カウンター 読書日記 ●原爆投下(6)
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●原爆投下(6)
 ●第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である

 ★やはり予告されていた長崎への原爆投下 


 長崎が原爆投下予定地になっていく過程を引き続き書いてみる。「目標検討委員会第2回会議の要約-L・R・グローブズ少将にあてた覚書」(1945年5月12日)
 この中で「われわれの兵器の使用対象として最初に選ぶべき4目標は次のとおりとする。「a:京都、b:広島、c:横浜、d:小倉兵器廠」と書かれている。dの小倉兵器廠には次なる理由が書かれている。

 ・・・小倉兵器廠-日本最大の兵器廠の1つであり、都市工業施設に囲まれている。この兵器廠は、軽兵器、対空火器、上陸拠点防衛機材(の製造)にとって重要である。兵器廠の面積は、4100フィート×2000フィート。その規模は、爆弾が的確に投下された場合には、爆弾直下の気圧上昇の効果が十分に発揮され、比較的に堅牢な建造物を破壊すると同時に、もっと遠くにある、比較的に脆弱な建造物に対してもかなりの爆風被害を与えることのできる程度である(A級目標に分類される)。・・・

 この分類の中で京都が「AA級目標」、横浜が「A級目標」、新潟が「B級目標」に分類されている。京都は「この目標は、人ロ100万人を有する都市工業地域である。それは、日本のかつての首都であり、他の地域が破壊されていくにつれて、現在では、多くの人びとや産業がそこへ移転しつつある・・」と書かれている。しかし、最後の段階で京都はスティムソン陸軍長官が反対し、目標地からはずされる。スティムソンは戦後に反米感情が燃え上がるのを恐れたからである。
 この5月12日の時点で、広島投下の決定をみたことは間違いない。否、3月には広島は決定的であった。第2の目標をアメリカは小倉に的を紋っていた。しかし、その小倉でなく、どうして長崎に投下されたのか?

 『資料マンハッタン計画』には、「資料153 目標検討委員会第3回議事録」(ワシントン、1945年5月28日)が記載されている。しかし、目標予定地は第2回と同じである。「資料155グローヴズからノースタッド将軍にあてた覚書」
(1945年5月30日)を紹介する。

 ・・・今朝、陸軍長官ならびに参謀総長は、われわれが選んだ3つの目標、とくに京都を承認しなかった旨をアーノルド将軍に伝えていただけるでしょうか。
 現在開かれているいくつかの会議から解放されたらただちに貴下と話し合いたいと思います。たぶん明日、そうでなければ土曜日の早朝に何とかできるでしょう。   米軍陸軍少将 L・R・グローブズ・・・

ここで京都は目的地から消えた。3つの目標地は明確にされていないが、聞違いなく、京都、広島、そして小倉であった。ここで広島と小倉が残ったといえる。この目標検討委員会は消えて暫定委員会へと移行していく。
 「資料171 暫定委員会会議覚書」(1945年5月31日)の中に、委員長・スティムソン長官の発言が記載されている。

 ・・・さまざまな目標およびもたらされる効果について大いに議論したあと、長官が次のような結論を下し、これに全員が同意した。日本側に事前の警告を与えることはできない。民間地域を集中攻撃目標にすることはできない。ただし、可能なかぎり多数の住民に深刻な心理的効果を与えるようにすべきである。長官は、コナント博士の提案を受けて、最も望ましい目標は、多数の労働者を雇用し、かつ、労働者住宅にぎっしりと囲まれている基幹軍需工場であろうという点で同意した。・・・

 スティムソンは、広島と小倉を考えたうえでの発言であろう、と私は思う。しかし、私は最後の最後でスティムソンが小倉から長崎へと原爆予定地を変更したと思っている。
 6月1日に開かれた暫定委員会では、バーンズ(次期国務長官)がスティムソン発言を受けて、「・・労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対し、事前の警告なしに使用すべきだ」と語った。このことは「国外篇」ですでに詳述した(「第五章」207頁参照)。
 スティムソンの発言、それに続くバーンズの発言、この2つの発言の後に、何ら目標地についても、その使用方法についても、討論されたこともない。否、あったのかもしれないが、『資料マンハッタン計画』や他の文献を見ても発見できない。最高指揮者の発言に委員会全員が同意したなかで、第1投下地として小倉が暫定的であるとはいえ、決定したものと思われる。
 私は小倉投下説が伝説であると幾度も書いた。この伝説を覆すべく書いていく。しかし、この伝説は覆すことができないかもしれない。どうしてか。アメリカ側の資料の中に発見しえないからである。しかし、間接的な資料は存在する。空白を埋める努力は必要であろう。
 黒木雄司の『原爆投下は予告されていた!』はすでに、多くの引用を試みた。この本の中には、長崎の原爆についての予告も記されている。彼は「まえがき」の中で「長崎原爆投下も2日前から同様に毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた」と書いている。黒木雄司は「こちらはニューディリー、ニューディリーでございます・・」というニューデリー放送は美しい日本語で語られていた、とも書いている。「本当にニューディリーからの放送なのかもわからない」とも書いている。しかし、今私がこの本を読んでも、ハッとするような内容がたくさん書かれている。とても信じられないことが書かれている。しかし、間違いなく、彼が聞いた「ニューデリー放送」は真実である。これから長崎に関する予告について記すことにする。読者はこの中に「小倉」という都市の名が登場しないことに心を配りつつ読んでほしい。

 ・・・8月6日(月)晴
 〔前略】すると、「班長殿! 班長殿!」と、自分を起こす者がいる。先ほど勤務交替した田中ではないか。
 「班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたと、ニューデイリー放送が放送しております。8時15分に投下されたそうです」
 「あ、そうか。やっぱり。うーん。貴様、席をはずしてだれかに言って来たか」と聞くと、
 「隊長殿も上山中尉殿もおられます。上山中尉殿が、黒木だけには知らせてやれといわれ、お知らせに参りました」
 「有難う。礼をいっておいてくれ」といって、時計を見ると、8時30分。広島に落とされて17分間で、寝ている自分が起こされ知る。おそらく敵機から交信で敵の司令部に、敵の司令部から放送局に、どうしてこんなに早く知らされるのだろう。あるいは放送局側から敵司令部に係員が入り込んで待機していたのだろうか。どうしてまた、すぐ放送ができるのだろうか。まったく感心させられる。
 成功のときには、時間だけを打電すればすぐ放送できるように打ち合わせずみだったのだろうか。とにかく、3日も前から打ち合わせしておけばできるのだろうか。ふとニューディリー放送は、本当にインドのニューディリーから放送しているのだろうか。案外、米軍の軍司令部内部に放送設備があって放送しているのではないか、と疑いを持った。・・・

 私は黒木雄司が「・・と疑いを持った」と書いている点を重視する。一般の国民が傍受できない周波数、テニアンあるいは他のマリアナ諸島にある米軍の司令部から、第二総軍司令部の傍受室と東京の参謀二部の有末中将の東京郊外の傍受室に向けて、この「ニューディリー放送」は流されていたのではなかったろうか。
 私は広島の1通信員が少年に原爆情報を教える場面などを書いた。これは例外的に傍受できたものではなかったかと思う。海外放送を聞けないように妨害電波を第二総軍は流していた。ザガリアス放送も、ごく1部の者しか聞くことができなかったと同じように。海外放送を聞けるようなラジオも当時はほとんどなかった。私は第二総軍の1部の人々と、呉にいる海軍の首脳たちは、この「ニューディリー放送」を連日聞いていたような気がする。それ以上に第二総軍の大屋中佐は、鯉城(広島城)の近くに二世の女性20人ばかりを置いて、生のアメリカ軍の通信放送を聞いていたのである。放送とは、主として、テニアンでの第五〇九航空群の間の交信であろう。

 ・・・8月7日(火)晴
 すでに16時間もたっているのに、大本営から何も発表がないとはどういうことだろうか。それとも明日、詳細発表が行なわれるということなのだろうか。もう1つ問題なのは、隊長から連隊長経由の原爆関係の諸報告は、果たして大本営まで確実に行っていたのだろうか。あるいは、どこかでだれかが握り潰したのだろうか。〔中略〕
 午前6時、突如としてニューディリー放送が流れてくる。
 ― こちらはニューディリー、ニューデイリーでございます。信ずべき情報によれば、米軍は来る8月9日に、広島につづいて長崎に原子爆弾を投下する予定であることを発表しております。繰り返し申しあげます。・・・

 黒木雄司は天皇制国家を信じきっている。彼の上官たちも信じきっている。「果たして大本営まで確実に行ったのだろうか」との疑問を抱くのは当然である。確実に大本営まで、ニューディリーのニュースは達している。第二総軍からのニュースを加えられて、参謀第二部のニュースとともに、それに加えて、ヨハンセングループを通してのスティムソンからの通信文も・・・すべて大本営に達している。スティムソン→グルー→OSSのジェームズ・ウオーバーグ→白洲次郎→吉田茂→牧野伸顕のルートで、天皇はスティムソンからのメッセージを受けている。たぶん、次のようなメッセージであろう。不敬を十分に承知の上で書くことにする。

 ・・・私、スティムソンは、広島に原爆を投下した後に小倉にプルトニウム爆弾を、その数日後に長崎にもう1つのプルトニウム爆弾を、その数日後にもう1つのプルトニウム爆弾を落とすよう、グローブス将軍に命令を出していたが、急速、この指令を取り消した。広島の原爆の予想以上の凄さを知り、小倉を中止し長崎に落とすことで、原爆投下中止の指令を出した。どうして長崎かとあなた(ヒロヒト)は思われるであろうが、それは真珠湾攻撃に対するアメリカ政府の復讐または意趣返しと思っていただきたい。長崎の三菱製鋼および兵器工場にプルトニウム爆弾を投下する。ここで製造された魚雷によりハワイのアメリカ艦船が撃沈された。この兵器工場に原爆を落とすことで、アメリカ人たちを納得させることができよう。
 あなたの身分は保障される。日本海軍の首脳たち、ヨハンセン・グループの人々、アメリカのために陰で活躍してくれたクエーカーを中心とするキリスト教関係の人々は戦犯に問われることはない。ただ、陸軍首脳のみは戦犯となろう。あなたがスイスに入れている秘密資金は保証される。ソヴィエト軍が9日に満州に入る。その点から、2発の原爆で一応の終わりとなった。第二総軍の畑元帥はアメリカにとっても功労者であるが、戦犯となるだろう。しかし、特別の配慮がなされる。
東京での終戦工作が首尾よく終わることを期待する。・・・

 奥住喜重・工藤洋三訳『米軍資料 原爆投下の経緯』(1996年)の中の「資料D-12」から引用する。この記録を読めば、長崎原爆の意味がいくぶん見えてこよう。

・・・最高機密 1945年8月9日
CMDW576 センターボード作戦に関し折り返し報告
発信:陸軍第八航空司令官、司令官に回送、アッシュロース
宛先:合衆国陸軍戦略航空軍司令官、カーク・パトリックに回送・・・

 この通報はファレル宛である。スウィーニー、ホプキンス、およびボックは、090345Z〔091245J〕に沖縄に着陸した。予定時刻に会合点に到着したが、約40分待って、ボックの操縦する機と会合しただけであった。天候の通報を受信して第1目標の攻撃を決定した。目標地域には、090055Z〔090955J〕に到着した。目標は雲量およそ3/10で、若干の「もや」と「濃い煙」がかかっていた。第1目標に3回の爆撃航程をとったが、目標は毎回「もや」と「煙」で見えなかった。50分後に第2目標を攻撃することに決めた。攻撃は先に発した投弾完了報告と一致して行われた。接近はレーダーで行われ、最後のおよそ30秒は目視によった。ホプキンスとボックを含めた観測者と予備軍に協議した結果、爆発箇所は大体三菱製鋼および兵器工場、目標番号546である。目撃した効果は、広島の場合と同等か、ことによるとそれより大きいというのが一致した意見である。煙の柱とキノコ雲は、3分間でおよそ30,000フィート(9000m)に達し、間もなく少くとも40,000フィート(12,000m)に達した。埃は少くとも直径2マイル〔3、2㎞】の地域を襲ったと思われる。高空におけるガソリンの消費、巡航の会合に失敗したこと、第1目標の時間超過が、攻撃部隊として沖縄に到達する機会を失う危険を冒しても、投下を決定させた。・・・

 引用文中の「天候の通報を受信して第1目標の攻撃を決定した」とは、「テニアン島から第1目標の小倉に向かった。天候がよいとの知らせを受けたので、小倉に原爆を落とすことに決定した」ということである。しかし、目標とする小倉に着くと、若干の靄と煙がかかっていた。★ここに大きな意味がある。この靄と煙がなにゆえに発生したのかということだ。
 私は「気象条件が原爆投下の重要条件とされた」と幾度も書いた。九州一円は良好の原爆投下日和であった。しかし、小倉だけは、靄と煙に覆われていたのだ。これは★人工的なものであった。前日の8月8日の午後、ルメイ少将の第二十航空軍の爆撃機が多数八幡上空に来襲し、爆弾を大量に投下したからである。八幡と小倉は、門司、戸幡、若松とともに合併して今は北九州市となっている。八幡と小倉は隣接した都市である。その八幡に大量の爆弾を落としたがゆえに黒煙があがり、空が「heavy smoke」で覆われたのであり、自然現象ではなかったのである。
 しかし、爆撃隊のスウィーニー、ホプキンスおよびボックには知らせなかったのかもしれない。すでに出撃体制に入っていたからである。たぶん、そして間違いなく、スティムソン、グローブス将軍のルートでルメイ第二十航空軍司令官に至急通達が入り、ルメイが応じ、第二十軍の爆撃機に出撃を命じたのである。第1目標は消え、第2目標の長崎に原爆は投下されたのである。
 しかし、妙な報告書(1945年8月26日付)がある。発信テニアン、第三一三爆撃航空団司令官から陸軍省に宛てられた「最高機密『IVI』、作戦上の優先事項」である。その中に次のような1文がある。

 ・・・長崎爆撃の直後に、3発目の投下が差し迫って考えられたとき、はじめの2発の投下戦術を繰り返すならば、最も絶望的で、おそらくは有効な抵抗を招くであろうことが指摘された。これら2つの投下のやり方は、何機もの飛行機が参加するものであった。気象報告と攻撃と投下グループの編隊が続けて現れることが日本人に知られ、8月9日の作戦ではわれわれの気象報告を妨害するために、執拗な企てが行われた。
 小倉を爆撃しようとする企図は、45分間にもわたって繰り返され、われわれの攻撃の形式を油断のない敵に教え、彼らはすでに、どの島とどの航空団から原子爆弾が来るかを決定していた。・・・

 第二総軍と東京の参謀第二部の傍受室以外にも、日本側で傍受をしていた可能性があったのを推測させる。「われわれの攻撃の形式を油断のない敵に教え」とあるのは、テニアン島かどこかの島で、敵(日本)に原爆情報を教えようとした者たちがいたことを明らかにしている。黒木雄司の「こちらニューデイリーです・・」がその1例かもしれない。しかし、日本側は、この敵(日本)に向けての好意の発信を受け入れなかったのである。
 「われわれの気象報告を妨害するために、執拗な企てが行われた」とは、靄(もや)と煙を日本側が発生させたということであろうか。これは間違いなく前日のアメリカ側の爆撃のために発生したものである。この小倉上空では旋回する原爆投下機に届かない高射砲がたくさん撃ち上げられたのは事実である。私はこの文書の中にも、スティムソンと天皇の密約の存在を読み取るのである。 


 どうして日本の軍隊は陸軍、海軍を問わず、「われわれの攻撃の形式を油断のない敵に教え、彼らはすでに、どの島とどの航空団から原子爆弾が来るかを」知っていたのに、何ら、日本人を救うべく手を打たなかったのか。
 彼ら陸軍と海軍のトップたちは聞違いなく、原爆が広島に、そして長崎に投下される日時も、そして「どの島とどの航空団から」爆撃機が飛び立つかも知っていたのだ。
 この1文の中に、太平洋戦争の何たるかが見事に描写されているではないか。広島、長崎のみならず、死者たちよ甦るべし。そしてこの戦争は、天皇による、天皇のためのものであったと知るべし!
 このような国家に、美しき大和の国がなり果てた過去を、拳を握りしめ振り返るべし!


 ★やはり予告されていた長崎への原爆投下   <了>   続く。
 

   ●第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である

 ★カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ  


 読売新聞社編『昭和史の天皇』を読むことにしよう。すべての情報を知りつくし、第二総軍の畑元帥とともに「原爆殺し」の脇役の1人、参謀第二部の有末精三中将登場の場面から見る。

 ・・・まず調査団長だった参謀本部第二部長、有末精三中将(のち、日本郷友会連盟副会長)の話からはじめよう。
 「広島に何かわからぬが、大変なことが起こったということだけは、6日の昼ごろまでにわかった。その確認を急いでいたが、原爆とわかったのはその夜だったようだ。わたしは理研の二号研究の分離筒を実際に見た数少ない軍人の1人だったから、原爆がどんなものか、およその見当はついた。そこでできるだけ早く現地へ行って、しかるべき手を打とうと考えた。だからその夜のうちに参謀次長の河辺虎四郎中将に了解を得たとき、河辺さんは、『仁科先生を広島ヘー緒にお連れするように』といわれた」・・・

 文中の「二号研究」とは、仁科芳雄博士を中心とした原子爆弾の研究である。原爆製造の理論および、そのための初歩の基礎実験で、「原爆開発」といった大掛かりなものではない。
 有末中将は、8月3日から4日まで第二総軍の大屋中佐および太宰憲兵課長と密議をしていた。大屋中佐は8月5日の夕方に、太宰憲兵課長は8月6日未明に広島に帰った。有末中将が「原爆とわかったのはその夜のことだった」と語っているのは嘘である。彼は仁科博士と一緒に8月8日に広島に行く。原爆調査のためである。
 ここでは広島のことはすべて省略し、有末中将がまとめた報告書をもとに書かれた林三郎の『太平洋戦争陸戦概史』(1951年)から引用する。

・・・8月7日、大本営は調査団を現地に派遣した。調査団は8日夕、広島に到着し、
1、特種(ママ)爆弾が使われたこと、
2、身体を被覆していれば火傷は防ぎうる等の、内容を持つ報告を9日に大本営あて打電した。
 続いて第二総軍は、
1、白色の着物をきていたものは火傷の程度が軽かったこと、
2、防空壕に入っていたものも火傷の程度が軽かったこと、
3、火災の多かったのは朝食準備の最中を狙われたからであること等を報告した。
 米戦略空軍は8月9日、第2の原子爆弾を長崎に投下した。
 陸軍総師部は8月10日ごろ、全軍に対し状況を通報すると共に「この種爆弾は恐るべきものではなく、我が方に対策がある」ことを明らかにした。・・・

 有末中将と畑元帥が天皇のいる御文庫につくられた大本営への報告書は別に存在する。私は怒りの感情を超えて、ただただ、唖然とするのである。私は落下後の広島市民の惨状をまだ書いていない。私は可能な限り、手記や報告書を読み続けてきた。次章で、原爆に被爆した死者や生き残った人々について書くことになるが、この有末とか畑とかいう人間は何者なのだろうと思うのである。彼らが広島の惨状を日本本土に住む人々のために、天皇のためにではなく、声高く叫んでいたら、はたしてアメリカは2発目の原爆を投下したであろうか。たとえ投下しても、原爆の恐怖を知らされた人々は、都市を捨てて山中や海岸部へと逃避しえたであろう。天皇もこの惨状を詳しく知らされながら、何1つ手を打たなかったのである。

 アメリカは広島投下後の日本の動きを見つづけていた。正直に書くことにしよう。★アメリカには日本の大本営よりも良心があったのだ。『米軍資料 原爆投下の経緯』の中に「資料E ファレル准将の覚え書き」が入っている。この中の「宣伝活動」を引用する。

 ・・・宣伝活動
 広島攻撃の翌日、私(ファレル准将)は陸軍省から、広島に対する使用も含めて、新しい兵器に関して、日本帝国に宣伝活動をするように指示を受けた。この活動は、リーフレットに加えて適当と考えられるその他の宣伝も含むものとされた。モイナハン少佐の補佐のもとに、海軍の太平洋艦隊司令部と合衆国戦略航空軍の全面的な協力を確保し、われわれは直ちに宣伝活動を開始した。それはリーフレットの準備と撒布、ラジオ・サイパンからの15分置きの日本語による短波放送、さらに広島攻撃の記事と写真を含む日本語新聞をサイパンで印刷し、日本帝国に撒布することを含んでいた。計画は次のように提案していた。
 a、人ロ100.000〔以上〕の日本の都市47に、9日間にわたって、1600万枚のリーフレットを投下すること、これらの都市は全人口の40%以上を占めている。
 b、ラジオ・サイパン-OWIからは規則正しい間隔で宣伝放送をすること。
 c、原子爆弾攻撃の記事と写真を載せた日本語新聞のコピーは50万枚を撒布すること。
 この活動は、日本側が降伏の交渉を始めるまで続いた。その時点でおよそ600万放のリーフレットと多数の新聞が投下されていた。日本語の短かいラジオ放送は、規則正しく15分間隔で行われた。・・・

ファレル准将の「宣伝活動」の文書の内容は正しい。多くのリーフレットが空中から撒かれた。しかし、日本の警察や軍隊はこれを回収し、デマとし、これを拾った人の口封じをした。ラジオの電波は妨害され、また、海外放送を聞く者たちは刑務所に入れられた。
 ファレルたちは、第1発の広島投下で多数の人を殺害したことに満足し、第2発目以降は人的被害を少なくしようと努力していた。
 しかし、天皇、重臣たち、陸海軍の首脳たちは、アメリカのこの良心的とさえ思える動きさえ、全く国民に知らせようとせず、抗戦のみを主張し続けた。
 同じ『米軍資料 原爆投下の経緯』を見ることにしよう。「報告9・第509混成群団」の資料である。「作戦計画の要約」(1945年8月9日任務実行)から引用する(Aは省略。小倉が書かれている)。

 ・・・B、第2目標:90・36-長崎市街地。
 照準点:114061
照準点参照:11爆撃機集団石版集成図長崎地区 三菱製鋼および兵器工場
 ナンバー:90-36-546
 目標選定の理由〔Aの小倉は省略〕
 B、90・36 長崎市街地。
 他の2つの工業都市、広島、小倉と同様に、原子爆弾用の目標として長崎の市街を選んだのには3つの理由がある。これらの理由は次の通りである。
1、工業上の重要性。
2、被害を受けていない。全体的に処女地である。
3、市の大きさ。 ・・・

 この後に詳細な長崎の工業と人口などが書かれている。最後に「市の大きさは原子爆弾の攻撃にとって理想的であった。この都市は25万3000人の人口を有し、福岡と八幡に次いで、九州島で3番目に大きかった」と記されている。私はこの文中にある「三菱製鋼および兵器工場(目標546)と、その新しい圧延工場(目標1795)は、長崎北部の浦上川沿いに位置し、海軍の兵器工場(主として魚雷)と共に、船舶用鉄板、鋳造物、鍛造物などを造る造船工場と一体となっている」に注目する。ここを目標に原爆が落とされたからである。広島は町の中心に落とされた。長崎は三菱製鋼に、である。
 長崎総合科学大学平和文化研究所編著の『ナガサキ-1984年8月9曰』(1994年)から引用する。

 ・・・曰本の欧米との戦争準備も急ピッチで進められ、長崎もまたその間にあって大きな役割を担わされた。曰本海軍の大艦巨砲主義の象徴といわれた戦艦武蔵が、三菱造船所で建造されたことは、これを示していた。1938(昭和13)年3月極秘裏に起工されたこの軍艦は、1942年8月に竣工した。
 軍艦とともに魚雷も長崎でつくられた。潜水艦用と航空機用の中・小型魚雷がそれで、その生産量は第二次世界大戦中に日本が使用した魚雷の80パーセントにのぼった。なかでも無航跡、高速、超長距離酸素魚雷のごとき、その性能のよさや技術的水準の高さは、世界でも比類のないものとされた。・・・

 私はこの「魚雷」が真珠湾攻撃で使用されたことと、原爆が長崎に落とされたこととは、かなり関係があると見ている。
 『資料マンハッタン計画』の中の「資料198 スチムソンから大統領にあてた覚書」(1945年7月2日)を引用する。ポツダム会議のために準備中のトルーマン大統領にあてた覚書の中の1文書である。

 ・・・
対日計画書
 われわれの側には、次のような、きわめて有利な要素-ドイツと戦っていたときよりもはるかに重要な要素-がある。
 日本は同盟国をもっていない。
 日本の海軍はほとんど壊滅しており、したがって、日本は海上および海面下の封鎖に対して脆いので、国民を養えるだけの食料や物資の供給を封鎖によって遮断することができる。
 日本は、人口周密都市、工業資源、食料資源に対する、空からの集中攻撃にきわめて脆い。
 日本は、米英軍を敵に回しているだけでなく、力を増しつつある中国軍やロシアの不気味な脅威にも対抗しなければならない。
 われわれは、低下しつつある日本の戦力に対して集中しうる無尽蔵かつ無傷の工業資源をもっている。
 われわれは、日本による最初の奇襲攻撃の被害者であるがゆえに、★大きな道徳的優位をもっている。・・・

 この「対日計画書」は、原爆投下の1ヵ月ほど前のものである。日本がいかに敗戦寸前の状態に至っているかをスティムソンはトルーマン大統領に説明している。ここでスティムソンは「日本による奇襲攻撃」をアメリカが受けたがゆえに「大いなる道徳的優位」を持っていると説いている。その真珠湾攻撃で最も日本側の勝利に貢献したのが三菱がつくった「魚雷」であった。スティムソンは最後の最後で、長崎のあの「魚雷」を製造した工場を投下目標にし、プルトニウム爆弾を落とさせたのではなかったか。

  ジョージ・ウェラー著、アンソニー・ウェラー編『ナガサキ昭和20年夏』(2007年)を見ることにしよう。この本には「GHQが封印した幻の潜入ルポ」という副題がついている。ジョージ・ウェラーが残した記録を息子のアンソニー・ウェラーが60年を経て編集し、出版したものである。
 ウェラーは、1945年9月6日から10日まで長崎に滞在した。彼の報告書は「シカゴ・デイリー・ニュース」に送られ、広くアメリカの読者に届くはずであった。しかし、その記事は東京のマッカーサー司令部の検閲官により破棄された。ウェラーは自身で原稿の写しを残していた。彼は1945年9月10日から20日まで、大牟田の捕虜収容所を訪問している。その中で原爆との関係を語る兵士たちの声を採録している。

・・・H・ディン戦車操縦士(ウォルバーハンプトン出身)
「この新しい爆弾のおかげで戦争が終った」
ジョージ・フラー戦車操縦士(スコットランド、ダンディー出身)
「原子爆弾万歳。干しぶどうの入ったプディングがもうすぐ食べられる」
ジョージ・アレン兵卒(ダービー出身)
「無慈悲な未開の野蛮人の手にかかった悪夢だった」
H・ジョーンズ伍長(ダービーシャー、チェスターフィール出身)
「原子爆弾が文明に吹き戻してくれた。3年半の地獄がついに終った」
 T・ジャクソン兵卒(トーキー出身)
「人間をあんなにひどく扱えるものとは知らなかった。日本人は人間ではない」・・・

 ウェラーの「日本・長崎発。1945年9月7日(金曜日)午前零時」と書かれた記録がある。その最初の部分を記す。

 ・・・長崎港にある2つの連合軍兵士捕虜収容所にはおよそ1000人が収容されているが、みんな知りたいことはただ1つ、「原子爆弾はどういう仕組みになっているのか」ということだった。
 彼らはその威力は目にした。日本軍は収容所の1つを三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置し、もう1つを長崎港の入り口に設置した。上陸部隊が進攻する際には、砲撃を避けられない場所である。
 原子爆弾で、捕虜の指揮官をしていたキック・アールダー中尉(ジャワ、バンドン出身)を含む7人のオランダ人とイギリス人1人が死んだ。記者〔ウェラー〕は6日午後、彼らの収容所を訪れた。外部の人間が訪れるのは数年ぶりのことだ。アメリカ人、イギリス人、オランダ人、オーストラリア人の国ごとに最大の関心事がそれぞれ違う。・・・

 読者はこの文章を読んで不思議に思わなかったであろうか。長崎港に1000人いた捕虜のうちで死亡したのは、たったの8人であった。しかもアメリカ兵は1人も死んでいない。
 「日本軍は収容所の1つを三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置」していたのである。ウェラーは「長崎の医療センターは、三菱の魚雷、ディーゼルエンジン製造工場や、造船所をなぎ払った同じ爆風で、ほとんどの職員もろとも根こそぎ破壊されてしまった」と書いている。また、彼は「2万1000人が死亡したが、これは原子爆弾の放射線が致死的であるのではなく、上空を飛ぶアメリカ機がはっきりと見えているのに、★市民が出されていた警報を無視して防空壕に入らなかったのが原因と言える。三菱の工場で死んだ人たちも、工場群のまっただ中に収容所があった連合国軍人の捕虜たちを含めて、上空に敵機がいるにもかかわらず三菱が仕事を続けるよう命じたがために死んだ」と記している。

 幾度も引用したゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』の中に、長崎の捕虜収容所について書かれた文章がある。

 ・・・1945年7月31日-ワシントンDC
 その23名の捕虜から7000マイルの距離のところにグローブズがいた。それは7000光年の距離にたとえてもよかったであろう。彼はグアム島のスパーツからの緊急電報の写しをじっと読んでいた。それには日本にいる別のアメリカ人捕虜についての質問で、次のような電文であった。
 
「8月5日以後に予定される『センターボード』長崎攻撃に関する件。捕虜より得たる情報によれば、写真による実証なきも、長崎市中央より1マイル北に連合軍捕虜収容所ある由。この事実は『センターボード』の最初の作戦目標選定に影響するや? 至急返待つ」
 グローブズはこの電報に「心配」した。それは数百名の連合軍捕虜の生命が危険にさらされるからというより、他の理由があった。
 「当時スパーツと私とが利用していた諜報観測が明らかに細かい点で不正確であったからである。その諜報が正しければ、捕虜収容所は長崎湾の西側にあるはずであった。しかしどうもその反対側のほうが可能性が大きいように思われた。捕虜たちは造船所で働かされているということだったが、そちらのほうが造船所に近いからである。しかしどっちの位置が正しいにせよ、原爆爆発の時には、おそらく彼らは造船所付近で働いており、当然原爆の危険にまともにさらされるのは免れないようにみえた」〔中略〕
 グローブズは長崎の捕虜が、どうみても盲目になり、おそらくは死ぬであろうということを知っていた。彼はこの時初めて、マンハッタン計画についての一切の責任を取ることを望まず、ハンディ将軍(スパーツに爆弾攻撃を許可する「書付け」を与えた将校)と相談した。ハンディ将軍は、三巨頭会談から帰ったばかりのスチムソンにこの質問の件を知らせるべきだと考えた。

 グローブス将軍はスティムソン陸軍長官に会い、この質問書を見せる。スティムソンはグローブス将軍に「返電をする場合にはすみやかに見せろ」と言っている。グローブス将軍が、「しかし、どっちの位置が正しいにせよ、原爆爆発の時には、おそらく彼らは造船所付近で働いており、当然原爆の危険にまともにさらされるのは免れないようにみえた」と書いている。しかし、7月31日から10日後の9日に長崎に原爆が投下される。そして、長崎港の捕虜収容所にいた1000人のうち、たった8人しか死ななかった。しかも、アメリカ人はただの1人も死ななかった。私はこの奇跡の謎を解く力を持たない。ただ、謎を解けないでは読者に申し訳ない。それで、推測をして、この章を終わることにしたい。

 ・・・グローブス将軍はスティムソン陸軍長官に依頼した。
 「閣下、私は重大なミスを犯しました。捕虜は1000人以上います。長崎港の収容所だけだと思っていましたが、あの目標地に定めた三菱の中にもいます。閣下、閣下のルートでこの捕虜たちを救って下さい」
 「グローブス将軍、最後の最後で難問にいたったが心配しなくてもよい。私は小倉の代わりに長崎を第1目標にしようと思っていたのだ。グルーを通じてさっそく交渉をしよう。最少限の捕虜が三菱で犠牲になるのは避けがたい。★しかし、長崎港にある収容所にいるのはほとんどがアメリカ人だ。爆弾を投下する前に、日本海軍の艦船かどこかに彼らを密かに移す。原爆が投下された後に、また彼らを収容所に戻す。この収容所には何人も外から入れてはならない。そして、捕虜たちに将来にわたって沈黙を守れと言わねばならない。帰国前に誓約書を書かせろ。さもなくば、国家反逆罪で罪に落とすとな」・・・

 ウェラーの報告書は永遠に葬られたはずであった。ウェラーは記者として1番最初に長崎に入ったが、日本から追放処分になった。しかし、彼は貴重な記録を残して死んだ。その息子がこの事実を伝えるまでに60年の年月が流れた。私の推測以外に別の推測はないし、事実があるならば、是非、公にしてほしい。どうして1000人の捕虜のうち8人しか死ななかったのか、を。
 スティムソン陸軍長官の7月31日(火)の日記の一部を記しておく。

 ・・・9時30分ごろジョー・グルーが、国務省所管の問題について私と話し合うためにやって来た。気の毒に、彼は上司が不在であるため、がたがたの国務省を運営することでいささか苦労してきたのだ。そういうわけで相談することがたくさんあり、私は私の出張やS-1にかかわる出来事について最新の情報を彼に提供した。日本に対する取り扱いについて私が述べた見解を彼が全面的に支持していることがわかり、嬉しかった。・・・

 このスティムソンとグルーの会話の中にグローブス将軍が加わっていたと私は考える。グルーは全面的にスティムソンに協力すると約束をしたと思える。

 『エノラ・ゲイ』の中に、「わたしはそれを情報として陸軍長官に見せるのだということを話し、さらにそれは我々の責任であって、その責任を長官にあずけるつもりはないと付け加えた。わたしは、もしその気ならば長官が変えることができるということを取り立てて言わなかったが・・」とグローブス将軍は書いている。「もしその気なら」とは、どういう意昧なのであろうか。スティムソンが長崎をあきらめるということなのであろうか? それとも、私が先に書いたように、スティムソンなら、日本のある支配勢力を動かして、捕虜を無事に保護しえると思ったのではなかったか。それで、スティムソンは急いでグルーを国防総省に呼びつけた。グルーはスティムソンの意向を受け入れた。それがスティムソンの「日本に対する取り扱い」であり、「私が述べた見解」をグルーが承諾し、グルーは「全面的に支持」すると述べたのではなかったか。

  ここに正直に告白する。私はウェラーのことを書いて、この章の終わりとした。そして床についた。その深夜(2008年1月16日朝近く)に、夢を見ている自分に気づいた。夢の中で、7月31日のスティムソンの日記について誰かに語りかけている自分に気づいた。夢の中の私は、もう一つ別のことを誰かに語り続けていた。そのことも記すことにしよう。夢の中で、スティムソンが登場してきた。そして、思いもかけないことを語りだした。

  ・・・グローブス将軍よ、小倉でなく長崎に私がこだわるには2つの理由があるんだ。1つは、戦後に朝鮮で戦争を計画していることだ。ホプキンスが2ヵ月前にスターリンと会見した。このときに、スターリンは朝鮮半島を南北に分断することに同意した。私は駐ソ大使アヴェレル・ハリマンとポツダムで朝鮮半島問題について話し合った。マーシャル将軍も賛成していることなのだ。それは、絶対に秘密にしてくれ・・。第二次大戦が(ヨーロッパで)終わった今でさえ、兵士たちは就職難だ。あと数日でこの太平洋戦争も終結する。戦争がつくった大事業がすべてなくなる。分かるか? 私はバーンズを追っ払い、マーシャルを国務長官にするように工作しろとハリマンに言った。マーシャルなら、俺たちの言いなりだ。すでに、朝鮮半島に内乱を起こしつつあるのだ。ここを戦場にもっていけば、アメリカは救われるだろう。福岡、八幡、下関は、その戦争の後方基地となる。天皇には私たちから、そういう場合は協力してくれと申し上げている。彼は協力すると答えたのだ。福岡と八幡は特に重要だ。私は福岡県と隣接する大分県別府市に1発の爆弾も落とすなと、ルメイ少将に命じたのをお前も知っていよう。朝鮮戦争のための慰安基地として、別府ほどに理想的な土地はないのだ。いいか、これも秘密だ。
 もう1つ、長崎でなければならない理由がある。ローマ・カトリックはヒトラーの残党たちを南アメリカに逃している。日本の真珠湾奇襲と同じパターンだよ。「日本のローマ」である長崎の浦上に原爆を落とし、ローマ・カトリックに意趣返しをすることになっているんだ。ローマ法王を震えあがらせ、俺たちが育てた「オプス・デイ」を内部に入れて、やがてローマ・カトリックを乗っ取るためなのだ。
 さあグローブス将軍、君の名誉は守られる。君はあと10数日で、アメリカで永遠の名のつく英雄の1人となる。何も心配することはない。スパーツにすぐに返電しろ。心配するなとスパーツに言ってやれ。スパーツから具体的な内容の電報が入ってこよう。すぐに私のもとへ持ってこい。戦後、君はしばらく原爆関係の仕事をやれ。そして、モルガンの会社の重役になるよう私が手配している。
 英雄・グローブス将軍よ、いよいよ最後の時がきた。何ら迷うことなく、ベストを尽くせ。・・・

このスティムソンとグローブス将軍の会話の後の出来事を、『エノラ・ゲイ』は次のように書いている。

 ・・・その間にスパーツは、もう1本の極秘電をハンディに送っていた。それはこういう電文であった。「捕虜より得たる報告によれば『センターボード』の目標5都市のうち、連合軍捕虜収容所なきは広島のみ。返待つ」
 ハンディは、グローブズと簡単に電話で打ち合わせてから返電を書いた。グローブズは、陸軍長官が捕虜の件でかれこれ言わなかったのでほっとしていた。スパーツヘの返電は次のとおりであった。「もし貴官の情報が確かと信ずれば、広島を最優先せよ」
 スパーツには自分の得た情報が信頼できないと考える理由はなかった。こうして広島が目標のリストのトップに置かれることになった。・・・

 この『エノラ・ゲイ』の中に、原爆投下によりもたらされるであろう被害についてマーシャル参謀総長に提出した報告書が出ている。スパーツからの至急電報の少し前のある日のことである。甚大なる被害が出ることは次第に(?既に)ロスアラモスの研究所長オッペンハイマー博士によって報告されていた。間違いなく、オッペンハイマーの報告書であろう。

・・・さすがのグローブスでさえも「スパーツの質問は答えやすい質問ではなかった」と認めざるをえなかった。彼は原爆の生産計画を知らせた参謀総長マーシャル将軍への先日の報告のなかで、原爆爆発の付近にいる人々すべての運命がどうなるかを鮮かに描き出していた。

 「原爆が空中1800フィートの高度で爆発するとして、その爆発の直下の地上から計った場合、少なくとも半径1000フィート内では爆発の爆風は致命的である。2500フィートから3500フィートの間では、人間に対する爆風の効果はきわめて痛烈である。熱と火焔との効果は約1500フィートから2000フィートの間では致命的である。爆心から10マイルの地点では、1秒の数千分の1の間、光は太陽を1000個寄せ集めたと同じであり、1秒目には太陽1個または2個と同じ明るさとなるであろう。爆発を直視した者に対する効果は爆心から半マイルの地点では一生不治の視力欠損、1マイル地点では一時的盲目、10マイルないしそれ以上の距離でも一時的視力欠損を呈するであろう。全然遮断されていない者に対しては、3500フィート以内ではガンマ線の作用が致命的であり、約2000フィートまでは中性子の作用が致命的となる」

 この文書は7月16日のプルトニウム爆弾の実験から得られた報告書である。長崎でこの爆弾が作製した。長崎では、グローブス将軍やオッペンハイマー博士の予想を上回る成果を上げた。

 しかし、ここに奇跡が起こった。爆心地から近いところにいた捕虜収容所の人々はほとんど死なず(1000人中8人が死亡)、原爆病にもかからなかったのである。私はこの奇跡が起きたことを記して、この章を終わる。次章は運よく原爆では死ななかったが、食糧や薬を与えられずに死んでいった人々について記すことにしよう。 


  ★カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ  <了> 


    続く。 
 

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