カウンター 読書日記 ●原爆投下(5)
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●原爆投下(5)
 ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 ★演出された投下時刻「8時15分」の意味 


 私が「8時15分」にこだわって考えるようになったのは、2冊の本をほぼ同時期に読んだからである。その一つは中条一雄の『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』(2001年)である。もう1冊は、諏訪澄の『広島原爆 8時15分投下の意味』(2003年)であった。この2冊を読み、「8時15分」という時間の持つ意味を考え続けた私は一つの結論に達した。「広島原爆は完全に仕組まれていた!」

 それでは、中条一雄の『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』を読んでみよう。中条一雄は1926年生まれ、小中高と広島で育ち、19歳のとき被爆した。大学卒業後、朝日新聞の記者(スポーツ担当)となった。

 ・・・「おい、おい、山本君、本当かね。もし8時6分だとしたらたいへんな歴史的な新事実だぞ!」 そんな声につられて、山本郁郎君が話しはじめた。
 広島一中から広島高等工業(現広島大工学部)へ進学した彼は、あの日、爆心から南方に約2キロ離れた平屋の校舎の研究室で被爆した。クラスの友達たちは岡山の軍需工場に動員されていたが、学業の成績がよかった彼は旧帝大への進学クラスに入り、担当教授から研究テーマを与えられて広島に残っていた。
 一瞬のうちに大破した校舎の下敷きになり、血まみれになりながら、必死の思いで木材の間からはい出して防空壕に転がり込んだ。そのとき時計を見たら、たしかに「8時6分だった」と、次のように話してくれた。
 「ぼくが持っていた時計はロンジンだった。なぜそんな高価な時計を持っていたかというと、動員で岡山に行った同級生から『軍需工場に行くと米軍の目標にされて、爆死するかもしれない。大切なものだから預かっておいてくれ』と頼まれたものだった。彼の父親は住友銀行のニューヨーク支店に長く勤め、開戦後に日米交換船で帰国した人だが、ロンジンはその父親からもらっだものだった。彼は広島のほうが安全だと思っていたらしい。ぼくが時計マニアだと知って預けたらしいが、貴重な預かり物だからこれだけはどうあっても守らなければならないと、宝物のように大切に扱っていた。

 そのころNHKは時報の前に、たしかモーツァルトのドイツ舞曲第五番を流していた。ぼくはそのメロディーを聞いて必ず時報に合わせるのを習慣としていた。前夜もいつものように最後の時報に合わせた。絶対正確だったという自信がある。大破した校舎からはい出した時、自分の時計なら見向きもしなかったかもしれないが、友達の高価なものだから壊れていないかと心配で反射的に時計を見だ。8時6分を鮮明に覚えている。絶対に間違いない」
山本郁郎君は2度も3度も「8時6分」を繰り返した。
世間には時間にうるさい人がいるが、彼もその一人で、今でもテレビのCMの数秒の誤差でも気にするほどの病的(?)な時計マニアである。それに中学時代から数理に明るく、なかなか信念を曲げない生徒だった。みんなそれを知っているだけに妙に説得力があった。
 「ロンジンはその後どうなったか、って。戦争が終わってすぐその友人に返したよ」・・・

 中条一雄は同窓会での友人の原爆投下時間「8時6分」説を一つの契機として、原爆投下時間の追求に入っていく。しかし、私は彼の本を読みつつ、どうして8時15分に(あるいは8時6分に)原爆は落ちたのだろうかと思うようになっていったのである。

 そのような思いをしつつあったとき、私は諏訪澄の『広島原爆 8時15分投下の意味』に出会った。以下、中条一雄の説を採用せず、投下時刻を「8時15分」で統一する。中条一雄はいろいろな時間説を紹介しているので、興味のある方は読まれるといい。

 さて、諏訪澄の『広島原爆 8時15分投下の意味』を読んでみよう。レスリー・R・グローブス将軍の『原爆はこうしてつくられた』を紹介しつつ、諏訪澄はどうして原爆投下時間が8時15分なのか、との疑問を投げかける。私がグローブス将軍の本を読んだときに気にも留めなかったことである。私がハッとした文章を引用する。

 ・・・グローヴス自身、後年、第1報に接した時の印象を次のように記している。
 広島爆撃の経過は、8月6日、バーソンズ大佐が飛行中仁記入しつづけた航空日誌にあますところなく尽くされている。

・・・午前2時45分 - 離陸
・・〔この間は著者諏訪氏が省略〕
8時38分-高度3万2700フィート(約9700メートル)で水平飛行
9時09分-目標広島 視界に。
9時15分30秒-原爆投下。
(*時刻はテニアン時間。日本とは時差1時間)
当初の計画では、原爆投下時刻は午前9時15分と予定されていた。6時間半を要する約1700マイル(2720キロ)の飛行で、ティベッツ中佐の名操縦は、目標到達にわずか30秒の狂いしか生じさせなかった。
 *L・R・グローヴス『私が原爆計画を指揮した』實松譲他訳(恒文社、1964年)

 ここでグローヴスは、ティベッツの名操縦を讃えながら、作戦遂行の正確さを誇っている。しかし、その結果、この文章は彼が意図しなかった他の真実をも伝えることになっている。それは何か- 。・・・

 私は諏訪の「それは何か- を読んでハッとした。そして期待をもって、諏訪が追求するであろう、あることを期待しつつ彼の文章を読んだ。続ける。

 ・・・★第1に、原爆投下時刻「8時15分」が、秒単位で誤差が数えられる厳密さで戦略の中枢にも伝達されていた事実。最重要の任務は、もちろん爆撃の決行だったが、投下が命令どおりの時刻に行われるかも重要だった。
 ここから★第2に- 「8時15分」が作戦遂行の結果ではなく、達成されるべき目標だったことが判る。
 つまり、原爆搭載機「エノラ・ゲイ」は、任意の時刻にテニアン基地を出発し、結果的に「8時15分」に広島に到達し爆撃したのではない。「エノラ・ゲイ」は命令された時刻に正確に投下すべくテニアンを離陸したのである。
 その設定時刻どおりに攻撃を行うことは、1局地戦で前線指揮官に裁量を任された自由なつまり些細な事項ではなく、ワシントンの戦略中枢が-そして大西洋上の大統領もが全神経を集中して見守っていた重要事だった。事実、ワシントンからの連絡を受けたトルーマンは、満足感を自分だけに留めておくことができず、さっそく乗艦の水兵食堂に行き「新しい爆弾の成功」を披露している。
 ★第3に、にもかかわらず、グローヴスは、その重要な爆撃時刻の理由、それの決定過程について、前記著書でまったく触れず、素知らぬ顔で通り過ぎている。ロ八丁の男のこの抑制は何を意味しているのだろうか。・・・

 諏訪は「8時15分投下」の意味を探し出そうと、埋もれたアメリカの文書を求めることになる。彼は、その過程で「広島原爆投下は、なぜ8時15分だったのか」の章をもうけて、多数の頁を使い追求していく。しかし、私は彼が結論を得たとは思えない。彼は、アメリカ側の資料のみを漁り続けているからである。私は、彼の本を読みつつ、「8時15分」はアメリカ側の「その中枢にも伝達されていた事実」には同意する。また、「もちろん爆撃の決行だったが、投下が命令どおりの時刻に行われるかも重要だった」と彼が主張していることにも同意する。

ここで、私の考えを述べる時が来たようである。私が彼の本を読みつつ思ったのは、「8時15分」が最も劇的に、広島市民を大量殺戮しえる時間ではなかったか、ということである。歌田明弘が『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた』の中で「日本、ソ連、アメリカ国民-この3通りの観客に向けて最大の効果を発揮すべく、原爆投下という『スペクタクル』は周到に準備された」と書いている。この牧田明弘の説を私は姉妹書「国外篇」で紹介した。要は、原爆投下は「スペクタクル」でなければならなかったのである。そのためには、広島市民にとっては申し訳ない限りなのだが、バーンズの発言にあるように「無警告」でなされねばならなかったのだ。
 京都が第1目標としてほぼ決定していたのが、スティムソン陸軍長官の意向で広島へと変更された。私は4月初旬に畑元帥が第二総軍司令官として広島に着任する前から、何らかの形でスティムソン陸軍長官が日本側に、広島を爆撃目標の第1とすると伝達していた、と書いた。それは、アメリカ側の要望に応じ、広島に「スペクタクル」を演じさせるべく日本側が動かなければ実現しないものではなかったか、と思うのである。そのために大屋中佐が有末精三中将の元からわざわざ派遣されて広島に来たのである。
 「広島原爆は予告されていた」という例を数多く挙げた。その予告が軍人や市民に伝わっていくのも、大屋中佐や太宰憲兵課長が事前に知って抑えにかかったのも、すべては「スペクタクル」のためであった、と私は信じている。そのためには、時間を設定し、通知しなければならない。原爆を落とす側に「何時何分」に落として下さい、と通知しなければならない。諏訪は「秒単位で誤差が数えられる厳密さで戦略の中枢にも伝達されていた事実」と書いているが、これはどうも彼の思い過ごしというべきであろう。

中条一雄は『原爆は本当に8特15分に落ちたのか』の中で、原爆投下時刻についてたくさんの資料を使って追求していると私は書いた。ここでは列記しないが、私は中条一雄に賛成である。アメリカ側と日本側は「8時15分」で合意に達していた。しかし、分単位で多少の誤差が出るのは仕方のないことだ。たぶん10分から15分ぐらいは想定の範囲であったろう。アメリカ側も原爆投下から2日後に「8時15分」と発表しているのである。予定が「8時15分」であったから、その時間の近くに投下できたから、後で記録をその時間に合わせ調整すればいいのである。私が中条一雄と諏訪の2冊の本を読んだのがきっかけで、日本側が、もっと具体的に書くならば、第二総軍が8時15分に設定して策を練り実行に移していたことを知ったのである。

 私は自説の正しさを証明しなければならない。読売新聞社編『昭和史の天皇』からの引用である。

 ・・・原爆をかぶった第二総軍首脳部の1人、総軍参謀長、岡崎清三郎中将の話も聞いておこう。
 「わたしは20年7月下旬、第二総軍参謀長になったが、その前は大阪の三越デパートにあった近畿地方軍需監理部長をしていた。これは海軍省や軍需省も一緒にした軍の出先機関で、資材の割り当てや電力の配分までやっていた。そのころ大阪の鉄道局長が、のちの総理の佐藤栄作君で週1度ぐらい仕事のことで会っていたものだ。
 それはともかく、第二総軍行きの辞令を聞いたと思ったら、7月31日、広島から飛行機で迎えにきて連れていかれた。参謀長だから参謀懸章がいるが、持っていなかったので中部軍の参謀のを借りてぶらさげていった。畑元帥に申告にいったら、
 『ソ道の動きと東京の動きがどうもあやしいから、その2点に特に配慮してくれ』 といわれたのを覚えている。
 官舎が決まるまでというので、場所は忘れたが広島市内の虎屋という旅館にはいった。変な話だが、どうも他人の参謀懸章では肩がはっていけない。そこでまだ大阪にいた女房に、広島へくる前に松江の自宅にまわってわたしの参謀懸章を持ってこいといってやった。おかげで女房は原爆をまぬかれたのだ。
 2、3日旅館住まいをしていたが、もともと参謀長官舎として上柳町(現在の橋本町)の島津邸が予定されており、島津家の疎開がはじまったので、五日の午後になって2階の1間があいたからはいってくれといわれた。もう一日おくれて虎屋にいたら、これは爆心地に近かったから、ひとたまりもなくわたしは地上から消えていたろうね。人間の運命とはわからぬものだ。・・・

 8月6日8時15分に原爆投下を知っていた畑元帥の命令で、部下のものが急遽、島津邸の「2階の1室」を参謀長室にしたのが理解できよう。新任のナンバー2を「原爆殺し」するわけにはいくまい、と畑元帥は思ったにちがいないのである。次に重要なことが書かれている。

・・・5日の夕方、井本高級参謀が移ったばかりの島津邸にきて、
『あす(6日)朝8時から偕行社で、隷下各軍の防衛参謀を集めて会議を開きたいが』 といってきた。わたしは何気なく、
『いや、9時にせい』といった。各方面からくる参謀連は、敵機がやってくる前、つまり暁闇に飛行機で飛び立つだろうから8時では到着しないものもあると思ったからだ。これも、もし8時に会議をやっていたら、総軍ばかりでなく、各年の参謀連がみんなやられ大打撃をうけたろう。・・・

 8月6日、朝8時に偕行社において、各地域の参謀を集めて会議を開くことになっていた。『エノラ・ゲイ』にも「もう12時間足らずで西日本の防衛の柱になる上級指揮官の多くの者が広島に集合する予定であった。彼らは明朝9時に、現在、元帥のいるこの部屋で会議を開くことになっていた」と書いている。8時からの会議をしているとき、間違いなく、彼らは、各地から集まった上級指揮官たちが、「原爆殺し」のメロディを聞くように設定されていた。15分後、遅れた者も席に着いているだろう。ここに第二総軍の配下の上級指揮官のほぼ全員が死んでしまうのだ。その結果はどうなるのか? 日本の国土の四半分から「終戦反対、徹底抗戦」の声が消えていくのである。神の名のもとに戦争を始めた日本は、神の名のもとに終戦を迎えねばならない。皇軍の旗を振り続けた上級指揮官が消えてしまえば、なんと都合のいいことであろうか。
 たしかに、8時が9時となった。1部の上級指揮官たちは、偕行社に着くか、偕行社に向かっていたのである。広島軍司令部の参謀たちは偕行社に行く前に、多くの兵土たちを集めて訓示を垂れていた。広島市にその時間にいた大勢の兵土たちは、上級、中級、下級を問わず、ほとんど爆死したのである。生き残ったのは第二総軍の面々であったのだ。

 もう一つ重要なことがある。それは、★第二総軍が広島市民たちを爆心地近くに動員したことである。原爆遺跡保存運動懇談会編『広島爆心地中島』(2006年)から引用する。この本の中に、「長谷川氏の手記」というものが載っている。

・・・学校関係者は、口を揃えて、〔動員された生徒が〕危険な作業に出ることを極力反対しました。しかし、軍関係者は、承知せず、防災計画上、1日を争う急務だからと強く出勤を要望しました。会議は長時間にわたり平行線をたどったのであります。
 出席の軍責任者の○○中将は、いらだち、左手の軍刀で床をたたき、作戦遂行上、学徒出勤は必要であると強調し、議長(内政部長)に決断を迫りました。議長は沈思黙考、双方の一致点を見出そうと苦慮され、やむなく出動することに決定、空襲の際は早く避難できるようにと引率教師を増やし、少数の集団として、終了時間は一般より2時間位早くすることでようやく妥結しました。・・・

この中の「○○中将」についての解説があるので記すことにする。

・・・〔○○中将とは】当時、広島の陸軍部隊には3人の中将が配属されていた。1人は船舶司令部(暁部隊)の佐伯文郎中将、1人は編成中の赤穂部隊の河村参謀中将であり、もう1人は広島の第五九軍司令官(元広島管区司令官)であり、中国軍管区司令官の藤井洋治中将であった(『広島原爆戦災史』『広島師団史』)。「軍責任者」とは藤井中将に外ならない。
 したがって最高責任者、司令官自身が前述の学徒動員実施要綱にもある1、2年生への配慮も、学校関係者の「口を揃えての」反対をも無視したこと、さらには秋吉威郎内政部長が沈思黙考苦慮した経過が明らかになった。
以上のことを裏づけるように、『広島県史(近代Ⅱ)』の「原爆と敗戦」の項では、「広島地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命じた」と記している。

 この解説の中に、「広島地区司令部の強い要請により」とは、藤井洋治中将の要請により、と理解される。彼を最高責任者としているが、私は広島の軍を指揮した最高責任者は畑元帥であったと思っている。畑元帥が藤井洋治中将に命じ、広島県知事を動かし、「8月3日から連日着勇隊3万人、学徒隊1万5000人出動させた」ものと確信する。



 どうして、8月3日から6日までなのか。エノラ・ゲイは8月3日から6日にかけて、天気のよい日を見つつ、出撃の秒読み体制に入り、8月3日すぎに「8月6日投下」と正式決定をするのである。これは偶然では決してありえない。畑元帥とテニアン島のルメイ司令官、そしてグローブス将軍、そのボスのスティムソン陸軍長官が、日本側に求めてやまなかった準備工作である。だから、夏の朝、8時ごろから子供たちが駆り出されて、強制疎開という名の瓦運びなどをさせられたのである。

 8月6日朝、偕行社に行く準備をしていたであろう藤井洋治中将は爆心地近くの宿舎で夫人とともに被爆死するのである(一説には偕行社にて死んだと書いた本あり)。藤井中将は予備役であったが、第二総軍創設の4月に畑元帥から広島管区司令官に迎えられ、6月に第五十九軍司令官、中国軍管区司令官となる。畑元帥の命令で子供たちを爆心地へ連れ込んだのである。広島市長は、藤井中将ではなく、高野知事でもなく、畑元帥に直接、「溢れる軍人をなんとか少なくしてくれ」と依頼している。この事実は、かのとき、畑元帥が広島の最高指揮者であったことを示しているのである。

 私は「原爆」を書こうとしたとき、まず、広島と長崎で被爆した人々の手記を読むことから始めた。その中で、表現としてはどうかと思うが、死者の声を聴くようになった。生き残った人々が語る言葉の中から、死者たちの沈黙の声が聴こえてくるのである。そのうちに、私はアメリカを調べようと思うにいたった。アメリカの「マンハッタン計画」について研究し始めたときに、この計画と第二総軍の創設が結びついているのではないのか、と思うようになったのである。

 暗中模索の日々が続いた。その間にも死者たちが夢の中に出てきて、私に指図するようになった。未知の彼らから「原爆の秘密」をどれだけ教えられたことか。読者は信じられないだろうが、それはそれでいい。

 私は原爆を研究する過程で、偶然に(否、必然的と私は信じているが)、1人の原爆孤老から手紙をいただいた。その人は「内密に」と書いていた。私は是非とも私の本の中に書きたいと電話した。「どうぞ」と承諾してくれた。その手紙の最後の部分を記す。

 ・・・日本海軍が米英等と特殊な関係を持っていた為、原爆を広島に落としたのも、その南方数キロの地点(江田島、桂島)に集っていた海軍エリート達に至近距離で見物できるようにアメ公が細工したものと愚考します(兵学校裏の小山は絶好の展望台の筈!)。戦後の日米協力のプロジェクトで、海軍の上層部にいた連中の数が異常に高かったわけです。・・・

私は海軍と原爆の関係についても研究・調査をしたが、この本では割愛した。第二総軍に的を絞ったからである。
 2007年、真珠湾攻撃の航空隊総指揮官であった淵田美津雄大佐(当時)の『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』が出版された。この中で淵田は原爆の前日、広島にいた、と書いている。私は淵田は偕行社に海軍の1員として行っていたと思っている。彼は宴に出席し、次の日の原爆投下の打合せをして(海軍の立場を説明して)、広島を去ったと信じている。
 『エノラ・ゲイ』の中に8月6日の淵田大佐を描いた文章があるので記すことにする。

 ・・・淵田大佐は、安沢少尉が歴史的離陸を行なったと同じ滑走路に着陸したのだが、そのことは後日全然記憶していなかった。覚えているのは、それから純白の海軍の軍服と靴と手袋という端正な服装で飛行場の出ロヘ向かって歩いて行くと、突然に「地獄から出て来たのかと思うような人たちの行列と」ばったり顔を合わせたことであった。
 彼はゾッとしながら、純白の軍服に黒い煤の降りかかるのもかまわず、広島の町へ歩いて入っていった。すでに事切れた人や、瀕死の人が溝の中に重なり、川に浮かび、道をふさいでいた。市の中心部へ近づくにつれて、淵田大佐はいよいよゾッとした。何区画もの町がまったく消え失せていた。少なくとも1マイル四方の地域には「何1つ残っていなかった」。文字通り日本を第二次大戦に引き込んだ人である淵田大佐は、その焼土の中を当てもなく歩きまわった。その光景は真珠湾攻撃から3年7か月29日後の今となって、彼に奇襲戦は両刃の剣であることを残酷に思い知らせるものであった。・・・

『淵田美津雄自叙伝』の中に次なる記述がある。少々長いが記すことにする。

 ・・・以下、述べる挿話は、私ひとりがいい子になって、広島で被爆して死んで行った人たちは、神の恩寵から外されていたのかと、ひがむ人も出るので、私はあまり話したことはないのであるが、私自身にとっては、満ち溢れる神のめぐみであって、結局、この事実が後日、私をキリスト信仰へと導いて行ったのである。
 実は、私は8月6日の前日5日まで、広島に滞在していたのであった。用件は、私は海軍総隊(昭和20年4月設置。連合艦隊壊滅後の全海軍を指揮する)の航空参謀で、兼職として南方総軍参謀でもあったので、広島の第二総軍司令部にはちょくちょく出向いていた。・・・

 淵田美津雄は海軍総隊の航空参謀であった。その海軍総隊が昭和20年4月に設置されたことには重要な意味がある。第二総軍と同じ日だからだ。「連合艦隊壊滅後の全海軍の指揮」をこの海軍総隊がとっていたのである。彼は、畑第二総軍総長の部下の大屋中佐と同じような立場にあった。「広島の第二総軍司令部にはちょくちょく出向いていた」に注目すべきである。なにゆえに淵田は出向いていたのか? 続いて読んでみよう。

・・・本土決戦について、九州防衛の協同作戦の打合せや、図上演習などは、もう済んでいたのであるが、今回は奇しくも、眼にあまるB29の跳梁をなんとか制圧出来ないものかという、航空総軍案の「制号作戦」なるものの打ち合せで、航空総軍の作戦参謀が主宰した。当時、海軍総隊としては、「剣作戦」というのを準備中で、これはマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムのB29の基地に、陸戦隊を強行着陸させて、亀の甲爆弾と呼んだ特別に工夫考案された爆弾でB29を1機1機爆破しようとの特攻作戦であったが、これにも陸軍兵力が協力しようとの打合せであった。

 淵田美津雄が書いているような「剣作戦」など、実際には存在するはずがなかった。単なる空想、妄想の産物である。制空権も制海権も完全に連合軍に握られていた。私は「よくぞ、こんな嘘を書きやがって・・・」と思えてならない。どこに原爆基地のテニアンに向こう1艇ありや、である。そのうえ海軍総隊は中国軍司令部に何1つとして米軍機来襲の情報をさえ流していないのである。続けて読んでみよう。

 ・・・会議は3日ほどで、5日の昼前に終った。私はやれやれと腰を伸ばしながら、今晩も広島に滞在するつもりで、宿舎の大和旅館に戻った。旅館は細工町にあった。宿舎に戻って、先ずは昼寝と横になっていると、室内電話のベルが鳴る。受話器をとってみると、東京近郊日吉台にある海軍総隊司令部からで、矢野志加三(しかぞう)参謀長の声である。
 「航空参謀、広島の用件が済んだら、帰りに大和基地に立ち寄って貰えないか。久安(房吉)参謀副長が航空総軍との通信施設で、あなたの助言がいるそうだ。工事関係者が明早朝に集まるから、今晩中に来てほしいそうだ」・・・

 『淵田美津雄自叙伝』は延々とこの間の事情を書き続ける。簡単に記せば、3日間も続いた会議は存在せず、彼は夜半にひそかに広島を離れて岩国基地に移ったということである。
 淵田大佐は海軍が畑元帥のもとへ送り込んだ【使者】であった。淵田は戦後、クリスチャンになった。ヨハンセン・グループ、同盟通信グループも全員クリスチャンになることで、1原爆弧老が書いたように「日米協カプロジェクト」の1員となり、「幸せという名の身分」をアメリカから与えられた。
 私は太平洋戦争開戦以前から、淵田たちはアメリカの隠れエージェントであったと思っている。
 『エノラ・ゲイ』の最後の文章に注目してほしい。

「その光景は真珠特攻撃から3年7ヵ月29日後の今となって、彼に奇襲戦は両刃の剣であることを残酷に思い知らせるものであった」

 広島原爆については書き足りない。章をあらためて書くことにしよう。真珠湾攻撃の意趣返しが長崎へのプルトニウム爆弾の投下であった。長崎を書くべき時が来た。

 ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する  <了>

  続く。 


  ●第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である

★「長崎は小倉の代替地説」のウソを暴く 


 長崎がどうして広島についで原爆が投下されるようになったのかを考察してみよう。そうすれば、広島に原爆が投下された理由もおのずから判明してくるであろう。原爆が投下されるには、それだけの理由があるにちがいないからだ。

 1945年4月27日に、目標検討委員会の初会合が開かれた(姉妹書「国外編」第五章参照)。
 この会議の模様を詳しく紹介したい。『資料マンハッタン計画』の中の「資料146 目標検討委員会初回会議覚書」から引用する。「1」から「4」は省略し、「5」を引用する。

 5。 ウィルソン博士が退出したあと会議は続き、フアレル将軍が、冒頭に行なわれた全般的討論から得られたいくつかの基本的規準を示した。
規準は次のとおりである。
a B29の最大航続距離は1500マイル。
b 有視界原爆が不可欠。
c 目標上空の全般的気象状態。
d 予想される爆弾の爆風効果と被害。
e 日本の都市地域、つまり工業地域における7月・8月・9月の爆撃状況を知る必要。
f 戦闘グループは、1つの主要目標と2つの代替目標をもつこと。

 この規準にそって、広島と長崎に原爆が投下された理由がなんとなく理解できる。「c」と「e」に注意してほしい。気象条件が原爆投下のための重要なファクターとなっていた。レーダー採用による爆撃方法も検討されたが、明確な位置決定には目標の位置確認は眼による確認とされた。小倉の視界が悪かったから、第2目標である長崎に原爆が落ちたという「伝説」(私はそのように認識している)が生まれてくることになった。「6」は省略する。「7」を記す。

 7 ファレル将軍は、目標選定に関して考えられる手順は次のようにしたらよかろう、と提言した。
 a 目標地域を選ぶ。
 b 精確な照準対象地点を選ぶ。
 c 最初の作戦隊が出撃する日取りを、可能なかぎり少ない日数(2日ないし3日)の範囲であらかじめ決定する。

 広島に原爆が投下される前に「b」が完成していた。精確な照準対象地点がきまり、第二総軍の協力を得たことはすでに書いた。「c」も広島において実行された。7月31日からは何日にでも原爆投下が可能となった。しかし、天気の回復が待たれた。8月3日から10日にかけて晴天が続くとの気象情報を得て、8月の初旬、たぶん、8月1日に第二総軍にテニアンから「8月6日投下決定」の情報が入った。それで爆心地に8月3日から6日にかけての大動員、そして上級指揮官たちが偕行社へと向かったのが8月6日の朝だった。8月3日から8月10日にかけて九州地方は天気がよかった。気象は九州から広島へと移動していくことを読者は考えられよ。だから、9日に長崎に原爆が落ちたのは理にかなっている。
 しかし、長崎も福岡も天気がよかったのに、どうして小倉が視界不良なのか。第1目標の小倉でなく、なぜ長崎に原爆が落ちたのか。
 「8」は省略、「9」を記すことにする。

 9 ファレル将軍は、以上を要約したうえで、最初の作戦のための必要条件を下記のとおり挙げた。
 a 最高指揮官は、兵器が技術的にすぐにでも使用できるようになったのち、いつ、どのように出撃するかについて責任をもつ。最高指揮官は、グローブズ将軍の軍事代表をつうじて彼に伝えられる必要な技術的助言をすべて利用できるであろう。
 b 首席気象予報官は、常時、グループの相談に応じられる状態で待機しなければならない。この仕事はランズバーグ博士に担当してもらうことを提言する。
 c 最初の作戦に適した日を知ることが絶対不可欠である。考えられる三つの目標地域について、3日間の範囲内で、作戦実施日を予測できるようにするため、徹底的な研究をすべきである。

この文中に「最高指揮官」とあるのはスティムソン陸軍長官である。「いつ、どのように出撃するかについて責任をもつ」と書かれている。★すなわちスティムソンが、8月6日午前8時15分に 広島に原爆を落とさせたのである。トルーマン大統領は何も知らされず、ポツダムから帰りの軍艦 の中でこのことを初めて知ったのである。

 では、長崎はどうか。最終的に長崎に原爆は落とされたが、最後の段階で、スティムソンが長崎に「落とせ!」と決定したのである。

 この「c」の中に重要なことが書かれている。「三つの目標」である。これについては後に詳述する。この「b」を読んでも分かるのだが、気象が重要なファクターであったことが分かる。
 「10」の「e」では、「東京では、5年に1度だけ2日連続して有視界爆撃に適する日があった」と書かれている。この時点で、三つの目標地の一つが東京であることが理解できよう。

 天皇が最高指揮官スティムソンから決断を迫られたのは、この初会合のかなり前であろう。このような会議が開かれる数カ月も前から、原爆投下の目標地に関する研究が進んでいたことは間違いのない事実である。それゆえに、天皇は第二総軍を創設し、腹心の部下である畑元帥に事の次第を説明したのであろう。一つは東京であった。もう一つの目標地についての記述がある。
 「12」の中には次のような記述がある。
 「ランズバーグ博士が、11年間の気象記録を調べ、下関と東京について答を出すこととする」
 「14」に重要な記述があるので引用する。

 14 フィッシャー大佐は、第20航空軍の指令について、あらためて一同に説明し、次の諸点を挙げた。

 a B29の最大航続距離は、高度3万フィートで1500マイルである。
 b 第21爆撃司令部は、目標順位リストに33の主要目標を掲げている。
 c 対象としうる日本列島上の目標について、次の所見が述べられた。
 (1)広島は、第21爆撃司令部の順位リストには載っていないが、これまで爆撃を受けていない最大の目標である。この都市について検討を行なうべきである。
 (2)ハ幡は、UA(都市地域)/1として挙げられているが、検討すべき地域であり、A順位リストに載っている。
 (1)ヨコホマ(横浜)は・・・〔以下略〕

 広島は順位リスト上位に加えられ、八幡が順位上位にあり、横浜とならんでいた。
 横浜に原爆を投下すれば、東京にも大きな影響を与えられる。八幡は小倉と隣接する工業都市である。八幡は上位からどうして落ちたのだろうか。原爆投下都市の決定には、1人の少将が大きく影響する。その男の名は★カーチス・ルメイ少将である。彼が考案した爆撃技術によって太平洋戦争の戦局は大きく変貌した。リチャード・ローズの『原爆から水爆へ』から引用する。

 ・・・1945年はじめ、この問題を打開するために、ルメイはグアムに呼び寄せられた。爆撃の精度を高める方法を研究するかたわら、彼と参謀たちは空襲の写真と日本の高射砲に関する報告書を検討した。その結果、彼らは日本軍には夜間戦闘機がないことと、日本の対空砲火の照準が高高度に偏っていることを見出した。「低空からの攻撃に対する防空体制は全く認められない」とルメイは結論を下した。
 日中に低空から精密爆撃すれば、ルメイのクルーが危険にさらされる。夜間精密爆撃用に改良されたレーダー爆撃照準器は、まだ使用できなかった。米国陸軍航空軍は陸軍と海軍が日本に進攻する前に、航空戦力で戦争を終わらせたいと望んでいた。そこで、ルメイは根本的に新しい戦略を編み出した。彼はB29の爆撃搭載量を増すために、余分な装備をとりはずさせた。そして、1945年3月10日の夜、ゼリー状ガソリンを詰めた集束焼夷弾をそれぞれ1万ポンド〔4500キログラム〕搭載した325機のB29を東京上空に出撃させたのだ。

 東京大空襲である。1夜のうちに、日本の首都の42.8平方キロメートルが全焼し、10万人が死んだ。私たちはルメイの言葉を知る必要がある。「・・・日本においても、ヨーロッパにおいても、戦時の空襲がこれほど大量の人命を奪い、財産を破壊した例はない」
 この大空襲で、東京と横浜が焼け野原となり、アメリカが秘密裡にすすめていた原爆投下候補地が大きくくずれていく。スティムソンはグローブス将軍に命じ、ルメイに原爆投下の全貌を教えることになる。

 それでも不思議なことがあるものである。ヨハンセン・グループの1員白洲次郎が、この東京大空襲の投下日を事前に知っていたということだ(「国外篇」第六章参照)。このことは間違いなく、1945年の春から(遅くとも)、ヨハンセン・グループを通じ、グルー国務次官経由で原爆情報が天皇のもとへ届けられていることを意味する。3月10日の東京大空襲と第二総軍の設立がセットになっていることを意味する。
この東京大空襲について、リチャード・ローズは次のように書いている。

 ・・・戦後久しく経って、ある勇敢な士官候補生がルメイに対して、「日本の爆撃に関する決断に、道徳的な考慮はどの程度影響を与えたか?」という旨の質問をした。南北戦争の北軍司令官ユリシーズ・B・グラント将軍に劣らず非情なルメイは、例によってぶっきらぼうにこう答えた。
 「あの当時、私は日本人を殺すことについて、たいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは、戦争を終わらせることだった。だから、この任務を遂行すれば何人殺すことになるかということなど、とりたてて気に病んでいなかった。もし、戦争に敗れていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに、われわれは勝者となった。ついでに言えば、われわれが広島と長椅に原爆を落として多くの人々を殺したことを、誰もが嘆いている。たしかに、これは道義にもとる行為だろう。だが、日本の産業都市を残らず焼きつくした攻撃作戦については、誰も何も言わない。しかるに、東京に対する最初の焼夷弾攻撃は、原爆より多数の人命を奪ったのだ。どうやら、これは正当な行為だったらしい・・・。
 君の質問に率直に答えるなら、答はイエスだ。軍人は誰でも、自分の行為の道徳的な側面を多少は考えるものだ。だが、戦争はすべて道徳に反するものなのだ。もし、君がそのことで悩むようだったら、君はよい軍人ではない」・・・

 このルメイの「ぶっきらぼうな答」の中に、広島と長崎に原爆が投下された理由も書かれていると私は思っている。あの東京大空襲で100%近く、否、100%、日本は敗北していた。その中で天皇は第二総軍を設立する。鈴木内閣が設立したのではない。はっきりと畑元帥がそのように書いている。
先に紹介した畑悛六の「第二総軍終戦記」から引用する。

 ・・・この二軍を東部は杉山元帥、西部を余にて担当する経緯に就ては聊か説明を要するものあり。初めは東を朝香宮大将、西を東久邇宮大将にて担任せられることを至当とし、当局より御内意を伺ひ御承諾を得たるところ、急に其任にあらずとして御辞退に相成りたり。・・・

 鈴木貫太郎内閣の後を継いだのが東久邇宮である。この皇族を「御承諾」させうるのは天皇裕仁以外にありえない。東京大空襲を受け、天皇は決断を迫られた。畑は「昭和20年の春季愈々本土決戦を決定することとなり」と書いているが、本土決戦とは名ばかりで、食糧も武器も石油もなくなった本土にルメイの爆撃機の無差別攻撃を連日許すというのが真実の話であった。天皇は自分の身の保障を求めて、ヨハンセン・グループのルートで交渉し続けた。そして、原爆投下(予定)地が次々と変更されていった。どうして長崎に? 廻り道をし続けた。廻り道をしなければ、本当の道が見えてこない場合もあるのだ。
 「目標検討委員会初回会議覚書」に話を戻したい。この覚書の[15」の中に、爆撃都市の規準が定められている。

 ・・・
a より広い人口集中地域にあり、少なくとも直径3マイル以上の広さをもつ都市地域について検討を加えるべきである。
 b 目標は、東京・長崎2都市間に位置する地域とする。
 c 目標および(または)目標地点は、高度の戦略的価値をもつものとする。
 d 次の地域が研究対象として適当と考えられる。東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、シモセンカ(下関)、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保。・・・

 「b」の「目標は、東京・長崎2都市間に位置する地域とする」を読むと、不可解な点が見えてくる。最終的な攻撃目標に新潟が入っていた点である(「国外篇」第七章274頁参照)。
 7月24日付のスパーツ文書では、「広島、小倉、新潟、長崎」となっていた。新潟はテニアン島から遠く燃料不足の面もあった。私はこれは1種のフェイント作戦だったと思っている。広島、小倉、長崎と続くのが彼らの目標であったことは、『米軍資料 原爆投下の経緯』1996年)を見ても理解できる。この米軍資料については後述する。
 数多くの都市が候補地として挙がっていた。しかし、ルメイの空襲により多くの都市が破壊されていった。この覚書の中にも、次のように書かれている。
 「第20航空軍は、邪魔な石は残らず取り除くという第1の目的を念頭に置いて次の都市を組織的に爆撃している。東京、横浜、名古屋、大阪、京都、神戸、八幡、長崎」

 それにもかかわらず、なぜ長崎に原爆が落とされたのか。

 私は、最高指揮官が最終的に投下都市を決定することになっていた、と書いた。スティムソンの意向で最終的に長時に決定した、と私は思っている。小倉は曇っていた。それゆえ、爆撃機は急遽長崎に原爆を投下したと巷間いわれている。私はこれは「伝説」であると書いた。私は最初から、第2の原爆投下地は長崎であった、と確信しているのだ。その隠された闇の領域へと読者を案内する。太平洋戦争の本当の原因が何であったかが見えてくるはずである。

  続く。
 


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