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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(20) 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(20) 
 「高島鞆之助の家政困窮」はある目的のためのめくらまし 


 ★陸軍大臣辞任後の高島鞆之助の姿
 
 明治30年2月、桂太郎の策謀で陸軍を追われた高島鞆之助は、翌年1月から大正5年の死去まで枢密顧問官に就いたままで、歴史の表面から姿を消した。巷間伝わる噂さえ稀な中に、堀雅昭『杉山茂丸伝』は語る。

明治32年頃、京城と釜山を結ぶ京釜鉄道の敷設に奔走していた杉山茂丸は、金策を引き受けたものの当てがなく、やむなく高島を訪ねる。ところが拓殖務大臣も陸軍大臣も辞めた高島も金欠で、遂に「借金返済のために家財道具を売るから、買わないか」と持ちかけられたという。

 かく言う杉山の意図は、薩摩総長たる者の失墜を流布する事にあり、真相にはほど遠い。

 『宇都宮太郎日記』の明治33年3月条に書き留められた起高作戦は結局成功せず、高島は以後も顧問官のほか何の公職にも就かなかった。ところが、『宇都宮日記』の明治40年以後の条にも高島の名が出てくる。即ち40年3月条には、「久し振にて高島中将を訪ふ。当年の意気梢や消沈の態あるを覚えたり」とある。起高作戦から7年、63歳の高島は意気やや消沈して見えた、と宇都宮は観察したのだ。また42年3月10日条にも「橋口・高島上京、不日帰任に付き、其の友人等新富町竹葉軒に会せる出席す」とある。これは、陸軍記念日のために上京していた第62連隊長樺山勇馬(樺山資紀の甥)と第八連隊長・高島友武(高島の養子・吉井の次男)が帰任するので、友人らが竹葉軒に集まったことを指す,同年1月29日、宇都宮は士官生徒第7期のトップで陸軍少将に進級したが1年先輩の橋口はまだ大佐で、第10期の高島は前年に大佐に進級したばかりである。当日の出席者は宇都宮を含め9人で、高島友武の義弟・樺山資英もいた。樺山資英は留学帰りの法学博士で、28年5月に26歳で台湾総督・樺山資紀に直属する総督府参事官に挙げられ、翌年には拓殖務大臣高島鞆之助の秘書官兼大臣官房秘書課長、30年には松方総理大臣秘書官、31年には文部大臣樺山資紀の秘書官兼大臣官房秘書課長となった。つまり、薩摩の首脳3人に請われ、次々にその秘書官を務めた典型的なワンワールド秀才である。高島の腹心たる宇都宮が、高島の女婿になる資英と親しかったのは当然で、42年3月29日条は「樺山資英を夜食に招き時事談を為す」と記す。

 9月17日条には「久し振にて高島中将を訪ふ、不在。不遇の上に負債累積、如何にも気の毒の状況に在り。併しさすがに本人は辞色に現はさず、強て平然たる所一層気の毒の感を深くす」とあり、高島は何かの理由で巨額の負債を抱えて困窮していたが、本人の平然たる様子が却って宇都宮の同情を引いたことを物語っている。12月12日条には、「予備陸軍中将・高島鞆之助往訪(略)高島氏にて晩餐。嗣子大佐友武、女婿樺山資英等列席。往時を追想して感慨深し」とある。「往時」とは無論宇都宮が起高作戦を打ち出した33年を指すのだが、この席で債務処理が語られたかどうか。

 ★高島救済作戦 根津一の奔走

 明治42年が明け、宇都宮ら腹心にとっても高島の財政問題が課題になってきた。43年3月15日条には「根津一を訪ひ、同人高島鞆之助子爵救済のため伊瀬地中将を鎌倉に訪ふたる結果を尋ねしに、中将は到底不可能として応せざりしと云ふ。遺憾の次第なり。更に善後を議し、根津重ねて今日高島氏を訪ひ、自ら松方侯に依頼せしむべきを試むることに談決す」と記す。参謀本部第2部長の宇都宮少将が車亜同文書院に院長・根津一を訪れたのは、根津が予備陸軍中将・伊瀬地好成に高島救済を諮ったので、その結果を聞くためであった。根津から伊瀬池が「到底不可能」と答えたと聞いて遺憾に思った宇都宮は、更に根津と善後を談じた。その結果、根津が本日再度高島と会って、本人自ら松方正義侯爵に頼み込むように説得することに話が纏まった。松方は永年に亘る大蔵省支配を辞めた後は、貴族院議員で日本赤十字社長に就いていた。薩摩派ワンワールドの内部では、総長に高島、副長に樺山が就いたが、ロスチャイルド直参の松方は別格で金融部門の総帥に就き、当時もその地位に在ったと思われる。松方が金融総帥を辞めたのはおそらく大正期で、その権力の1部は高橋是清か継いだものと思う。この時、高島自身が松方に家政苦境を訴えたかどうか未詳、松方がいかなる対応をしたのかも当然分からない。

 宇都宮と共に高島救済作戦に関わった根津一は、高島が初代団長を務めた陸軍教導団を首席で卒業して12年に陸士砲兵科に進学し、士官生徒4期生と同時に14年に少尉に任官した。ドイツ人教官メッケルに反抗して陸大を諭旨退学となったが、陸軍はその後も根津を必要としたので、根津は現役復帰と予備役を繰り返した。教導団と陸士では根津の1年後輩で、生涯の盟友となったのが荒尾精である。参謀本部に入り支那課付となった荒尾中尉は19年、参謀本部から大陸での実地踏査を命じられ、銀座と上海に目薬を扱う楽善堂薬舗を開いていた岸田吟香の協力を受け、漢口に楽善堂支店を設けた。表向きは薬局だが、実体は「支那内地軍事探偵の本部」である。荒尾は、22年に提出した報告書で「清国とは和戦いずれも得策ならず、ただ革命勢力と結んで滅清興漢の義兵を起こし革命政府と結ぶべし」と主張、そのために日清貿易の拡大を強調した。荒尾はそれを実践するため、22年9月、上海に日清貿易研究所を創設し、これに根津が参加した。

 研究所の費用は杉山茂丸の石炭貿易の利益が充てられたのは、荒尾が大陸事情に関して杉山の師匠で、杉山の大陸知識はすべて荒尾に負う所であったからという(堀雅昭『杉山茂丸伝』)。

 如かく、杉山の航跡は至る所に残り、それらを点から点へと繋ぐだけで、凡そ杉山の概容が浮かび上がるのだが、教科書史学が杉山を無視しているから、この明治史上最大の人物は史書にほとんど出てこないのである。

 新領土となった台湾統治の円滑化のため、明治29年、荒尾は台湾茶商・李春生らと共同し、内地・台湾の紳商の合作を目的とする「紳商協会」を設立する。その直後、台南視察に出てペストに罹り病死した荒尾の精神を受け継いだのが根津一で、車亜同文会の会長近衛篤麿と意気投合し、東亜同文書院を設立して院長に就いた。根津の階級は予備役少佐であったが宇都宮には先輩に当たり、東亜同文書院の院長として世上にも重きをなし、その地歩は宇都宮少将に敢えて劣らなかった。

 明治43年3月16日と25日に根津の来訪を受けた宇都宮は、3月26日  条に「樺山資英を訪ふ。与倉喜平来宅、談深更に及ぶ」と記す。樺山資英は高島の女婿で、いわばその代理人である。また歩兵第1連隊長の与倉大佐は宇都宮の腹心で、2つの会談はどちらも高島に関するものであった。同4月7日条には「樺山資英来衙(高島中将統監推薦の儀に付き、樺
山・大迫大将訪問の模様を報じ来れるなり。尚今後のことに付き意見を述べ、奮撃突進其の同郷諸先輩を作興、之れが後押を為すべきを勧告す)・・・出勤の途、第7師団長上原中将を訪ふ」とある。

 ここで高島救済作戦の1部が明らかになった。つまり宇都宮らは高島鞆之助を韓国統監に就けようとしていたのである。日本は、日露戦争後保護国とした大韓帝国に38年12月21日付で統監を置き、初代統監に伊藤博文を任じたが、伊藤が枢密院議長に転じたのを機に42年6月15日、曾禰荒助が副統監から昇任したが、曾禰は43年春から健康が悪化、後任問題が浮上していた。折から日韓合邦の機が迫り、次期統監には超大物が求められていた。樺山資英が43年4月7日に宇都宮を尋ねたのは、次期統監に高島鞆之助を推薦する件につき、薩摩出身の海軍大将・樺山資紀と陸軍大将・大迫尚敏に会ってきた模様を報告に来たのである。報告を受けた宇都宮は、今後の方針について意見を与え、「突撃盲進すべく薩摩の諸先輩に働きかけて実現のための後押しとせよ」と勧告した。宇都宮はその後で、参謀本部に出勤の途中、第7師団長・上原勇作中将を訪ねる。上原の任地は旭川であるが、4月5日に師団長会議があり近衛師団を含む19人の師団長が東京に集まっていた。宇都宮は前夜も上原を訪ねたが、不在だったためにこの朝再び訪ねたのである。上原・宇都宮の主従会談の主題は当然高島問題だったが、統監推薦は捗らず、5月12日付で陸相・寺内正毅大将の韓国統監兼任が決まった。日記には記さないが、宇都宮の無念が伝わってくる。

 ★イエズス会に売却され聖堂となった高島邸

 それから3ヵ月経った43年8月6日条には、「樺山資英(同人負債も家宅邸地を渡し2、3日中に整理出来、高島鞆之助中将も同様とのこと賀すべし)を訪ひ、次に高島中将を訪ひ2時間許(ばかり)談じて帰る」とある。樺山資英を訪れた宇都宮に対し、資英は「自分も負債があるが、家屋敷を手放して2、3日中に埋めることが出来る」と告げた。樺山文相の秘書官を辞めて以後、大正3年に満鉄理事に就くまで資英は10年以上も公職に就かず、当時の状況は未詳だが、舅の高島を助けて薩摩ワンワールド関係の隠れ事業をしていた可能性が高い(未調査)。ともかく、高島の負債も同じようにして始末が付くと聞いて安堵した宇都宮は、続いて紀尾井町の高島中将邸を訪問し、2時間ほど話して帰宅した。明治29年から翌年にかけて建てられた高島邸は、この時イエズス会の手に渡ってクルトゥルハイム聖堂となり、米軍の大空襲を奇跡的(?)に免れ、今も上智大学校内にある。資英が、高島邸を処分すれば何とかなると宇都宮に告げたのは、一般論でなく、具体的な処分金額の見当が付いて債務弁済の見通しが立ったからである。これだけの大型物件になると、処分の仕方により数倍もの差異が生じるが、有利な処分のアテが付いたのだ。

 8月11日条にも「根津一(高島子爵家政整理に付き其外数件)」とあり、続く8月12日条も「歩兵大佐・与倉喜平来衙(高島子家政整理の報告)」と記しているので、宇都宮が高島支援を頼んでいた根津と与倉からも、資英からと同様な吉報が入ったことが分かる。買手のイエズス会は、ワンワールド宗教部門の本山で、ローマ教皇ピウス12世の要請を受け、41年日本に大学を設置するだめに3人の会士を派遣してきた。44年には財団法人・上智学院を設立し、2年後の大正2年に上智学院を開校するが、当時は校舎候補地を探しており、この頃に紀尾井町一帯と決定して、秘かに地上げを始めだらしい。しかしながらこの一帯は、高島邸ばかりでなく、旧伊瀬地邸だった大島久直子爵邸など、陸軍将官の邸が並んでいた。所有者からは「折角の話だ、出来るだけ高く売ろう」との声も上がったが、高島は「外人だからこそ、ここは安く売ってやろう」と言いだし、ために買収がうまく行き、イエズス会は今も高島を徳としているという。裏を読めば、高島に自邸処分の意向があることと一帯に将官住宅の多いことで、地上げが円滑に造む要素があり、それが校舎地選定の理由になったのかも知れぬ。

 『宇都宮日記』は、44年1月8日条に「田中義一と将来の国事に就き意見交換、手始めに財部少将(海軍次官)と打ち解け話」とあるのを転機に、以後の主題は陸軍改革問題に移る。4月12日条に「樺山資衛来衙談」とあるのも、陸軍改革運動についてであろう。しかし、10月7日条には「樺山資英、来衙(高島氏紀尾井邸買人つきしこと、政局将来談等)」とあるので、宇都宮は、訪ねてきた資英から、時事談の傍ら高島邸に買手がついたとの報告を受けたことが分かる。ようやく実行されだのだが、高島邸は仕様構造がとりわけ上等で聖堂に転用できるため、他より有利に評価されたのであろうか。

 12月22日条に「根津一を訪ふ。善隣同志会なるものを組織中にて、その宣言書を一覧せしに、全く革命党を助けんとの宣言を発せんとす。時局に多少の利あらん。会長には高島鞆之助を推さんとす」とあるから、清国革命に際し、荒尾の遺志を継いで孫文革命党を応援する善隣同志会を組織した根津は、会長に高島を担ごうとしたのである(それが結局どうなったか、まだ調べていない)。翌々年の大正2年2月、桂大郎内閣を倒した憲政擁護運動の最中、尾崎行雄が、次期の総理には高島鞆之助を担ごうと旨いだした話は前にも述べた。要するに、高島は陰の超大物として、その存在を決して忘れられてはいなかったのである。

 
 ●莫大な台湾利権を手中に 高島の家政事情の真相

 講談社の『大日本人名辞書』は高島を評して「細事に汲々たらず家資常に空し。晩年落莫として振るはず大正5年1月10日病みて京都伏見に没す」という。明治31年、桂に陸相を追われた高島は翌年には杉山茂丸に家財道具を売りたいと持ちかけるほど、金欠に陥っていた。40年頃には意気消沈していた高島だが、42年春には累積負債による家政困難がはっきりしてきて、宇都宮・根津らの腹心は高島の家政救済を検討しだした。しかし8月になって女婿樺山資英が、高島邸を処分すれば負債の始末が付くと告げだので、腹心たちは安堵する。44年10月、やっと買手がイエズス会であることが明らかになった。金欠が表面化してからここに至るまでの2年半は、長いようで短いと評すべきか。思うに、高島の負債の主因は30年の邸宅取得であろう。設計に金をかけた 本格的洋館で、現にクルトゥルハイム聖堂として今も結婚式の人気スポットで知られ、挙式は上智大字卒業生だけに許している。

 三たび大臣に就いたとはいえ、高島は俸給生活者で、女婿・友武は軍人、その実父・吉井友実は宮内次官、もう1人の女婿・樺山資英は少壮官僚、妹婿で従兄弟の野津道貰も軍人であって、縁戚には 財閥らしきものはなく、豪華な自邸取得資金は借金で賄う以外にない。

 晩年に高収入の道を得たならばともかく、予備役中将と枢密顧問官の俸給では、やがて到来する弁済期は凌げず、外部からの援助でもなければ 自邸の売却以外に弁済方法はない。

 また通常はそれで善く、高島の場合も結局はそうなったわけだ。日清戦 争直後の日本では、将来は誰にも読みきれなかった。まして、軍政のトップに立つ高島には、自邸資金に関する返済計画なぞ始めからある筈も
なく、エイヤアの気合で突っ走ったのだろう。単純に考えれば、右の通りに解釈して良い。しかしながら、31年に現役を退いた高島が、以後何をして過ごしたのか、それを考えると話は違ってくる。

 台湾の樟脳・煙草・阿片に関する基本政策は、日清講和直後の28年4月1日、第2次伊藤内閣が台湾事務局を置き、総理自ら総裁を兼ねた時に始まる。阿片漸減政策は、この時に内務省衛生局長・後藤新平が建白し、軍医総監陸軍省医務局長・石黒忠悳も支持し、伊藤総裁(首相兼務)が採用を決定したものである。

 台湾統治は当初、跳梁する土匪と住民の阿片吸引癖が2大問題で、解決したのが児玉と後藤新平の時代だから、巷説は両人を以て台湾経営の根源のようにいうが、それは治安と社会政策から見た阿片漸禁政策に焦点を合わせ過ぎており、産業政策を軽視する点で僻見である。そもそも台湾は世界的な樟脳の産地で、天然樟脳は当時の最新素材「セルロイド」の可塑剤として不可欠で、合成品が出来る大正後期まで極めて重要視され、また当時の最先端兵器たる無煙火薬の原料として、世界の注目を集めていた。

 樺山総督と高島副総督は、江戸時代から樟脳を輸出していた薩摩藩の出身であり、台湾の樟脳製造事業を重視し、早くも28年10月に「官有林野及樟脳製造業取締規則」を作り樟脳製造に官許の制限を加えた。台湾事務局は、29年4月1日付で拓殖務省になり、初代大臣に就いた高島は、30年9月まで台湾政策の最高責任者として総督府の監督に任じ、各種の官業政策を指導した。29年6月に2代目総督に就いた桂太郎は、4ヵ月の腰掛けで実際は赴任せず、後を継いだ乃木希典が31年2月まで総督を勤めた。乃木は、伊瀬地の斡施で結婚の媒酌まで頼んだ高島拓殖務大臣の指導監督を受けて高島路線に忠実に従い、30年に阿片専売政策を実施した。31年2月、乃木が休職して児玉源太郎が第4代台湾総督となり、32年に樟脳と食塩について専売制度を実施した。この時、神戸の樟脳・砂糖商鈴木商店に台湾樟脳の65%の販売権を与え、これを機に鈴木商店は、以後異常な発展を見せる。27年に未亡人経営に移行した鈴木は、日高尚剛の母方の煙草業者安達リュウー郎の工作で薩摩派ワンワールドの隷下にあったが、そのことを知らぬ児玉ではない。24年の欧州出張でワンワールドの洗礼を受けた児玉は、20年8月に帰朝、直ちに陸軍次官の内示を受けて前陸相・高島鞆之助を大臣官邸に訪問した。そこで高島から杉山茂丸を引き合わされた時に、すべては始まったのである。総督副官だった堀内文次郎は「児玉と杉山は異心同体で、児玉の台湾政策は悉く杉山の指示通り」と語っている。鈴木に樟脳販売権を与えたのも杉山茂丸の示唆(実質は指令)で、他にも台湾砂糖が薩摩派の巨大な財源になった証左は、「大日本製糖には上原勇作の息がかかっている」との伝承である。こうして台湾由来の財源を得た薩摩派の総長高島が、ハシタ金に困る筈もない。宇都宮ら腹心たちを惑わした高島の家政困窮は、おそらく樺山資英が実状を隠蔽するために流したガセネタで、だからこそ薩摩の領袖たちは真相を薄々知っていた。伊瀬地が宇都宮らに対して「救済なぞ到底無理」と言ったのは、適当にいなしただけで、また松方侯爵も、根津らの苦心を知りながらも、内心苦笑していたのではなかろうか。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(20)  <了> 

  『ニューリ-ダー』 2008年 8月号
   発行所:はあと出版株式会社 


 

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