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●原爆投下(3)
 ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 ★日本進攻計画と第二総軍との「不可解な暗合」 


 アメリカの日本本土攻撃へ向けての道程と第一総軍(関東)と第二総軍の設立およびその動向が同一進行を辿っていくのも不思議なことである。スティムソンの意向が見えてくるように私には思えてならない。

 スティムソン陸軍長官の1945年6月18日の「日記」を記す(一部は「国外篇」に記載した)。

 前略
 S-1問題〔原爆計画の暗号名】の進捗状況について、グローヴズ将軍およびハーヴィ・バンディとも短時間の話し合いをもった。午後3時30分にホワイトハウスに出かけ、大統領と参謀総長(複数)との非常に重要な会談に同席した。参謀総長のほかは、フオレスタルとマックロイと私だけが同席した。参謀総長(複数)は、対日作戦計画についてそれぞれの見解を述べた。大統領の求めにより、私は軍事計画とは関係のない政治的大問題、つまり、われわれが、日本の将来の営みについて合意に達しうるような自由主義的な気質の層が日本国民のなかに存在すると考える根拠があるのかどうか、という点について意見を述べた。私は、日本の指導者の1部と私との関係について簡単に説明したうえで、他日、機会を改めて私の見解をもっと詳しく述べたい、と大統領に言った。

 この日記が記されたその日に、トルーマン大統領と軍首脳との対日戦略会議が開かれて、マーシャル陸軍参謀総長が「対日軍事作戦」の詳細を発表した。以下は『資料マンハッタン計画』の「資料197 トルーマン大統領と軍首脳との対日戦略会議」からの引用である。

 ・・・マッカーサー元帥とニミッツ提督は、参謀総長に同意し、九州進攻の目標期日として11月1日を選んだ。〔中略〕
 九州作戦は封殺戦略を進めるうえで欠かせないものであり、★沖縄に続いて作戦対象とするに値し、最も犠牲が少ないものと思われる。基本的な点として、日本に対する封鎖と爆撃による締めつけを強めるとともに、東京(関東)平野への侵攻によって降伏を余儀なくさせるには、九州に拠点を確保することが不可欠である。・・・

 このマ-シャル参謀総長の発言が正式に認められ、6月29日に日本進攻作戦が策定されマッカーサーとニミッツに伝達される。これが通称「オリンピック作戦」といわれるものである。
 私は第一総軍と第二総軍の設立は、このオリンピック作戦を見越してなされたものではないかと思えてならない。スティムソンの日記の中にある「軍事的計画とは関係のない政治的な大問題」に注意しつつ、この日記を読むと、その繋がりが見えてくるような気がしてならないのである。
 スティムソンは原爆を日本に確実に落とす、という約束をロックフェラー、モルガン、イギリスの金融界の面々としていた。そこでスティムソンは、原爆(ウラン爆弾とプルトニウム爆弾)が完成するまで戦争を延ばさなければならなかった。
 スティムソンはマーシャルに話をもちかけ、オリンピック作戦をつくらせた。そして、この計画をグルー(国務次官、元駐日大使)のルートで、「日本の指導者の1部」に伝えた。それには「日本の将来の営みについて合意に達しうるような自由主義的な」、彼らを喜ばせるプレゼントを用意したうえでのプロポーズが添えられていた。
 スティムソンはこの会議の翌日、グルーとフォレスタル海軍長官との3者会議をしている。その日の日記、「1945年6月19日」を見てみよう(1部は「国外篇」で既に引用した)。

 ・・・1945年6月19日(火)
 最後の最後まで戦うことなく日本に降伏を決定させる何らかの方法を見いだすべきであると、だれもが考えていることが、きょうの議論のなかできわめて明らかになり、そして、それが今日の議論の主題だった。グルーは、この問題について彼がさきに大統領に提出していた報告書を読みあげたが、そのなかで彼は、沖縄が陥落したらただちに新しい警告を日本に対して発することを強く主張している。しかし、明らかに、この主張は、近く予定されているチャーチルおよびスターリンとの会談に関する大統領の計画には適合しない。私が決めている唯一の期日は最後の機会としての警告(を発するとき)であり、それは、地上軍が実際に上陸する前に出さなければならない。幸いにして、今の計画では、われわれの警告には根拠があるのだということを、通常爆撃による猛爆とS-1による攻撃という形で(日本側に)わからせるための十分な時間を見込んでいる。・・・

 この文章を読むと、スティムソンとグルーがフォレスタルに日本側との交渉について語っているということが理解できよう。
 スティムソンはフォレスタルに次のように語って聞かせているのである。

 ・・・私は、日本の指導者の1部とグルーを通じて交渉している。昨日、マーシャルが、対日侵攻計画について語ったが、あれはあくまでも表向きの計画だ。マッカーサーとニミッツには、とことん戦争を継続しろと言うのが目的だ。どうしてもポツダム会議までは、時間を稼がねばならない。トルーマンは会議を7月15日以降に延期してくれた。プルトニウム爆弾は実験を要するということになったからだ。そこで、日本側に提案したんだ。「通常爆弾による猛爆とS-1による攻撃という形でわからせる」べく、グルーが説明書を送ったのだ。これには時間がかかった。★日本側がやっと納得した。それで、第一総軍と第二総軍に、それらしく行動させるということになったんだ。★この両総軍の設置も私の意向によってできたんだ。グルーが、原爆投下計画書を日本に送りつけたのはルーズヴェルトが死ぬ前だった。(フォレスタル海軍長官の)子分のザカリアスが日本向け放送をすることになり、ルーズヴェルトが無条件降伏の意味を訂正するらしいことが分かった。ルーズヴェルトは“尋常ならざる時”に死んだんだよ。
 私とグルーは彼らが第一総軍と第二総軍を設置したときに(4月1日)、日本が降伏をする決心をしたとふんだんだ。それで、第二総軍の傍受室にテニアンからの情報を流し続けた。★彼ら畑と大屋には、正式以外の情報をチェックし、これを封じ込めろと、特に命令していたのだ。これは今の
ところうまくいっている。「幸いにして、今の計画では、われわれの警告には根拠がある」ということを理解してくれただろうか。「私が決めている唯一の期日」はポツダム会談の最後の日が近づいた時だ。それは日本上陸作戦の前なのだ。★プルトニウム爆弾次第だ。この爆弾の完成が遅れたら、トルーマンは無条件降伏を日本に迫る宣言は出さないことになっているんだ。

 第二総軍の設置とアメリカ軍の侵攻計画の符合性について書いている本がある。前章で引用したNHK広島放送局原爆取材班の『原爆搭載機「射程内二在リ」』である。

 ・・・米軍との決戦に際しては、各地の日本軍との連絡が寸断され、孤立する可能性が大きくなる。そこで、東京・市ケ谷に東日本の全軍を指揮する第一総軍司令部がおかれることになった。
 第二総軍の長官は、畑俊六大将、本部は二葉の里となった。
 九州を主戦場とするならば、広島は後方基地となる。原爆の完成という新事態を勘定に入れなければ、恰好の本土決戦本部と目されても仕方がなかった。
 アメリカ軍の日本侵攻計画は、こうした大本営の読みと驚くほど符合している。

 「驚くほど符合している」のは当然であり、驚くほどのことはないのである。これが、スティムソンが「われわれが、日本の将来の営みについて合意に達しうる」べく「自由主義的な気質の層」を通じて、共同で作戦計画を練りあげた結果なのである。だから、第二総軍の畑元帥と大屋中佐は、原爆投下のニュースを封じ込め、広島市民が大量殺戮されるのを「黙殺」したのである。続けて読むことにしよう。

 ・・・アメリカ軍がオリンピック作戦を練っていく一方、日本軍は本土決戦の体制を整えつつあった。このため創設された第二総軍をはじめとして、広島への各部隊への集中は凄まじいものがある。〔中略〕
 市民が郊外に疎開していくなか、大勢の軍人、軍属が流入してきた。広島はまさに「軍部」の実質を備えていた。8月6日当日、どれほどの軍人がいたのか、さかんに部隊編成を行っていたので正確な数は分かつていない。ただ一説には、軍関係者は8万人にものぼるという推計がある。・・・

 この8万人にものぼる軍人たちが、8月6日にほとんど被爆死するのである。生き残ったものは、ごく少数である。これには理由がある。彼らのほとんどは、原爆投下中心地からごく近いところにいたからである。死者が出なかったのは(出てもごく少数)第二総軍司令部のみである。この8万にのぼる軍人たちに、畑元帥と大屋中佐は原爆投下の情報を全く知らせず、それのみか、巷間に洩れてくる原爆投下の情報まで封印してまわったのである。まだそれ以上に悪しきことがある。先に『エノラ・ゲイ』を引用したが、アメリカ爆撃機の空襲の情報を完全に知りながら、そのただ1つとして、軍にも市民にも伝達しなかったのである。NHK原爆取材班の本を読み続けよう。

 ・・・昭和19年、広島県食糧営団経営の「雑炊食堂」や海草などを入れて、2合5勺に水増ししている。それでも、雑炊食堂には、市民が長蛇の列を作って順番を待っていた。
『はだしのゲン』などで原爆を告発する漫画を描き続けている中沢啓治さんも、この列に並んでいたひとりだった。当時6歳識。両親と姉、弟の5人暮らしであった。
 中沢少年の毎日は、飢えとの闘いだった。「白米のご飯を腹いっぱい食べられたら最高の幸せと思い、夢の中でも白米のご飯がちらつく」日々だった。飼い猫が魚をくわえて家に帰ってくると、それを横取りしようと弟と2人で追いかけ回したこともある。〔中略〕
 これが、軍部広島に生きていた子どもたちのまぎれもない実像だった。

 この本の中に、「市民の間では、『食いのばし』ということが日常化されてきた。乏しい配給に、雑穀や草などで水増しして、少しでも長く食いつないでゆくという悲しい生活の知恵であった」と書かれている。こうしたなかに原爆投下が近づくにつれて、軍人たちがあふれてくる。その軍人たちの調達を命じたのは第二総軍司令官・畑悛六元帥であった。
 彼は何を考えて、「食いのばし」の生活をしている広島市に数万の軍人(ただ軍人に仕立てられただけの赤紙による召集兵)を入れたのか? 私はその答えを少しは書いた。しかし、書き足りていない。その答えをもう少し具体的に書くことにしよう。 
  続く。


  ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 ★発令されなかった警戒警報  


 宍戸幸輔の『広島原爆の疑問点』(1991年)を読むことにしよう。彼は1945年(昭和20年)、陸軍大尉として第五十九軍司令部参謀部で総動員班長を務めていた。同年8月6日、広島で被爆したが奇跡的に助かった。

 ・・・政府は、日増しにアメリカ空軍の本土空襲が熾烈を極めるようになったので、沖縄本土放棄の6月20日に至り急遽、余りにも広範囲にわたる「中部軍管区」から「中国軍管区」と「四国軍管区」を分離し、「中国軍管区」を第五十九軍司令部(広島)に、「四国軍管区」を第五十五軍司令部(高知)に担当させることになったのである。〔中略〕
 どうしたことか、第五十九軍司令部には従来通り、参謀長・松村秀逸少将(32期)の下に、作戦参謀・細井実中佐(39期)と後方参謀・青木信芳少佐(46期)の外に、着任早々の参謀・遠藤正美少佐(52期)の同名しか発令されなかったほどの弱体の指揮系統のままであった。
 その他、頻繁に来襲する強力な米爆撃大編隊に対抗する兵備といえば、第二総軍専用の小型輸送機と若干の高射砲部隊が配備されている程度であるから、いち早く適切な「警報」を発令して、その被害を最小限度に止めるのがせいぜいであるという状況に追い込まれていた。
 しかも、問題の「警報・発令業務」であるが、隣の中部軍管区司令部の参謀陣は、16名、西部軍管区司令部は20名、同格の四国軍管区司令部にも11名というのに、中国軍管区司令部には、実際に活躍できるのは細井参謀と青木参謀の2人きりであって、それも多忙なかずかずの任務を兼務していたのであるから、防空業務が疎かにならざるを得ない。・・・

 この文章を読んでみても、軍人ばかりを広島に入れて、防空業務を疎かにした第二総軍の遠謀が見えてくるのである。続けて『広島原爆の疑問点』を読みすすめてみよう。

 ・・・次に、防空作戦の基礎になる敵機襲来の重要な情報をどのようにして取得していたのか、という点であるが、これまた誠に貧弱な情報・伝達体制であったというべきであろう。中国地方の約百ヵ所に「対空監視哨」」なるものがあって、そこから逐次軍用電話で情報が司令部内の片隅にある地下壕の防空作戦室に伝達されてくることになっていた。しかし、情報伝達元のそれぞれの「対空監視哨」に勤務している要員は、正規の男子警防団員の大巾欠員を埋めるために、女子供や老人なども加わらねばならず、必ずしも適格者ばかりではないのが殆どであり、その上、その軍用電話を受ける方も女学校3年の少女達というのであるから、どう考えてみても、絶対に安心できる状態とはいえないのである。・・・

 私は先に『エノラ・ゲイ』中の第二総軍の通信指令室の記述を引用した。
 「広島のほうがテニアン島より1時間遅かった」と書いた。また、「モニターはその夜空襲のあることを知りえた」と書いた。そして、「空襲にやってくる敵機の数をおおよそつかむことができた」と書いた。モニターはその報告を上司に渡し、上司はそれを通信司令室へ送り、そこから西日本全土の防空組織へ情報が流された」とも書いた。「それだけのことがわずか数分間でできた」とも書いた(「第一章」30頁参照)。
 『エノラ・ゲイ』の著者ゴードン・トマスとマックス・モーガン・ウィッツは広島に取材に来ている。しかし、彼らは『広島原爆の疑問点』の著者宍戸幸輔に会ったのだろうか? たとえ会っても、宍戸幸輔が証言していることは書けなかったであろう。
 宍戸幸輔は悔恨の思いを記している。

 ・・・そのなかでも、★最も重大な欠陥は「警報発令」の全責任を持っている参謀が、連日連夜の激務に忙殺されていて気の毒なほど疲労困憊し、軍医からも絶対静養を命ぜられていた、という極めて悪条件下にあったということであるから、的確な作戦指導行為のできないのは当然であった。
 そのような〔てんやわんや〕の大混乱な防空体制であったので、「広島・原爆投下」に関する一連の米空軍の作戦行為など殆んど感知することのできなかったのは勿論のこと、次々に敢行してくる奇想天外とも思われる米空軍の作戦に振りまわされて、常に後手後手にまわってしまっていた。―  その最悪な結果を証明しているのが、広島にとって忘れることのできない「原爆投下」の際に、★「警戒警報」ですら発令されていない、という悔いても余りある大失敗を演じてしまったという事実である。

 私は宍戸幸輔が書いていることが事実であるとは最初は思えなかった。「そんな馬鹿な!」という思いを払拭できなかった。しかし、広島で被爆した人々の手記を読むなかで、この宍戸幸輔の書いた手記は真実そのものであると確信するにいたった。第二総軍とは何者の集団なのか? 何のために、1945年4月1日に広島に登場したのか? それを考えさせてくれたのも、彼の本に接したからであった。

  私は広島の古書店で彼の『広島が滅んだ日』(1972年)を目にし、裏表紙を見た。「宍戸幸輔書」と書かれた達筆なサインがそこにあった。何かの因縁を感じた。この本の中には広島城(鯉城)の様子が書かれている。

 ・・・私は松田中尉と一緒に、軍司令部の参謀部に挨拶に出かけることになり、濠沿いの道から北裏門にはいり、美しい広島城の天守閣(鯉城)を岩上に仰ぎ見ながら静かに歩いて行く。正確にいえば、この濠と大石垣に囲まれた約2百メートル四方の高台全体が昔の広島城のあったところで、城趾の西北端にただ天守閣のみが昔ながらの姿を残して、今なお時代と共に変遷をつづけている軍都・広島の全市を睥睨しているのである。天守閣のすぐ下には日清・日露の両戦役の隊、明治大帝のご使用になったという旧大本営の上品な洋館があり、この付近を囲む老樹の林にほとんど人影を見ないほどの静けさである。軍司令部の建物というのは広島城趾の南側の1段低くなっている広場に、2階建て4棟の兵舎風の木造のもので、これも明治以来の由緒ある歴史を秘めたものであろう。
 広島城趾と幅広い濠を隔てて、西側には各々2千名以上の兵力を収容している野砲連隊(西部第六部隊)と輜重連隊(西部第十部隊)があって、数多くの兵舎・厩舎そして兵器庫が広い営庭を囲んでずらりと並び、大田川の左岸までつづいている。・・・

 宍戸幸輔はさらに「この広島城趾を囲むようにして1.5キロ四方の地帯は軍用地区として占有されていることになる」と書いている。この広島城趾の近くに原爆が投下されるのである。そして、万を超える兵士たちが一瞬のうちに屍となるのである。
 彼はまた、第二総軍のことも書いている。

 ・・・比治山は標高60メートルというのであるから、この二葉山〔第二総軍の司令部の基地があった]は市街地に近接している関係上、かなり高く感じていた。二葉山の南山麓一帯は「二葉の里」という名称で呼ばれており、当時からかなりの高級住宅地であった。また、東照宮神社も国前寺も古くから広島の由緒ある名所古跡として有名である。思い出すまでもなく、この急斜面の山道は昔から「高天原」という俗称をもって恐れられた所なのであって、騎兵隊の新兵が乗馬訓練の最終課目として、この急坂路をギャロップで昇り下りさせられる、という恐怖と落馬に勝ちぬかねばならない試練の場所なのである。
 現在は地図をみると、「光が丘」というすばらしい名称に改訂されて、ずいぶんすばらしい所になっている。・・・

 原爆爆心地から千3百メートルの距離とはいえ、第二総軍司令部は山腹にあった。そのため、多少の爆風に見舞われたものの、火災に遭うこともなかった。この司令部にいた将校たちは前述したように、負傷はしたが、ほとんど全員が無事であった。なかには死んだものもいる。この死者については後述する。これは偶然ではありえない。第二総軍が最初から原爆投下を予定して広島に設置されたからであると私は思うのである。それが証拠に私は数々の原爆予告がなされていたことを挙げた。そしてその情報も、原爆機が近づいていることの情報も何1つ、広島軍司令部に伝えなかったことも書いた。
 宍戸幸輔は『広島が滅んだ日』の中で次のようにも書いている。原爆投下直後の広島城を書いている

 ・・・私は1人で司令部裏の石段を登って行くと、いつものこの位置から木の間越しに見えはじめるはずの天守閣の姿がないことに気づいた。天守閣がない! 真っ黒に焼け残った大木が立ち並んでいるだけであって、その向こうにあるべき「天守閣」が見えないのである。考えてみれば、当然すぎるほど当然なことで、広島全市がこれほどの被害を受けているのに、あの天守閣だけが生き残ることができないのは、全く疑う余地もない。〔中略〕
 その石段を登りきったところから、天守閣の付近まで約2百メートルの間に軍司令部のほとんど全員の犠牲者の屍が散乱しているのであるが、その中で軍司令部のすぐ裏にあたる広場付近には3、40名の女学生たちが集まって折り重なるように倒れていたのである。
 この広島では毎朝8時より、約30分全員が集合して朝礼をやることが日常の行事になっており、その行事の最初に高級副官の音頭で「決戦訓」を朗読して、それが終わると戦意昂揚のために将校・下士官は軍刀の素振り、兵員は銃剣術の基礎練習、その中に交じって女子挺身隊の真剣な竹槍訓練が実施されることになっていたのであるが、「午前8時15分」は、ちょう どその訓練を開始したばかりの時間に相当することになる。事実はまさにそのことを証明するように、女学生たちの目を蔽うような屍の傍には、多くの竹槍がそのまま投げ出されており、中にはその手にしっかり青竹が握られている姿も日にはいってくる。・・・

 原爆投下後の惨状は別の項で記すことにするが、第二総軍と広島軍司令部の相違を知ってもらうために、広島城の兵士たちの姿について触れたのである。
 宍戸幸輔は1991年に『広島・軍司令部壊滅』を世に出している。彼は軍の「情報室」の模様を書いている。

 ・・・西側の出入り口に1番近い「情報室」には、比治山高女の3年生90人が3交代で30人ずつ勤務しており、各地区の対空監視哨との連絡に当たっていた。非番の者は、出入り口の前に特別に建てられた木造2階建ての兵舎(半分は各部隊から派遣されている通信兵たちの宿泊場所になっていた)に寄宿していたが、半分はその兵舎内にある研修室で学習に励み、後の半分は外出してわが家に帰ることが許されていた。
 彼女らは「情報室」の2列に並んだ各対空監視哨に直結している軍用電話台の前に待機しており、監視用からの報告を待っている。

 彼女たちは、広島県内にある監視哨から敵機の海が見えた、との報告を受けると「ハイ・・・こちら軍司令部・・・わかりました。復唱します。『敵B29数十機の編隊、○○監視哨上空を通過、北進中』ですね。引き続き頑張って下さい」というだけであった。テニアン島からB29が飛び立つ情報は何1つ、広島軍司令部には伝達されなかったのである。私はこのことを幾度も書いた。それは「原爆殺し」計画が日米の間で極秘裡に進行中であった、という私の仮説を実証せんがためなのである。
 宍戸幸輔は『広島・軍司令部壊滅』の中で「第二総軍も壊滅」と書いている。

 ・・・第二総軍の司令部は、広島城趾の中国軍管区司令部から直線距離にして約1キロ東北の、京橋川を隔てた「二葉の里」にあり、元騎兵隊第五連隊の兵舎をそのまま使っていた。
 第二総軍参謀部通信班の上田忠則少佐は、その日、偕行社で行われる軍・官・民合同通信会議の準備のため、いつもより早く家を出た。7時10分ごろ司令部に着くと、暑かったので個室で一汗拭った後、幹部を集め、任務分担を確認、8時前、各々が部署についた。
 上田少佐はそれから経理室に行き、高級主計と経費の打ち合わせをしたが、東南に開いた窓からは、広島駅の屋根瓦が夏の朝日にキラキラと輝いているのが見えた。
 ・・その時、広島駅全体が強烈な閃光と共にオレンジ色に浮かび上がり・・・

 この後宍戸幸輔は「経理室の天井と壁がメリメリと曲がり、波打つように崩れ落ちるのが見えた・・」と書くのであるが、死者が1人として出た(ママ)とは書いていないのである。また、「営庭に巣まってきた者たちを見ると、みな一様に帽子から露出している部分の髪の毛が焼け焦げて無い。眉もなくなっている。お互い顔を見合わせて呆然とした面持ちだった」と続く。しかし、原爆患者としても、この人々は軽症である。ここにも死者が出たとは1行も書かれてはいない。「通信員のいる兵舎も見事に押し潰され、屋根瓦を載せたまま大地に覆いかぶさっている。まもなく本部や将校集会所あたりから火の手が上がった」と書いている。しかし、この火は消しとめられた。通信員の兵舎は旧い練兵場にあったものを使用していた。司令部は巨大な防空壕の中にあった。前述したが爆風で軽傷を負った幹部はいたが、みな元気であった。

 宍戸幸輔には申し訳ないが、彼は第二総軍が何を企んでいたかを知らなかったのだ。これは致し方がない。この21世紀の今日でも、第二総軍を解明した本は1冊も存在しないのだから。

 「その日、偕行社で行われる軍・官・民合同通信会議」について宍戸幸輔は触れている。

 8月6日、午前9時、陸軍社交クラブ「偕行社」で、西日本各地の司令官が集まり、広島の政・官・民を交じえ合同通信会議が開かれることになっていた。どうして8月6日の9時(8時の予定が延びた)に会議なのか。これは偶然ではない。では必然なのか。これは「原爆殺し」のための1つのスペクタクル・ショーであった。次項で、この会議に的を絞って書くことにしよう。第二総軍司令官、畑悛六が、いよいよ、その正体を読者の前に見せるときが来たのである。
   

 ★NHKスペシャル・「果てしなき消耗戦・レイテ決戦」を観ながら・・・。
 

  『原爆の秘密』国内編 の帯には、

  【日本人による日本人殺し!】 

  それが あの8月の惨劇の真相 痛憤と嗚咽をよぶ昭和驚愕史  とある。

  続く。
   

 

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