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●原爆投下(2)
 『原爆の秘密』国内編 第1章 原爆投下計画と第二総軍の設立

 ★ 第二総軍設立の真の理由に迫る 


 もう1度、ゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』から引用する。第二総軍司令官・★畑俊六元帥の経歴が書かれている。

・・・畑元帥は、日本で最もすぐれた経歴をもち、最も尊敬されている有名な司令官であった。元帥は今日の地位に就くだけの経験と資格を十分に備えていた。今日でもなお天皇の側近の地位にある陸軍司令官の数は少なかったが、畑元帥はその1人であった。1939年には彼は3か月間、天皇の侍従武官長を勤めた。彼の戦歴は抜群であった。日露戦争の時、25歳の青年将校として負傷したのを振り出しに、ドイツ駐在陸軍武官やパリ平和会議代表の地位を経て、1939年陸軍大臣に任ぜられるまでの間、畑元帥はいつも栄誉ある道を歩いてきた。・・・
(★ウィキペディアより、「畑 俊六」の一部を引用する。
・・・1939年(*ノモンハン事件の年)に侍従武官長に就任時も昭和天皇の信任が厚く、「陸相は畑か梅津を選ぶべし」との言葉から侍従武官長をわずか3ヶ月で辞め、1939年8月に成立した阿部内閣の陸軍大臣に就任した。
天皇は温厚で誠実な畑を陸相に据えることで、阿部との一中コンビで日独伊三国同盟や日中戦争での陸軍の暴走に歯止めを掛けると期待されていたが、膠着状態を脱することは出来なかった。・・・
その後、支那派遣軍総司令官となり、1944年に元帥となる。1945年、本土決戦に備えて第二総軍(西日本防衛担当、司令部広島市)が設立されると、その司令官となる。同年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、★国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。・・・)

 畑俊六元帥が稀に見る天皇のお気に入りの将軍であったことを理解しえたであろうか。1941年に50万の兵士を率いて支那派遣軍総司令官を勤める。1944年、日本に帰国すると元帥に昇進する。1945年4月7日、鈴木貫太郎大将が首相に選ばれた2日後に第二総軍司令官に任命される。4月9日、広島の新司令部に赴任した。
 次に読売新聞社編『昭和史の天皇』(角川文庫版、1988年)から引用する。

 ・・・そのころは、軍は決号作戦 ― つまり本土決戦に狂奔し、本土を2分して東部を第一総軍(杉山元元帥)、西部を第二総軍(畑俊六元帥)の担当とし、予想されるアメリカ軍の九州上陸オリンピック作戦に備えていた。そして最初に本土上陸の敵を迎える第二総軍は広島に本拠を置いて、準備を進めていたのである。
 その本拠は山陽本線広島駅から北へ歩いて5分、元騎兵第5連隊の兵舎の中にあった。ここは広島の中央を流れる太田川が6本に分かれる2番目の分岐点のあたりで、爆心地から直線で約千3百メートル。参謀部のすぐ北方、高さ125メートルの二葉山には、司令部の防空壕が掘られていた。・・・

 この『昭和史の天皇』に書かれた文章を読んだだけでは、第二総軍の意味が何かは理解できない。爆心地から直線距離にして約千3百メートル、そして、二葉山に司令部の防空壕がつくられたということは、大きな意味を持つのである。どうしてか。司令部の防空壕の中にいた将校たちは多少の傷を負うが(爆風やガラスの破片で)、全員無事だったのである。参謀部の人々もほぼ死者はなし。しかし、通勤途中とか、在宅者に多少の死者が出て、発表では、4百数十人のうち百人程度が死んだことになっている。
 防空壕の中にあった参謀部もほとんど死者はないと思われる。この場所の設定には、最初からからくりがあったと思われる。
 私は、第二総軍の司令部は、原爆投下を予定して、原爆投下地を広島の中心地とみなし、約千3百メートル、しかも山の中腹に建てて、原爆が落ちても被害なし、の想定で建設されたものと思っている。東京ローズの放送についてはすでに書いた。東京の陸軍参謀本部と第二総軍は情報を流しあっていた。もう一度、『エノラ・ゲイ』から引用する。

 ・・・1945年7月9日  広島
 各地の放送局に波長を合わせたラジオが10台以上も置かれていたが、その部屋の中は天井に取り付けてある扇風機の低くうなる音の他は、ほとんど音がしなかった。それぞれのラジオは、その前に坐っている人のイヤフォンにしか音が伝わらないようにしてあった。そこにいる人がやっていることは、日本の他の人間がしたら死刑になるかもしれないことだった。彼らはアメリカの放送を聞いていたのである。
 彼らはラジオのモニターであった。24時間ぶっ続けに、太平洋およびそれよりまだ向こうの地域の放送を聞く仕事の、午前の班であった。これは畑元帥の第二総軍司令部の通信部の1部であった。・・・

 私は東京にも同じような通信部があり、謀略放送の種を探していたと思っている。広島と東京の参謀本部は情報交換をしていた。『エノラ・ゲイ』を続けよう。

 ・・・この部は畑元帥の司令部の神経中枢であって、西練兵場の近く、二葉山の麗にある元国民学校校舎の2階建ての長い建物の中にあった。この通信部は特設の通信線で東京の大本営言詮軍部と結ばれており、また福岡、佐世保、長崎、鹿児島などの九州の軍事要点との間にも他の通信線が通じていた。地元では、呉軍港、宇品船舶司令部、および広島城内の中国軍管区司令部とも結ばれていた。
 この傍受室はこの通信部の1番重要な施設で、東京郊外にある特種情報部だけがこれに匹敵することができた。この数週間、傍受室はいままでになく忙しくなったが、それは有末中将の部下ですご腕のアメリカ事情専門家、大屋角造中佐が畑元帥の諜報主任将校として広島に赴任してきてからのことであった。・・・

 私は第二総軍は最初から、すなわち鈴木内閣ができたときから、終戦工作の一環としてつくられたものと思っている。終戦工作とは何か。簡単明瞭に書くならば、天皇が畑を呼びよせつくったものである、と書いておく。
 どうしてか。これから書いていくことを読者が読めば納得すると思っている。でもヒントを与えておくことにしよう。
1、原爆投下情報を完全に知りながら、それを全部封印した。
2、8月3日から6日にかけて、原爆投下予定地を中心に、大勢の人々を集めた。
3、武器弾薬も食糧もないのに、たくさんの兵を召集し、その兵たちを九州に送り込んだ。・・・

 もう少し、『エノラ・ゲイ』を読み続けてみよう。妙なことが書かれている。著者2人が、ここにきて、真実を隠そうとしているのだ。

 ・・・畑元帥と大屋中佐とは、もしアメリカ軍の九州上陸が実際に行われることになれば、傍受室はその最初の兆候をつかむことができるのを知っていた。上陸に先立って、アメリカ軍はまず数週間をかけて上陸地域に海と空から砲爆撃を加えるに決まっている。しかし畑元帥は、上陸作戦接近の確かな予報を手に入れて、九州にいる神風特攻隊や決死のモータボート部隊に敵艦隊攻撃の用意をさせたいと願っていた。この計画が成功するかしないかは、傍受室勤務員の人たちにかかっていた。彼らには老年その他の理由で戦闘に向かない者ばかりであったが、みな英語は達者であった。・・・

 『エノラ・ゲイ』のこの記述は誤りである。畑俊六は、第二総軍ができると指令を出し、およそ兵に向かない者まで召集し、九州に送り込んでいた。武器弾薬も食糧もない彼らは何をしていたのか。九州に送り込まれた兵士たちの手記を読むと、彼らはひたすら穴を掘っていた。何も他にすることがなかったのである。
 傍受室勤務員は何をしていたのか。彼らは第509航空群の動きを追っていたのである。エノラ・ゲイがはたして何日、何時何分に原爆を広島に投下するのかを懸命に追っていたのである。それがどうして大事なのかは、彼らは知る由もない。しかし、天皇から拝命を受けた畑は、その日時を確実に知る必要があった。
 どうしてか。スティムソンと天皇のために、ごく自然に多くの人々を原爆投下の予定地周辺に集めなければならなかった。予定日は変化し続けた。天候の関係であった。
 リチャード・ローズの『原爆から水爆へ』(2001年)の中に気象に関する記述がある。ルメイとはカーチス・ルメイ少将のことで、太平洋戦線での爆撃の指揮官である。

 ・・・1次の対日爆撃ミッションを支援するのに、爆弾倉に燃料タンクをとりつけて、6回ハンプを越えていたのだ。日本の気象は中国北部から推移する。当時、中国北部は毛沢東の軍隊が支配していた。そこで、ルメイはこの共産ゲリラの指導者と交渉し、医薬品を与える代わりに、乗員の救出と、気象情報の提供を受ける約束をとりつけた。・・・

 毛沢東ルートで入った気象情報を基本にして原爆投下の日時が決定された。同じリチャード・ローズの『原子爆弾の誕生』を見ることにしよう。

 ・・・すっかり準備がととのったので、ファレルはグローヴズにテレックスを打ち、特務飛行は8月1日にできると報告した。彼は、グローヴズが反対しないかぎり、7月25日のスパーツ令達がこの提案を認可するものと予想した。マンハッタン計画の部隊長は副官の理解どおりにさせた。もしもその日、邪魔な台風が日本に接近していなかったら、リトルボーイは8月1日に落とされていたであろう。・・・

 この文章を読んで読者は次のように理解しなければならない。広島の畑も東京の有末も、もちろん天皇も、7月25日のスパーツ令(この令達は姉妹書「国外篇」第七章の「黙殺」の頂で書いた)が出たときから準備に入ろうとしたはずである。しかし、台風の接近を知り動員の中止を決定した。
 ローズは続けて書いている。

 ・・・それで特務飛行は天候回復を待つことになった。8月2日木曜日、ファットマンの組立て部品1式を積んだB29が3機、ニューメキシコから到達した。ロスアラモスの科学者と軍の兵器技師からなる組立てチームは、ただちに作業を始め、落下試験用のファットマン1発と、実戦用の、より高品質のHE(高性能爆薬)鋳造物を2発目として作り上げた。・・・

 プルトニウム爆弾は2発用意されていたことになる。私たち日本人は天皇に感謝しよう。広島と長崎に落とされた2発で、終戦にしてくれたことを。ちょっと遅れたら、もう1発を落とされていたはずだ。3発目は8月中旬までに用意されていたのだから。

 畑元帥と大屋中佐は、刻々と変更される投下日時の把握に追われていた。それで、大屋中佐はもう一つの傍受室をつくるのである。『昭和史の天皇』から引用する。被爆の瞬間、軍の中枢である第二総軍司令部参謀1課にいた井本熊男高級参謀の談話である。もちろん井本は負傷していない。

 ・・・このとき、あけてあったドアから廊下へはじき飛ばされた橋本参謀と大屋参謀は、そのまま無意識のうちに廊下の窓にかけてあったナワばしごで建物の外に出て防空壕に向がったが、参謀室にまだ人がいたことに気づいて引き返してきたのだった。その橋本氏の話にかえる。
「二人で歩きながら、直撃弾をうけたにしても爆痕がない。これはいったい何だろう、とわたしがいったら、大屋君が、そういえば妙な新兵器の海外放送を聞いたが、それかもしれんという。この海外放送は実は大本営にはないしょで、情報の大屋君が主として女性の2世を20人ほど集め、鯉城に近い浅野侯の別邸に傍受所を設けて、内外の動きを見ていたのだ。
 当時、わたしたちが気にしていたのは、政府首脳が軍の本土決戦のカゲで、どうやら終戦工作をやっているらしいということだ」・・・

 大屋中佐は鯉城(広島城)の近くに女性の2世を20名ばかり集めて、ブロークン・イングリッシュを解読させていたのである。彼は、この情報を有末中将に伝え、有末中将は同部に所属する皇弟・三笠官崇仁(たかひと)中佐に伝えていたのである。
 テニアンから刻々と入る情報で、「8月6日8時15分」の投下時刻を正確に知ると、畑元帥と大屋中佐は大衆動員を原爆中心地近くにかけ、大阪から鹿児島までの将校たちを8月6日午前8時(これは9時に変更される)に爆心地近くの陸軍の社交場・偕行社に集まれとの司令官命令を出すのである。戦争終結に導くためのスペクタル・ショーの演出をやってみせるのである。
 『エノラ・ゲイ』の続きを見ようではないか。秘密が、第二総軍が隠し続けてきた秘密が見えてくるのである。

 ・・・1日のうちで最も忙しいのは正午から夜の零時までの間であった。その間、この部屋のラジオの半数が、沖縄、硫黄島、マリアナ諸島から発せられる通信の傍受に向けられた。モニターたちは、遠くはグアム島から発せられるアメリカ軍の命令の放送を聞こうと耳を澄ました。その命令は多くは暗号だったが、そうでない生まのものもかなりあって、すぐに役立つような情報が手に入ることがあった。この傍受には軍のラジオ通信ばかりでなく、B29の通信兵が離陸直前に行なう簡単なラジオの言葉も入った。
 日本とマリアナ諸島との間には1時間の時差があるから-広島のほうがテニアン島より1時間遅かった-そのラジオのテストが広島の時間で午後3時か4時頃行なわれるとすれば、モニターはその夜空襲のあることを知りえた。モニターを傍受したテストの回数で、空襲にやってくる敵機の数をおおよそつかむことができた。モニターはその報告を上司に渡し、上司はそれを通信司令室へ送り、そこから西日本全体の防空組織へ情報が流された。それだけのことがわずか数分間でできた。
 爆撃機が日本の上空に接近すると、モニターは乗員同士の断片的な会話の交信をキャッチし、上司はそれによって爆撃機が日本のどの地域を攻撃するつもりかの見当をつけることができた。そういう情報は海上の艦船同士のラジオ通言の傍受記録と一緒にタイプされ、あとで分析された。畑元帥と大屋中佐はそれをもとにして、敵の兵力と意図とを驚くばかり正確に察知することができた。
 大屋中佐は広島に来てからは、この仕事を自分がいかに重視しているかをモニターたちに見せるために、定期的にこの傍受室に顔を出した。・・・

 畑元帥と大屋中佐がどれほどテニアン基地の情報を知りえる立場にあったかが、この文章を読めば理解できる。
 しかし、1つの謎が残る。畑と大屋は他の誰にも知られたくない独自の情報網が必要ではなかったのか。それで鯉城の近くに、わざわざ2世の女性を20人ばかり使った秘密の傍受室、そして、応答室をつくった。そこで、テニアンにいる秘密室と直接に原爆情報のやりとりをした。2世の女性たちは、あるときから不自由な生活を強いられていたのではないのか。どうしてか。それは鯉城の近くに原爆が落ちたから推測できるのである。彼女たちは死んだはずである。生き残った女性たちは沈黙を守るようにきびしく言われたであろう。鯉城の近くにいた人々で生存者はほとんどいない。原爆投下を知って、第二総軍の傍で傍受されなかったのは、深い意味があったからだ。証拠隠しである。第二総軍から情報が流されていたと書かれているが、原爆の情報は中国軍管区に届いてはいない。原爆の情報はすべて、畑と大屋の2人で闇のうちに処理されたのである。どうしてか?劇的な演出で、多くの広島市民に死んでもらうためである。スペクタクルが必要であった。天変地異に比すべき出来事が演出されなければならなかったのだ。

 スティムソンは天皇にそれを期待したのである。天皇の特命を受けた畑は、大屋を三笠宮と有末のもとから強引に呼び寄せ、演出を担当させたのである。
 原爆投下を事前に多くの人々が知っていたのである。どうして第二総軍においておや、である。あの東京ローズの放送も、畑と大屋の情報が有末のもとへと伝わり、甘く美しい声に乗って、テニアンの原爆機の担当者たちの胸を強く打ったのである。 


 ★ 原爆投下予告を確かに聴いた人々 


 2007年の春であった。広島で原爆にあった1老人(匿名希望)が私に1冊の本を送ってくれた。その本が黒木勇司『原爆投下は予告されていた!』(1992年)であった。開いてみると新聞記事が挟まれていた。2000年12月24日付の産経新聞の切り抜きであった。「予告されていた原爆投下」というタイトルがつけられていた。この記事(社会部・野崎貴宮)を紹介する。

 ・・・岡山市在住の黒木勇治さん(77)=元安治川鉄工建設和歌山工場長=は、中国南部にあった第五航空情報連隊の本部情報室に勤務していた。連隊では敵機の行動を監視するとともに、中国・重慶放送と、インド・ニューデリー放送を傍受。ニューデリー放送は、ロンドンのBBCを中継した内容で、原爆開発、投下の情報も伝えていた、という。
 黒木さんは著書『原爆投下は予告されていた!』(光人社)でも当時を回想しているが、ニューデリー放送の中で最初に原爆という言葉が登場したのは、昭和20年6月2日だった。スティムソン委員会が日本に原爆投下を勧告したことを伝えていた。・・・

 ここで黒木雄司の『原爆投下は予告されていた!』の「まえがき」の部分を紹介する。この本が原爆に関する本の中でも異彩を放つ本であることはこの「まえがき」証明している。

 ・・・毎年8月6日、広島原爆忌が来るたびに、午前8時に下番してすぐ寝ついた私を、午前8時32分に田中候補生が起こしに来て、「班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたとニューディリー(ママ)放送が放送しました。8時15分に投下されたそうです」といったのを、いつも思い出す。
 このニューディリー放送では原爆に関連して、まず昭和20年6月1日、スチムソン委員会が全会一致で日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと。次に7月15日、世界で初めての原子爆弾爆発の実験成功のこと。さらに8月3日、原子爆弾第1号として8月6日広島に投下することが決定し、投下後どうなるか詳しい予告を3日はもちろん、4日も5日も毎日続けて朝と昼と晩の3回延べ9回の予告放送をし、長崎原爆投下も2日前から同様に毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた。

 この一連のニューディリー放送にもとづいて第五航空情報連隊情報室長・芦田大尉は第五航空情報連隊長に6月1日以降そのつど、詳細に報告され、連隊長もさらに上部に上部にと報告されていた模様だったが、どうも大本営まで報告されていなかったのではないだろうか。どこかのところで握りつぶされたのだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ。・・・略・・・
 この記録は私が現在の中華人民共和国南部の広東において、昭和20年3月⑪日付で野戦高射砲第五十五大隊第二中隊より転属し、第五航空情報連隊情報室に勤務、情報室解散の昭和20年8月21日までの約5ヵ月間の日々を記録したものである。したがって人物名、場所名などはすべて実名実在のものである。・・・中略・・・
 私もようやく今年は数え年でいうと古稀となり、老の仲間に入ってゆくので、惚けないうちにと書くこととした。書いているうちに先ほども書いたように、原爆に関する報告をだれが握りつぶしたのか。なぜもっと早く終戦に持ってゆけなかったかということをいろいろと考えさせられる。とにかく人の殺し合いという戦争は人類の史上にはもうあってはならない。・・・

 この「まえがき」の中の「どこかのところで握りつぶされたのだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ」「原爆に関する報告をだれが握りつぶしたのか」という文章に接し、私も黒木雄司氏同様に腹が立ってならない。
 広東の第五航空情報連隊情報室が得た情報は、第二総軍の情報室に間違いなく届いていた。この情報は有末精三の陸軍参謀本部第2部から、有末中将か三笠宮中佐のルートで大本営に伝わり、そこで握りつぶされたのはまちがいのない事実である。どうしてか? 答はいたって簡単至極この上もない。第二総軍傍受室は24時間交代勤務でアメリカ、マリアナ諸島、東南アジアにいたる放送を傍受していた。しかし、この貴重な情報を広島の軍司令部に全く伝えていないからである。それゆえに数十万人の軍人や市民が、第二総軍によって殺されたのである。その第二総軍は天皇がいる「御文庫」(皇居内地下に大本営が置かれていた)の命令を忠実に厳守していたというわけである。

 ★少年兵(満12歳)として黒木雄司は広東に連れて行かれ、珠海というところにある監視所でニューデリー放送を聞きノートに書き移す仕事をし続けたのである。
 それでは、6月2日の黒木雄司の1945(昭和20)年の「日記」を見ることにしよう(6月1日付の暫定委員会については姉妹書「国外篇」第五章で詳述した)。
 ・・・6月2日(月)晴後曇 午後7時
 こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、アメリカのスチムソン委員会は、全会一致で日本への原子爆弾投下を大統領に、ワシントン時間の6月1日午前9時、勧告書を提出しました。また別の情報によれば、米艦載機約60機が南九州地区の航空基地を主体して空襲し、総爆撃を致しました。繰り返し申し上げます。
6月4日 (水)曇 午後3時
こちらはニューディリー、ニューディリー でございます,信ずべき情報によりますと、先般、スチムソン委員会においては、原爆投下勧告を米大統領に進言しましたが、軍内部において軍独自に実験してみる必要が急遽発生したため、本日、実験準備命令が出されました。実験部隊、実験場所は公表されておりません。繰り返し申し上げます。・・・

『資料マンハッタン計画』の「資料173 核兵器の即時使用に関する科学顧問団の勧告」(1945年6月16日)に次のような文書がある。

 ・・・純粋に技術的な示威実験の提案から、降伏を決意させるよう最善の工夫を凝らした軍事使用の提案に至るまで、いくつかの意見があります。(引用者註一バーンズの都市への無警告爆撃発言は一応委員会で承諾された。しかし、1部の科学者は、原爆実験を公開し、その上で日本の立場を明確にさせよ、との抗議活動を始めた。このことを指すと思われる)・・・

黒木雄司の「日記」を続ける。

・・・7月16日(月)雨 午後10時
 こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、本日(7月16日)も米軍P51百機は、前日に引きつづき東海地方の各都市を空襲し銃爆撃致しました。また別の情報では昨日(7月15日)、米国ニューメキシコ州アラモゴードで、世界最初の原子核爆発の実験に成功致しました。繰り返し申し上げます。

 7月27日(金)晴 午前9時
こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、先般来、ドイツ国ベルリン市郊外のポツダムで行なわれていた米英支3国合同会議の結果、昨日(7月26六日)、米国トルーマン、英国チャーチル、支那蒋介石の米英支3国首脳は、日本に対し無条件降伏を要求するポツダム宣言を発表しました。繰り返し申し上げます。

 8月3日(金)晴 午前8時
 こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、米軍は来る8月6日、原子爆弾投下第1号として広島を計画した模様です。原子爆弾とは原子核が破裂するものであって、核の破裂にともない高熱を発し、すべてのものは焼き払われることでしょう。繰り返し申し上げます。・・・

 黒木の「日記」には、8月3日正午、8月4日午前9時にも同様の放送があった、と記されている。広島だけではない。長崎も予告されている。だが、この長崎の予告の件は別項にて書くことにしよう。
 「産経新聞」の記事「予告されていた原爆投下」の続きを読むことにしよう。
     
 ・・・一方、広島逓信局に勤務していた無線技師、宮本広三の原爆についての回想が『原爆予告をきいた』(草土文化)の中にある。逓信局では放送内容の検閲などを行っていたが、周波数のチャンネルをいじれば、連合国側の放送を聞くことができた。宮本は8月1日夜、米軍のサイパン占領後、そこから放送を始めたVOAを聞いた(この放送は中波とみられる)。放送は「8月5日、特殊爆弾で広島を攻撃するから非戦闘員は避難しなさい」という内容で、繰り返し放送した、という。
 宮本は放送内容を上司に伝えた。ところが、この上司は、「敵性情報を聞くとは何ごとだ」と怒った。5日は何ごともなく終わった。6日朝、上司は宮本を呼び、「何にも起こらなかったじゃないか」と言ったが、宮本は「聞違いなく聞いたんです」と反論した。原爆が作裂したのはその直後だった。

 この宮本広三の『原爆予告をきいた』は、日本児童文学者協会、日本子どもを守る会の編として出版された児童文学書『原爆予告をきいた 続・語りつぐ戦争体験』(1983年)に所収されている。筆者の住所が記されていたので(無職・63歳・広島県佐伯郡)、私は手紙を書いた。返事は来なかった。やむをえない。会って話を聞くのをあきらめた。NHK広島放送局原爆取材班著の『原爆搭載機「射程内二在リ」』(1990年)の中にも宮本広三が登場する。宮本広三については産経新聞と同じように紹介している。後半部分を引用する。

・・・宮本さんは現在〔1990年当時〕、入院中である。そして、今も原爆病と闘い続ける毎日を送っている。
 「広島市民を連れて逃げておれば、大恩人として銅像が建ったのに」とひやかす人もいる。だが宮本さんは、検閲の極端に厳しい当時の状況を回想しながら、「あの頃、ひとことでもデマ放送の内容をいえば、逃げる前に警察や憲兵隊にひっぱられていた・・・」と自らを納得させている。
「あんただけでも逃げておれば・・・といわれるとちょっと考えこんでしまう。でも、私はこう答えるかな。あの頃は誰だって私と同じ道すじをたどったと思いますよ」(『語りつぐ戦争体験-原爆予告をきいた』)
8月5日という日付に関しては、日米間に時差があり、アメリカの5日が日本の6日にあたる。だからアメリカは本当の情報を流していたのだと信じている人もいる。また、たまたまその日付であったにすぎないという声もある。しかし、いずれにせよ、広島へ何らかの重大な爆撃作戦が事前に予告されていたという証言があるのは事実である。
 宮本広三の『原爆予告をきいた』の一部を紹介する。 

・・・大阪に勤務中、とかく治療のために休みがちになるので、公傷認定を申請すると、
「今日、その傷を認めるものはない」と却下された。
広島にかえって、たびたびガラスの摘出手術をうけたが、あるとき、左肩にかけらがのぞいいて痛いから、切ってほしいというと、
 「厚生省の認定を得ないと切れない」という。
認定通知がきたときは、ガラスのほうで待ちくたびれ、どこかへにげてしまっていたこともあった。
 国家公務無災害補償法によって、公傷と認定されたのは、あの日から30年たった昭和50(1975)年の夏である。
 わたしは生きた。・・・

 宮本広三の「わたしは生きた」の言葉は、人生の何たるかを、生きることとは何なのかを私たちに教えてくれる言葉である。多くの人々が「わたしは生きた」との言葉を発しえずに死んでいった。
 私は本書の中で、「わたしは生きた」と言えず未完に終わった人々の恨みの心をこの世に呼び戻し、彼らにその無念の思いを語れ! と呼びかける。いかなる中傷を私は受けようと、私は真実を求め、真実を書き続けるであろう。
 「産経新聞」の記事を続けよう。第二総軍のことが書かれている。

 ・・・第二総軍(広島)でも独自に連合国側の放送を傍受していた。『昭和史の天皇』(読売新聞社)にも「投下予告」についての回想が登場する。被爆直後、第二総軍の作戦主任参謀、橋本正勝(戦後陸上自衛隊北部方面総監)は情報参謀だった大屋角造とともに本部の建物を脱出。その時、橋本は「大屋さん、爆痕がない。いったいこれは何だろう」と話しかけた。すると大屋は
「そういえばこないだから妙な新兵器のことをいった海外放送があったような気がする。それかもしれん」と話した。このとき、第二総軍では日系2世の女性を20人ほど集め、内外の放送を傍受していた、という。
 このことはすでに触れた。私は畑元帥と大屋中佐が広島原爆の全貌を知っていたと書く。その事を次項で詳しく追求する。「わたしは生きた」との声を発することすらできずに死んだ無念の想いを抱いた死霊のためにだ。
 この「産経新聞」の記事の続きを書いてこの項の終わりとする。

 ・・・米英の間には無警告で日本に原爆を投下することには反対する意見もあった。一方、東京でも連合国側の放送傍受が行われており、「原爆情報」が軍中枢などにも伝えられていたとみられる。
 広島市内には「新型爆弾」のうわさが流れていたというが、「広島市役所原爆誌」(広島市役所)には、当時の市議会議員の回想がある。「近く広島に大きなみやげを持っていくから楽しみにして待っていなさい、というビラを敵機がまいた。ビラは憲兵隊によって回収され、その内容は口外してはならない、ということになっていた。いつか流説になった。うきあしだった市民もいた。夕方になると周辺部の縁故先に行って仮寝するとか、山間部へ野宿するとかして、翌朝になって帰って来る者が、かなりあった」(社会部 野崎貴宮)
 

  『原爆の秘密』国内編 第1章 原爆投下計画と第二総軍の設立

★投下予告はこうして封印された  


  2007年7月中旬、私は広島の町中を歩き廻っていた。ふと私は何げなくタクシーに乗った。目的地には近かったのだが・・・。タクシーの運転手に、原爆の取材をしている、と語ったときであった。その運転手は私に意外なことを語り始めたのであった。

 「私の父と母は原爆が落ちた中心地の近くで死にました。私は疎開していたので助かった。後で分かったことですが、かなりの人々が原爆が落ちる日を知っていて逃げたんですよ。私の父と母は知らされてなかったんだよ。今も、それを思うと泣きたい気分になってくるんだよ・・・」

 この日の取材は、原爆が落ちた爆心地の周囲を廻ることと、古本屋で本を仕入れることが目的であった。そのときから計3度、私は広島を訪れた。東京では新刊書を多数仕入れたが、神田の古書店街に行っても、原爆関係の本はほとんどなかった。私は取材に行くというよりも、古本を買いに行くというような広島詣でであった。その中の1冊に前項で紹介したNHK広島放送局原爆取材班著『爆撃搭載機「射程内二在リ』があった。もう1度引用する。

 ・・・広島の原爆投下を予告するような、アメリカ側の動きがあったという話にも出会った。そのひとつが、いわゆる「伝単」といわれる宣伝ビラである。太平洋戦争では、この伝単が日米ともに心理作戦の武器として、飛行機によって大がかりに、敵陣内に空中散布された。最初は戦場での将兵向け、やがて戦局が進むにつれて、日本本土の一般市民を対象にした。米軍が、最初にビラを散布した昭和20年2月16日から終戦まで、全国で合計458万4千枚散布したと米国は発表している。(『昭和二万日の全記録=第七巻』講談社)

 多くのビラが散布された。前項の当時の広島市議のことばも、そのビラの存在を裏付けるものである。この本には1人の女性が登場する。

 現在〔1990年当時〕、広島市内で幼稚園を経営している高蔵信子さんは、当時20歳で、広島市紙屋町の芸備銀行本店(現在の広島銀行)に勤務していた。芸備銀行は、広島の中心部にあり、広島が爆撃を受けるとすれば、当然芸備銀行周辺も狙われるに違いないという危機感を抱いていた。銀行の方でも、万が一の空襲に備え、避難訓練や消防訓練をくり返し行っていた。〔中略〕
 高蔵さんの職場では、ある伝単の噂が広まっていた。実際に彼女は、その伝単を見たわけではない。しかし、伝単には恐ろしい爆撃予告がされていたという。

 ★ 「8月5日、広島を大空襲する」

 しかし、奇妙なことに、8月になると、アメリカ軍の広島への接近回数は、伝単に反して減少していった。だが、その裏で、運命の日は刻々と近づいていたのだった。

 この本によると、「爆心地からおよそ250メートルの近距離にあった芸備銀行で原爆を受けた人は、高蔵さん以外、誰ひとりとして生きてはいない」と書かれている。

 1945年7月26日、広島上空でアメリカ軍爆撃機B24 4機のうち2機が日本軍の対空砲火によって撃墜され、広島山中に落下した。当時12歳の少女だった木村ヨシ子さんは、その撃墜された飛行機を見たのである。以下は、『原爆搭載機「射程内二在リ」』からの引用である。

  ・・・一行〔アメリカ兵捕虜と連行する日本兵〕は、その集落の旧家に入って行く。木村さんもその後を追って、その家の庭に入って行った。すでに大人たちが集まって、家の中の様子を真剣にうかがっている。家の中では、日本の兵隊による尋問が始まっていた。
 尋問は通訳を通じて行われていた。ひとりは赤い髪、そしてもうひとりは、少し青みがかった灰色をしていた。
 木村さんは、そのときにひとりの搭乗員が語った言葉を今でも忘れることができない。上手な日本語で、彼は確かにこういったのだ。
 「僕たちウソいわない。8月6日、ヒロシマ焼け野原になる」
 木村さん自身は、学校に通学する途中で被爆した。アメリカ兵捕虜の予言を聞いてから、その日、学校に行きたくなかったが、無理に自分の気持ちを抑えて出たあとのことだった。
 米兵たちは、その後、爆心地に近い広島城祉にあった歩兵第一補充隊の営倉に収容された。

 木村さんと同様の経験を伝えている本がある。同隊医務班勤務の増本春男の談話が『広島原爆戦災誌』(広島市編集兼発行、1971年)に記載されている。

 ・・・増本春男衛生上等兵は、その2人の捕虜の食事(米飯、ふかしじゃがいも、みそ汁)を運んだが、そのとき、腕などの擦過傷の手当(ヨーチン、塗布)もした。捕虜の2人は、航空兵とは思われないような青みがかった簡単な作業服を着ており、頭髪は茶褐色で短い兵隊刈り。1人は20歳くらい、他の1人は26、7歳の若い兵隊で、何かおびえており、「おそろしい、おそろしい」という。通訳の見習士官が、「捕虜になったから恐ろしいのか?」とたずねると、「いや、ここにいたら死ぬのだ。近いうちに広島が全滅するような爆弾が投下される。ここにいては死ぬ」と答えた。捕虜2人は2日間、同部隊にいて、その後は憲兵隊に渡されたようである。

 『エノラ・ゲイ』の「7月28日-広島」の中にも、この捕虜に関する記事がある。
「・・・それからモルナーは金井と柳田准尉の間にはさまれて近くの農家へ護送され、一応安全な場所に置かれた。憲兵隊員が彼のまわりを取り囲んだ・・・」
 「2機の爆撃機の20名の乗員中13名が、撃墜され捕虜にされる最初の恐怖の瞬間を生き抜いた。彼らが広島に到着すると、広島市内に捕えられている捕虜の総数は23名になるはずであった。しかし彼らにとって、最も恐ろしい経験はまだこれからのことであった」
 この本の「7月9日-広島」に次のような文章を発見した。

 ・・・大屋中佐はいつも捕虜に対して、自分はすでに知っているのだが、ただ裏付けを取ろうとしているだけだという印象を与えようとした。彼の計略に引っかからない相手に対しては、それなら「憲兵隊」で尋問させるぞ、あっちでは「ほかのやり方」を使うだろうと脅した。大屋中佐は未知のものに対する恐怖が1番きき目のあることを知っていた。

 自分の腕前を発揮するためには、大屋中佐はどうしても「2、3人新顔の捕虜」を手に入れなければならなかった。できればマリアナ諸島から来た上級将校の飛行士がほしかった。かれはそこにアメリカ軍最大の爆撃基地があることを知っていた。

 大屋中佐は間違いなく「マリアナ諸島から来た上級将校」を手に入れた。そして情報を聞き出すと、彼らを特別の場所に隔離した。その情報は間違いなく畑元帥と共有し、そして有末中将のもとへ送られた。しかし、広島に原爆が落ちるという情報は1部の憲兵のみが知るだけで封印された。広島に原爆が落ちるよう準備するのが、大屋中佐、畑元師に命じられた。【至高なる人】からの【お頼み】であったからに他ならない。

 次に織井青吾の『原子爆弾は語り続ける』(2005年)を紹介したい。

 織井青吾は1931年広島に生まれた。14歳で被爆している。織井青吾は、原爆投下の直前、文理科大学の校舎に駐留していた陸軍通信隊の兵士から話しかけられる。

・・・23、4というところだろうか、大学生の兄さんといっても可笑しくない風貌に、黒縁のメガネをかけている。
 「はあ・・・」
 「米軍の情報によるとね、明日6日、広島に新型爆弾を投下するから、非戦闘員、つまり坊やとか女子供、年寄りの人たちは、今夜から郊外に避難せよと通告している・・・それを知らせてあげようと思ってね・・・」〔中略〕
 「だから逃げろと言われるんですか・・・」
 「その通りだよ」
 彼は淡々としていた。
 「兄さんも避難したいが、兵隊だからそれは出来ない。しかし、坊やなら出来る。生徒さんだから、どうにでもなる」

 織井青吾少年は原爆にやられてしまう。
 彼は原爆炸裂の状況を、「この時の瞬間をいくら正確に伝えようと思っても、自分に納得できる言葉がなかなか見つからない。そして、考えあぐねた末、その瞬間を、〈蒼穹が裂けた〉とでもいう以外にないと思う」と書いている。

 文理科大学の校舎に駐留していた陸軍通信隊の兵士のもとに、良心的なテニアン島の兵士が、少しでも広島の被害を少なくしようとの一途な思いから、無線を流し続けていたにちがいないのである。第二総軍の傍受室は、陸軍通信隊の兵士が受信した内容を知り尽くしている。それを間違いなく大屋中佐、畑元帥に報告し続けている。しかし、傍受室の人々も、この陸軍通信隊の兵士と同じように、大きな圧力を受け続けていた。それは、大勢の非戦闘員である「坊やとか女子供、年寄りの人たち」にいたるまで、あらゆる人々に死んでもらわないと、アメリカが進めてきた「無警告による大量殺戮」が成就しないからに他ならない。それこそが、〈民草をおもふ神なるお方〉の〈大御心〉なのである。

 広島市編集・発行の『広島原爆戦災誌』(1971年)には奇妙なことが書かれている。

 ・・・昭和20年(1945)7月16日、アメリカ陸軍はニューメキシコ州のアラモゴードの砂漠の中で、原子爆弾の爆発実験を行なって、起爆に成功した。しかし、この爆発が1つの都市(建物、人間その他)に対して、どんな威力(破壊、障害その他の現象)を示すかということについては、実際に使用してみなければ判らないことであった。それを現実に把握したいためから、アメリカは原子爆弾投下目標都市の現状をそこなわぬように空襲を禁じ、投下の日まで温存していた。
 したがって、広島市民に原子爆弾投下を予告して、爆撃目的を減殺するような警告ビラなどは、当然撒布しなかったと考えられる。

 私は、数多くの予告がなされた、と書いてきた。これはアメリカ陸軍省のルートではなかったのかもしれない。良心を持つ兵士たちが、上官を裏切って行った国家反逆罪的行為だったのかもしれない。第二総軍の真の狙いは、そのようなアメリカの良心的行為を封じ込めるための行動にあった、と考えると辻棲が合うのである。この『広島原爆戦災誌』には続きがある。

 ・・・ただし、市民の中(正田篠枝・山崎与三郎など)には、「原子爆弾を投下すると、明確には書かれていなかったが、破壊力の凄い爆弾で攻撃するから、市民は直ちに疎開せよ」という意味の書かれた宣伝ビラが、8月に入って多数撒かれたと語る者もいる。
また、当時、江波の陸軍被服廠の材料倉庫に、守衛長代理として勤務していた松窪熊市の手記「あの日の広島」(宮崎県原爆被害者の会発行『閃光は今もなお』)には、炸裂の1週間前の7月30日に、「1週間以内に広島市内を爆撃す。罪ない市民に被害を与えたくはないが、爆弾には目がない故御用心‐‐」と書いたビラが飛行機から撒き散らされたと記述されている。

 このビラ撒布も、この『広島原爆戦災誌』はなぜか否定すべく努力している。「グローブスは、投下の予告や警告は、戦略効果を無視するものとして、無警告奇襲攻撃を主張としてゆずらず、結局、その主張どおりに実施したといわれる」との念の入った書きようである。第二総軍が恐れていたのは、聞違いなく、アメリカの良心がどこかで、何らかの方法で、広島市民に伝わることであったのだ。それで彼らは、それらを未然に封じ込めるために眼を光らせ、無線で入ってくるアメリカの良心を妨害しようとしていたのである。
 財団法人広島県警友会が編集・発行した『原爆回顧録』(1988年)から引用する。亘春市(当時37歳、警察部警防課防空主任・警部)の手記の1部である。

 ・・・私は、その後だれであったか記憶していませんが、4~5名の課員を連れ広島市役所付近の視察に出かけました。街は壊れ焼き払われて跡形もなく、都心は一望の焼野が原でした。
 市役所北隣の公会堂広場の地には怪我人がいっぱいで「お母さん、お母さん」と叫んでいるもの、男女の見さかいのつかぬほど黒く焼けただれた人々など焦熱地獄、この世の地獄を見せつけられました。
 この惨状を目のあたりにし、これが私たちが今まで訓練の対象にしていた焼夷弾ではなく、まさしく特殊爆弾だと思わざるを得ませんでした。実にわれわれの想像だにしなかったはるかに強力なもので、これはあるいは西部戦線で最後に使用されるのではないかと、かって耳にしたことのある原子爆弾ではあるまいかとひそかに思ったことでした。・・・

 間違いなく広島の警察の内部でも、原子爆弾の風評が広まっていたのである。亘春市が40年後の回想の中で語るごとく、広島は「街は壊れ焼き払われて跡形もなく、都心は一望の焼野が原」と変貌し果てたのである。もし、第二総軍の大屋角造中佐と畑悛六元帥に、アメリカの兵士が示したであろう、良心のひとかけらさえあれば、広島の惨劇も、そして長崎の惨劇も防ぎえた可能性が大であったのだ。

 死んでいった「お母さん、お母さん」の声をこの世に甦らせ、真相を語らしめなくて、この日本に未来があるとは私には思えない。  第一章 <了>。 

 
●第二章へ進む前に【目次】を再度確認してみよう。

 以下の通りだった。 


 *************

●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 ★日本進攻計画と第二総軍との「不可解な暗合」
 ★発令されなかった警戒警報
 ★謀殺された徹底抗戦派・戦争終結反対者たち
 ★生者と死者と、あるいは賢者と愚者と
 ★演出された投下時刻「8時15分」の意味

 

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