カウンター 読書日記 ●原爆投下(8)
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●原爆投下(8)
 ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ★「県庁員幹部二死傷ナシ」は何を意味するか  


 私は『米軍 原爆投下の経緯』の中に出ている「ファレル准将の覚え書き」の中の「宣伝活動」について記述した(「第3章」 133頁参照)。その「宣伝活動」の中に「原子爆弾の記事と写真を載せた日本語新聞のコピーは50万枚を撒布すること」とあるのを書いた。この中に「ラジオ・サイパン(OWI)からは規則正しい間隔で宣伝放送をすることとも書かれていた」とも書いた。この2点は長崎での証言では、私の知る範囲ではなかった。私の勉強不足である。しかし、「人口10万人〔以上〕の日本の47都市に、9日間にわたって1600万枚のリーフレットを投下すること。これらの都市は全人口の40%以上を占めている」というのを知ることができた。
 家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編『日本の原爆記録1』(1991年)の中に、「長崎22人の原爆体験記録」がある。
 以下はその中に収められているものである。

 ・・・あの日あの時 旧三菱兵器製作所・太田実
 7日の新聞は、「広島に新型爆弾を米軍が落した」と簡単に書いていた。
 其の頃、長崎の上空には、毎日午前9時頃大きな風船が飛んでいたが、風の方向を調べる為に飛ばしていると言う事は知っていた。
 日本軍かと思っていたが、新型爆弾に関係があるのではないかと思っていると、7日の15時頃、米軍機がビラをまいて、「皆さん、我が軍は昨6日広島に原子爆弾を落しました。それで、皆さんの親、子、兄、妹、知人など20万人近くもけがをされました。この爆弾は1発でこれだけの力があります。この爆弾が落ちたところは、70年間は草も木も生えません。上空で爆発するので其の力は、直径20キロメートルもあります。皆さん、この次は★8日に長崎に落とす予定です。皆さん今ならばまだ間に合いますから早く戦争を止めるように言って下さい」というようなビラを落してゆきました。・・・

 「翌8日には、原子爆弾は落されず、9日ほっとした気持でいる内に・・」と太田実は、爆心地での惨状を描いている。アメリカ軍はたしかに長崎への原爆投下を予告していた。しかし、日本政府は、広島の原爆投下の報道を厳禁した。太田実の「広島に新型爆弾を米軍が落した」程度のものであった。「ファレル准将の覚え書き」にあるようにラジオ・サイパンからも放送が続けられていた。第二総軍が長崎の軍司令部にこのことを伝えた記録もない。ただ、大本営が8月7日15時30分に次のように発表している。

一、昨6日、広島市はB29少数機の攻撃により、相当数の被害を生じたり。
二、敵は、右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり。

 この程度の発表なのである。
 私は広島の被害は人工的なものであると書いた。その中心にいたのが第二総軍であると書いた。長崎には第二総軍の下に長崎要塞司令部があり、谷本陸軍中将以下、豊島参謀(少佐)、民防主任金子中尉、その他下士官、兵などがたむろしていた。この他に連隊区司令部があり、司令官は松浦少将であった。憲兵隊司令部もあった。隊長は弥富大尉であった。
 彼らが長崎市民に情報を与えたかを私は調査をした。しかし、彼らは知っていながら(知らないとは言わせない)、長崎市民に何1つ情報を与えていないのを却って、私はやっぱりそうか、と思った。彼らのトップは、市民に何1つ原爆投下の情報を与えるなと、第二総軍からの厳命を受けていたのである。
 その証拠の1つがある。前記と同じ、「長崎22人の原爆体験記録」の中の「その日の新聞記者」がその証しとなろう。

「その日の新聞記者」の中で中尾幸治は8月8日の夜に、軍の幹部から、官僚とともに新聞記者として宴会に招かれる。そこでK大尉から説明を受ける。中尾幸治は次のように書いている。

 ・・・その夜、K大尉は「いまついた大本営からの秘密情報」として、この爆弾を「原子爆弾」と説明した。不幸にして化学的に無知である私には、「原子」という語は知っていても、「原子爆弾」という語は初耳だった。そこで、この日本語のいたずらを指摘して、電報受付者のあやまりであり、これは「原子力利用の新兵器」であると主張したが、工学士のK大尉はこれを一蹴して、あくまでも、原子以外の「新化学分子」の発足(ママ)だといきまき、かつは恐怖の情ありありと苦悶した。・・・

 長崎に原爆が落ちるから逃げろ、とアメリカ軍は予告し続ける。日本の天皇がいる大本営は秘密情報としてほんの少数の軍人のみに知らせ、市民たちを無知のままにおく。★私はこれを「原爆殺し」というのである。長崎市民は死なずにすんだのである。
8月8日の夜、宴会の場をもうけたのは、8月5日の夜の広島・偕行社での宴会ともかさなってくる。彼ら軍の幹部は、秘かに、彼らに逃げろ! と言っているのである。官僚や記者たちに恩を売っているのである。
 中屋(尾)幸治は反省をこめて次のように書いている。

 ・・・しかし、新聞は、いずれかの1紙を見れば事足りた。なぜなら、各紙とも大本営報道部提供のニュースで全紙面を埋めているのに過ぎなかったからだ。そしてそのニュースとは、支配者たちが如何にして国民を瞞着(まんちゃく)させるかに苦心した、ねつ造のそれであった。また、それを報道する面にのみ止まらず、これを編集する面においても、支配者の圧力がひどかった-私の例においても-・・・

 私が書いてきたことを、中尾幸治は見事に裏付けてくれている。「支配者たちが如何にして国民を瞞着させるかに苦心した、ねつ造」の最大の虚構が原爆の投下だったのである。「大本営報道部の提供のニュース」には日本の降伏のときまで、何1つ原爆は出てこない。支配者たちは全て知りつくしていたのに、である。支配者たちとは、明確に表現するならば、皇居の地下室に集合していた天皇裕仁とその子分たる参謀たちのことである。彼らはアメリカと密謀していたのである。どうしてそれが分かるのか? それは、戦後、彼らは、彼らのために動いたヨハンセン・グループ、キリスト教のクエーカー・グループとともに東京裁判で、1部の例外を除き、皆が無罪となるからである。

 長崎原爆もまた、広島原爆と同じように、第二総軍の総指揮の下に原爆が落とされたのである。原爆投下のニュースが完全に封殺されただけではない。軍と県が一致して原爆投下を推進していた姿が見えるのである。
 戸田秀『ドキュメント被爆記者』(2001年)を見ることにしよう。

 ・・・当時、長崎県庁では、空襲警報が発令されると知事を本部長、警察部長を副本部長、警察部各課長及び衛生課長を参謀とする「長崎県防衛本部」が組織されることになっていた。この本部は、立山町の旧武徳殿下の山腹に掘られた立派な横穴壕に設けられており、市内の新聞記者たちは、あずき色に緑のラシャを縫いつけた派手な「防衛本部付報道班員」の腕章を付けて、横穴壕の1室に集まりそれぞれ情報の収集に当たっていた。・・・

 では、長崎原爆投下前日の様子を同書に見てみよう。文中の「支局」とは同盟通信社の長崎支局である。

 ・・・翌8日、長崎要塞司令部からの軍用電話で、広島の新型爆弾に関する情報が支局へ入ってきた。
 1、新型爆弾は落下傘をつけており、地上5~6百メートルの上空で一大閃光を放ちさく裂する。
 1、熱線のため露出した人間の皮膚はビランし、木造建築物は粉砕される。
 1、戦訓としては、白色の着衣を着た場合火傷が少ない。横穴壕を至急増築すること。
 これらの予想外の内容に、いまさらのように通信社の記者たちはみな驚いていた。
 午後になると、県の溝越防空課長から、
 「明9日午前11時、防空課長室に集まってもらいたい」
 という電話が入ってきた。新型爆弾に対する戦訓を広く発表したいと言うのである。しかし、佐原たち支局員が一番不審に思ったのは、通信社の方で独自の情報が入らないことであった。・・・

「明9日午前11時、防空課長室に集まってもらいたい」に注目してほしい。この数分後に原爆が落ちるからだ。これは偶然ではありえない。
 松野秀雄の『あの日のナガサキ』(1985年)には次のように書かれている。

 ・・・中山記者は、防空壕の入り口に立っていた歩哨に同盟通言記者であることを告げ、防空壕の奥深く入って行った。防空壕は諏訪神社の森に向かって横穴を3本掘り、中をつないでいた。つまり、入り口が3つあるE字型になっており、知事室、参謀室、防衛本部室、同盟通信の無線室(同無線は原爆のため一般通信網が壊滅したあと、重要な情報源となったので後で詳しく説明する)、電話交換室などがあり、80人ぐらい収容できた。・・・

 松野秀雄(当時同盟通信社南京支局勤務)はこの本の中で、9日11時に以下の主たる人々が防空課長室にいたと明記している。

 非戦闘員総退去対策会議 永野若松(県知事)
 警察部防空課長 溝越源四郎
 特高課長 中村博正
 県内政部教学長 藤本藤治郎
 佐世保市長 小浦純平

 これらのメンバーは原爆投下のことを話したことは間違いのない事実である。それは、原爆投下寸前に、放送局が、このニュースを流しているからである。
 『ドキュメント被爆記者』から再度引用する。

 ・・・爆弾が爆発した瞬間、見通しが悪くなり、市内の電話線を始めとする一切の通信網は切断されていた。もとより電灯線も切れていたのである。
 これは後になって分かったことであるが、この新型爆弾投下の前に、放送局のマイクで「長崎市民の皆さん、退避、退避、総退避」と叫んだそうであるが、この放送を何人の長崎市民が聞いたのであろうか。また、たとえ聞いたとしても、この放送は時間的にみて全然効果のない放送だった。
 ラジオの叫ぶ。〔総退避〕を聞いた時、爆心他の人々は強烈な爆風と数千度と言われる熱線に身を焼かれていたのである。・・・

 知事、陸軍、警察、特高も原爆投下の日時を正確に知っていたのである。しかし、これを発表する勇気を持たなかったのである。
 次に、長崎の証言の会編『地球ガ裸ニナッタ』(1991年)の中に記載されている「防空情報及空襲被害状況」を記すことにする。
 この中に、長崎県知事・永野若松が防空総本部長官、九州地区総監、西部軍事管区参謀長に宛てた文書が載っている。

 ・・・昭和20年8月9日 第1報
 1、本日1053、敵B29 2機ハ熊本県天草方面ヨリ北進シ、島原半島西部橘湾ヲ経テ長崎上空二侵入。1102頃、落下傘附新型爆弾2個ヲ投下セリ。
 2、右爆弾ハ広島市ヲ攻撃セルモノヨリ小型ト認メラレ、負傷者相当アル見込ナルモ広島ノ被害二比較シ被害極メテ軽微ニシテ死者並二家屋ノ倒壊ハ僅少ナリ。
 追而 県庁員幹部二死傷ナシ ・・・

 長崎県知事が宛てた第1報の受取人はすべて、第二総軍司令官・畑元帥の部下であった。かくて、広島同様、長崎の原爆投下もスティムソン陸軍長官のスケジュール通りに大成功に終わった。なお、「追而」の中の「県庁員幹部二死傷ナシ」について触れておく。県庁舎は全焼した。多くの県庁員が火炎地獄の中で死んでいった。永野若松知事は幹部県庁員のみを救ったのであった。
 泰山弘道の『完全版長崎原爆の記録』(2007年)を紹介したい。泰山弘道は長崎に原爆が落ちた当時、大村海軍病院の院長であった。彼の遣稿が没後50年にして出版された。・・・

 かくて鎮守府から来た書類や本院から提出する書類を閲覧して指定の処に捺印しては金網かごに納めていたが、その書類の中に〔敵は広島爆撃に際し特殊の新爆弾を用いた、その威力大なるものがある、今後もこの種兵器を使用するかもしれないから警戒せよ〕とあった。私はこの特殊爆弾が原子爆弾であると想像しながら書類を読み続けていると、午前11時を柱時計が告げて間もない時刻に、左側の摺硝石がピカッと光ったと思う瞬間に、院長室から玄関に下る階段の窓ガラスが破れてカランカランと音を立てた。私は原子爆弾だと直感して、いきなり「空襲、総員待避」と怒鳴るように命令を下した。・・・

 長崎市と隣接する大村のこの海軍病院に原爆被爆者が続々と運び込まれてくる。泰山弘道は次のように書いている。

 ・・・担架にて収容せられたる患者は顔面黒こげとなり、1部表皮が剥離して、赤い血の滲む皮下組織を露出し、頭髪は褐色に焼け縮れ、着衣は1人残らず裂け散り、焦げて地色などは識別すべくもなく、男女の性別すら外観上では全く識別不可能なほどの惨状を呈し、何を尋ねても応答なく、呻吟する力もなく、わずかに呼吸するのみである。〔中略〕
 見るに、誰1人履き物を穿いた者はいない。男女とも着衣は残らず引き裂かれボロボロとなり、殊に上半身は裸出し、何か背の方に薄き布片がぶら下がりているのを見ると、これが人間の皮膚である。屠牛場において牛の革を剥ぎかけたものを見る如く皮下組織が露出しているのに、負傷者は元気に歩を進めるのである。これを見た上級の軍医が大したことはないと云うから、私はこのあとに来る障害はまだ判らないから丁寧にいたわり、治療するよう説明した。
 この時の混雑や惨憺たる光景は、地獄か修羅場の絵巻物そのものであった。・・・

 「このあとに来る障害はまだ判らない」と泰山弘道が上級の軍医に言ったとおり、多くの被爆音が放射能汚染により、バッタバッタと死んでいくのである。この本の中に、守衛長が病院の庭で拾ってきた、アメリカ飛行機より撒かれたビラが載っている。その全文を記すことにする。

 ・・・
 即刻都市より退避せよ
 日本国民に告ぐ!
 このビラに書いてあることを注意して読みなさい。米国は今や何人もなし得なかった極めて強力な爆薬を発明するに至った。今回発明せられた原子爆弾は只その1発を以てしても優にあの巨大なB-29 2千機が1回に搭載し得た爆弾に匹敵する。この恐るべき事実は諸君がよく考えなければならないことであり我等は誓ってこのことが絶対事実であることを保証するものである。
 我等は今や日本々土に対して此の武器を使用し始めた。若し諸君が尚疑があるならばこの原子爆弾が唯1箇広島に投下された際如何なる状態を惹起したか調べて御覧なさい。
 この無益な戦争を長引かせている軍事上の凡ゆる原動力を此の爆弾を以て破壊する前に、我等は諸君が此の戦争を止めるよう陛下に請願することを望む。
 米国大統領は曩(さき)に名誉ある降伏に関する13ヶ条の概略を諸君に述べた。この条項を承諾しより良い平和を愛好する新日本の建設を開始するよう我らは慫慂するものである。諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。然らざれば我等は断平この爆弾並びに其の他凡ゆる優秀な武器を使用し戦争を迅速且強力に終結せしめるであろう。
 〔即刻都市より退避せよ!〕
 ・・・

 このビラをもし、天皇の大本営が新聞紙上に出す許可を与えていれば、どこの都市に原爆を投下しようとその被害は最小限にくい止められたであろう。天皇の大本営はこのビラを軍隊、警察、特高、憲兵をフルに稼動させて回収した。そして「アメリカのデマにだまされるな。デマを吹く奴は留置所にぶちこむぞ」と嚇したのである。しかし、少数の人々は、退避したにちがいない。
 かの時の皇室、かの時の政府、かの時の軍隊は国民の味方にあらずして、アメリカの味方であったのだ。


 ***************

  ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ★アメリカ人捕虜だけがどこかへ消えた  


 長崎市内の医師・秋月辰一郎は『死の同心円』(1972年)の中で次のように書いている。

・・・「国破れて山河あり 城春にして草木深し」
 かつて古人はこう詠んだが、詩情を感じる余裕はなかった。国破れて瓦礫残り、幾万の人々が焼けただれて苦しんでいるではないか。
 家野町、住吉町から井樋の口(いびのくち)、長崎駅まで約5キロ、延々とつづく瓦礫である。松山町付近では、こまかく砕かれた瓦の色は赤か黄に変じて、軽石のように小さな孔があいている。松山町から遠ざかるにつれて、瓦礫は大きくなり、色は黒に変わっていく。熱と圧力の強さを示しているのだ。
電柱も松山付近のは木炭そのものだが、遠ざかるにつれて燃えかけた薪のようになり、傾斜もゆるくなる。市街電車も一定の間隔をおいて焼けただれているが、松山町に近づくと骨組みだけであとは何一つ残っていない。一瞬に火を吹いて電車は鉄骨になり、乗客は炭素になってしまった。
 東洋一を誇った浦上天主堂のドームもまったく見えない。櫛の歯の欠けたような、煉瓦の棒杭になっている。その下の丘では刑務所のコンクリート塀が倒れかけている。その内側では、数百余の囚人が灼熱の火に焦げて死んだのだ。・・・

「その内側では、数百余の囚人が灼熱の火に焦げて死んだのだ」と書かれている。私はグローブス将軍とスティムソン陸軍長官が、長崎のもう一つの捕虜収容所のことで、話し合っている場面(「第3章」141頁参照)と、ジョージ・ウェラーが『ナガサキ昭和20年夏』の中で「二つの連合軍兵士捕虜収容所にはおよそ1000人が収容されている」と書いたことにも触れた(138頁参照)。「日本軍は収容所の一つを三菱の巨大な兵器製造所のまん中に設置し、もう一つは長崎港の入り□に設置した」と書いた。
 しかし、原子爆弾でオランダ人7人と、イギリス人1人の8人だけが死んだとも書いた。
 私は、三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置した収容所のことについては書かなかった。この収容所のことを書かねばならない。
 『日本の原爆記録11』(1992年)の中に収録されている「長崎の証言(第8集)」から引用する。
 「怒り悲しみは国境をこえて  長崎捕虜収容所被爆」の語り手は田島治太夫である。この物語はかなり長い。ダイジェストして読者に伝えたいと思う。

 田島治太夫は大正9年生まれ。島原出身。昭和17年、中央大学1年のとき、召集を受け、長崎の捕虜収容所に勤務することになる。彼が勤めた第14分所には480名前後の捕虜がいた。他に、飯塚、長崎など他の3、4ヵ所に千人近くが分けられた。彼のみが英語ができたので捕虜らと対話をし続けることになる。捕虜は主にインドネシア人で、インドネシア・オランダの混血や、イギリス人、オランダ人であった。捕虜は長崎の2つの収容所のうち長崎港の中に収容されたのはアメリカ人たちで、三菱兵器製作所近くにつくられた捕虜収容所にはアメリカ人がいないということになる。アメリカ軍は、この三菱を中心としたところにあった収容所について調査したにちがいない。原爆投下の前に、田島は、アメリカ人に対する彼らの語を伝えている。この部分を引用する。

 ・・・彼らは「私たちもアメリカ人はきらいだ」と言うんです。
「同じ連合軍なのにどうしてか」ときくと、「アメリカ人は自分が利益になるときにはいかなる援助も資金も借しまない。だけど一旦自分が不利益になると、スパッと手を切る」と言うんですよ。つまり、個人主義、利己主義で信用できんというわけです。それをきいて、はっと思ったんです。・・・

 彼ら捕虜たちも分散させられて、造船所でも働かされている。原爆投下の直後、「どこからか15、6人の捕虜たちが現われてきたんです。造船所に行ってた者たちだったと思います。ケガをしていたけど、みんな元気でした。私の方にやってくるので見ると、彼らもよごれ、やつれているんです。それで『おお・・』と大声をあげて、お互いに生きていることを喜びあったのです」ということになる。
 三菱で働いていた者、病気で隔離されていた者、ことごとくが原爆死した。造船所から奇跡的に帰ってきた捕虜10数人をつれて田島は死線をさまよう。劇的なシーンに読む者の心は熱くなるのだ。そして、
彼の証言を通じて、謎の1つが解き明かされる。長崎港近くにあった捕虜収容所の★アメリカ人の捕虜たちは原爆投下の瞬間には、捕虜収容所にも造船の工場にもいずに、何処かに行っていたということである。これが戦争であるという一言では決して結論を出しえない、暗黒の深淵が見えてくるのである。その問いはただ1つ。何のための戦争であったのか、ということである。それでも「生存者は3人ぐらいはいた」と田島は書いている。原爆投下当時、田島の収容所にいた人数は書かれてはいないが、千人ぐらいはいたのではなかろうか。彼らは爆心地近くにいながら、仕事でふり分けられていたからである。
 田島は次のように書いている。この田島の言葉は重い。

 ・・・焼跡の遺体の中には、私のもとで働いていたボイラーマンや大工をやっていた捕虜たちの真黒な遺体がまじっていました。また、同じ病室にいた者や同じ所内〔三菱兵器製作所〕勤務の捕虜たちの遺体がつぎつぎに出てきました。捕虜としてはるばる日本に送られてきて不遇な生活を送ってきたうえに、最後は味方のアメリカの原爆に会って死ぬなんて、言葉にもつくせない悲劇だと思います。たまらんですよ。そりゃあ。・・・

スティムソンがグローブス将軍から、この田島のいる捕虜収容所の存在を聞かされたのが7月31日。それから調査が行われ、アメリカ人がいないことを確認のうえで、長崎原爆投下のゴー・サインが出たことになる。長崎港に収容されている捕虜たちは、長崎原爆の投下が決定する前から、その瞬間だけは、何処かへ消えることになっていた、ということになる。これは、太平洋戦争最大のミステリーであろう。

 もう一度、田島の声に耳を傾けよう。真実が語られている。

 ・・・原爆という大きな問題についても、この人間性の立場から考えていくことが国際間の問題として非常に重要だと思うんです。それが、捕虜収容所という、各民族が寄り巣まった戦争の縮図のような場所で一緒に生活してみて、私が痛感した1番の問題ですよ。私ももちろん、戦犯の被疑者として2、3ヵ月呼ばれました。しかし私は自分の主体的な判断でやってきた事柄ですから、すべてのことが解決されるんですよ。だが、もし私が単に相手を猛獣として非人間的に扱っていたら結果は逆だったでしょうね。・・・

 田島のこの言葉の中に、原爆投下の最も深い意味での理由が書かれている。読者よ、彼は「相手を猛獣として非人間的に扱う」な!と訴えているのだ。

  私が湯川秀樹を糾弾する理由がここにある。彼は世界連邦思想を唱えた。戦争が起こるから、これを防止するためには一つの政府で強制的に人間を支配する、というのがこの思想の基底にある彼らの驕りである。平和を説く者は、平和という思想のもつ驕りに酔いしれている。私たちは、すべての人の、特に弱者の視点に立って「相手を猛獣として非人間的に扱っ」てはならないのである。
 原爆は個人主義、利己主義から生まれてきたのである。その個人主義、利己主義の生んだ原爆を日本の政治機構が甘受したがゆえに、原爆が広島と長崎に落ちたのである。死なないで、幸せに暮らせたのに、どうしてこんな悲劇が日本を襲ったのか、その根本原因を私は書いてきたし、これからも書き続けようと思う。

 2008年2月19日、私は長崎原爆資料館図書室に行った。そこで私は数々の資料のうちで、『捕虜収容所補給作戦 B29部隊最後の作戦』(奥住喜重・エ藤洋三・福林徹共著、2004年)を見つけた。3人の自費出版であろう。印刷所は大村印刷(山口県防府市)とあった。この本の中に「長崎三菱造船分所」の記述があるので記すことにする。

  ・・・1943年4月22日、福岡捕虜収容所第14分所として長崎市幸町に開設、使役企業は三菱重工業長崎造船所。終戦時収容人員195人(蘭152、豪24、英19)、収容中の死者113人、このうち7人が原爆で、1人が空襲で死亡した。・・・

  もう1冊の本がある。『戦時外国人強制連行関係資料集(I)俘虜収容所』(林えいだい監修)である。1990年に明石書店から出版された。その中に、「福岡俘虜収容所法務関係名簿〈西部復員連絡局〉」を発見した。1949年10月25日に作成されたものである。この本に書かれているほとんどは法務関係者の名であるが、その中に長崎西彼杵郡香焼村に置かれた香焼2分所の記事がみえる。長崎湾の入口にあたる場所で、そこに三菱造船所があった。前記の『捕虜収容所補給作戦』から引用する。

 ・・・
 香焼分所
 1942年10月25日、八幡仮捕虜収容所長崎分所として、長崎県西彼杵郡香焼村(現在・香焼町)に開設。1943年1月1日、福岡捕虜収容所長崎分所に改編。3月1日、第2分所と改称。使役企業は川南造船香焼造船所。終戦時収容人員497名(蘭324・米5・他8)。収容中の死者72人。・・・

 長崎三菱造船分所(第14分所)は幸町にあり、原爆投下の中心地の近くである。この分所のうち7人が原爆死と書かれているのも不可解である。しかも、終戦時収容人員195人と書かれている。ウェラーは「長崎港にある二つの連合国兵士捕虜収容所にはおよそ1000人が収容されているが・・」と書いている。終戦時、二つの収容所を併せても692名(うち米5名)。アメリカ人兵士は5名しか収容所にいない。4百名近くの兵士が終戦の後に何処かから帰ってきたことにならないのか。確かなことは、爆心地にあった長崎三菱造船所分所で、たった7人しか原爆で死ななかったということである。この分所のごく近くにあった三菱重工捕虜収容所では350名以上の死者が確認されているのである。
 もう1度、ウェラーの本から引用する。7人の原爆による死者についての記録である。

 ・・・原子爆弾で、捕虜の指揮をしていたキック・アールダー中尉(ジャワ、バンドン出身)を含む7人のオランダ人とイギリス人1人が死んだ。記者は6日午後、彼らの収容所を訪れた。外部の人間が訪れるのは数年ぶりのことだ。・・・

 ウェラーは8人の原爆死としているが、『捕虜収容所補給作戦』では7人の原爆死となっている。ウェラーの本の正確さが理解できよう。終戦時収容人員195名のうちに、アメリカ人は含まれていない。しかし、1945年9月7日、ウェラーが訪れたときにはアメリカ人の収容者がいたのである。アメリカ人の1人は、ウェラーに次のように語っているのである。

 ・・・アメリカ人「B29が食料と一緒にいつもサイパンの新聞を落とす。その中でシナトラという男のことが記事になっているが、そいつは何者で何の商売をやっているんだ?」・・・

 ここまで書いてきて、私は次のように考えるようになった。
三菱重工業長崎造船所にいたアメリカ人たちは、原爆投下の直前に、香焼村にあった第2分所にひそかに移された。終戦後、また、14分所に移された。それはスティムソン陸軍長官の処置であった。従って、爆心地にいた捕虜たちは、この間、そこにいなかったのである。オランダ人、オーストラリア人、イギリス人も移された。7人だけが不幸にも残された。原爆投下後、アメリカ人たちは後れて移動した。
 長崎三菱造船分所に入った捕虜たちの1部が三菱工業内(爆撃目標地)の捕虜収容所に移された。
このときに、アメリカ人は1人として移されなかった。この事実をスティムソン陸軍長官は知り、第14分所の全員(重病患者を除く)を移動させたのである。
 前記の「元福岡捕虜収容所派遣所々在地一覧表」には「分所勤務者名簿」が載っている。私が引用した『日本の原爆記録11』の田島治太夫は、第14分所の所員であった。
 彼は、三菱重工業内の捕虜収容所に回されたのである。ここの大半の捕虜は死んだことになる。ここにはアメリカ人が1人もいなかった。スティムソン陸軍長官の長崎原爆投下作戦の見事な成功であった。

 秋月辰一郎の『死の同心円』から再度引用する。前に紹介した「・・その内側では、数百余の囚人が灼熱の火に焦げて死んだのだ」の続きである。

 ・・・電線は低く垂れ、その下の瓦礫の砂漠には破裂した水道管が水を吹き上げている。煙突の煙は絶えて、すべて「くの字型」になった。廃墟と化した長崎にとって、終戦といってもなんの動揺もなかった。動揺すべきものは存在しない。すべてが焦げて、傷ついて、死んで、壊れていた。
 「これから日本はどうなるのです。病院は、私たちは・・」
 入院患者も職員も、不安そうに問いかけてくる。
 「米英は鬼ではない。人間さ。昔の戦争と違うんだ。これ以上君たちを苦しめることはないだろう。これ以上不幸にはならないよ」
 見通しは立たないが、これだけは自信をもっていった。

 同盟通信の号外で、玉音放送の内容を知ったのは、16日の夕暮れだった。私は草の上に立って、川野君が持ってきたザラ紙の号外をひろげた。だれかがうしろからローソクを照らしてくれる。そこには、日本の追いつめられた現状が、天皇の言葉として書いてある。歩くことのできる負傷省や患者は、近くに円形をつくった。
 「・・敵ハ新二残虐ナル爆弾ヲ使用シテ、惨害ノ及ブ所、真二側ルベカラザルニ至ル・・戦陣二死シ、職誠二殉ジ、非命二斃レタルモノニ想ヒヲ致セ八五内為に裂ク・・」
 最初は声をあげて読んでいた。しかし、しだいに声がつまる。
 「遅い、あまりに遅すぎる。なぜこんなになるまで、国民を戦いに駆りたてたのだ!」
 読みながら、こんな叫びが心中に起こる。とぎれとぎれに最後まで読んだ。看護婦のすすり泣きが聞こえてくる。〔中略〕
 やがて、私はぽつりといった。
 「爆弾で、財産も家族も失った君たちに、いま、国家もなくなったのだ」
 すべてを奪われてなにかすっとした。これ以上失うものはなにもない。

  ★アメリカ人捕虜だけがどこかへ消えた  <了>

   続く。
 


スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/591-2272648f



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。