする宗教である、との一言に尽きる。
 たしかに、スティムソンは、長崎を狙った。1つは三菱兵器工場である。そこで製造された魚雷が真珠湾で使われたからであり、もう1つは東洋の聖地(カトリック教徒にとってのみ)である浦上を狙ったのであった。プロテスタント、ユダヤ教の交じりあったキリスト教がローマ・カトリックの聖地に狙いを定めたのである。よくある話ではないか。彼らがやりそうな話ではないか。だから犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き小羊は、ローマ・カトリックの信者だけでよかったのだ。
 これは信者間の問題としては通用する。しかし、最初から原罪なんぞに関係のない長崎の市民にとっては迷惑千万もはなはだしい論理である。国際金融寡頭勢力、ロックフェラー、モルガン、ウォール街が、神になり代わって原爆を長崎に投下したことを、キリスト教徒も認める時が来たのである。アーメン! とだけ唱えている時は去ったのである。

・・・
これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから神は未だこれを善しと容れ終わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間始めて神はこれを受け納め給い、人間の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ終戦の聖断を下させ給うたのであります。・・・

この文中の「神の言葉」の代わりに、「神の代理人」のスティムソンを入れて、読者は読みなおさなければならない。日本の都市を攻撃し続け数百万の犠牲者を出しながら、スティムソンは天皇に「まあだだよ!」と言い続けた。やっと2発目のモルガン=デュポン連合の造り給いしプルトニウム爆弾を投下して、「もういいかい?」に答えて「もういいよ」と言った。スティムソンは天皇の詫びを聞き、ここに天皇は自らの地位の不変を与えられ、スイスの銀行へ財産を移し終えた。2人して、「では、日本人よ、ごくろうさん」といったのである。
 最後に天皇の軍は、千人ほどのアメリカ人捕虜を(なかには少人数のオランダ人やイギリス人が含まれていたが)現人神の命令よろしく、彼らを神隠しし、奇跡をスティムソンに見せて、戦後、戦犯からまぬかれたのである。こんな目出度い話はそうそうあるまい。永井隆の言葉を続けよう。

 ・・・
信仰の自由なき日本に於て迫害の下4百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き小羊ではなかったでしょうか。この小羊の犠牲によって今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が教われたのであります。・・・

 私はこう言いたい。神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き小羊たちが、日本にいるかぎり、神はこれを犠牲にしようと、もっと恐ろしい爆弾を日本に落とすでありましょう、と。
 さて、もう1度、秋月辰一郎に話を戻そう。秋月辰一郎医師と永井隆の再会は、原爆投下から3ヵ月がすぎた11月であった。彼が院長として活躍した病院は聖フランシスコ病院となった。秋月辰一郎は書いている。

・・・
永井先生にとってこのカトリック修道会経営の療養所は、自分の病院といってもいいような存在だった。ところが、人もあろうに、仏教信者として有名な高原誠先生をバックに、自分のもとから去っていった弟子の秋月が赴任したのである。永井先生はひどく驚いた。そして不適当だと思った。
 「浄土真宗信者の秋月君がカトリック修道会の病院に行くなんて・・彼は自我が強く、陰気な性格だ。神父や修道女たちとうまくやっていけるものか。たちまち衝突して辞めるだろう」
 先生は周囲の人にこう洩らしたという。・・・

 秋月辰一郎は「〔永井】先生は被爆の2年も前から、X線による放射能症に悩んでおられた。したがって、先生の著書や報道を通じて、多くの人々は先生が原爆症の代表的患者だと思っているが、じつはX線と原爆と、放射脳障害の二重苦を負っておられたのである」と書いている。
 長崎の聖者の1面を私たちは知ることができる。私はある医者から、秋月辰一郎と同じ話を聞いている。「彼は原爆の前から慢性白血病患者だったんだ」と、その医者は私に具体的に語ってくれたのを思い出す。
 「原爆の日、永井先生は大学病院で外来の診察中だった。大学は全滅し、上野町の自宅では最愛のみどり夫人が亡くなられた」と秋月辰一郎は書いている。また、「先生は爆心地から10キロ離れた三山町に疎開した・・10月15日には三山町を離れて上野町の旧宅跡に帰ってきた」とも書いている。秋月辰一郎の『死の同心円』から引用する。

 ・・・
〔永井〕先生は肉体を蝕まれ、衰弱が激しくなるにつれて、つまり白血病の進行と反比例して、被爆地ののろしとなり、全国の耳目を集めた。信仰的にも人間的にも、先生は、浦上の信徒が、長崎の人々が復興するための中心的存在になった。その文才、詩情、心情、絵心、そういったものが、先生の肉体の衰えとは逆に、やがてはなやかに開花していくのである。
 先生が長崎の原爆を世界に紹介した功績は大きい。【原爆の長崎】【長崎の永井】というイメージが日本全国を風靡した。しかし、その訴えが、いささかセンチメンタルにすぎ、宗数的に流れてしまったきらいがないではない。そのために、長崎の原爆は、永井博士が1人で証言を引き受けたような結果になってしまった。放射能の二重苦に悩まされ、肉体的に疲れ果てていた先生は、原爆というものを宗教的にとらえるほかはなかったのだろう。・・・

 私は永井隆博士の〔神の摂理〕について論じたのである。それはまた、長崎と神の関係を論ずることであった。広島とは全くといってよいほどに異なり、神が長崎を支配し続けようとしていたのである。その代理人を永井隆博士が務めていたのである。
 秋月辰一郎は、永井隆の『ロザリオの鎖』の一部を引用している。彼は永井隆博士に「・・この汚れた戦災者根性が、爆心地浦上の再建に禍いを及ぼしていることも疑いありません。汚れを気にせず、低きに甘んじている私らに、どうして新しく明るい文化を造り出す力がありましょうか」と問うたのである。永井隆博士は次のように答えたのである。

・・・
「口を開けば戦災者だと叫ぶ。原子爆弾にやられたんだと自慢気にいう。-けんかに負けたことが何の自慢になります? 彼も人間、我も同じ人間。知恵と努力が足らなかったから、原子爆弾にやられたのではないでか?」
 「世界戦争の終止符となった爆心点という意味で内外人は毎日見物に来ている。しかしこの雑草荒るるがままの荒野は私ら浦上人にとって恥でこそあれ、誇りではないのです。浦上人が誇ることができるのは- 」
 秋月君はききょうの花を引き抜いて、まじまじと見つめた。
 「この雑草を刈り取って香り高い文化の都を建設した暁のことです」・・・

 もう少し、秋月辰一郎の本を読んでみよう。昭和天皇が長崎を1949年5月に行幸したからである。

  ・・・
昭和24年5月、天皇が長崎に行幸されるというニュースを、私は多良岳の家で聞いた。天皇は焼けて黒ずんだ医大の3階屋上から被災地を視察され、1キロ離れた自宅から運ばれてくる重症の永井先生は拝謁を仰せつけられるという。
その5月27日、長崎全市は興奮にわきたった。医大の学長も、稲佐小学校につくられた救護所で被爆者を一手にひきうけた有富先生も感激に涙しているという。
 私はそれを聞いて悲しかった。釈然としなかった。なにをいまさらというのが、いつわりのない自分の気持ちであった。
 私はけっして、天皇陛下を戦犯第1号などと思ったことはない。その点では、しごく平凡で、穏健な日本国民の1人である。しかし、遅すぎた平和を思い、開戦の日の勅語を思い、どうしても素直に熱狂の渦の中にはいっていけなかった。・・・

『入江相政日記』のその日「5月27日(金)」の項には「・・それより長崎医大、ここでお迎えした学生の中には又例の薄笑の顔が見えた。屋上で御展、市長の奏上、学長の御説明の後、生残りの当時の教授、及び原爆で夫が亡くなった当時の教授夫人にお会ひの後お降りかけた2階で永井隆博士にお会いになる。2人の子どもをお引き合わせたりして少し宣伝がすぎるようだ」と書かれている。
 この天皇の行幸を機に長崎は生まれ変わろうとする。秋月辰一郎はその変わりゆく長崎を鋭く描いている。

・・・
いまはどうだ。ヤミ商人の復興、物欲の繁栄にすりかえられてしまったではないか。私はそれを思うと痛恨に耐えなかった。しかし、大部分の長崎の人たちは、原爆の惨禍が縁となって、平和と文化国家建設を唱えられる天皇陛下をお迎えできたことを歓喜したのである。
これがポイントになって、「怒りの広島」に対して「祈りの長崎」が強調されるようになった。原爆投下も神の恩寵と思い、汝の敵を愛するカトリックの精神は偉大だが、それがいつとなく戦争の残虐や弾圧に対する怒りとすりかえられていったのである。・・・

 私は「拳を握りしめ、過去を振り返れ」と幾度も書いてきた。「神の摂理」とか「神の恩寵」の意味を、怒りをもって振り返る以外に日本の未来はないのである。「民主主義」とか「平和」の言葉も同様である。平和とは何か? こんな汚れちまった言葉を捨てる時が来ているのではないか。この言葉は「たいらに、たいらげる」という意味である。せめて和を翰にかえるべきではないか。「平和都市・広島」よりも、「輪の都・広島」とか、長崎がいい。
 「わのみやこ」という古語を復活させ、汚れちまった、天皇好みの、アメリカ好きの言葉を捨ててはどうだろうか。やまとし、うるわし、わのみやこ広島、そして長崎である。
 輪とは手をつなぎ円を描くことである。怒りを込めて、涙をながして、手と手をつないで輪となすのである。そのときこそ、日本が本当に美しい国になるときである。神の摂理とか神の恩寵とか、平和とか、どうでもよい言葉を輪の中へ投げ捨ててしまったらどうであろうか。

  ★「神の御心のままに」逝った人々  <了>
 
  続く。 


 
 ★参考までに、『果てしなき戦線』(日本の百年-8 ちくま学芸文庫版)の第3章から、

 「イーザリーへの手紙」を引用しておきます。p495~6。 

 
 **********

  〔142〕イーザリーへの手紙

 8月6日、広島に原爆攻撃をおこなったエノラ・ゲイ号に原爆投下のサインを送った観測機機長イーザリー(1919~)は、12年後、言動に異常をきたし、酒乱の行動に出たり、郵便局を襲ったりするようになったため、精神錯乱者として復員局の病院に収容された。現在では正常に復したと伝えられているが、精神異常の主な原因は広島への原爆投下にもとづく〔罪悪感〕だといわれている。
 1959年夏、鈴木千鶴子ほか29人の広島の少女たちは病床のイーザリーにあててつぎのような手紙を書き送った。

 「ここに署名している私たち広島の少女一同は、あなたに心からごあいさつをお送りいたします。
 私たち少女一同は、こんどの戦争で幸いにも死だけはまぬがれましたけれども、広島に投下されたあの原爆によって、顔や手足や体に傷をうけたものでございます。〔略〕
 最近、私たちは、あなたが広島のあのできごとのために罪の苦しみに悩まされ、その結果、治療のために病院に入れられてしまったということを知りました。
 私たちが、いまこのお手紙をさしあげるのは、あなたに深い同情の気持ちをお伝えするとともに、私たちがあなたに対して敵意など全然いだいていないことを、はっきりと申しあげたいからでございます。
 あなたは、おそらく、ただだれかの命令であのことをなさったのだと思います。あるいは戦争を早く終わらせ、人命を助けたいとお考えになったのかもしれません。でも、あなたももうご存じのように、爆弾によっては、この地上から戦争を無くすことはできないのです。〔略〕
 私たちは、あなたに対して友人としての気持ちを持たなければいけないと知りました。そして、あなたご自身も私たちとおなじく戦争の犠牲者なのだと思っております。
 早く、ふたたびご丈夫になられて、〔戦争〕という野蛮なものをみんなの力で無くそうという、りっぱな仕事をしている人たちの仲間にはいってくださることをお祈りいたします。」(『朝日ジャーナル』 1961年10月22日号) ************
  
 

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この記事に対するコメント
中川様。 Re: きっかけ
はじめまして。
わたしは北九州の生まれ(1949)ですので、小学校のころ(60年安保の時代)には、「曇り空の小倉に落とせなかったので長崎が犠牲になった」という大人たちの説を信じ切っていました。
いまだに真相は究明できたとは思っていませんが・・・
「きっかけ」とは、わたしにとって人と書物との出会いによってもたらされる情報ですが、情報(インフォメーション)をインテリジェンスに昇華させる際に「知的誠実さ」を忘れないように、とこころしています。
【2013/08/12 15:31】 URL | ひろもと #- [ 編集]

きっかけ
 私は長崎県人です。原爆の投下とアメリカ、長崎のカトリックと神の意思などにつき、疑問に感じていましたが、この記事を読み、自分なりに少し調べてみたくなりました。
 永井隆についても表面的な理解しかもっていなかったことを恥じます。きっかけを与えてくださったことに感謝します。
【2013/08/09 11:16】 URL | 中川正生 #- [ 編集]

竹内様。
はじめまして。

引用は、ご自由にどうぞ。
【2013/05/09 21:33】 URL | ひろもと #- [ 編集]

twitterで引用のお願い
初めまして、私は、貴ブログの内容に共感致しました。そこで、お願いです。貴ブログの内容を一部、twitterで引用させて頂きたく思い、ご連絡を差し上げました。私は、twitterで、連続ツイートという形で、情報発信しております。アカウントは、(gomat147=竹ちゃん)です。よろしくご検討下さい。
【2013/05/09 17:36】 URL | 竹内敏(タケウチサトシ) #- [ 編集]


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