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●疑 史(第40回) アヤタチとサンカ (終)  
●疑 史(第40回) アヤタチとサンカ (終)  
 
 謎の民族といわれる山窩(サンカ)と、その頭領とされるアヤタチについて、前月号まで述べてきた。アヤタチを称する丹波桑田郡穴太村上田家の伝承を、1族の外科医・渡辺政雄から吉薗周蔵が聴き取った記録から、私が組み立てた仮説であるが、何しろ従来の歴史観念を大きく塗り替えるもので、さだめし当惑しておられるであろう読者のご理解のために、わが仮説の梗概を以下の一文にまとめてみた。

 サンカは本来、イスラエル十支族の末裔で本邦に渡来したアマベ氏を核とした特定の人的集団のことで、その「他称」と思われる。多神教を奉じた十支族は、ユダ族一神教徒の専横を憤って袂を別つが、独立したイスラエル王国は前734年、アッシリアに滅ぼされた。隷囚の身の十支族は身を以て逃れ東方に流移するが、主たる経路はインド洋治岸沿いの海上の道と、大陸内部を貫くシルク・ロードであった。

 インド洋沿岸を周回したアマベ氏は、越海岸にたどり着いて逗留、そこで親和した倭人を率いて丹後半島に上陸、同族の日本渡来の先駆けをなした。時期は紀元前数世紀で、先住縄文人とは倭人と同様に融和し、沿岸に海人居住地として〈海部郷〉を設け、内陸部には水田稲作を営む農業集落〈イセ〉を築いた。結局それで縄文時代が終わり、今日では弥生式集落、弥生文化と呼ばれている時代に移った。

 同族ながら、西域経由で大陸内部を東遷した呂氏一族は、始皇帝を擁立して秦帝国を建て、支那大陸を統一するが、漢に敗れる。1部は朝鮮半島に逃れ、族称を秦帝国に因む秦氏と改め、交易拠点を百済・任那の境界の地に営み秦韓と号したが、防衛面を隣接する騎馬王権辰韓に頼り、これを傭兵として共生した。北九州に渡来して交易拠点を設けた秦氏の1部は、イシュクル(宗像3女神)を祀る縄文民と混交し、首長・宇佐君の血筋と入れ替わった。任那の地で楽韓と共生していた辰韓が、南下した騎馬民族に追われて北九州に逃げ込むと、秦氏宇佐君は辰王を迎えて女婿とし、天孫二二ギと称してスメラギ(王)に擁立した。二二ギ(辰王)と秦氏宇佐君の間にできた応神は、秦韓に僑居していた多数の秦人に呼びかけて渡来せしめるが、その中の融通王が秦氏の首長となり秦君と称した。これを応神の立場から観て、王朝運営の人材を確保したと見るのは単純過ぎる皇国史観で、応神が秦氏の厚遇に報いたとの見方も可憐な感傷にすぎない。正解は、秦氏の深謀で、1族を挙げて本邦に渡来し、安住繁栄を図るために騎馬民族の軍事・統治力を利用したのである。

 同族のモノノベ氏も、ニギハヤヒに率いられ、天磐樟船(アメノイワフネ)に乗じて大和地方に渡来した。朝鮮半島を足掛かりにしたと思われるが、東遷経路は未詳である。縄文族の首長ナガスネヒコと同盟し、共生したニギハヤヒは、天孫軍を率いた応神が大和を攻めるや、忽ち降伏し、以後はヤマト朝廷の下で祭事・兵事を以て奉仕することとなる。

 ホアカリを奉じイセ集落と海部郡を支配していたアマベ氏では、天孫族への服従を嫌う1部が山中深く逃れ、アヤタチと称して中東由来の採鉱技術(錬金術)に拠る生活圏を建設した。アヤタチの下にはアマベだけでなく1部倭人や、倭人と同源で華南から同行した山岳民族も従った。このロビンフッド的な抵抗集団をサンカと呼ぶのは他称のようだが、山窩の字を振ったのは、言いえて妙である。

 アヤタチは本来アマベ氏だが、やがて、ヤマト朝廷と融和して勢力を築いたモノノベ氏を引き入れて、氏族統合したので、ホアカリとニギハヤヒを同体と見做す伝承が生まれ、今や固定化しつつある。アヤタチは、モノノベ氏が蘇我氏に敗れると今度は秦氏宇佐君を引き入れたので、以後急速に秦色が強まり、事業も鉱山経営ばかりでなく、銅産業・酒造業・商業で大いに発展した。山窩の概念はここに拡張・変容したが、以後も時代とともに拡張してゆくのである。

 大陸では北方民族の抗争が活発し、弾き出されたトルコ系騎馬民がツングース族を伴い、朝鮮半島経由で陸続として渡来した。亡命騎馬族をアヤタチが暖かく迎え、同族なみに待遇したのは、秦氏宇佐君が辰王を迎え、天孫として擁立したのと同じ伝である。つまり、始皇帝擁立以前からすでに呂氏(秦氏)の家伝であった武族懐柔・傭兵利用策である。秦氏と同根の客家華僑も同じ思考を持ち、阿片戦争を仕掛けてきて上海を奪った英人を指し、「なあに便利な番兵を雇ったまでだ」と嘯(うそぶ)いていた。殷鑑遠きに非ず、横田幕府を奉り駐留米軍の傘の下で経済路線に特化した自民党政治もその一斑である。しかしながら、2千年来の秦氏的平和思想に影響されて、国民多数の心情がすっかり倭人根性に泥んでしまった今日、憲法平和条項の改正を多数決を以てするのは、存外容易なことではあるまいと、国情を憂いつつ私は思う。

 それはさて、本邦に亡命したトルコ系騎馬族は、大伴氏・物部氏ら弥生系武族に混入し、平安貴族からサムライ(奉仕者)と呼ばれて、私領荘園の守衛・管理に使役されながら、武士という新階級を日本社会に形成し、封建時代を開く。騎馬族についてきたツングースは、非耕作民の故に稲作社会で〈化外の民〉とされ、行商・芸能に従事する非定住民として中世を生き抜くが、江戸時代の都市の発達とともに、都市住民化して商人の基となった。巷間「朝鮮山窩」と呼ばれる種族の実態は未詳だが、呼称からして山窩概念に含まれること疑いない。因って、例のトルコ系渡来人と考えるが、拡張概念としては、右の非定住民を含めて呼ぶ場合もあるのであろう。

 大航海時代を先駆けたポルトガル人も、航海者の多くは、実はフェリペ2世によってスペインを追われたセファルダムであった。つまり宣教師を装い、奴隷貿易を目的に東南アジアに来たり、マカオに拠点を置いて現地女に混血族マカイエンサを生ませた冒険商人には、改宗徒コンベルソや偽教徒マラノが多かった。日明間の貿易が(密輸を除いて)専ら彼らの仲介によったのは、倭寇を恐れた明帝国が海禁政策を採ったからである。日本からの輸出品は銀地金、男女奴隷を主として、日本刀・美術品などであった。輸入品は白糸(絹糸)が主で、ほかには香料、後に鉄砲・煙硝が加わった。

 山窩の原郷・丹波を本拠としたアヤタチは、1族を秦氏の都・平安京に送り、機織・酒造・木材業を営ませていた。絹織物の原料の白糸買い付けのため、泉州堺に手代を派遣して直接商談をさせたが、例のアヤタチ的混血主義により1族女性がポルトガル人に接触して混血児を生む。牛神バアル(スサノヲ)・女神イシュタル(弁天・観音)・太陽神ミトラ(弥勒)を奉じるアヤタチ家系とポルトガル宣教師との間に生まれた混血児も山窩の1成員だが、いわば日本版マカイエンサで、多くは父に従い一神教徒となったものか。

 南蛮渡来の薬物の1つに罌粟(ケシ)があり、津軽地方に初めて伝わったことから「津軽」と呼んだ。中東由来の錬金術を本業とするアヤタチは、古来アヘンにも通じており、到来の新種の罌粟(ケシ)に着目せぬ道理はない。アヤタチは、丹波で手塩に掛けた乱破・透波を、各地大名に諜者として売り込み、戦国の世に収入を得ていたが、これら忍者はアヤタチの指導により阿片を使用した。用途は、主として自白剤・鎮痛剤で、催眠術にも用いたが、単純な快楽には用いなかったようである。

 江戸幕府は、英人・三浦按針から旧教の植民地主義について教わり、キリスト教徒を追放し、旧教徒南蛮人の渡来を禁じて新教徒紅毛人にのみ通商を許した。やがて英国商人が撤退し、オランダ人だけが日欧間の交易を担うと、南蛮貿易に替わるオランダ取引を重視したアヤタチは、長崎に手代を派遣するが、例の混血主義により日蘭の混血児が生まれた。当然プロテスタントもでたが彼らも素より山窩の1員で、かくして多神教のアヤタチ家系の1部は、一神教に染まり始めた。

 東北アジアの地では、4世紀からトルコ系騎馬民族の勃興期に入り、五胡十六国の乱(304~409)に始まり、魏晋南北朝、五代十国(907~960)にかけて、数世紀にわたり部族間の軍事抗争を重ね、敗れた部族は南下するのが歴史の法則で、三々五々渡来してきた騎馬族を、アヤタチは同族待遇で山窩に迎え入れたから、山窩の概念は時代とともに変化してきた。段階的拡張を続けてきた山窩観念を分別すると、次の6つになる。
①イスラエル十支族の末裔で本邦に渡来したアマベ氏。
②アマベと同族のモノノベ氏。
③本来縄文系の宇佐氏の血統に潜入した秦氏。
④満洲から朝鮮半島経由で渡来したトルコ系騎馬族。
⑤実質的セファルダムのポルトガル冒険商人とアヤタチ系の混血、
⑥実質セファルダムのオランダ人とアヤタチ系の混血、これである。

 以上が本来の山窩(第1種)とその拡張観念であるが、周辺には別種の山窩がいた。すなわち、

⑦アマベ氏が華南海岸から引率した倭人に随伴してきた山岳民族。
⑧トルコ系騎馬族の渡来に際し、満洲からついてきたツングース系の非耕作民、これである。彼らはアヤタチの配下として第1種と混在していたため、世人から第1種山窩と同一視されて、山窩と呼ばれるようになったもので、第2種である。

 三角寛をはじめとし、柳田国男・後藤興善ほか従来のサンカ研究者はみな、第2種の生活形態を甚だ奇として、これを論ずるに止まったため、第1種の存在は、これまで世間にまったく知られなかった。尤も、生態観察などに囚われていては第1種の存在に気が付く筈もなく、内部から情報公開があって初めて分かるものであろう。ところが第1種が自らの存在の露呈を極力避けてきたことは、現に上田家の出自で日本史を稼業にしながら、アヤタチについてまったく触れようとしない学者を見れば明白である。それだけではない。著名なサンカ研究者の中に、第1種の請託を受けて世人の眼を第2種に誘導した者の存在は、その気で著作を読み直せばすぐに気が付く筈だ。ここまで隠すのはあらゆる組織に共通する癖で、〈企業秘密〉を守るためと思えるが、アヤタチ家に出た近代の鬼才・上田鬼三郎すなわち出口王仁三郎が、大本の御筆先に、「イスラエルの12の流れを元の1つに戻すぞよ」と叫んだ意味を、史家は考えたことがあるのだろうか。本稿は 『疑史』と題する以上、これを見逃すわけには行かず、ここに5回の連載となったが、私が典拠とした『吉薗周蔵手記』は、上田家の外孫・渡辺政雄から周蔵が直接聴いて記録したもので、第1種そのものを焦点にしている。巷間では、自らサンカと称える月海黄樹だけが第1種に触れている。ペーパーバックではあるが、むしろこういう所に真相が潜んでいる好例であろう。

  <了>
 
 

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