カウンター 読書日記 ●原爆投下(10)
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●原爆投下(10)
 ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★ドクター・ジュノーの懸命なる闘い  


 私は前項の中で、日本政府が「ポツダム宣言の条件につき受諾を申し入れる一方、スイス政府を通じ原爆使用は国際法違反であるとする米国政府宛ての抗議文を提出した」と書いた。
 国内では8月15日までは新型爆弾としか新聞に書かせなかった国家が、スイス政府を通じ、「原爆使用は国際法違反である」とアメリカ政府に通達したのは、御前会議が大きく混乱し、天皇の裁断を得たうえでの妥協的なる措置であったのかもしれない。この後、終戦の詔書で天皇が原爆について触れるが、国家として、原爆の道義性を触れることはなくなっていく。

 このスイス政府を通じての「原爆使用は国際法違反である」が海外で大きな反響を呼ぶのである。しかし、このことも日本国民は一切知らされることはなかった。その1例は「日本に対する原爆攻撃は、残虐非常な殺人」(8月10日付、イヴニング・スター紙)である。
 中島竜美の雑誌論文「〈ヒロシマ〉その翳りは深く 被爆国政府の責任の原点を衝く」(1985年)から引用する。ドクター・マルセル・ジュノーが描かれている。私がこのジュノー博士を知るようになったのは中島のこの評論を読んだのが最初である。

 ・・・日本国内では戦争終結など思いもよらず、人びとは新型爆弾へのいいしれぬ恐怖心をつのらせていたころ、短波放送で世界のニュースをキャッチしていた人たちがいた。日本在住の数少ない外国人グループがそれである。
 8月10日夕刻、焼野原の東京をたって軽井沢に向かう1台の自動車があった。
 赤十宇国際委具会駐日主席代表マルセル・ジュノー博士を迎えた日本派遣員の人たちだ。ジュノー博士は、捕虜の身体保全と傷病兵の救護を目的として、戦火の旧満州・新京(現在の長春)を日本軍機で脱出、前日羽田に着いたばかりであった。
 翌朝、静かな森の中の日本家屋で目を覚ましたジュノー博士は、日本のお手伝いさんから1通の電文を手渡された。派遣員の秘書の1人カムラー氏からである。
 「親愛なるジュノー博士、BBCは今夜(注:8月10日)、日本のポツダム宣言受諾を報じました。遂に平和が来ました。人びとはトラファルガー広場で踊っています」(『ドクター・ジュノーの戦い』マルセル・ジュノー著、丸山幹正訳)
 ジュノー博士はこのときまで、日本への原爆投下について何も知らなかったが、その後かかわりをもつようになる広島での動きは、また後で述べるとして、米軍が「8月10日をもって事実上の戦争終結」としている、もう1つの証拠を紹介しよう。
 それは、アメリカの原爆製造を担ってきた、マンハッタン計画の動きである。大統領直属のマンハッタン管区代表・グローブズ少将が、そのころテニヤンで原爆投下部隊の指揮をとっていた副官のファーレル准将に、原爆兵器の効果を調べるための調査団結成を命じたのが8月10日(現地時間)であった。
 その後、〔マンハッタン管区調査団〕は、ファーレル准将以下50人からのメンバーで結成され、日本上陸の機会をうかがうことになる。この調査団は、後につくられる米太平洋陸軍軍医団や、米海軍技術団、および米戦略爆撃調査団等調査グループの先達として、占領下の日本政府と接触していくのである。・・・

 日本は8月15日を一応終戦(敗戦)とする。しかし、欧米では、日本が無条件降伏を受諾した8月10日を終戦とするのが普通のようである。すでに8月10日に、アメリカの日本に対する終戦工作が始まる。そのとき、日本政府がスイス政府を通じて「アメリカの原爆投下は国際法違反」という電報をアメリカ政府に打電したことが、マンハッタン管区調査団の派遣となったのである。ファレルの調査団が「広島と長崎に残留敗射はなし」の結論を出したのは、原爆投下による世界中の世論を抑えるためであった。日本政府は沈黙を守るようになっていく。
 マルセル・ジュノー『ドクター・ジュノーの戦い』(1991年。スイスでの原書出版は1947年)から引用する。

 ・・・
 広島と長崎に2発の原子爆弾が投下されてから3週間が過ぎていたが、破壊された街と数知れぬ犠牲者の運命について、事実上まだ何もわかっていなかった。アメリカのラジオ放送は、この新兵器の準備とその途方もない威力について大々的に報じていたが、原子爆弾の破壊作用についての情報は恐ろしい予言の他何もなかった。
 「70年間、市街は放射能で汚染され、すべての生きものは生存不可能であろう」・・・

 この予言ないし風聞は、長崎よりも広島で広く流布していく。この予言を打ち消すべく、ファレル准将やローレンス記者が論陣をはるのである。続けて彼の本を読んでみよう。

 ・・・
 アメリカのジャーナリストが1人、飛行機で広島に近づき取材に成功したのを私は知っていたが、彼の報告は直ちに発禁処分を受けた。爆弾炸裂後、米軍偵察機が何度も街の上空を飛んでいたが、その恐るべき破壊力のデータは、軍上層部と科学者の手中にあった。
 日本も他の理由から、彼らに敗北をもたらした大破壊については、全く沈黙を守っていた。東京の新聞は、人々を降伏に備えさせるため、数日間原爆の破壊力について大きく報道していたが、それが一切禁止された後は、大破局の実際の規模についての正確な報告は全くなされていなかった。・・・

 この間の状況も1部書いた。8月23日付の読売新聞は「死傷19万を超ゆ、広島・長崎の原子爆弾の残虐」との題で、広島と長崎の真相に迫る記事を載せている。
日本の言論機関がアメリカの原爆を非難し続けたのは1ヵ月にも満たない。9月15日付の朝日新聞は、当時新党結成に動いていた鳩山一郎に1問1答をし、発禁処分となった。
 「・・・〔正義な力なり〕を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう。極力米人をして羅災他の惨状を視察せしめ、彼ら自身、自らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること、日本の独力だけでは断じて復興の見通しがつかぬ事実を素直に披瀝し、日本の民主主義復興、国際貿易加入が米国の利益・世界の福祉と相反せぬ事実を認職せしむることに努力の根幹を置き、あくまで彼をして日本復興に積極的協力を行わしむるごとく力を致さねばならぬ」

 まさに正論である。これはプレス・コードの出る前である。敗者の正論は勝者にとっては常に脅威となる。鳩山一郎は公職追放され、あのヨハンセン・グループの醜怪なる人物の吉田茂が首相になっていく。吉田は戦前から戦後、そして生涯にわたってアメリカの原爆投下を陰から支援し続けたからである。
 ジュノー博士の本をさらに読み続けよう。

 ・・・
 広島の住民にとって、この突然の惨劇が何を意味するか我々にわかり始めたのは、日本の津々浦々に広まって行った人々の口承による情報からであった。我々の秘書の1人でノハラという二世の日本人が、時々我々に日本人の間でどんな話が交わされているかあらまし語ってくれた。多くの避難者が家族のもとへ逃れている。彼らの情報は信じられない程悲惨である-穏やかな空から突如として日もくらむ閃光が放たれ、地震などとは比較にならない程超現実的な現象が起きた。それは熱風と烈火の台風ともいうべきで、突如として地表を一掃したかと思うと後に火の海を残した。
 誰も死者の数を知らなかった。5万だという者もいるし、20万だと主張する者もいる。負傷者の数もそれと同数だという。負傷を免れたかに見える人々も、突然奇妙で不可解な症状を呈し、毎日数千人が死亡している。・・・

 ジュノー博士は、「9月1日になって始めて外務省は私に、原爆作裂後の広島の写真数枚を見せた」と書いている。「・・烈火に打ちのめされハンセン氏病の如き生存者の唇からまだ死の絶叫が聞えてくる」とジュノー博士は書いている。続けて読んでみよう。

  ・・・
9月2日午前8時、日本の警官が、まだ東京の検閲査証が押されていない電報の写しを、我々の鳥居坂の別荘に持って来た。ビルフィンガーが8月30日広島に到着し、次のような報告を送って来たのである-
 「・・恐るべき惨状・・町の90%壊滅・・全病院は倒壊又は大損害を被る。仮設2病院視察、惨状は筆舌に尽し難し・・爆弾の威力は凄絶不可思議也・・回復したかに見える多数の犠牲者は白血球の減少及び他の内部損傷により突如致命的な再発を来たし事実上相当数が死亡す・・
10万人以上の負傷者が未だ市周辺の仮設病院にあって器材・包帯・医薬品の完全な欠乏状態にあり・・連合軍上層部からの特命を重大要求として求め、直ちに街の中心部に救援の落下傘を投下するよう要請されたし・・緊急用品次の如し、大量の包帯・綿・火傷用軟膏・スルファミド・血漿及び輸血用器材・・緊急行動を要す・・」

 ジュノー博士はこの電文を手にして、マッカーサーがいた横浜商工会議所に出向いていく。フィッチ将軍たちに面会する。4人の将官が協議し、「これをお借りします。マッカーサー将軍に見せたいのです」とジュノー博士に言った。続けて読むことにしよう。

 ・・・その5日後の9月7日、私はサムズ大佐の呼び出しを受けて再び横浜に行った。
 「米軍が直接救援活動を組織することは出来ません」彼が言った。「しかしマッカーサー将軍は、15トンの医薬品と医療器材をあなたに提供することに同意しました。その分配方法については、赤十字の管理と責任に委ねます」
 そして最後につけ加えた。
 「調査委員会は明日広島に発ちます。その飛行機にあなたの座席を用意してあります」・・・

 ジュノー博士は9月8日、ニューマン将軍、ウィルソン大佐、それに原爆製造の技術者の1人、物理学者モリソンと同乗した。広島から25キロ離れた岩国に着陸した。「他の5機も近くに整列した。すぐに15トンの医療品が降ろされた。私はその管理を、日本人の海軍大佐に委ねた」とジュノー博士は書いている。ジュノー博士一行は宮島に宿泊する。
 続けて読んでみよう。

 ・・・日本の学者が2人我々に加わった-医師の本橋博士と東京帝国大学の最も主要外科医の1人都築正男教授である。
 都築教授は、きらきらと光る知性的な眼をした熱血漢であった。彼は英語を話し、彼の考えはしばしば短い激烈ともいえる言葉で表現され、それに身振りが加わって強調された。
 「広島・・ひどいもんだ・・私にはわかっていた。22年も前に・・」 ・・・


 『ドクター・ジュノーの戦い』の「訳者あとがき」には都築教授についての説明が付されている。「原爆投下の22年も前に行われた都築正男博士のウサギを用いた先駆的実験が、学問的にはデトロイトで学会報告がなされていたにも拘わらず、国家権力によっては、その学問的成果が人道的に全く生かされえなかった事実を、今日の国家の指導者も強く反省すべきである。この都築博士の実験報告こそは、アメリカの原爆投下が国際法違反であるという立場に、充分な論拠を与えるものである」
 都築教授は8月29日に、陸軍軍医学校、理化学研究所らのメンバーとともに広島に向かった。陸軍病院・宇品分院に救護所を開設、軍人軍属中心の被爆者医療と併せて、研究調査機関として体制を整えていった。

 ジュノー博士の本を読み続けてみよう。広島が描かれている。9月9日早朝-2人の日本人通訳がついた。1人はカナダ生まれの伊藤嬢、もう1人はアメリカ生活20年のジャーナリストであった。伊藤嬢とジャーナリストは広島の惨状を訴え続ける。ここでは省略する。

 都築教授は我々を先導しながら、皆に聞こえるよう大声で話した。激しい興奮のため、言葉はとぎれた。
 「心を開かねばならない・・すべてを理解しなければ・・」
 彼は壁の残骸を示したが、それは地面すれすれに15乃至20メートルも続いていた。
 「諸君、ここは病院のあった所です・・ベッド数2百・・医師8入・・看護婦20人・・患者もろとも全滅です・・まあいい! 構うことはない! ・・原爆めが!」
 時々私には言葉の終わりしか聞き取れなかった。
 「心を開いて・・言う事はたくさんあります・・次に移りましょう・・」
 [ここでは銀行が半壊しています。原爆投下後2日して他の街から行員が来て、その夜、金属のレールに掛った絹のカーテンの部屋で泊まったのです。2人とも貧血で倒れました」
 アメリカ人の物理学者たちがノートを取り、放射能が消えたことを確認するため、検出器を設置している間、都築博士は医師を連れて病院を回った。そこでは恐るべき惨状が我々を待っていた。・・・

 この「アメリカの物理学者」たちが、マンハッタン管区調査団のメンバーである。ジュノー博士は「放射能が消えたことを確認するため」と、見事に彼らの隠謀を暴いている。彼らの調査書が公式のアメリカ政府の報告書となっていくのである。彼らはマッカーサーには内密に広島に入ったのである。
 マッカーサーの承諾した調査団は、司令部軍部医務顧問A・オーターソン軍医大佐の提出した上申書にもとづき、米軍紀司令部軍医総監B・デェット准将による調査団であり、彼らとジュノーは一緒の飛行機で広島へ向かったのである。マッカーサーは、原爆被害の調査を調査団に令じていた。彼は真相を知るうとしていた。そして薬品や用具を飛行機五根分ち送りつけていたのである。
 ジュノー博士の心の叫びが聞こえてくる文章が続いている。

 ・・・最初に訪れた仮設病院は、半壊した校舎の内に設置されていた。地面に80人の負傷者が横たわっていたが、彼らを雨や夜の冷気から守るものは何もなかった。蝿が何匹となく群をなしてむき出しの傷口にたかっていた。薬のびんが数個棚の上に散らばっていた。包帯は粗末な布で代用していた。5、6人の看護婦に出来る手当てはこれだけであったが、それには、20人余りの12才から15才位の少女が協力していた。
 都築教授は、血だらけの人々の前で身をかがめた。彼は意識の朦朧とした婦人を示したが、顔は熱波に打たれて焼けただれていた。
「血液感染だ・・白血球がほとんど消滅している・・ガンマー線だ・・防ぎようもない・・今晩か明日死ぬだろう・・原爆めが!」〔中略〕
 彼の声はますます大きくなった。
 「この人々は・・すべて死の宣告を受けた! この人は壊疽性咽頭炎、この人は高度の白血球減少症だ。ほとんどの患者には輸血が不可能だ。血管が破れる・・」
 我々は庭の奥にある小屋に行った。ホルムアルデヒドのガスで目がしみた。都築教授はおおいを取ると、ほとんど炭化した死体が2体横たわっていた。
 「我々は心を開かねばならない!」
 彼の言葉を聞いていると、我々は大実験室にいて、モルモットの代わりに何千もの人間を解剖しているのではないかと錯覚する程であった。解剖された器官や、組織学的切開、臨床的、病理解剖学的実験結果から作成された統計表などを彼が我々に示しだのは、正に彼の情熱的な科学的探究心のゆえであった。
 「顕微鏡で見ると、高度の充血から筋肉萎縮や変質に至るまで、すべての点について観察出来る。死因は白血球減少及び通常の併発症-細菌感染・敗血症などーを伴う高度の再生不良性貧血と思われる」
 都築教授は私の方を向いた。彼は広汎な出血の見られる脳髄を手にすると、突然しわがれ声で恐ろしい言葉をはき棄てるように言った。
 「昨日はウサギだった・・今日は日本人だ・・」

 調査委員会は原爆の破壊調査を継続するため長崎に向かった。私は運んで来た医薬品の分配を指揮するため広島に残った。
 私が東京に帰る日の朝、若い日本人の医師が汽車まで見送りに来た。
 崩れかかった駅の正面には、大時計の針が爆裂によって8時15分を示したまま止まっていた。

 新時代の到来が時計の上に記録されたのは、人類史上これが初めてであった。
 この証拠品を保存するのは、どの博物館であろうか・・・

 ここで、広島でのジュノー博士のルポは終わっている。彼は、アメリカの捕虜を本国に送還させたこと、彼の友人のヴィッシャー博士夫婦がボルネオで殺害されたこと・・を書くが、広島・長崎のことには一切触れていない。
 「我々の飛行機が羽田飛行場に着陸してから4ヵ月が経過し、日本における私の任務も終わりに近づいた」と書く。そしてまた、「私が東京を発つ数日前の感謝祭の日の朝、対外関係を担当しているアメリカの将校ベイカー陸軍代将が私に、マッカーサー将軍が国際赤十字派遣団を歓迎したい意向であると伝えた」と書いている。では、マッカーサーがジュノーたち国際赤十字派遣団を迎えて語った言葉を、ジュノーの本から引用する。

 ・・・
 「人命と人血の至高の価値が忘れられている。しかも人の尊厳までも」
 「武力は人間の問題の解決にはなり得ない。武力は無力である。それは最後の極め手にはなり得ない・・私のようなプロの殺戮者がこういうと奇妙でしょうが」
 「現在の武器と、開発中の武器とで、新たに戦争が起これば、価値あるものは何1つ残らないだろう」
 [余りにも多くのものが失われた。肉体の消耗は余りにも大きく、ここ20年か25年は次の大戦は起こり得ないだろう。しかしそれから後はどうなるのか。我々が人類を人類自体から守るため、全力を尽くさなければどうなるのか」
 マッカーサーは仕事のあることを告げに来た将校を、既に2度も追い払っていた。後は20分も話し続けていたが、その声は一層切迫したものとなった。
 「赤十字は控え目すぎる。影に隠れすぎている。その活動は負傷者を救助したり、物質的援助を組織するだけに限定されるべきではない。目的が限定されすぎている。もっと積極的になるべきだ・・」
 そして彼は現実主義者らしく、最後を次のように締めくくった。
 「唯一の問題は、この考えを弁護し、この信条を流布するに足る手段を投入出来るかどうかを算定するだけである・・資金はあるか・・人材はあるかを」・・・

 「あの証拠品を保存するのは、どの博物館であろうか」を最後に、ジュノー博士は広島・長崎の文字さえ書かないのである。何があったのか?
 訳者は「増補販に寄せて」(1991年)の中で、「1978年9月16日、日本の新聞は『ジュノー博士が原爆投下後の広島、長崎を救援するため、ヨーロッパ各国で救援活動を組織しようとしたところ、米軍が圧力をかけて、これを阻止した』という内容のニュースを社会面トップで報じた。私は訳者あとがきに書いたように、翌年9月にジュネーブ入りした。その時に面会したミシェル・テステュ博士には、この報道の事実関係も質した」と書いている。
 訳者丸山幹正はジュネーブで多くの関係者に会う。しかし、米軍が関与したことを証明するような資料を発見できなかった。
 しかし、この謎に挑んだ大佐古一郎によって、あらぬことが明らかにされるのである。

 ★ドクター・ジュノーの懸命なる闘い  <了> 


 *************

  ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」  


 『ドクター・ジュノーの戦い』の邦訳書の初版は1981年である。私がこれから紹介する、大佐古一郎の『ドクター・ジュノー武器なき勇者』は1979年に出版されている。前著の出版より2年前である。大佐古は、1912年に広島県に生まれる。中国新聞社論説委員を最後に広島で暮らしていた。
 大佐古は中公新書から『広島昭和二十年』という本(* 1975年8月 264p. - 中公新書 : 404)を出した。その中で「ジュノーの死」を書いた。広島を襲った台風で、ジュノーが宿泊した旅館で死者が出た。そのときにジュノーが死んだと大佐古は信じていた。その大佐古は「松永産婦人科・松永研究所 医学博士 松永勝」と会う。そこで大佐古は広島を襲った台風で死んだのは別人だったことを知る。松永勝こそ、ジュノー博士が「私が東京に帰る日の朝、若い日本人の医師が汽車まで見送りに来た」と書いた、その人であった。
 松永は大佐古にジュノー博士とすごした4日間の出来事を語る。大佐古はそこからジュノー研究に没頭していくのである。
 『ドクター・ジュノー武器なき勇者』(*新潮社1979年)から引用する。松永医師が大佐古に、次のように語ったのである。

 ・・・
 あのとき、私たちは備蓄した薬を使い果たし、1滴のアルコール、食用油を探し回るほど絶望的な状況の中にあった。そこヘジュノーさんは、まるで神の使いのように15トンの医薬品を持って現われました。そうして、外科医として患者を診たり、私たちに放射能障害の治療方法をアドバイスしたり、廃墟にDDTを撒くよう尽力して下さった。お陰で、どれだけの人が三途の川から引き返したでしょう。幾万人の重症者や軽い病人が救われたでしょうか。ところが広島の為政者はもちろん、被爆者にもこの事実はまったくと言っていいほど知られていないんです。せめて広島のジャーナリストにわかってもらいたかった。でもきょうあなたにお話しでき、広島にきた甲斐があったというものです。・・・

 大佐古は松永勝医師から、「回顧談」というノートを見せてもらう。その中の1部を引用する。加藤氏とあるのは通訳である。

 ・・・私はハッとして助手席から後ろを振り向くと、〔ジュノー〕博士の視線は前方の兄姉以外に何もない死の町を見詰めていた。私は被爆以来、どこかに忘れてきたものを眼の前に突きつけられたような気がした。
 この人は、「残酷なカタストロフィ」と言った。カタストロフィとは、文字通り。〔破局〕である。博士は目の前に広がる惨状に〔人類の終焉〕を見ているのだ。
 確かに私たちはいま、途方もなく巨大な暴力に理性まで破壊し尽くされて、虚説と昏迷の世界に捨てられている。博士はその私たちの魂の底にまだかすかに生き続けている人間性を呼び起こし、神をも恐れぬこの悪魔の所業に鋭い怒りを燃やせと説いている。
 加藤氏も同じように感じていたのだろうか、博士への信頼を、形に表わさずにはいられないとでもいうように、氏の周辺の悲惨な被爆体験を次々と話した。

 ジュノー博士は病院、そして救護所を訪れて、患者の診察をし続ける。続けて読んでみようではないか。

 ・・・ジュノー博士は、このような患者の眼球や口腔をあらため、ピンセットを手にして傷口やケロイドを入念に診たうえ、被爆した地点を本人に尋ねた。そして、屋内で被爆し、全身にガラスの破片が突きささっているため隅の壁にすがったままの婦人を発見すると、傍に近づいて行き、やさしく声をかけた。
 「もう少し頑張るんですよ。2、3日中にいい薬がきますからね」
 私が、この方は国際赤十字社からこられたと告げると、婦人は包帯を巻いた両手を合わせて拝むような仕草をした。・・・

 私たちは知らねばならない。私たちが苦しいときに、私たちに救いの手をさしのべてくれる人こそが神であり仏であることを。だから、婦人は包帯を巻いた両手を合わせて拝んだのである。私たちをかのとき裏切った、現人神は神でもなければ人でもない。

あの広島でジュノー博士に語った都築教授の言葉を平成の世でも忘れてはならない。
 「我々は心を開かねばならない!」
 心を閉じていれば、何も見えず、悲劇だけが私たちに襲いかかってくる。その瞬間に私たちは、都築教授が、突然しわがれ声で恐ろしい言葉をはき棄てるように言ったとおりとなるのだ。
 「昨日はウサギだった・・今日は日本人だ・・」

  「松永という未知の医師から、とつぜん電話がかかってきたのは、台風の季節がようやく終わろうとしている昭和50年9月下旬の日曜日だった」と、この大佐古の本は始まっている。彼が広島カープの野球中継の放送に耳を傾けていたときである。彼は当時62歳か63歳である。この大佐古は松永という医師に出会い、人生が一変する。どうしてか。ジュノー博士に人間の荘厳さを発見したのである。人間はかくあるべきであるという姿を発見したからである。
 『ドクター・ジュノーの戦い』の中で訳者が「1978年9月16日、日本の新聞は・・」と書いている。大佐古の『ドクター・ジュノー武器なき勇者』の出版は1979年12月10日である。大佐古はこの新聞の記事を読んでいる。私は途中をほとんど全部省略したい。大佐古は、「ジュノー博士が原爆投下後の広島・長崎を救援するため、ヨーロッパ各国で救援活動を組織しようとしたところ、米軍が圧力をかけて、これを阻止した」という不可解な謎を見事に解いたのである。その場面へと読者を案内する。広島カープの放送を聴くのを愉しみとしていた男は情熱の男へと、大変貌を遂げていたのである。
 大佐古はジュノー博士の住んでいたジュネーブを訪れる。そこで、ジュノー博士の1族と会う。この場面も省略する。以下の引用はその後の場面である。

 ・・・
 時計は正午をかなり回っていた。ジュノー氏宅を出た東浦氏と私は、ビベール氏に通訳まで願ったことに厚く礼を述べたあと、4時半に再びICRC〔国際赤十字社本部〕で会うことを約束して別れた。
 約束の時刻に東浦氏と私の2人はICRCに着いた。ビベール氏はオフィスで受話器を耳にしており、甲高い婦人の事務的な声が室内に響いていた。ビベール氏は、ICRC設立以来の記録が収蔵されている地下室と話し合っているようだった。
 受話器を置くとビベール氏は言った。
 「ようやく大佐古さんの主要な2つの質問にお答えできます。古文書課には厖大な記録があり、日本人の名前や医薬品の名称にわれわれがなじめなかったりで意外に手間取りましたが・・」 氏は1枚のコピーを私に渡した。
 「これは1944年9月8日に発信し、10日に着いたものでICRCへ報告された軽井沢の駐日代表部からの現地採用雇用についての8日分給与の明細書です。お尋ねの冨野康治郎氏はこのリストに出ております。氏は遭難する1年前には、事務局長のような役職に就いていたようです、野原と言う日本人職員に次ぐ高い給与を受けています」・・・

 以下は大佐古が1989年に出した『平和の勇者ドクター・ジュノー』から引用する。前掲書と内容は変わらないが理解しやすいと思うからである。大佐古が宮島の台風で死んだと思っていたのは冨野康治郎であることを発見したのである。さて、次に大事なことが書かれている。

 ・・・
 私は、広島の空白の中に埋まっていた謎の遭難者の姿が、やっと印画紙のようなものの上にくっきり浮き出たことに満足した。

 ビベール氏は、次の新しいメモを見ながらゆっくりと言った。
 「それでは、ICRCの広島救援が実現しなかったことについて、ICRCの資料に基づいてお答えしましょう。ジュノー代表はですね、広島県や広島赤十字病院ヘICRCの救援物資を送ることを約束しました。救援物資というのは、病院を再建するプレハブのような鉄骨や窓ガラスとか医薬品、それに食糧品などのことです。彼は東京に帰ると、広島を救援することが急務だとするジュネーブヘの要請文を起草しましたが、その電報を打つことはできませんでした。★GHQがその打電を許可しなかったからです。GHQは『打電の必要はない』と言ったんです。その理由はGHQと日本政府間のリエゾン・コミッティ(連絡委員会)で、★日本側委員が『広島救援の必要はない、我々が独力でやる』と言ったからだというのです。
 ・・このことは、後日ジュノー代表から文書で報告されています。結局、ICRCへの要請電報はこなかったんです。その詳しい資料はいまあなたへ差し上げる訳にはいきませんが、以上のことが言えるのは、私どもがここにある資料から読み取ることができるからです。このような内容のドラフト(草案)は、日本を占領していたGHQが許可しないかぎり、具体化する見込のない状況下にあったのではないでしょうか」・・・


 私はこのビベール氏の言葉を重く受けとめた。「なんたることだ! これは」と思いつつ読んだ。また、あらぬ怒りが心の中でふつふつと燃えだしていた。大佐古も私以上の憤怒の心を持ってビベール氏の話す内容を聞いていたのである。以下の彼の文章にそのことが表れている。

 ・・・
 「その連絡委員会の構成や日本側委員の氏名は分かりませんか?」と私が質すと、ビベール氏は静かに答えた。
 「連絡委員会の内容は、ここでは分かりません」
 私にはその委員の推測はついた。戦争中は軍閥、財閥に迎合して戦争に協力し、敗戦後は事大主義、事なかれ主義の環境の中で、親方を日の丸から星条旗に取り変えて、被爆者の苦しみをよそにぬくぬくと生き伸びた連中だ。ジュノー博士叙勲に当たって、ことさらジュノー博士と広島の関係に目を向けまいとした政治家か外務省の役人たちに違いない。

 やはり、予想していたとおり、GHQは原爆投下後1ヵ月経ってもなお毎日のように死者が出ている広島の地獄図絵を、ICRCを通じて世界中、とくにソ連に知られることを恐れて、打電を妨害したのだ。
彼らはプレスコード(新聞準則)で日本国内の言論、報道を弾圧したばかりでなく、人道と博愛の赤十字活動まで抑圧していたのだ。・・・

  この大佐古の文章には納得しかねる箇所がある。彼は1981年に出た初版本を読んでいない。マッカーサーとジュノー博士の交流の深さを知らない。GHQはたしかに打電を妨害した。しかし、これは間違いなく、アメリカ政府の命令に応じただけである。アメリカ政府の代表は誰だか説明しないが、ファレル准将の可能性が高い。彼が日本側の誰かに、ジュノー博士の打電を取り消すように言ったのである。GHQはアメリカ政府を代表するファレル准将か、その一味のものに対し、NO! と言えなかったのである。
 次に、大佐古自らが驚くようなことが書かれている。

 ・・・

 ジュノー博士がジュネーブヘ打電しようとした広島救援要請のドラフトが、GHQの手で揉み消されたことを明らかにしたビベール氏は、さらに言葉を続けた。
「広島救援の必要がないと言ったのはリエゾン・コミッティ(連絡委員会)だけでなく、★日赤でも『そのようなものをもらっても仕様がない』と言っています。・・それは誰が言ったのかは分かりませんが」

 「えっ、なんですと・・」
 私は耳を疑った。
 GHQの言うことに迎合して事なかれ主義に終始した政府の役人はさておいて、人間を苦痛や死から守り、敵対意識のもっとも激しい戦場でも、敵も味方もなく傷病兵を同じ人間として取り扱う最高の善心の持ち主である日赤が、よもやそのようなことを言ったとは考えられない。
 「そんな馬鹿なことはないと思います。それはGHQのデッチあげでしょう。あなたはそれを事実として受け取られますか?」
 「ただ、ジュノー博士のレポートに、そのようなものがあるということをお伝えしただけです」とビベール氏は冷静に言った。

  ★「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」  <了>

  続く。 


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