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●疑史(第34回) 日本に渡来したイスラエル族(6) 
 ●疑史(第34回) 日本に渡来したイスラエル族(6) 

 戦前の教科書歴史は皇国史観に立ち、民族の起源を天孫神話に求めた。天神・アマテラスの血を承けた天孫二二ギの子孫が万世一系の皇室として、永久に皇国日本を治め、また臣民には天神地祇の子孫たる神別、皇宗の分岐たる皇別、渡来人たる諸蕃の3種類が居るが、それぞれ対等で、天皇にお仕えして大和民族を形成しているというものである。

 政治的方便としては有効かも知れぬが、20世紀はかかる鎖国的史観の通用する時代ではなかった。敗戦により天孫神話が否定され、皇国史観は逼塞した。代わって登場した弥生倭人史観を象徴するのが登呂遺跡と志賀島金印とおよび騎馬民族征服王朝説である。

 登呂遺跡は紀元100年頃の弥生後期の遺跡で、昭和18年静岡市で軍事工場の敷地を整備中、たまたま発見された。昭和22年から再発掘され、続々発表される遺物は敗戦に打ちひしがれた国民に大いなる希望を与えた。要するに皇国史観を否定されて祖先を見失った国民に対し、新たな精神の拠り所として弥生史観を与えたのである。

遺物中で注目すべきは、

①コメには水田種の温帯性ジャポニカ以外に陸稲種の熱帯性ジャポニカが混じっていること、
②土器が縄文武と弥生式の混在するいわゆる「接触式」であることで、これらは登呂文化が「縄文要素を残した弥生文化」なることを明示しており、縄文族が倭人と、その水田稲作技術・弥生武土器などの文化を受容することにより、縄文社会が急速に弥生社会に移行した史実を証明している。

 静岡市の登呂遺跡がムラの段階であるのに対し、滋賀県守山町の近江伊勢遺跡はクニの水準に達している。本稿が主張してきたように、近江伊勢遺跡はイスラエル族の流民たる海部氏が建設したクニで、王は海部一族だが、生産民の大半は海部氏が江南から連れてきた倭人で、海部と混血した者が官僚層の臣(おみ)となったと思う。近江伊勢遺跡は、竪穴式住居の壁に煉瓦を使用するなど弥生遺跡中の異例だが、これは地名の「イセ」が示す通り海部氏直轄領だったためにイスラエル的要素が濃いのであろう。
これに対して登呂遺跡では弥生文化中に潜むイスラエル的要素が減退し、その代わり縄文的要素が混在しているわけで、これからして登呂の住民は倭人が主体で、縄文族との混血も居たものと思われる。海部郡海部郷は丹後・越前・伯耆の山陰地方と豊後・筑前の北九州のほか、阿波・紀伊・尾張など西日本各地に分布するが、東日本では上総だけである。これを見るに海部氏が直接ムラ・クニ作りに関与したのは主として西日本で、東日本では倭人が主体となってムラ作りを進めたようで、理由は何といっても人数であろう。人口構成では、キミ層の純イスラエル族はごく少数で、倭人との混血のオミ層もその数多からず、人口の大半のタミ層は倭人が占めたものと思う。

 皇国史観はイスラエル族渡来を完全に否定したから、今日でも国民の大多数はそれを聞いてもなかなか信じない。祖先が天孫ならぬ倭人と聞かされた国民の関心は、直ぐに志賀島金印と魏志東夷伝倭人条に誘導された。志賀島金印に関しては本稿で宮崎市定の話を紹介しつつ、その偽造なることを論究したが、その後千葉大教授三浦佑之が『金印偽造事件』を著し、且つ最近『新潮45』において拙論を敷衍された。教授は小生よりもずっと以前から、金印に疑念を持たれていたと言う。その偽造なることの科学的証明は、学界にその意思さえあれば、直ぐにもできよう。

 志賀島金印を支えたのは後漢書と魏志東夷伝倭人条で、前者は官撰史書、後者は官撰地誌で一応の参考にはなるが、中華思想が国民の歴史観念を誤導する点に問題がある。倭人条などよりも国民を驚かせたのは騎馬民族征服王朝説で、東京大学教授・江上波夫が昭和23年に初めて唱え、古墳時代の前期と後期では副葬品が一変し、前期には祭祀具が多かったが後期には馬具が多くなると指摘して、おおよそ次のような説を建てた。

即ち「4世紀前半に騎馬族の夫余族が南下し、南朝鮮から北九州に渡って来て九州王朝(崇神天皇)を建てたが、九州王朝の応神天皇が5世紀の始め頃に大和に入り、河内王朝を作った」というものである。
 本稿は江上説と異なり、「崇神」を3世紀に大和地方で土着縄文族のナガスネヒコと共同政権を建てたニギハヤヒの同人異名と考える。ニギハヤヒ実在論に立つから、ニギハヤヒが架空ならばそれまでだが、論者も物部氏の実在は否定できず、その祖先(ないし祖神)としてのニギハヤヒを否定し得べくもあるまい。ただし本稿の主旨はニギハヤヒが別名を崇神
と称したと言うのではない。崇神とは数世紀も後の諡(おくりな)で、それを贈られた官撰史書上の大王は、時代・血統・事跡などいずれを取っても史実には合致しないから、単純な崇神不在説も誤りではない。だが、史官が崇神天皇に仕立て上げたモデルたる大王は実在したとみるべきで、人心が実在感を持つニギハヤヒを無視しえない史官が皇統譜に取り込み、血統・人格を皇統譜の都合に合わせて変改し、崇神天皇としたものと見るのが至当である。本稿は、ニギハヤヒを海部とは別派のイスラエル系で宇佐から入ったものと考え、崇神天皇のモデルと見たが、江上教授のごとく、九州に実在した夫余系某王を崇神のモデルと考えても絶対に不可ではない。ただし、その場合はニギハヤヒ本人と、大和の崇神陵の被葬者のことを合理的に説明することが必要である。

 ともかく騎馬王朝説が弥生史観と共鳴したのは、征服王朝の支配者は騎馬族であっても、被支配民の大半を倭人と見た点にある。江上説は、前漢が朝鮮半島に進出して楽浪郡を置いた時、これに対応して倭人の1部が対漢交易の目的で朝鮮半島南端部に移住し、同時に北九州に渡来したとしており、倭人渡来説を包含している。そもそも歴史はかかる大スケールで見ないと本質を洞察できないもので、江上学説は一般国史学者の域を超えた理論として過言ではないが、
同時に不審は、ここまで洞察した江上教授になぜ縄文文化が見えなかったかである。それは多分、江上の方法論に原因するものと思う。蓋し江上説にはネタ元がいて、ネタ元が教えたのは縄文以来の歴史伝承のうち倭人渡来と騎馬族来襲の部分だけであった。そのネタ元こそイスラエル流民の渡来伝承を代々伝えてきたアヤタチで、もし夫れ海部氏の本家か分家の丹波穴太村上田家の関係者でないとすれば、物部氏の末裔ないし宇佐秦氏の直系ということではないだろうか。

 イスラエル遺民のなかでも、海部氏が3世紀以後振わないのは騎馬族に対して正面から抵抗したためで、「応仁3年全国で海士の反乱が相次ぐ」と史書に記す通り、海人の全国的な抵抗は騎馬族の軍事行動により制圧され、各地のイセ集落は焼亡を免れず、生き残った海部氏も大半は僻地に隠れ、同族の物部氏を偽装同化したものと思う。その証拠は、海部の祖神ホアカリが物部の祖神ニギハヤヒと同体なりとする伝承が各地に根強く存在するからで、この古伝承は同じイスラエル系から派生した両氏が、氏族統合したことを裏付けていよう。

 騎馬民の渡来・征服後も、物部氏はなお強盛であった。渡来してきた夫余族は、統治権を正統化するために海部・物部の神話を借用してスキタイ的天孫降臨説に結び付け、日本建国の神話を拵えたが、その関係で、両氏の歴史上の位置を故意に卑小視せざるを得なかった。武力反抗した海部氏はほとんど無視したが、一方の大族たる物部氏を無視できず、天孫神統譜土に物部氏を支流として編入するとともに、縄文時代からの土着豪族を国津神として神別に編入した。秦人は弓月君の引率民として、秦氏ともども諸蕃に編入された。

 イスラエル族の中でも秦氏は海部・物部氏と異なり、数世紀にわたり任那地方に僑居して交易国家・楽韓を建てていた。仄聞するところ、渡来某民族には山渡人・海渡人の区別があるという。蓋し海部氏が華南から海上を渡って丹後に至り、物部氏も巨艦天磐船を操ってどこからか渡来してきたのに対し、秦氏は西域から大陸内部を流移して遂に日本列島に至ったもので、例の区別は或いはイスラエル系に2種あることを意味するものかも知れぬ。ともあれ、秦氏が任那の1角に楽韓を建てていた頃、近所に騎馬族の1派が駐屯し辰韓と呼ばれていた。両者は元来別の民族で、分かれて住んでいたが、巷に溢れるどの史書にも楽韓=辰韓としているのは、音通によるものだろうが、用字が違う以上意味は異なる筈である。

 辰韓の辰王1族を江上は夫余族と断ずるが、スキタイの末裔と思われる。広義のトルコ系で、同族に追われて満洲から南下し、半島南部に駐屯していた。武力と智略が売り物の騎馬族は生産活動が苦手で交易民族と共生することが多い。共存関係にある楽韓を防護するために、隣接して設けたキャンプが辰韓であろう。何しろ秦氏は、西戎の秦を支援して始皇帝を擁立した呂不韋の子孫で、由来性格的に政権の表面に立つのを好まず、誰にせよ武力に優れた者を王者として奉り、自らは傍らで経済活動・文化活動に勤しむ道を取った。これこそワンワールド・バンカー的性格の発現とも言えよう。

 その後も南下を活発化する同族に圧された辰王は日本渡来を決心し、秦氏が以前から秦人を連れて入植していた北九州に入る。居ること数年、天磐船の纜(ともづな)を解いた辰王が平和裡に大和に入ってニギハヤヒになったとの考えも絶対に不可能ではない。その場合は本稿従来の立場、すなわちニギハヤヒ崇神を宇佐の秦氏が庇護した新来イスラエル族とする見方を変改し、宇佐秦氏の養子となった辰王、とするのにやぶさかではないが、要するにニギハヤヒの本質を商権と見るか軍権と見るかであって、決着を急ぐことはあるまい。

 問題はむしろ東征者の八幡大神応神で、江上は①辰王崇神の子孫と断定するが、その他に、②辰韓に残っていた夫余王1族の新来者、③辰王を圧迫して任那を追い出した扶余族系の新来者、とも考えられる。九州から大和に入りニギハヤヒを破って出羽に敗走させたイハレヒコ(神武天皇)のモデルとなった応神の出自は何か。それはニギハヤヒが誰かによって筋立てが徴妙に異なるが、すべてがあり得る。なかでも月海のいう3天皇同体の説に最も近いのは①であろう。

 いずれにせよ、応神はスキタイ系の夫余族に違いはなく、これ以上の詮索は取りあえず無用であろう。
 
 

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この記事に対するコメント
後ほど、U-3氏宅(ブログ)へ訪問します。
【2008/11/27 18:20】 URL | ひろもと #- [ 編集]

問い合わせ
はじめまして。登呂遺跡を検索してやって参りました.
登呂の報告書を読んで、土器が縄文を有しているのを見て、驚きました. 登呂遺跡は、弥生時代の終末期の遺跡であり、この遺跡が廃絶した直後に、静岡では古墳が建設されたと言われています。

下記の所、とても興味深いのですが、根拠は何でしょうか.教えて下さい. 

>近江伊勢遺跡はイスラエル族の流民たる海部氏が建設したクニで、王は海部一族だが、生産民の大半は海部氏が江南から連れてきた倭人で、海部と混血した者が官僚層の臣(おみ)となったと思う。

 確かに、中国ではユダヤ教を信奉する人々が、暮らしているというイエズス会の古い記録がありますので、日本にいてもおかしくはないかもしれません。
【2008/11/27 17:24】 URL | U-3 #NJsiWxd2 [ 編集]


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