カウンター 読書日記 ●原爆投下(11)
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●原爆投下(11)
 ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★国際赤十字社、もうひとつの顔 


 私はここで1つの事実を指摘しておきたい。今まで書いてきたようにジュノー博士は聖者である。これは真実ではあるが、国際赤十字社が別の面を持っていることも真実なのだ。
 敗戦直前の8月8日、東郷茂徳外相は国際赤十字社との最終合意に達した。天皇の資産をスイスの銀行が最終的に受け入れたのは、この国際赤十字社の尽力によった。また、太平洋戦争中、陸軍の配下の昭和通商という会社の依頼を受けて、赤十字のマークをつけた病院船がアメリカの密貿易船と交易をしていたのである。私たちは、アメリカと日本が戦争をしていたから、アメリカと日本の貿易は完全に止まっていたと思っている。ここにも赤十字が深くからんでくるのである。

 大佐古は、ここで終戦の年にSCAP(連合軍最高司令官)の下の公衆衛生福祉局で働く、アメリカ赤十字社のセックスミス女史による日赤本社での数々の暴挙について触れているが、ここでは省略したい。大佐古はビベール氏に次のように言っている。

 ・・・
「ジュノー代表の広島救援が実現しなかったのは、GHQが原爆の破壊能力をソ連に知らせまいとしたからです。彼らは、広島の被爆者が原爆症で毎日のように死んでいくのを知りながら放置していたんです。もし、救援が行われていたなら、少なくとも9月以降の死亡者10万人の生命は助かっていたでしょう」
 「そうでしょうね。これはICRCのオピニオンではありませんが、私には、GHQはICRCを通じて、国際的に救援の手が伸ばされることを嫌っていたように思われますね」
 時計は5時半を過ぎていた。ジュノー博士の広島救援に対する私の疑問は、ビベール氏の誠意のある調査と回答で、今まで分からなかった方程式に根が与えられたかのように、鮮やかに解明された。私はビベール氏に「ジュネーブで予想外の大きな収穫があり、ジュノー博士は予想以上の人だった」ことを伝えて、深甚なる謝意を述べた。・・・

 ここにも、指摘しておかなければならないことがある。大佐古がこの本を書いた1970年には、「GHQが原爆の破壊能力をソ連に知らせまいとしたから」という大佐古の分析も納得できるような国際情勢だった。だが、私は原爆に関するソ連の膨大な資料を調べている。アメリカの政府高官がソ連側にウランに関する資料も、ウランさえも提供し続けた資料も持っている。アメリカとソ連は大戦中も、冷戦中も深く結ばれていたのである。ヒトラーがシェル石油の供給を受けたようにである。日本も、アメリカ船籍を持たぬアメリカの船から石油を買いつけていた。その決済はスイスの国際決済銀行(BIS)で行っていたのである。
 この世に勃発する戦争には、複雑な裏があることを理解しなければ、広島と長崎に原爆が投下された意味を理解しえないのである。ソヴィエトヘの配慮と原爆患者への薬の提供、この間に因果関係は全く存在しない。
 『ドクター・ジュノーの戦い』の中で、ジュノー博士がマッカーサーと最後の会見をする場面をもう1度読んでほしい。マッカーサーとジュノー博士との間に深い友情が生まれたことが分かるのである。では、どうして、GHQがジュノー博士の申し出を拒否したのか。去りゆくジュノー博士に
マッカーサーは、「世界の人々の純粋な声を、もはや武力ではなく、精神の名において結集できるのは一体誰なのか」とジュノー博士に訴えるのである。
「恐らく赤十字かも知れない・・」
 私はマッカーサーもジュノー博士も、大いなる武力に敗れたと信じている。
「誰に敗れたのか」、それはアメリカの国に巣食う、原爆を製造した元凶たちにである。
 私はマッカーサーが語った言葉の1部を省略しておいた。ここに書くためである。

・・・赤十字は世界の中で特異な位置を占めている。普遍的な信頼を勝ち得ている。その旗はすべての国民、すべての国家に尊重されている。今やその真価は十分に発揮されるべきである。問題の核心に迫るべきである・・・

 マッカーサーとジュノー博士は協力しあい、問題の核心に迫り、そして敗れたのである。
 ★マッカーサーとジュノー博士の努力を裏切ったのは日本赤十字社である。この日本赤十字社の総裁は天皇裕仁の弟の高松宮であった。明確にしたい。天皇裕仁と高松宮がこのジュノーとマッカーサーの申し出を断わったのである。
 どうしてか? スティムソンとの約束(「私には確約がある」の発言)が怪しくなったからである。天皇は自分自身の安全が脅かされだしたからである。
 大佐古の2冊の本は、大部分は一致しているが微妙に異なっている。前著(1979年)に比較して後著は明らかに追及のトーンが落ちている。ここでは後著に欠落している部分を記す。

・・・
 ICRCを辞去した私は、東浦氏の車の中でもう1度、ビベール部長の発言の意義を考えた。
 GHQは広島の地獄図絵が世界の国々に知られることを恐れたことはほぼ間違いない。そういえば、ファーレル原爆災害調査団は東京に帰るとすぐ「原爆で死ぬべき者は死んでしまい、原子放射能で苦しんでいる者は皆無である」という公式発表を行なった。また9月19日には、広島と長崎の被爆実態を国際社会から秘匿する目的で、〔日本に与える新聞準則〕を発している。「報道は厳格に真実を守らねばならない」としながらも「占領軍に対して破壊的な批判を加えたり、不信や怨恨を招くような事項を掲載してはならない」と言い、連合軍の動静についても公表されぬかぎり「記述や論議してはならない」と厳命した。その結果、新聞、ラジオをはじめ出版を含む日本の言論界は原爆の報道、論評を一切タブーとしなければならなくなったのである。・・・

 この大事な文章が、20年後の本の中ではすっぽり落ちている。何が大佐古にあったのかは分からない。この文章にも注釈が必要である。原爆投下をトルーマン大統領、バーンズ国務長官の範囲内で追求しても何も見えてこないと私は書いた。(同様に)マッカーサーの面から、プレスコード(新聞等の報道規制)を見ても真実は見えてこないのである。

 マッカーサーは当時、アメリカ陸軍省の支配下にあったということである。マッカーサーは陸軍長官の命令に従わなければならなかったのである。プレスコードも、そうした規制の中でつくられたのである。従って、ジュノー博士の申し出をマッカーサーは受け入れたが、陸軍省が拒否したと考えなければならない。重要事項は陸軍省に報告され、陸軍長官からの決議を待って処理されたのである。ファレル原爆災害調査団の報告の公式発表は、マッカーサーが遵守しなければならないものとなった。敗戦国の天皇との交渉が行われた。それが大佐古がたびたび書いている「リエゾン・コミッティ」(連絡委員会)である。正式には「終戦連絡事務局」である。
 松本重治の『昭和史への一証言』(2001年)から引用する。

・・・
そのころ、占領軍との交渉の窓口になったのが終戦連絡事務局ですね。
松本: 終戦連絡事務局は、総司令部の機構に応じた日本側の受け入れ態勢ということで、連合国軍の進駐に先立って先方からの要請でつくられたのです。外務省の1角に設けられ、朝海浩一郎(駐米大使など歴任)、萩原徹(駐フランス大使など歴任)ら半分は外務省の人間でした。奥村勝蔵もそこにいました。
 日本政府としては、総司令部の民政局と交渉することが多いのですが、民政局長のホイットニー(少将)、局次長のケーディス(大佐)などがいろいろしゃべることを、マッカーサーの意向、指令ととって、そういうように吹聴されるのを吉田〔茂〕はいやがっていました。・・・

 松本重治が神戸一中の5年生のとき白洲次郎は2年生。神戸一中の同窓生である。松本は同盟通信社で有末精三中将のアメリカ向け謀略放送の仕事に専念していた。その松本を吉田茂の依頼で終戦連絡事務局に誘ったのが白洲次郎である。2人はもっぱら民政局長ホイットニー(マッカーサー司令部のナンバー2)と交渉した。従って、あの日本赤十字社の「原爆被爆者見殺し宣言」も、彼らの交渉の結果に他ならないのである。

 どうして、謀略放送を流し続けた松本重治がアメリカの代理人となって、近衛元首相を自殺(?)に追い込む役割を演じたのかも、この1件の中に見えてくる。有末精三中将はウィロビーのGⅡ(GHQ参謀第2部)に入りこみ、日本人の摘発に乗り出す。大屋中佐は、有末の子分となり果てていく。畑元帥だけは仕方なく巣鴨プリズンに入るが命に別条はなく、シャバに舞い戻ってくる。大型プロジェクトである原爆産業はかくて大繁盛となっていくのである。
 この項の最後に、マッカーサーとの会見の後に、ジュノー博士の次なる文章があるので記しておきたい。

 ・・・
赤十字国際委員会は、戦時中自由に使われたジュネーブの大ホテルに、今や常設されている。赤十字の旗が翻る元のカールトン・ホテルの中では、熱烈な活動が展開されている。アーゾンランの病院で、私が国際委員会の勧誘を初めて受け入れてから、夢にまで見た大きなビルが遂に出現したのだ。
 しかし、ある夜私が帰着したのはモワニ邸であった。・・・

 理想はいつも裏切られるものである。ジュノー博士は書いている。「すべての国、すべての社会で、自分の戦いより、第3の兵士として自らの名誉を重んじる人々が続出することを期待したい」と。彼が広島で、幾度となく都築教授の言葉を引用し続けたのは、兵士は〔第3の兵士となれ!〕という意味ではなかったか。

「心を開かねばならない・・すべてを理解しなければならない・・」

 以下、高松宮宣仁(のぶひと)親王の『高松宮日記』(1997年)からジュノー博士に関係する記録のみを抜粋する。

・・・
〔1945年〕10月25日(木)曇、風
 1830 国際赤十字代表招宴(ジュノー博士。ミス・ストレーラ。ペスタロッチ、アングスト、ビルフィンガー博士、徳川社長、中川、島津、徳川義知、芦田厚生大臣、保科女官長)
 〔同年〕11月15日(木)雨
 950~1200 日赤社 赤十字デー、祈念式、慰霊祭、講演(ジュノー国際赤十字代表ムーア米赤十字代表)
 〔同年〕12月28日(金)晴
 1500 島津副社長(「ジュノー」ヨリ「Ratiion*」 1箱持参。(*米国の軍用携行食糧) 
〔1946年〕4月9日(火)晴
 ジュノー邸、コクテルパーチー(島津邸二立寄ツテユク)、1730~1830。
 〔同年〕4月10日
 1500 ジュノー帰国ニツキ茶会(徳川社長夫妻、中川、島津、義知夫妻、与謝野秀、永田、鈴木*。夕食(島津、義知)
 *鈴木とは鈴木九萬。終戦連絡事務局横浜局長。

 なお、東京に帰ったジュノー博士に広島で同行した医師の松永勝は4回上京し、ジュノー博士に会っている。松永勝医師は広島の窮状をジュノー博士に訴え続けたのである。しかし、原爆被優者を日本赤十字社は裏切ったのである。
 広島と長崎の被爆者に、「お前たちはくたばってしまえ」と言った人々に対して、読者よ、拳を握りしめて、天誅を加えよ。それらの人々は、この高松宮の日記の中にも、日記の外にもいるのである。

 『入江相政日記(第3巻)』昭和21年1月25日の項に、ジュノーの天皇謁見の場が書かれている。入江相政は当時侍従であった。

 1月25日(金)暖 6、50
 昨夜から今朝にかけて何と暖かいことか、今朝などは曇ってゐるがまるで春霞のやうだ。令子は元気に出かけて行く。歩いて出勤。入浴。理髪。赤十字極東代表ジュノー謁見。午后1時泰宮、盛厚王、照宮御参。〔以下略〕

この入江相政日記にはジュノーについての注解が附記されている。

 ・・・ジュノー=マルセル・ジュノー。スイス人の医者。赤十字代表として日本の捕虜収容所の状況視察のためシベリア経由で終戦直前の8月9日、日本についたが、広島原爆のことを聞き9月8日広島に入り被爆状況を調べるかたわら治療に当たり、世界に救援を訴えた。のち赤十字国際委副委員長。36年没。

  ★国際赤十字社、もうひとつの顔   <了>

  続く。
 

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この記事に対するコメント
今晩は~

2008年5月2日、私は連れに誘われて初めて鶴川の旧白洲邸を
訪れました。
白州次郎なる者へも、私と連れは一見識もありませんでした。


・旧白洲邸の庭へ一歩入るや否や、庭の敷石の並びの酷いこと!
・旧白洲邸の玄関から室内へ、一歩は入るや否や、客人を無視
 した造りの酷いこと!
・旧白洲邸の足場の高低が実に激しく悪く客を接待する家では
 ありませんでした。


ところが邸内へ入った途端、玄関とキッチンが混同しているかの
如く、目に飛び込んで来た
・【キッチンテ-ブルの上へところ狭しと広げられた大御馳走】。
・いかにも、毎日が客人との集い、とばかりに。


▼頭痛持ちでナイ私へ、この敷地へ入るや否や【強度の頭痛が発生】
 し、直ぐにでも自宅へ帰りたかった!
 ぃぇ【帰りたい】と、私は連れへ申しました。

しかし、この【おんぼろ屋敷】へ入るの為に【二人で2000円】も
支払ったから、全部を見るまで帰らないと、連れは申しました。

私は不承不承連れの後を追っていると、外の休憩場にかかる
・【白州次郎の大きなポ-トレ-ト】が、私の目に入りました。

▼この途端に私は【ツマ殺しのミウラカズヨシそっくり】だが、
▼もっと【大量に人を殺している!!】と連れへ申しました。
▼【自己喪失】の非常に不気味な表情でしたから、私には
  白洲は生身の人間には見えませんでした。

連れは【そぅいえばミウラカズヨシに似ていますね】と申しま
したが、殺人については何も反応しませんでした。
しかし、当時私が語った内容を、連れは今も覚えております。


白州邸ショップ2Fで【NHKのその時歴史は動いた】を私と連れは
見ましたが、NHKの司会者は、
・白州次郎は【開戦ニ年前に敗戦を予期した凄い人!日本の英雄!】
・と、興奮しながら語っていました。

そこで、連れは
・【何だ自分だけ疎開したのか】と申しました。
私は
・【そんな馬鹿な!開戦をする前に敗戦が分かる筈がない!】
・【また敗戦を知りながら、なぜ白洲は阻止の為の努力を1つも
  しなかったのか?】と、怒りが込み上げてまいりました。
頭痛に、さらに嘔吐が加わり、私はどぅ仕様もない身体悪化状態へ
陥りました。


帰宅後私は、民主党へ、第二次世界大戦は
▼【貿易庁白州次郎VS通産省岸信介】の【うちわ戦争】が存在して
いる。と、メール送信いたしました。


そして3ヶ月後、幸運にも発行されたばかりの
▼【鬼頭英昭】著書の【原爆の秘密】国内篇と外国篇に私は
 出会いました。

▼憚りながら私の体験から鑑みた点と点が、
 書籍の中で、真実として見事に繋がっておりましたので、実に
 読み易い書籍(ア-カイブ)でございました。
 
 心から鬼頭英昭氏へ感謝を申し上げる次第でございます。

 上述の記事内容の通りでございます。

【2010/07/30 21:43】 URL | shion #NqNw5XB. [ 編集]


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