カウンター 読書日記 ●疑 史(第38回) アヤタチとサンカ(38) 
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●疑 史(第38回) アヤタチとサンカ(38) 
 ●疑 史(第38回) アヤタチとサンカ(38)  

 世界史は、多神教世界が一神教化していく過程と重なる。それは、エジプト新王国第18王朝のアメンホテップ4世 (イクナートン)がアメン・ラーのオリエント多神教を太陽神アトンの一神教に改革せんとした前1400年頃に始まった。改革は失敗に終わったが、唯一神の観念は遊牧民・ミディアンに受け継がれてヤァウエと呼ばれ、シナイ山でヘブライの指導者モーゼに憑依した。遊牧民ユダ支族の羊飼いダビデがヘブライ民族を統一し国王としてヤァウエ崇拝を図ると、農耕民の多神教徒イスラエル支族が反発、独立した。そのイスラエルがアッシリアに滅ぼされ10支族が離散すると、ユダ支族がヘブライ民族を僣称し、始祖アブラハム以来一神教徒であったかに装ったのはヤァウエ信仰を正当化するためである。キリスト教もこれに同調し、両教会は徐々に歴史の変改を行ったので聖書は11世紀に現行の内容となった。この間、8世紀にトルコ系カサール族が進んでヤァウエに帰依しユダヤ人(アシュケナジ)を偽称したので、ヘブライ族の人種および民族宗教の観念は矛盾・錯綜したまま、近年に至った。

 世界史の動因は一神教にあり、欧州を教化したキリスト教勢力は両米大陸を植民地化し、また中近東を教化した回教勢力がインド亜大陸と南洋諸島を席巻し、地球の大半は一神教となった。支那大陸での一神教化は殷周革命で、儒教(一神教)の周族が道教(多神教)の殷族を滅ぼした時期は前1111年、イクナートンから3百年後で、ダビデよりも百年ほど古い。周族も遊牧民で、唯一神「天」にはヤァウエと共通する部分もあるが、神との契約を強調せぬところが違う。儒教は1面政治規範で、国家間にあっては華夷秩序、国内では君・卿・士大夫の身分差別を重んじ、君臣の義を強調して支那大陸の統治に益した。ところが東亜の風土は★遊牧民さえ仏教・道教に帰依せしめたほど多神数的な共生意識が強く、漢族は遂に一神教に染まらず、儒教は建前で本音は道教と使い分けた。形骸化した儒教の本流は大陸から半島に移り、今日の政治的奇観たる北朝鮮を生んだ。

 世界史を駆動した多神教の一神教化は、唯一神の御意思によるものではなく、農耕民(働き蜂)の武力征服を欲する遊牧民(兵隊蜂)の本能がもたらしたもので、その際、唯一神信仰が遊牧民の征服本能を強化し、また統治手段として被征服民の一神教化が進められたのは事実である。その根底にはワンワールド勢力による宗教工作があった。つまり★一神教化は特定勢力の作為によるもので、人類文明が必然的に辿るべき運命と言うことはできない。現に、武力のみならず精神的にも完敗し、アメリカの準属国となった戦後日本人も、祖先崇拝の神仏混淆教だけは棄てないので、征服者マッカーサーの使命たる日本のキリスト教化は失敗した。キリスト信徒教は戦後むしろ滅少したが、これこそ一神教の教線が初めて受けた頑強な抵抗である。文明国でもキリスト教化が進まない事態に一神教徒は戸惑うが、彼らこそ多神教の意義(共生意識)について考えるべきものと思う。イギリスに征服されたインド・セイロンでもヒンズー教は滅びなかった。かつて儒教が支配し、今は無神教が支配する支那社会でも、人心の奥底には道教がしぶとく生きている。

 典型的な多神教地帯の日本にも、史上幾たびか、一神教が侵入を試みた。マッカーサーは大量の聖書を全国に無料配付し、皇室を教化せんとさえ図った。室町末期、南蛮人による戦国大名の教化は執拗で、九州では人民の数割が天主教に帰依した。幕末維新の際は、多数来日したワンワールド宣教師が教化と日本の近代化を指導し、主目的たる日本指導者のワンワールド勧誘には成功したが、教化は失敗した。

 本稿が論究するのは、ワンワールド勢力が、同根たる山窩(第1種)とその頭領アヤタチに対して、歴史上いかに工作してきたかである。『周蔵手記』大正3年の条によれば、

1、アヤタチ上田家はオランダ取引をするなど、商売も毛唐好みで、血筋にもオランダが入っている。
2、上田家の数代前の画家・円山応挙はオランダとの混血である。
3、幕末の当主・上田吉松はケシを用いた御祓いを看板に全国を徘徊し、公家の密偵を務めた。
4、吉松は長男・鬼一郎に下北郡の医師・槇玄範を継がせ、自らは死去を偽装し氏家省一郎と称した。
5、吉松は、いとこ渡辺ウメノと出口ナオと3人で、明治25年に大本教を開教した。
6、大正3年、ウメノは綾部の大本教本部でオランダ渡りの黒ケシと薬学書を周蔵に与えた(その際、ウメノの首に銀の十字架が掛かっていた)。

 丹波穴太村の上田家の遠祖はイスラエル支族の末裔アマベで、選抜された勇士が応神の東征に反抗して山岳に隠れ、アヤタチを称した。(以下は私見だが)アマベはその後、応神に降伏した同族モノノベと部族統合し、応神に与した同族のウサ(秦氏)もやがてアヤタチに加わる。アヤタチが秦氏に乗っ取られたフシもあるが、その時期は平安時代か。かくしてモノノベと秦氏が入ったアヤタチは、当初の反朝廷色を薄めたが、なお歴史の裏に潜み、中世には満洲から朝鮮経由で渡来したトルコ系騎馬族を1族に迎え入れた(朝鮮山窩)。

  信州の蚕某地に因む上田を称したアヤタチは、養蚕・紡績・機織など絹産業で大成する。江戸時代には西陣織を支配し、オランダからの輸入雑貨を扱う尾張屋を京に出店し、宮中に出入りした。応挙は幼時生家の隣の穴太寺で絵を自習した後、尾張屋で働くが、彼が創めた立体画法オランダ絵は、或いは穴太寺に隠れ住んだオランダ人親族から習ったものかも知れぬ。上田家にオランダ血筋が入った時代は未詳だが、室町時代において既にポルトガル人との混血があったとしても不思議はない。当時は大航海時代、すなわち一神教の拡張局面で、一神教を奉じる南蛮人(ポルトガル・スペイン)が渡海し、一攫千金と原住民の教化を図った。明国でも永楽年間、回教徒の鄭和が取宝船の大艦隊を率いてアフリカまで大航海を遂げたのは世界史の共時性で、冒険商人と一神教が極東の日本に押し寄せて当然である。しかも足利幕府は、各国に守護大名を封じて農業経済を任せ、自らは重商主義に立つ貿易政権であった。幕府や西国大名が私貿易を禁じ、自ら官営貿易に当たったのは明国の海禁策に対応したものだが、正史に載らぬ倭寇と明人の間の密貿易も盛んであった。

 当時の時代精神は重商主義で、貴金属地金の獲得と蓄積を目的とするから、世界の銀産出量の数10%を占めていた日本が世界史に登場したのは必然で、輸出品目の首位は銀地金、工芸品がこれに次いだ。輸入品の大半は銅銭と生糸であったから、絹産業最大手の上田家が対明貿易に関わったのは当然である。対明私貿易の仲介者は当初倭寇だったが、1513年にポルトガル人ジョルジエ・アルヴァレスが艦隊を率いて華南に来り、倭寇を討伐した功績で明国皇帝から交易権の特許を受け、以後はマカオに本拠を置いたポルトガル船が、日明貿易を媒介した。上田家はポルトガル商人を相手に直接生糸を輸入し、他にも各種輸入品を扱った筈で、「上田は古く
から毛唐好みの商売をした」とはこのことであろう。新大陸やマカオで現地民との間に進んで混血児を作ったポルトガル人は、当然上田家とも混血した筈である。「上田家にはオランダ人の血が入った」というのを文字通り解すとしても、その前にポルトガルの血が入っていて不思議はない。

 マカオで生まれたポルトガル人と華南人の混血はマカイエンサと呼ばれ、ポルトガル人として来日し、奴隷はじめ生糸・銀の貿易に携わった。近世史を特色づける奴隷貿易は、カソリック宣教師兼冒険商人の南蛮人が、多神教地域の支配者から人民を買い受け、植民地に送って強制労働に服せしめたものである。日本でも例外でなく、煙硝を必要とした西国大名から南蛮人が領民男女を買って東南アジアに送り、男を鎖で繋いで守城兵に、女を慰安婦にした伝承が、積出港だった薩摩の坊の津に、今でも残っている。

 江戸幕府は顧問の三浦按針(英人ウイリアム・アダムス)から南蛮人の一神教的野望を聞いて危機感を抱き、キリシタン大名に棄教を迫り、南蛮人と邦人信徒を海外に追放した。以後は、布教に不熱心な紅毛人(オランダ・イギリス)と南京船(明・清国)に交易相手を限った鎖国政策を厳守し、日本一神教化の最大の機会を潰したのである。しかし、鎖国令下の江戸時代にも、ワンワールド首脳による日本潜入指令は撤回されなかった。外見からは人種国籍を区別できぬのに乗じて、第三国人がオランダ人を偽称して潜入した好例はドイツ人・シーボルトである。江戸時代も外国船の停泊は長崎に限らなかった。紀州藩の『牢番頭日記』には、インドから南蛮鉄を運んできた外国船が堺に入港した際、インド系船員「鳥坊主」が上陸して各地で騒擾を起こしたと記する。烏坊主は船に連れ戻されたが、国内に確実な受入れ態勢があれば、外人の潜入と潜在は難しくなかった。正史には載らぬが、隼人系の海外進出が顕著だった南九州では、内外人が相互に出入した。吉薗周蔵の家系には宮崎海岸に上陸した外人船員の血が混じっているという。東洋風の顔かたちのマカイエンサにとって、日本侵入はオランダ人よりもはるかに容易だから、上田家が受入れ態勢を取ったとしたら、オランダ人でもマ力イエンサでも、入国と滞在はさして困難でなかった。

 3世紀末に渡来した辰王(ないし応神天皇)を支援し、同盟したのは、当時宇佐にいた秦氏である。中世、朝鮮経由で渡来したトルコ系騎馬族も、実質秦氏であったアヤタチが受け入れて配下の山窩(第1種)に編入したと思う。これらすべて、遠祖の呂不韋以来、秦氏が薬篭中に秘めてきたもので外人を支援し同盟する戦略である。秦氏の伝統を引くアヤタチ上田家が、オランダ人やマカイエンサを受け入れたのも同じ伝だが、上田家がポルトガル(マカイエンサ)やオランダ人と混血したことは、アヤタチ家系に一神教が入ったことを意味するから、渡辺ウメノの十字架にも相応の由来がある筈だ。彼らが興した大本教はバァル神の日本名・スサノヲを奉じ、当然多神教であるが、その分派ともなると、なぜか一神数的な雰囲気が濃厚である。

 ところで、最近私に送られてきた1通の書簡は、マカイエンサの行状を訴えている。

 彼らはホトトギスの托卵と同じで自らの種を孕ませた娘を伝統的名家に嫁がせ(あるいは名家の嫁を孕ませ)、混血児が育つや出自を教えて脅迫し、彼らの手足となす一方、相続の受皿にもして、名家の家産を乗っ取るとの訴えである。来月に考察することとしたい。

 

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