カウンター 読書日記 ●原爆投下(4)
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●原爆投下(4)
 ★謀殺された徹底抗戦派・戦争終結反対者たち 

 天皇の御文庫は皇居内の地下にあった。その地下室に大本営は設置されていた。大本営から発表される通達は、天皇の命令であった。4月1日の第一総軍と第二総軍の設置に関し、大本営は次なる発表をした(『戦史叢書「本土防空作戦・大陸命綴」』 朝雲(しののめ)新聞社)。

 1 大本営ノ企図ハ本土二侵冦スル敵軍ヲ撃滅シテソノ非望ヲ破催スルニ在リ
 2 第一総軍司令官、第二総軍司令官オヨビ航空総軍司令官ハ本土要域二侵冦スル敵ヲ撃滅スヘシ
 3 第一総軍司令官、第二総軍司令官ノ任務達成ノタメ準拠スヘキ要綱左ノ如シ
  (1)戦備ヲ速急二強化シ本土要域二侵冦スル敵二対シ決戦ヲ指導シコレヲ撃滅スル
 コレガ為戦備ノ重点ヲ関東地方オヨビ九州地方二保持スル

 日本人は単純にできている。兵土たちは、上官からこの大本営発表を知らされ、重装備のアメリカ軍の上陸にそなえて、ひたすら九州の鹿児島、宮崎、熊本の山の中に、穴を掘り続けた。どうして穴かと問うてはいけない。穴を掘る以外にすることがなかったのである。大砲も銃もなく敵を撃破しろと言われた兵士たちは空腹をかかえ、穴を堀り、その中で寝た。これが「戦備ヲ速急二強化」することであった。「本土要域二侵冦スル敵」を穴の中へと誘導し、「決戦ヲ指導シコレヲ撃滅スル」べしというのが、天皇の発案であった。

 では、どうなったのか? 彼らは神である天皇の言葉を信じる他に考えることがなかったのである。もし少しでも疑えば、自分が掘った穴の中に入り「墓穴を掘る」ということになっていた。その兵士たちを上官は「オ国ノタメダ」と叱咤激励し続けたのだ。
 だから、終戦工作の噂が流れだしたとき、九州一円の幹部将校たちは「戦争を継続させよ」の声を一斉に上げたのである。

 畑悛六元帥は頭脳明晰である。彼はすべての情報を分析し、8月6日午前8時には必ず会議に出席せよ、との通達を九州から大阪にいたる各司令官に出した。親分の言葉に従わないヤクザの子分がいないのと同様で、彼ら司令官たちは偕行社の会議に出席すべく万難を排してかけつけた。前日に着いた司令官たちは、岡崎清三郎新参謀長の着任祝いを兼ねた前夜祭に出た。原爆投下の前夜、県知事、広島市長、政・官・民の大物たち、広島軍司令部の幹部たちが集まって、畑元帥の大盤振舞いに大喜びした。広島芸者たちが華をそえたことは言うまでもない。そして、乱痴気騒ぎの後はご覧の通り、となる。
 ここでは、8月6日の夜の宴に出た広島市長のことを書いてみよう。
 ゴードン・トマス、マックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』から引用する。

 ・・・アメリカ捕虜から50ヤードばかりしか離れていない市庁舎の中で、粟屋仙吉市長は圓山和正係長が最近の統計数字を並べるのに耳を傾けていた。その日の朝までに3万人の大人と11歳から17歳まで1万1千人の学校生徒が防火帯設置のために勤労奉仕させられた。7万戸以上の住宅が壊され、戦時のピークの市の人口34万のうち6万人がすでに疎開した。防火帯設置のために家を失う人がいよいよ増加したので、2、3日中に第六次の強制疎開が始まる予定であった。今朝、圓山係長は市の残存人口を28万人と推計した。
 広島市の人口は確かに滅少していた。戦前、市中には2千軒近くの食料・飲食関係の店があったが、そのころには150軒以下となっていた。しかも残存の大型店には「軍にのみ供給しろ」との命令が出されていた。第二総軍からの通達であった。市民は雑炊を食えればよいほうであった。この実情はすでに書いた。

『エノラ・ゲイ』を続ける。

・・・労働者の得る金はしかしほとんど無価値であった― 淫売窟の腹を空かせた売春婦までが現金を受け取ることを拒んだ。彼女たちも、広島の他の多くの人々と同じく、食物の現物でなければ受け取らなかった。
 圓山係長が次々に困ることを並べているのを聞いているうちに、粟屋市長は「事態を一変させ、この狂気の沙汰を止めさせる」には道は1つしかないと悟った。粟屋市長はすぐに畑元帥に面会を求めるつもりだと圓山係長に話した。・・・

 これは、8月3日の記述である。「この狂気の沙汰」とは、市民がいくらかは強制疎開させられて人口は減ったが(家を壊されたため)、軍人たちが溢れ出したことを意味した。食糧を供給できなくなったのだ。『エノラ・ゲイ』には次のように書かれている。

 ・・・圓山係長は市長に気をつけるようにすすめた。表向きの面会はいいやり方ではあるまい。畑元帥はそういう場合には、頑として言うことを聞かないので有名であった。それよりももっと肩の凝らない、打ちとけた場で元帥をつかまえたほうがよい。もう2日後の8月5日にはちょうどいいチャンスがある。市長はその日市庁のすぐそばの偕行社の懇親会に招待されていた。その晩なら、粟屋市長は酒の間に畑元帥に意見を述べられるだろう。・・・

8月5日に場面を移そう。やはり『エノラ・ゲイ』の記述である。

 ・・・広島では、1つの宴会がいまたけなわであった。畑元帥の部下の新任参謀長の歓迎宴に出席するため、招かれた客たちが6時から偕行社に到着していた。民間人の客は県知事と上級の役人たちと粟屋仙吉市長とであった。その民間人の客と50名ばかりの幕僚たちとが畑元帥と新任参謀長と同室に集まっていた。他の客たちは次の間の宴会場で飲んでいた。畑元帥と参謀長とは先刻ちょっとそちらの宴会場に顔を出して挨拶してからまた奥の間に帰り、そちこちの客の群れをまわって酒を飲み、丁重な会話を交わしていた。・・・

 私はこの宴会の模様を書いた本は他にないものかと探したが、皆無であった。宴会があったとの1行ないし2、3行の記事は発見した。しかし、日本人の書いた原爆関係の本は、この宴会を重要視していないのである。原爆投下の本質を見究めようとする姿勢が欠けているように思えてならない。だから、この『エノラ・ゲイ』を読み続けてみようではないか。

 ・・・粟屋市長は少し間を置いては奥の部屋の出口のところに近づいていった。そこには圓山係長が冷たい茶を入れた徳利を手に辛抱強く待っていた。粟屋市長は絶対禁酒主義者であった。そこで市長が人から酒をすすめられた時、断わるのが面倒だから、市長の盃を茶で満たしておくのが圓山係長の仕事であった。
 それまでのところ、粟屋市長の目論見はうまくいかなかった。畑元帥をつかまえて広島の情勢の悪化について「真面目な議論」をしようという市長の計画は不成功であった。畑元帥は市長をうまくかわして逃げた。そこでもう1杯の茶で勢いをつけて、粟屋市長はもう1度是が非でも主人役の元帥に自分の意見をはっきり言おうと決心して部屋へ引き返した。・・・

 次の文章の中に「東京から帰ったばかりの大屋中佐」というのがある。大屋は7月27日に東京で有末精三中将と会っている。1週間ほど東京にいた。そして、この日に広島に帰り、この宴会場に直行していた。間違いなく、原爆投下に関して、広島軍司令部も、一般市民たちも無知であることを報告したにちがいないのだ。この日は、日本政府が「黙殺」をアメリカに伝えた日であり、テニアン島では「8月6日・広島原爆投下」が決定した日でもある。引用を続ける。

  ・・・市長に引きかえて、畑元帥部下の諜報主任の大屋中佐は元帥と話をするのに何の苦労もなかった。東京から帰ったばかりの大屋中佐が宴会の席に着くとすぐ、畑元帥は中佐をつかまえて、東京の状況についてその生ま(ママ)の報告を聞きたがった。大屋中佐は、東京のこうむった大きな損害はそのまま伝えたが、しかし日本の他の地方と同じく、東京でも国民の士気は依然として高いと報告した。2人は大屋中佐が1日がかりで書き上げた、最も最近の(ママ)軍事情勢の報告について簡単に意見をまじえた。その報告は、畑元帥が明朝開催する通信部隊全体会議の議論の主要題目になるはずであった。もう12時間足らずで西日本の防衛の柱になる上級指揮官の多くの者が広島に集合する予定であった。彼らは明朝9時に、元帥のいるこの部屋で会議を開くことになっていた。

私は「その報告は、畑元帥が明朝開催する通信部隊全体会議の議論の主要題目になるはずであった」と書かれた内容に異論を唱えたい。次項で書くことになるが、畑と大屋が宴会の席で緊急の会談を持ったということは、その必要性が存在したからだ、と私はみている。
 大屋は何を畑に話したのが。それは有末から伝達された事項にちがいない。何か緊急を要するのか、を考えたとき、私は必然的に、翌日8時15分に落ちる原爆で生き残る人と、死んでもらう人の選別の結果を畑元帥に大屋中佐は伝えたと思う。この宴席で酒を飲んでいる人たちの中で「誰と誰に伝えろ」と有末が語った、と私は信じている。従って、死んでいった人々は、畑元帥か大屋中佐から耳打ちされなかった人々に違いないのだ。これが私の推論である。『エノラ・ゲイ』を続けて読むことにしよう。

 ・・・大屋中佐は、今夜の宴会に来ている客のなかで、明日〈二日酔い〉で出て来るのが何人ぐらいいるかなと思った。もう大分飲みすぎたのがいた。しかし第二総軍司令部の高級将校の大半と、作戦主任参謀・井本熊男大佐と、片山二良大佐参謀と、李遇公殿下とは、控え目に飲んでいた。片山大佐は明朝8時に歯医者にいくことになっているので、酒を飲むとよくないからだと説明した。・・・

 私はこの文章を読み、どうやら『エノラ・ゲイ』の2人の著者は、広島で取材し、第二総軍の大屋に的を絞っていくなかで、原爆投下の機密をしっかりと知り尽くしたと思っている。この文章はそれを暗示しているからだ。次項でこのことを詳述することにしよう。
 ついに、粟屋市長と畑元帥の会見の場が描かれた文章が登場する。ゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツは間違いなく、この原爆投下の隠された秘密を知っている。以下の2人の文章がそれを暗示している。

 ・・・粟屋市長がもう1度畑元帥に食い下がると、元帥は2、3日中に相談しようと漠然とした約束をした。市長はがっかりしたが、もうあきらめて家へ帰ることにした。粟屋夫人は、最近自宅に預かることになった3歳の孫を連れにいって、広島へ帰ったばかりであった。
 圓山係長は市長を邸まで車で送って、それではいつものとおり、朝8時にお迎えにきますと言った。それが2人が交わした最後の言葉となった。・・・

  元帥が「2、3日中に相談しようと漠然とした約束をした」ことに粟屋市長は「がっかりした」のである。粟屋は宮城県仙台で鉄道省官吏の粟屋頴祐の子として生まれた。東京帝大法学部卒業後に内務省に入り、大分県知事、農林省水産局長などを歴任した後に1943年から広島市長となっていた。後は畑元帥の約束の中に広島の未来図を読み取ったにちがいないのだ。彼は自宅で妻と孫とともに被爆死した。否、次のように書くことにする。彼は妻と子と孫とともに、何者かによる「原爆殺し」という殺しに遭った、と。『エノラ・ゲイ』に書かれている粟屋市長に関する記事を列記し、この項を終わることにしよう。8月6日の朝の出来事である。

 粟屋市長の家でも、圓山係長のささやかなアパートでも、その他広島市内の百万軒の家でも、広島放送局の流すお決まりの軍歌を聞きながら、粗末な朝飯が始まっていた。

 〔エノラ・ゲイの機上で〕ジェブリンは秒読みを続けた。あと5秒。その同じ瞬間に - 爆弾の内部では、地上5000フィートの高度で気圧スイッチが動いた。爆弾の外殻が空気をつんざく音がごうごうという衝撃波音に高まっていたが、まだ下界では聞き取れなかった。
 地上では圓山和正係長が、毎朝出勤前の決まりどおり粟屋市長を迎えに市長邸へ向かっていた。

 圓山和正係長は爆心地から約1マイルのところで、石の柱のそばに投げ出された。彼が我に返る頃には、【巨大なきのこ雲】が広がって日光がすっかりさえぎられ、広島は暗闇に包まれようとしていた。圓山係長はよろよろよろめきながら家へ帰ったが、その途中のことは何も覚えていなかった。
 圓山係長の倒れていた場所から遠くない場所には、彼が忠実に仕えていた粟屋仙吉市長がいた。市長邸は倒れて、火に包まれていた。粟屋市長と14歳の息子と3歳の孫とは即死であった。夫人と令嬢はあとで亡くなった。圓山係長はその翌日、元気を取りもどすと、まだくすぶっている市長邸の焼跡へ行って、市長の遺体を掘り出した。

 ★謀殺された徹底抗戦派・戦争終結反対者たち   <了>

  続く。 


  ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 ★生者と死者と、あるいは賢者と愚者と 


 畑俊六の「畑俊六日誌」が『統・現代史資料4・陸軍』(1983年)に所収されている。その中に「原爆を経験す」という1文がある。抜粋して記すことにする。

 原爆を経験す
 余は昭和20年4月7日愈々本土決戦の体勢を採る日本本土にニケの総軍ヲ設けられし際、杉山元(元帥)と共に第二総軍司令官を拝命し、参謀長・若松只一中将以下幕僚を帯同して14日任地広島に到着したり。不取敢(とりあえず)旅宿吉川旅館に入りたるが到底長く宿屋住まいも出来ざれば、所々物色の果、広島県多額納税貴族院議員たる松本勝太郎の住宅が市の東郊二葉山の麗にあり、青松の間に建てられたる新築にして、総軍司令部にあてられたる旧騎兵第五聯隊兵舎より3、4百米過ぎざる近距離に過ぎざりしかば、同氏の好意によりこゝを借り受けることとなり、5月11日にはチヨも東京より来り移りたり。・・・

「松本勝太郎」と文中にあるのは、松本俊一外務次官の父親である。
 畑俊六元帥でさえ、原爆がどの程度のものであるかを具体的には知らなかったと思える。俊って、爆心地からかなり離れていても爆風に驚いたことは間違いのないところである。原爆投下当時の模様を次のように書いている。

 ・・・爆裂1発落雷の如き物音を感じたりしに、屋根瓦は殆ど落ち家中のガラスといふガラスは1枚残らず粉砕せられ、輝子は瓦の為手足に負傷し、チヨは幸ひ怪我はなかりしも顔と胸部に火傷を負ひたり。余は家の内部にありし為か微傷一つ負はず、千賀子も落ちたる梁に畳1枚浮き上りてこれに引かかりたる其の下にこれまた頭に少しばかりの擦り傷を負ひたるのみにて泣き出したればチヨは直に駈けよりて抱き起したり。・・・

 畑元帥が「余は家の内部にありし為か微傷一つ負はず」とあるは、さすがに武士の鑑だけのことはある。彼はそのとき、何をしていたのか。宍戸幸輔は『広島・軍司令部壊滅』の中で次のように書いている。

 ・・・官邸は、二葉山の麗の東照宮西側にある松本代議士の別荘が当てられていた。
 高い石段を息せき切って上ると、司令官は軍装に身を整え、庭に椅子を持ち出し、軍刀を杖がわりにして、眼下に炎上する市街を見下ろしながら、しばらくは無言であったが、やがて「この状況を中央に報告するように」と一言命じられただけであった。・・・

『エノラ・ゲイ』には次のように書かれている。

・・・畑元帥は菜園の手入れをすませ、神棚に向かって手を合わせ、通信会議へ出るために衣服を着がえようとしていた。彼は頭上の敵機には気づかなかった。・・・

『エノラ・ゲイ』の著者は「彼は頭上の敵機には気づかなかった」と書いているが、畑元帥は間違いなく、原爆が8時15分に落ちることを知っていたのである。大屋中佐と前夜の宴会の席で慌ただしく話したこともそれを証明していよう。読売新聞社編『昭和史の天皇』から引用する。

 ・・・そうこうしているうちに、つぎつぎと報告がはいってきた。まず第二総軍首脳部がどうなったか。橋本正勝作戦主任参謀の話を続けよう。
「畑軍司令官は爆心点からかなり遠く離れていたので、家には被害があったが、ほとんどケガされていないという。しかし岡崎清三郎参謀長と真田穣一郎参謀副長は相当の負傷をされた、生命には別条ないということだった。それで一応はホツとしたが、もう一つ心配したのは、教育参謀をしておられた李殿下の行方だった。
 当時、殿下は広島から2つ西側の駅がある己斐に仮御殿があり、そこから総軍司令部へお通いだった。妃殿下は京城におられたので、われわれ参謀部のものは、戦況からみて、早く妃殿下をお呼びしなくてはいけないなあと、寄り寄りに話していたものだった。〔中略〕戦前、戦中は、皇族とは大変に貴いものであり、われわれもいい意味でだが、いろいろと気を使っていたものだ。〔中略〕
 この日、殿下はいつものように2人の乗馬の護衛憲兵をしたがえて、ちょうど市の中央にある福屋デパートの横にきておられたのだそうだ。そこは爆心地からわずか1ブロック半ぐらいの近さだった。総軍司令部は大打撃をうけたが、その混乱の中でも、殿下の消息が皆目わからないので、徹底的に捜査するように下命するとともに、宇品の船舶司令部にまで命じ、舟艇を出して各河川も捜索させた。ようやく夕方になってこの舟艇が殿下を発見したのだ。
 殿下は馬から飛ばされ徒歩で近くの相生橋までこられたが、体力が尽きたのか、相生橋の橋ゲタの下にうずくまるようにして避難されていた。おそらく軍人の直感として、火だから水、と反射的に橋の下にはいられたのだろう。直ちに船で似島(にのしま)にある海軍病院に収容、手当てを加えたが、この間、吉成中佐は責任感というか、焦燥感というか、そばでみていることが出来ないほどだった。・・・

 吉成中佐は責任をとり自殺した。橋本正勝は続けて、「殿下の遺骸は直ちに総軍機で白石警備参謀がお供して、京城の自邸へお運びしたのだった。そして白石参謀は京城から帰って、こんどは畑元帥のお供で上京、たまたま親類にあたる森近衛師団長をたずねていたところへ、入ってきた反軍の将校に殺されたのだ。白石参謀も気の毒な人だった」と書いている。
「畑俊六日誌」の続きを読んでみよう。

 ・・・片山大佐参謀は歯の治療にて陸軍病院に赴く途中遭難して行方不明となり、又この直前支那より転勤せられたる参謀・李殿下は己斐の宿舎より出勤の途中遭遇して一時行衛(ママ)不明なりしが、似島検問所に収容せられたることを夕刻に至り承知したるが、翌日未明逝去せられたるは悼ましき限りなりき。・・・

 私は、畑元帥と大屋中佐が生者と死者を選別していた、と思えてならない。片山大佐は参謀といえども傍受室の情報を受けていなかったと思われる。前夜のあの宴会の場面を思い出してほしい。『エノラ・ゲイ』に「片山二良大佐参謀と、李公殿下とは、控え目に飲んでいた。片山大佐は明朝8時に歯医者にいくことになっているので、酒を飲むとよくないからだと説明した」と書かれている。この記事の中に『エノラ・ゲイ』の著者は、生者と死者の明日の姿を見事に描き切っているのではなかろうか。なお、その文章の前になんとも不気味な文章があるのだ。
 ・・・ 大屋中佐は、今夜の宴会に来ている客の中で、明日二日酔いで出て来るのが何人ぐらいいるかなと思った ・・・ 

 私は、片山大佐は畑元帥、大屋中佐から情報を与えられていなかったと思う。あの傍受室と、鯉城の傍の二世の女性ばかりの傍受室も、畑元帥と大屋中佐のみが支配、情報を参謀第二部の有末中将にのみ流していたと思っている。情報が片山大佐に伝わっていれば、彼は宴の席で「明日は歯医者にいく」とは決して言わないであろう。李殿下も知らされていなかった。だから、原爆投下時に、爆心地近くで被爆したのである。多くの第二総軍の人々は、二葉の里にいたから助かったのである。新任の岡崎参謀長も重傷を負っている。彼もまた、畑元帥から知らされなかったとみる。
「畑俊六日誌」を続けて読む。

 ・・・余が家は新築なれば倒潰(ママ)はせず、爆発方向に大部傾きたれど固より雨露を凌ぐに足れば、之を開放して大塚夫人及子息令嬢、獣医部長夫妻、参謀長などに開放したり。大塚惟精氏は行政協議会長(広島方面の監察官〔中国地方総監〕として知事の上にあり)広島市に赴任し来り、爆撃の前々夜など知事(高野源進という会津人なり)、参謀長、大塚氏など会食したる程なりしが、当日は官邸の倒潰と共に梁木に圧せられ夫人等も之を救出するに由なくみすみす焼死されたるは誠に気の毒に堪へざる次第なりき。高野知事も当日は恰も出張中にて災難は免れたれど、夫人を喪ひ、又中国軍司令官・藤井洋治中将は家族と共に師団長官舎にありしが、爆心地が其の直上なりし為痕跡も止めず飛散したり。・・・

 大塚惟精(行政協議会長)は原爆投下日時を知らされていなかったがゆえの爆死であろう。また、中国軍司令官である藤井洋治中将とその部下たちを入れた数万人は、第二総軍の傍受室の情報を一切伝達されていなかったから、これも当然の爆死である。大塚惟精と藤井洋治は「原爆殺し」に遭ったのである。
 問題は高野源進という県知事である。彼は運よく生き延びた。しかし、夫人は官舎で爆死している。私はこの高野知事が何か緊急の事態があり、出張したのかを可能なかぎり調査した。しかし、その出張の内容が全く分からない。NHK出版編『ヒロシマはどう記録されたか』(2003年)には次のように書かれている。

・・・袋町小学校の友田さんや広島女子商業の笹森恵子さんたちが、被爆後最初の不安な夜を過ごした比治山のふもとに、多聞院がある。この多聞院は、県庁が空襲を受けた際の避難所に指定されていた。しかし、指定の順番は6番目になっていた。第1が市役所、第2が本川国民学校、第3が福屋百貨店、そして次が商工会議所、安芸高等女学校となっており、この5番目までがすべて壊滅し、ただ1つ残された避難所が、6番目のここ比治山多聞院だった。県知事高野源進はその目業務で福山に出張をしており、難を逃れた。彼は広島全滅の知らせを受けて急遽広島に戻ろうとしたが、動きがとれなかった。なんとか列車、車を乗り継いでここに到着したのが、午後6時半だった。・・・

 私は高野知事が原爆投下の日時を畑元帥か大屋中佐から知らされて、逃げたと思っていた。そのアリバイエ作を業務の内容に求めたが失敗だった。ほぼ、断念しかけていた。

 ・・・当時県庁には7百人近い職員がいたが、ほとんどの人が被爆死していた。幸運にも助かった職員が何人か集まって、県の防空本部、つまり臨時の県庁がこの多聞院に開設されたのが夕方5時を過ぎていた。
 この夜、多開院に集まった1人、太宰博邦さんは、当時特高警察課長をしていた。人々に怖がられた肩書きを気にして、広島での体験についてほとんどマスコミの前では語ることがなかった大宰さんが、初めてドキュメンタリー「爆心地の夜」の証言者として、生放送のマイクの前で話をしてくれた。太宰さんは、その後官僚の世界で階段を上り詰め、厚生事務次官を務めた後、そのときには社会福祉協議会の副会長という重責を担っていた。
 大宰さんは、あの日のことを次のように語る。

 「じつは、私はあの日の直前まで東京に呼ばれて行っていたのです。『いよいよ本土決戦になると、中央との連絡が絶えるだろうから、それぞれにやってくれ』という命令を受けて、自宅に帰り着いたのが、ちょうど被爆の1時間前なのですね。それで横川(爆心地から約1.5キロ)の家で被爆し、県庁のある東のほうは真っ暗なので、比較的明るい北の可部のほうに向かって逃れていきました」

 それでは、私が解いた謎について記すことにしよう。推理小説風に書くが、真実であることにかわりはない。

  - 畑は嘘をついている。「前々夜など知事、参謀長、大塚氏など会食したる程なりしが」は、間違いなく、前夜、すなわち原爆投下の前日の夜である。畑は嘘をつかなければならない、と心の中に思い続けていた。そして、この前夜の宴に参加し、生き残った少数の者たち(ほとんどが「原爆殺し」に遭った)に、この夜のことを喋ってはならぬと厳命した。だが、『エノラ・ゲイ』の著者2人はたまたま粟屋市長のことを調査中に、この夜の宴を知った。
 もう1つ、畑は嘘をついている。「高野知事も当日は恰も出張にて災難は免れたれど」ということである。『ヒロシマはどう記録されたか』の中にも「県知事高野源進はその日業務で福山に出張をしており、難を逃れた」と書かれているが、これも嘘をついている。

では、真実は何処にありや、である。答えはいたって簡単である。県知事高野源進が「広島全域の知らせを受けて急遽広島に戻ろうとした」の中に明確に書かれている。高野は8時15分に福山にいた、とこの文章は読み取れる。高野は業務で8時15分、福山にいた。そこに知らせが入った。だが動きがとれなかった。それで列車、車を乗りついで帰った。午後6時半であった・・・。

 高野は5日の夜遅くまで酒宴にはべっていた。午後6時から出席者がやって来たとあるから、いくら早く始まったとしても、7時ごろであろう。『エノラ・ゲイ』には、宴席にあまり気がすすまず、静かに酒を飲む人々が描かれているが、高野はその中には入っていない。宴の席で畑や大塚や藤井たちとはしゃいでいたのであろう。ということは、高野はどうして翌朝の8時15分に福山にいられたのかということになる。もし、福山にいたとすれば、陸路で百数十キロ離れた福山(岡山県との県境にある都市)まで夜中にどうして移動できたのか、という問題が生じる。
 とすると、高野は密かに第二総軍の車に乗せられ、偕行社の宴会場から福山に連行されたと考える以外になかろう。そして、福山で、広島への原爆投下の通告を受けたのである。それゆえ、彼は彼の妻にも連絡がとれず、残された彼の妻は、畑が書くように「高野知事も当日は恰も出張中にて災難は免れたれども夫人を喪ひ」という結果となったのである。
「なんとか列車、車を乗り継いでここ〔比治山多聞院〕に到着したのが、午後6時半だった」と書かれているのにも注目したい。被爆当日の混乱のなかとはいえ、福山から10時間もの行程である。宴会の当夜には列車の運行は休止されている。高野は間違いなく、車で夜中を福山に向かって行っている証拠が、この文章の中に明らかにされている。

 では、どうして高野が助けられたのか。それは、原爆投下後の混乱を収拾するためであった。粟屋市長が本当は適役であった。しかし、畑は粟屋市長を嫌悪した。それゆえ、粟屋は「原爆殺し」の犠牲者となった。

 『ヒロシマはどう記録されたか』からの引用の後半部を読んでほしい。太宰博邦特高警察課長について書かれている。破もまた「原爆殺し」を免れた1人である。否、正確に書くなら、「原爆殺し」の共犯者の1人である。アメリカの捕虜を尋問したのがこの太宰課長である。この太宰がアメリカ兵を尋問し、アメリカによる原爆投下の詳細を大屋に伝えたのである。彼もまた、高野と同じように難を逃れた。どうしてか。憲兵隊本部は爆心地近くにあり、ほとんど全員が爆死したのである。爆心地から約1.5キロの自宅にいて、割れたガラスの破片が頭部に飛んできて軽傷を負った。しかし、彼はぎょうぎょうしく頭部を包帯に包んで原爆患者を演じてまわるのである。彼の次の言葉が、「原爆殺し」の何たるかを物語っている。

 ・・・「じつは、私はあの日の直前まで東京に呼ばれて行っていたのです。『いよいよ本土決戦になると、中央との連絡が絶えるだろうから、それぞれにやってくれ』という命令を受けて・・」

 8月初旬、本土決戦の兆しは全くない。オリンピック作戦は計画が承認されたが、マッカーサーとニミッツは、一休止していた。九州の軍司令部もなすことなく、兵土たちに、ひたすら墓穴を掘らせていた。間違いなく太宰は大屋と同行している。しかし、大屋は一足はやく広島に帰らなければならなかった。有末中将、そして有末の上司たちとの会談の結果を畑元帥に伝えなければならなかったからだ。
 第二総軍の畑元帥、広島県知事の高野源進、特高警察課長の太宰博邦のトップ3人はかくて無事であった。彼らは多聞院にその8月6日の夜に集い、原爆処理対策を練ることになる。その対策を大屋中佐が有末中将と有末の上司から頂いて、広島に持ち帰ったのである。

 次に1945年8月7日に出された「知事諭告」を記すことにする。この諭告の中に、「原爆殺し」の主犯たちの思想が見事に表現されているのを読者は発見するだろう。
 広島県編集・発行の『広島県史 原爆資料編』(1972年)からの引用である。

1.左ノ布告文ヲ60枚宛各所二配布掲示セリ
イ、知事諭告
今次ノ災害ハ惨悪極マル空襲ニヨリ我国民戦意ノ破砕ヲ図ラントスル敵ノ謀略二基クモノナリ広島県民諸君ヨ 被害ハ大ナリト謂モ之戦争ノ常ナリ 断ジテ怯ムコトナク救護復旧ノ措置ハ既二着々ト講ゼラレツツアリ 軍モ亦絶大ノ援助ヲ提供セラレツツアリ 速二各職場二復帰セヨ 戦争ハ1日モ休止スルコトナシ 一般県民諸君モ亦暖カキ戦友愛ヲ以テ羅災者諸君ヲ労リ之ヲ鼓舞激励シ 速カナル戦列復帰ヲ図ラレ度シ
本次災害二際シ不幸ニシテ相当数ノ戦災死者ヲ出セリ 衷心ヨリ哀悼ノ意ヲ表シ 其ノ冥福ヲ祈ルト共二 其ノ仇敵二酬ユル道ハ断平驕敵ヲ撃砕スルニアルヲ銘記セヨ 我等ハアクマデモ最後ノ戦勝ヲ信ジ凡ユル艱苦ヲ克服シテ 大皇戦二挺身セン
 昭和20年8月7日   広島県知事 高野源進

さすがに宴会から逃げて深夜に福山に運行されて命拾いした県知事だけに、第二総軍好みの文章となっている。たぶん、高野源進は彼の妻や一族の叫ぶ、「原爆殺し」のメロディを心の中で聴きつつ一生を終えたことであろう。「大皇戦二挺身セン」の1分を読むと、これは第二総軍から与えられた作文の可能性が強い。どうしてか? 大皇戦とは、天皇のために、天皇を守る戦争を意味するからである。神であらせられる万世一系の神が民草である広島市民に天皇のためによくぞ犠牲になられた、という意味がこの「大皇戦」に込められている。

 畑俊六の『巣鴨日記』(1997年)が1992年に復刻出版された(『元帥畑俊六獄中獄外の日誌』)。その中に「第二総軍終戦記」が入っている。第二総軍の設立過程から原爆投下俊までの状況を畑俊六は書いているが、ここでは省略する。8月14日、畑俊六は、「10時より参内、御前にて永野、杉山両元帥と共に言上す」と書いている。以下、天皇の御下聞に対する畑元帥の奉答を記すことにする。

 ・・・次に余は、〈広島にありて中央により遠ざかりありをしを以て、昨今の情況も詳如せず、しかしながら、現在担任して居る正面の防禦に就ては遺憾ながら、敵を撃攘すると云う確信はありませんと申し上ぐる外はありません。国策としてポツダム宣言を受諾することに決しました由洩れ承りますが、斯かる場合に於きましても、極力交渉を続け少くとも十ヶ師団の兵力は親衛隊として残置する様、努力の要ありと存じます。〉との要旨を言上したり。・・・

 畑、永野(修身)、杉山、3人の元帥は奉答のあと、天皇より次のような御言葉をいただいたのである。畑の記している、聖上にして神なる陛下の御言葉は以下の如しである。
 
 ・・・〈更らにこのまま戦争を続くるに於ては、形勢益々悪化し、遂に国家を救済することを得ざるべし。★皇室の安泰については敵側もこれを確約しあり。
 天皇を武装解除の為に利用するといふ敵の言論は放送なればこれを信ずべからず。皇室の安泰は大丈夫なり、心配なきことと思ふ。
 国体に関し大権云々といふことは治外法権の如きを指すものにして、不戦条約の文句より見るも、米国の如き国体にしては到底了解し得ざる処なり。忠良なる軍隊を武装解除し、又嘗ての★忠臣を罰するが如きは忍び難き処なるも、国を救ふ為には致し方なし。武装解除、保障占領等細きことは、何れ休戦条約にて決定さるべきものにして、今より直ちに細き条件を出すことは、却って状況を益々不利に導き、成立せざることとなるべし。
 心事は、明治大帝が三国干渉により遼東半島を還附せられたる時と同様なり。実に忍び難き処なるも、深く考へたる夫決定したるものなれば、これが実行に元帥も協力せよ〉・・・

 この3元帥が天皇の御下間に奉答した後から、いわゆる「日本のいちばん長い日」が始まるのである。若手将校による1種のクーデターである。そして、畑悛六に同行した白石参謀は、森近衛師団長とともに惨殺されるのである。彼ら若手将校や第二総軍の兵士たちが掲げたスローガンは「国体を護持せよ」であった。「天皇危うし!」である。しかし、天皇は「皇室の安泰については敵側も確約しあり」と3元帥に断言している。

 私はこの畑の書いた8月14日の日記を読みつつ、★天皇はスティムソンから秘密のルートで貰った手紙をそのまま読んでいるのではないか、と思ったのである。天皇は8月15日以降のアメリカ側の〈予定表〉を語っていると思ったのである。原爆についても畑に尋ねていると思うが、畑は記していない。
「天皇を武装解除の為に利用するといふ敵の言論は放送なれば」、「この点は心配しなくてもよい、安心していなさい」とスティムソンが天皇宛の手紙で書いていそうな気がしてならないのである。
「国体に関しても・・到底了解し得ざる処」であることは「スティムソン個人として十分に理解しているから安心していて下さい」というように読めてくる。
「忠良なる軍隊を武装解除し」て下さい、「忠臣を罰するが如きは忍び難き処」でしょうが、アメリカ国民の心も理解して下さい、武装解除をしていただければ、占領軍が日本本土に入りますが、「保障占領」いたしましょう・・そして「何れ休戦条約」を結びましょう・・と書かれていたと思うのである。

 スティムソンは、どうしてこうも天皇に★やさしい条件を授けたのか。その答えのうちで最大の理由は、原爆投下を日本が認めたからであった、というのが私の結論である。原爆投下というアメリカの【仕掛け】を、日本が。【受け入れた】のである。

 もし、原爆投下の前に、天皇が降伏宣言をしていたら、原爆投下もなかったのである。そうすれば、スティムソンはロックフェラーやモルガンや国際金融寡頭勢力を裏切ったことになるのだ。天皇よし、スティムソンよし、ロックフェラーよし、モルガンよし・・・。しかし、広島と長崎の人々にとっては最悪であった。「原爆殺し」の歌が21世紀の今日でも聴こえてくる。その歌の正体を見究め、これを封じ込めなければならない時が来つつある。
 

   ★生者と死者と、あるいは賢者と愚者と  <了>。

   続く。
 


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