カウンター 読書日記 ●原爆投下(9)
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●原爆投下(9)
 ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ●日本政府も認めた公式見解「広島・長崎に放射能なし」  


朝日新聞(1945年8月12日付)に次なる記事が出た。

 ・・・
1、8月9日午前11時頃敵大型機2機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり。
2、詳細は目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込。・・・

 この記事は「西部軍管区司令部」の発表である。西部軍管区司令部は広島の第二総軍の指示によって出したのである。彼らは、あくまでも真実を隠そうとし続けた。
 仁科芳雄は広島原爆投下後の8月6日、広島に入り、原子物理学の面からの調査をした。この件については簡単に記述した。ここでは、彼が雑誌『世界』1946年3月号)に寄稿した「原子爆弾」から、長崎について書かれた文章を引用する。

 ・・・
長崎の場合
 広島に数日間居って8月13日に飛行機で長崎に向った。長崎には半日滞在したばかりであるが、上空から見た様相は広島と同様であった。
 長崎の被害は広島と大体は似てゐるが、後述の様に両者の爆弾は異なってゐてアメリカ側の報道によると長崎の方が2、3倍強いといふことである。実際その通りで少し注意するとすぐその差が解る。例へば煙突も広島ではあまり倒れてゐないが長崎では爆心附近では残ってゐるのが少い。火災について云へば長崎では中心が少し焼けてゐるだけで広島ほど広範囲ではない。又中心附近の家や瓦の破片が、長崎の方が余程小さい。これは恐らく爆風が強かったからであろう。長崎の威力の強かったことは、瓦などの溶けてゐる範囲が、広島の場合よりも1.6倍も爆心から遠くまで及んでゐることからも判る。これ程威力が強いのに長崎で死傷者数が少なかったのは、地形の関係である。長崎は長い町で両側は丘陵であるため被害範囲が狭かった。その上爆発の中心が町の北の方に寄ってゐた結果、広島ほどの害を受けなかったのである。ただ妙なことに人の骨の放射性は長崎の方が弱い。これはどういふわけか更に検討を要することである。
 植物に対する影響も長崎の方が顕著である。これは長崎には爆心に近い植物が丘陵に沢山あって、観察に都合がよかった為でもあるが、ともかく植物学上興味ある結果を示してゐるやうである。これは妊婦に対する影響と同様に今後長期間に互る調査が必要であらう。
 爆弾投下の状況も広島と大同小異で、矢張3機のB29で北方から来てゐる。その高度もやはり9000米附近で、警戒警報解除後に来たことも広島同様である。
 爆発した点の高度は少し低く約500米で、被害半径は爆弾の強度が強いので長崎の方が大きい。・・・

 仁科芳雄が書いているように、長崎に落ちた原爆のほうが強力であった。
 しかし、アメリカ軍は、あえて長崎の中心街をはずし、北方の三菱兵器工場と日本のカトリックの総本山ともいうべき浦上地区を目標に原爆を投下した。
 私は三菱兵器工場を中心に原爆投下の原因を追求したが、後半では浦上天主堂に的を絞って、「なぜ長崎か?」を追求してみようと思う。

 長崎の原爆による死者は広島に比較して少ないとはいえる。しかし、長崎市原爆資料保存委員会は独自の検討の結果、1950年7月に、死亡者7万3884人、重軽傷者7万4909人と推計した。決して少ない数字ではない。アメリカ軍は「都市から去れ」のビラを撒いた。あえて、市街の中心地をさけて北方に落とした。それでもこの死者と被爆者の数である。私が幾度も幾度も書いてきたように、広島の投下後ただちに日本は無条件降伏すればよかったのである・・せめて・・。
 しかし、私は姉妹書の「国外篇」でこう書いた。

 「原爆は、2種類がつくられた。その1つはウラン爆弾であった。それは威力が小さかった。もう1つのプルトニウム爆弾は威力が強かった。どうしても両方を落とさないと、アメリカは、ロックフェラーとモルガンに申し訳ない事態に陥ることになる。それが、広島と長崎への原爆投下の理由であった」

 「国外篇」に書いたことが現実化された。そのためには、落とされる側の全面的協力が必要なのは自明の理である。日本人は半世紀以上すぎても、この自明の理を理解しえていないのである。第二総軍の創設も、長崎港にいた1000人ものアメリカ人の捕虜が、あの瞬間だけ姿を消すのも、すべて自明の理なのである。少し余分に書くならば、あの摩訶不思議で信じられない真珠湾攻撃も原爆を誘導するためにとられた1つの出来事と知れば、自明の理となるのである。巨大産業誕生の背景にはいつも戦争があったことを知れば、すべては納得がいくのである。
 だが、納得しえぬ条理がある。それは、日本全土が1部の都市を除き、不条理の空襲を受け、数百万人という犠牲者を出したことである。
 『米軍資料 原爆投下の経緯』の中にある「ファレル准将の覚え書き」を引用する。

・・・
長崎の予備調査は、広島の場合よりも一層驚くべき結果を示した。爆風は遥かに強力であった。半径2000フィート(600m)以内の重構造の工業建築物、ガスタンク、多くの鉄筋コンクリートの建造物の破壊は遙かに強い力が働いたことを示していた。爆風と火による大製鋼所の破壊、爆風のみによる魚雷工場の破壊は、爆発時に巨大なエネルギーが放出されたことの著しい証拠であった。全ての場合に、鉄骨や建物は爆発点から反対側に押しやられていた。労働者の住居がずっと遠くまで破壊されていることは、爆風のエネルギーが広島の2倍あったことを示した。・・・

 この「ファレル准将の覚え書き」には、とても言じられないことが書かれている。その部分だけを列記する。

・・・日本の公式報告は、爆発後に外部から爆心地に入った者で発病した者はいないと述べている。
 予備調査の日以来、われわれの医学的および科学的要員は、放射能に関して長崎につき詳細な検討をした。そしてこの地域内のどこにも測定可能な放射能を見出さなかった。・・・

 このファレル准将の報告書のこの2点が中心となり、アメリカは広島と長崎に残留放射能はなく、原爆投下以降の死者と放射能汚染は無関係とする立場を取るようになる。次章では、このファレル報告書がもたらした点に触れる。ファレルの報告書の中には次なる1文が入っている。

・・・
ロバート・R・ファーマン少佐は、原子関係の分野における日本人の知識、活動および資源に関する情報の収集を担当した班の長であった。私が日本を離れた時点で、彼の調査は進捗し、日本人が原子の分野では僅かな進歩をしたかあるいは全然進歩しなかったこと、また彼らの資源は、鉱石およびその他の物質において、極端に微々たるものであったことを結論するに充分であった。・・・

 この文章は日本の原爆製造の調査報告書ともいうべきものである。ファレルたちは日本の原爆製造にいたる過程も調査した。その結論のみがここに書かれている。私が書いたように、日本の原爆製造でアメリカ側に役に立った情報は、理論物理学者湯川秀樹の「核分裂によるエネルギーの計算」のみであった。だから湯川秀樹はシカゴ大学のコンプトン研究所のために尽力したのである。

 長崎原爆で忘れてならないのは、長崎医科大学の潰滅である。長崎医科大学は戦前、西日本唯一の総合医科大学であった。
 かつて長崎大学教授を務めた小路俊彦は『長崎医科大学潰滅の日』(1995年)の中で次のように書いている。

 ・・・
 基礎キャンパスの惨劇
 出席学生全員死亡の5教室
生理学講堂では清原寛一教授(長崎医大卒、40歳)により学部1年生に講義が行われていた。講義が始まって間もなくB29らしい大型機の異常に高い爆音に引き続いて「ピカッ」と眼もくらむ閃光が教室内を走った。つぎの瞬間すさまじい爆風とともに木造の講堂は一瞬にして倒壊、さらに熱線のため炎を上げて燃え出した。何か起こったかも分からぬまま多数の学生は圧死か熱線による火災で焼死した。後に判明したところでは33名の学生は倒壊炎上する教室から何とか説出していた。もちろんガラス破片創、打撲傷、骨折、熱傷(以下火傷と表現する)を受けた重傷者が大部分だが、なかには傷1つなく、途中で拾った自転車に乗って下宿に帰りついた学生もいた。
 しかし、1の矢の爆風、2の矢の火傷を逃れた幸運な学生たちには、急性放射線障害(以下急性原爆症と略す)というとどめの3の矢が待ちかまえていた。33名中21名は、被爆後1週目の16日までに死亡しているが、その症状は汗の出ない高熱、嘔吐、下痢、血便、のどや舌の腫れ、紫斑、急激な衰弱、意識混濁などである。なかには最後まで意識がはっきりしており、母や家族の名前を繰り返し呼んで息絶えた者もいたという。

 結局33名全員が死亡したが、死亡日時不明の8名を除きすべて被爆後2週間以内であった。当日、生理学講義出席者数は記録も焼失して不明だが、生存者の届出はなく、原爆死亡73名の数字がそのまま出席者数とみなされる。すなわち死亡率は100パーセントである。・・・

 この基礎キャンパスは4教室あり、410名の生徒が講義を受けていた。その生徒全員が被爆死したのである。これを見ても、この原爆のすごさが理解できよう。
 この本に「遺族の手記から」が載っている。その中に、土橋弘基(医専1年生)の父、土橋清英の手記の1部を引用する。

 ・・・
 やっと学校裏手の丘で、神の慈悲により、弘基の哀れな姿に遭遇することが出来ました。眼鏡も帽子もありません。ただ破れたボロボロの被服をまとっているのみです。歩行も不自由な程衰弱していましたから、援護して10日後、愛宕町の自宅に収容する事が出来ました。
 本人の話によれば、階段教室で授業中、原爆の閃光と同時に建物が潰れ、全員がその下敷となって、一瞬その場は阿鼻叫喚の修羅場と化し、断末魔の唸り声が聞こえた。けれどもその後は人事不省に陥り、一切記憶はない。夕刻近く覚醒したので、全力をふり絞って頭上の障害物を押しのけ、同僚4人が脱出に成功した。しかし一帯は火の海で帰宅することも叶わず、すでに日没後で山伝いに帰ることも出来ないので、止むなく4人で裏山で1夜を明かすことにした。非常な渇きを覚え、空腹を訴えたが、勿論給水も食糧もなく、仕方なく附近の畑にあった南瓜を生食して、飢を凌いだといっておりました。
 自宅では家族全員で看護に努めましたが、原爆症でしょうか、飲食物は嘔吐を催して受け付けません。日々衰弱の一途をたどり、1週間目の8月16日、家族の見守る中に永眠教しました。
 本人は中学卒業後文科系に進むことを志望していましたが、医学は長崎が発祥の地であり、医科に入学すれば自宅から通学も出来て安心だからと私が勧めた所、親思いの素直な弘基は私の意見を受入れて、長崎医専に入学した次第であります。文科系に進んでいれば原爆死を免れていたのに、私がそれを拒否して医科にやったばかりに死んだのです。弘基は私が殺したようなもので、誠に申訳ないと思い、毎月16日(死亡の日)には必ず香を焚き灯明を点じて謝罪を続けています。この精神的悩みは、私の生ある限り、永く尾を曳き続けることでありましょう。(昭和43年4月『忘れな草』第1号より)・・・


 広島の瀬戸奈々子さんの死とはまた異なる土橋弘基さんの死である。しかし、この死には1つの確実な共通点が存在する。それは国家の殺人による死という点である。土橋弘基さんが講義を受けていた頃、アメリカの捕虜1000名たちは何処かで「神隠し」されていたのである。彼らアメリカ人を救うために数万単位で長崎の人々は、一瞬のうちに、そして後遺症で死んでいったのである。この原爆投下を受け入れて「原爆殺し」を行った連中すべてが戦争終結後に生き延びて、権力と富を独占していくのである。

「弘基さんのお父さん、あなたが弘基さんを殺したのではありません。あなたの、親思いの素直な弘基さんは、『原爆殺し』を仕掛けたアメリカと、『原爆殺し』を受け入れた日本の国家によって殺されたのです」   


  2008年2月20日、私は小路俊彦氏(長崎医大名誉教授)に会った。外国人の捕虜について尋ねた。「私は全く知りません。長崎に外人の捕虜がそんなにいて、被爆したり、死んだのですか」と唖然としていた。長崎でも語られない物語となっているのだ。
 『ナガサキ昭和20年夏』をもう1度引用したい。ジョージ・ウェラーは次のように書いている(日付はない。しかし1945年9月のある日である)。

 ・・・
 広島で助かった医師が次のように話してくれた。
「主たる影響は血流に表れるようです。赤血球と白血球が死ぬと言われていますが、私たちはそうは思いません。死んでしまうのは血小板なのです。血小板って分かりますか?」。
私は知らなかった。「血小板は血流の3番目に重要な成分で、血液を凝固させる作用をします。あそこの男の人を見てください」そう言って紙のように青白い顔をし、壁にもたれているやせた人物を指さした。必死な様子の親族がひざまずいて彼を囲んでいる。「あの人はすでに結核を病んでいて、少し喀血していました。爆心地から400メートルほどのところで被爆し、倒れましたが見かけではけがした様子はありません。ですが、被爆数日後から咳がひどくなり、喀血もひどくなったのです。調べたところ、血小板が死滅していました」。
「何とかできないのですか?」と尋ねると、医師は自分の力不足を謝るように目を伏せ、「何も」と答えた。
 長崎で私が得た最も価値ある知識は、心臓、肺、腎臓、肝臓、胃、各臓器に対する放射線の影響の注意深い分析結果だった。すべての場合において多少の損傷が見られたが、多くの場合、ほとんど原形を保っているのに、患者は取るに足りないかすり傷からの出血が止まらずに死んでいる。・・・

 それから月日が流れるにつれ、彼らの多くが死んでいった。
 泰山弘道は『長崎原爆の記録』の中で、「見よ、この長崎原爆が与えた凄惨さを」のタイトルのもと、患者の写真つきで、死者のことを書きつらねている。まさに地獄絵図さながらである。写真は泰山弘道が自ら撮影したものである。その1例を記す。

 ・・・
 女性(48歳)
 職業 農業
 傷病名 全身爆傷兼破傷風
 8月9日収容す。顔面、前胸部、右肩胛部、左側胸部、右前膊、左右下肢全面は糜爛す。リバノール湿布を行った。
 8月18日に至り破傷風の症状が現れたから、破傷風血清20回を脊髄腔内に注射したが、8月19日午後11時15分重症に陥り、8月20日午前零時15分遂に死亡した。・・・

 私は「ファレル准将の覚え書き」の中の「放射能に関して長崎につき詳細な検討をした。そしてこの地域内のどこにも測定可能な放射能を見出さなかった」という文書の1部を記載した(198頁参照)。しかし、長崎の放射能被害は甚大であった。
 広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ』(1985年)に長崎について次のように書かれている。



 ・・・原子爆弾の爆発によって生じるアイソトープは約200種類に達し、その大部分は放射性である。長崎西山地区の土壌の分析の結果、ストロンチウム89(半減期52.7日)、バリウム140(半減期17.3日)、ジルコニウム95(半減期65.5日)、ストロンチウム90(半減期27.7年)、セシウム137(半減期30年)、セリウム144(半減期285日)が検出されている。このほか核分裂をまぬがれたプルトニウム239も見出された。・・・

 これは1945年10月3日から7日にかけて実施された調査の結果である。ファレル准将は「広島と長崎に測定可能な放射能なし」と、GHQのマッカーサー司令官とトルーマン大統領に報告書を提出する。日本政府は、このファレル文書を認めるのである。それは、「広島と長崎には原爆患者はいない」との宣言を日本政府がしたことを意味する。スイスの国際赤十字が原爆患者に薬を与えようとするのを★日本赤十字社が拒否するのである。私は次章でこの顛末を書き、彼らを、原爆患者に薬を与えるなと拒否した連中に、たった1人で天誅を下す。


  ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ   <了> 


 ****************

  ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★原爆はどのように報道されたのか  


 日本政府は敗戦(「終戦」ではない)の8月15日まで「原子爆弾」という言葉を用いず、その使用さえ禁止していた。しかし、9日のソ連参戦の後の御前会議で、天皇の裁断で、条件つき(天皇制は護持されるとの条件)でポツダム宣言を受諾した。この間に広島と長崎に原爆は投下されていた。
 日本政府は不思議な行動をとる。スイス、スウェーデン両政府を通じてポツダム宣言を受諾する一方で、スイス政府を通じ、原爆使用は国際法違反であるとする米国政府宛て抗議文を提出、同様の趣旨を赤十字国際委員会にも伝えた。この赤十字国際委員会にアメリカの原爆を非難する抗議文を提出したことが、後に大きな問題となる。

 1945年9月3日、広島にニューヨーク・タイムズなどのアメリカ従軍記者が入った。そして、この米従軍記者団は広島記者団との1問1答に応じている。「・・われわれはヨーロッパ、太平洋の各戦線を従軍したが、都市の被害は広島がもっとも甚大だった」と語っている。
『ナガサキ昭和20年夏』を書いたジョージ・ウェラーは、この広島を視察する記者団には加わらず、密かに鹿児島の鹿屋に入り、そこから汽車を乗り継いで長崎に入る。彼は同書「第1部」の「長崎に1番乗りして(1966年回想)」の中で次のように書いている。

 ・・・「長崎」という文字を目にすると、いつも脳裏に、1945年9月6日のあの街の光景がよみがえる。この日、私は終戦後外部からやってきた最初の欧米市民として長崎市に入った。私以外の報道記者で、当局の指令をかいくぐって広島や長崎に入りこんだ者はまだ誰もいなかった。原子爆弾の効果については、3日のあいだに落とした2発で戦争を終結させた、という圧倒的な事実しか分かっておらず、地上における原子爆弾の威力はどんなものかみんなが知りたがっていた。
 なにしろ、やっとのことでマッカーサー司令部の検閲官、広報係将校、MPの監視の目を逃れたのだ。当時マッカーサーは日本の西部全域について報道陣の立ち入りを禁止していたので、長崎にもぐりこむときには、第2のペリー提督になったような気がしたものだ。自分がいること自体が禁じられている土地、いまや天皇とマッカーサーという、絶大な力を持った2人のミカドのいる土地である。・・・

 この引用文には「訳注」として「著者が長崎入りした時点では旧帝国憲法下の体制は生きていた」と付け加えられている。私は訳者の文章の意味がわからない。旧帝国憲法が新憲法下になろうとも、間違いなく2人のミカドが日本を支配していたのである。
 この『ナガサキ昭和20年夏』の「第7部」は「ウェラー特派員報告の背景 ジョージ・ウェラーの子息、アンソニーの回想(2005年)」である。この中で子息アンソニーは、父ジョージ・ウェラーを回想している。

 ・・・それから20年後、1984年、77歳のとき、ウェラーは次のように書いている。
「『最後の審判の日』のように彼〔マッカーサー〕の怒りが私の上に落ちた。私はすでに、ヤルタ協定はアメリカの恥辱だとした記事を通そうと試みたことがあった。だが長崎のほうがそれよりももっと激しかった・・マッカーサーは4年にわたる『彼の戦い』が、自分の知らないところで計画され、自分の命令なしに投下された2発の爆弾でけりがついてしまった、という事実をねたんでいた。このため、彼は一般市民に対する放射能の影響という人類の得た大切な教訓を、歴史から消し去るか、少なくとも検閲で可能なかぎりうやむやにすることに、最大限努力する決意でいたのだ」・・・

 また、アンソニーは次のようにも書いている。「彼〔マッカーサー〕のまわりには非常に有能なスペシャリストで、しっかりと指令されることをひたすら求めるものと、ごますり、とくに彼の行う検閲と闘うことをあきらめた取材記者が集まった。どのような将軍も彼以上のものを欲するものだが、マッカーサーとほかの将軍との違いは、彼はほしいものを得るために、ためらわず窓ガラスを割った点だった」

 私はW・L・ローレンスの『Oの暁』を姉妹書「国外篇」で紹介した。彼は長崎爆撃のときには、その原爆投下機に同乗し、記事まで書いている。しかし、ここでは一切引用しない。ただ、彼が本の最終部で、原爆讃歌をしているので記すことにする。

・・・結局は、原子力というこの広大な新しい大陸を開発したのは、アメリカの人民である。運命は今まで固く監禁されていた。「宇宙の戸棚」の鍵も、われわれに与えることによって、その責任をわが人民の上においた。そしてアメリカ人民はこの責任に対して誠実を守らなければならないし、またその誠実を守るであろう。われわれは、この大陸をわれわれ自身のために、また全人類のために、潤達な新しい理想郷にまで開発し耕して、かつて見られなかった富裕な健康な、そして幸福な新しい世界をもたらさなければならない。
 しかし、時刻はなお、九時十五分(広島爆撃のとき)であり、なお十二時OT分(長崎原爆のとき)である。もはや日本時間ではない。世界時間である。文明世界の九時十五分である。歴史の砂時計の十二時OT分である。
 私は、このニューヨーク・タイムズの記者で国際金融寡頭勢力の回し者ローレンスの文章を読みつつ、湯川秀樹が、彼ら勢力の金をふんだんに使い、京都会議を主催し、世界連邦思想を広めようとした意味を理解した。
 原爆を日本時間の中でなく、世界時間の、否、歴史の中に位置づけようとするバグウォッシュの会議の意味を理解した。
 1945年9月3日、W・H・ローレンス(W・L・ローレンスとは別人)が従軍記者団を引率してきた。従軍記者たちは、広島にほんの数時間いただけだった。

 9月12日、ニューヨーク・タイムズに、W・H・ローレンスは記事を書いた。広島と長崎は、「文明における新時代発祥の地」となったのである。この〔発祥の地〕をもとにして、恐怖を一方で煽ったのが、湯川秀樹、バートランド・ラッセル、アルバート・アインシュタインらの世界統一連邦政府構想である。
 トルーマン大統領は、新聞・雑誌・放送関係のすべての編集者に対して「内々」の書簡を送った。「原子爆弾の、実戦に関する情報はいかなるものであれ、陸軍省が特別に認めたもの以外は秘密にすべきである-」
 しかし、従軍記者の中でも、ジョージ・ウェラーのように、アメリカ政府の方針に逆らう者がいた。ウェラー同様に逆らった記者の1人がロンドン・エクスプレスの極東通信員ウィルフレッド・バーチェットであった。9月3日、W・H・ローレンス1行が数日間の広島での形ばかりの視察を終えた後、バーチェットは、同盟通信社の長谷川才次外信局長からの連絡を受けた広島支局の中村敏と歌橋淑郎の両記者、それに通訳の伊藤朝子の3人とともに広島を取材した。
 以下は、今堀誠二の『原水爆時代』(1959年)からの引用である。

 ・・・
バーチェットは広島から東京に帰ってから、帝国ホテルでアメリカ占領軍の原爆調査関係者の会議に出席した。
「会議は終りにちかづいていた。しかし、その会議が広島からの私の電報  -原爆の後障害で人びとは死んでいったという-を否定することが主目標であったことはあきらかであった。准将の服装をした科学者が、原爆放射線-私が説明した症状を呈する-の問題はありえない。なぜなら、爆弾は、『残留放射線』の危険をとりのぞくために、相当の高度で爆発させられたからだと説明した」
 なお「准将の服装をした科学者」とはマンハッタン管区調査団長の1人であるトーマス・F・ファーレル准将である。この会議でファーレル准将はバーチェツトが広島で見聞した原爆放射線の後障害をことごとく否定した。「スポークスマンは顔を青くして『君は日本の宣伝の犠牲になったのではないのかね』といって、腰をおろした。おきまりの『サンキュー』で会議は散会となった」とバーチェツトは記している。・・・

 ファレル准将は広島から東京に帰ったときの記者会見でも、残留放射能の存在をすべて否定した。私がたびたび引用した「ファレル准将覚え書き」がグローブス将軍に届けられ、この「覚え書き」がアメリカ政府の公式見解となっていくのである。
 国際金融寡頭勢力の回し者、W・L・ローレンスは9月12日付の、ニューヨーク・タイムズに次なる記事を書いた。

 ・・・
この地球上で最初の原爆爆発の現場であり、新時代の文明の揺藍の地である、ニューメキシコの歴史的実験場は、8月9日の爆発以後も人が死んでいくのは放射能のせいであり、広島に入った人たちは残留放射能のために新しい病気にかかっているとの日本の宣伝に対する効果的返答を与えた。こうした言い分は誤りであると反駁するために、軍はかたく閉ざされていたこの地域をはじめて新聞記者や写真家に開き、記者らは自分自身の目で放射線技師の1団が持ってきた放射線測定器のメーターを読み、原爆計画と深くかかわっている指導的科学者から専門的証言をきいた。・・・

こうしたなかで、9月19日にプレス・コード(言論及び新聞の自由に関する覚書)が出てくる。

 このコードの第3項は「公表されざる連合国軍隊の動静および連合国に対する虚偽の批判または破壊的批判および流言は取り締まるものとす」である。原爆に関する情報は一切報道してはならないということになっていく。

  それはGHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーによる指令であり、なによりもトルーマン大統領の指令であった。スティムソン陸軍長官の意向がこの背後に見えてくる。この広島・長崎に原爆を投下することにより、原爆産業を拡大しようとしていたロックフェラー、モルガン、そして国際金融寡頭勢力にとって、放射能汚染による破爆者たちの死が存在するということは、あってはならなかったのである。彼らはアメリカ政府を動かし、マッカーサーを動かし、ついには日本政府と日本の言論機開への口封じに入るのである。
 この結果は悲惨という言葉以外にないものを生み出していく。国家が「原爆患者は存在しない」と発表するのである。原爆による放射能汚染は広島と長崎には存在せず、従って原爆患者は存在しないから、海外からの患者への薬は要りません、と発表するのである。
 あの広島と長崎で、家を焼かれ、食べるべきものもなく、ましてや薬さえないときに、日本という国家は、彼らを★見殺しにするのである。私は次項でこの国家の犯罪を描き、半世紀以上たった今日において、この国家を殺人罪で告発する。


 ★近くはエイズ薬害訴訟で私(ブロガー)はいやというほど「再現劇」をみせつけられることになった。厚生省(当時)の責任者(郡司)と被害者(川田龍平氏)の対談(ETⅤ特集だったと思う、今ビデオを捜している)ほどグロテスクなものはなかった。対談で郡司は「天皇の戯画」を演じきった。
 これについては、ビデオを再見して後、詳述します。

 ・・・↑と書いたが番組は1999年7月4日放送の「NHKスペシャル」でした。


 長崎の医師・秋月辰一郎が『死の同心円』で書いた文章を再び引用し、告発の理由とする。

・・・
やがて、私はぽつりといった。
 爆弾で、財産も家族も失った君たちに、いま、国家もなくなったのだ。
 ・・・

 国家がなくなってもよい。しかし、なくなったはずの国家が、原爆を落としたアメリカの手先となって、財産も失った者たちに、国際赤十字社が提供しようという薬を、与えないで下さい、という権利があるというのか。
 私がたった1人で、汚れちまった、かの時の、あの天皇を天にいただく国家を告発する理由がここにある。

  ★原爆はどのように報道されたのか   <了>

  続く。 


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