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●原爆投下(13)
 ●第6章 天皇と神と原爆と

 ★天皇美談だけが残って、責任は消えた   


 天皇裕仁は、1947年12月5日から8日まで、広島県を巡幸した。広島市の編による「天皇行幸録」(1948年)を中心に天皇のかのときの姿を追ってみよう(小野勝『天皇と広島』1989年、より引用)。

 ・・・
アトム広島御展望
 この日、広島の空は乳白色の雲が空を覆い、周囲の山々、瀬戸の島々は霧に包まれて御遠望は十分でなかった。けれども、それはあの日焦土と化した約4百万坪の地域を陛下に御示しする為の天のなせる業かの感があった。
 放送局のマイクが遠慮なく陛下の御顔近くに差し出されて御声をキャッチする。「割合に建物が出来たネ」と濱井市長を顧みられた陛下は、御足を階段に向けられた。

 市庁舎周囲の路上から万歳、万歳の声が湧き起った。屋上の御姿を見つけた市民の歓呼である。陛下は思わず御足を留められた。そして御帽子を右手に高く幾度も幾度も打ちふられながら地上の歓呼にこたえられた。一際高く上る地上の万歳は百雷の如く屋上に轟いた。〔略〕

(*以下、「子供たちの〔天皇讃歌〕の作文等の紹介も略す」

 次に児玉隆也の『君は天皇を見たか』(1975年)から引用する。全く異なる天皇像が描かれている。

 ・・・
笑徴だ(宮本六襄・会社員・31歳)

 私たちは、天皇を2度見ました。
 1度目は、終戦直後、私が原爆孤児の寮に収容されていた小学生のころです。天皇は殿さまのようでした。2度目は46年(*昭和)の広島訪問でした。そのとき私は「天皇は象徴やなか、笑徴や、恥や」と思いました。広島にはもっと早く来るべきでした。しかも、自分の意思で。

(下口輝明・農協勤務・37歳)
 1度目の原爆孤児院では、天皇が来るというので施設の昼メシがごちそうでした。天皇よりも食べものを覚えています。天皇陛下は、あーそお、あーそお、とだけいいました。ぼくらの関心は、チョコレート色の車についている菊の紋章が、純金かメツキかに集中しました。
 46年の天皇は、慰霊碑までまっすぐ歩いていって、まっすぐかえってしまった。いまだに苦しんでいる被爆者にも会わずに、大企業の工場を見に行った。あんなことをしていたらあかんと思いました。

 (今田恒雄・精薄児施設指導員・37歳)
 私も原爆孤児院にいました。おかけで有名人にもおうてよかったと思いますよ。しかし私が育ってきたのは、社会の恩恵であって、天皇に置きかえたことは1度もありませんでした。46年のときも、天皇のことなど前日まで思ってもいませんでした。そのとき、天皇が来るというので、農事試験所のバカが、梅に薬をかけて花の咲く時期を遅らせました。天皇はそんなことも知らないで、キレイだね、といったそうです。
 皇太子が天皇になれば、もっともっと利用されるだけの時代が来るでしょう。・・・

 この3人の原爆孤児たちの言葉に対しても私(鬼塚)は何1つ批評をしない。
 広島への原爆投下をさめた眼で見続けていた1人の女性を紹介したい。
 栗原貞子は『核・天皇・被爆者』(1978年)の中で次のように書いている。

 ・・・
 戦前派の天皇への意識が混濁し不透明であるのとちがって、戦後生まれの被爆二世たちの意識は明確であり、青年特有の鋭さとはげしさをもって天皇の戦争責任を追及した。
 1971年4月18日、天皇は島根県に植樹祭が行われた時、15、16日と広島により、護国神社に参拝し、原爆慰霊牌に立ちよった。(参拝ではない)
 被爆団体や革新団体など、組織的には何らの抗議声明も行わなかったが、被爆者青年同盟、アジア青年同盟、部落解放同盟の3団体は、天皇来広を糾弾する連絡会議をつくり、糾弾県民集会の開催やデモ行進を計画したが、いずれも行政・司法一体となって弾圧し、いったん貸した会場の許可をとりけし、デモ行進をやめさせた。4月15日、天皇が慰霊牌に立ちよりの際に平和公園に動員された機動隊は5千人と言われている。しかし糾弾県民集会は開催出来なかったが、それに先立つ3月27日大手町の平和会館で、3同盟による「天皇問題を考える」被爆者集会が行われ、50名近くが集まって各人が発言し、天皇の戦争責任を糾弾した。・・・

 1947年の天皇巡幸に熱中した広島の人々も、それから24年後には完全にさめていたことが、栗原真子の文章を通じて理解できるのである。しかし、さめた天皇観を持つにいたった原爆被爆者たちには過酷な人生が待っていた。もう1度、過ぎ去りし時代を、語り部の栗原貞子に語らせよう。同じ『君は天皇を見たか』からの引用である。

 ・・・
 〔昭和〕21年1月、天皇は神格天皇から人間天皇に転身することで戦争責任を回避した。転身した天皇は22年12月5日から7日まで広島県下へ第1回の巡幸を行ったのであるが、県議会は天皇の行幸に対し感謝決議をし、楠瀬県知事は天皇の質問に対して次のように答えた。
 - 広島の原爆の影響についての人体の健康は、全く心配がなく、ただ植物が学問的に言えば多少影響を残している程度で、決して御心配はいりません。(中国新聞社編『ヒロシマ』未来社刊)
 占領軍も民主主義勢力も行政も一貫して被爆者を抹消し闇のうちに封じこめてしまったのである。どこにも救いのない被爆者は疎開先の農村や郊外の町で「原爆の流れ者」「きたない」と疎外され、遅発性の原爆症で髪が脱け、吐血し下血して血まみれの病床で原爆を呪って死んで行った。
 医師は未知の兵器による未知の病気を診断することが出来ず、死亡診断書にも、「血を吐いて死んだのだから肺結核だろう」と推定の病名を書き、原爆症は闇から闇へ葬られた。
 原爆後遺症についての研究発表はゆるされず、臨床医学のなかった当時の状態である。・・・

 児玉隆也の『君は天皇を見たか』から再度引用する。児玉隆也は、赤提灯「六歌仙」という一杯飲み屋を経営する高橋広子さんから原爆に遭った人生を聞く。この部分はすべて省略する。天皇について語るところのみ引用する。

 ・・・
 聞き書き「陛下さま この金いりませぬ」

 陛下は、天皇は、あの人は、いったい何しに去年この広島へ来んさったんですか。どうして26年もたって、のこのこと帽子振りに来たですか。うちゃあ、腹あ立ってどもならん。うちゃあ、その2、3日まえから、□ではいわんですよ、口ではいわんが、よし行っちゃろか!と思うとった。行って、あの人の前へとび出して、「陛下さん、あんたの腹からのことをここでしやべってみい!『あっそう』いうて帽子振っとるだけじゃあ、うちゃあ納得できん。おれが納得するまであんたの腹からのことをしゃべってみい! あんたの腹ん中を見せてみい!」
 そういうて、あの人にくってかかるうちを考えとった。うちゃあこのとおり軽いから、イリコつまんだようにつままれ、はじき出される姿が、寝とっても頭ん中をめぐってねえ、いよいよ情けのうてねえ。あの人、慰霊碑に花置いて、老人養護ホームヘ行って、それだけじゃあないですか。年寄りたちが「陛下さま来られて、これで思い残すことかありません」いうた。うちやあ、「あんたがたこれだけ悲しんでおって、何か有難いか!」と、新聞引き裂いて泣きました。そのあと、あの人は、天皇は、何をしたですか。原爆病院にも行かず、無縁仏にも行かず、こともあるうに、そのあと東洋工業ば行った。社長の案内で自動車工場を見た。自動車見る暇があったら、27年間も、女房子供にも己が顔見せんと、己がケロイドの顔を包帯の中にとじこめて、屍のように生きとる被爆者に、どうして「チンがすまなかった」というてやらんですか。
 あの人は、帝王学かなんかしらんが、自分の意思をいわん人やと聞いた。あの人に罪はない、原爆病院行くかわりに、自動車会社へ行かせた県や宮内庁の役人が悪いという人もいる。それならば、なぜ、戦争やめさせたのはあの人の意思やという〔歴史〕があるのですか。「神やない、おれは人間や」というたのですか。美談だけが残って、なぜ責任は消えるのですか。
 うちゃあ情のうて、〔へ〕も候や。

  もう1度、福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』から引用する。赤提灯「六歌仙」の高橋広子さんと同じ思想を別の形で表現している。

 ・・・
 歴史は繰り返すと言うが、大本営と政治の嘘が国を滅ぼした戦前の悲劇を性懲りもなく繰り返そうとしているのである。「現人神」‐という神話時代の言葉が戦前の日本を支配していたのは幼稚の限りだが、敗戦後の日本は、「主権在民の民主主義国」になっても「朕」を憲法の冒頭に登場させ、「天皇」という正確に外国語に翻訳できない言葉が、いまだに国を支配している。
 「天皇」とは天人を恐れぬ傲慢な言葉である。天皇・裕仁がいくら権威ぶっても、しょせんは僕と同じ人間にすぎず、本来僕に死を命ずる権利も資格もない人間だった。僕は幸運にも生き残ったので、戦争責任も取れないような人間が皇位に居座るのに反対し続けてきた。戦後天皇の地位は、「現人神」から、「主権の存する日本国民の総意に基く」と、「国民統合の象徴」に鞍替えしたが、選挙による結果ではなかった。当時、戦争犠牲者の多くは天皇制に反対し、僕はいまも反対している。「国民の総意」などと軽々しく言ってもらいたくない。・・・

 この項の最後にもう1度、天皇に執念を燃やして生きた詩人の栗原貞子に天皇論を語ってもらおう。赤提灯の詩人・高橋広子さん、魂の叫びを続ける写真家と同じように、彼女も天皇を語る。

 ・・・
 今度の天皇の訪米〔1975年〕は旧敵国アメリカによって改めて天皇の戦争責任を解除され、天皇制ぐるみアメリカのパートナーとなることであり、自衛隊と米軍との円滑な提携をはかるものであった。新聞は「天皇の訪米は、大統領選挙を翌年に控えたフォード大統領のデモンストレーションであり、大成功だった」と書きたてた。大統領選挙の利用の次は戦争利用へと発展することを許してはならない。
 テレビを通じて見るパーティや送迎のたびに挨拶する天皇の口辺(こうへん)の頻繁なけいれんは病的で異様だった。菊のカーテンの中から出て明るい陽光の中で人間天皇として通されることに対する神格天皇の名残りが苦悶のけいれんをしたのではないだろうか。
 私はテレビの画面を見ながら、天皇の背後に黒々とひろがる原爆の瓦礫と渦まく死体を思いながら「あの人だったのだ」、「あの人だったのだ」と心の中で言いつづけた。
 原爆投下を誘発させ、数百万の日本人を天皇のおんためにとして死なせ、アジアの数千万人を殺させた最高の戦争責任者は、免罪されて帰国し新たな戦前が始まろうとしている。しかし私たち戦中世代は天皇制にこだわりつづけるだろう。「王様は裸だ」と言った子供のように。

 ★天皇美談だけが残って、責任は消えた  <了>

  続く。
 
 


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