カウンター 読書日記 ●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (4) 
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●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (4) 
 ●『わが半生の夢』 を読みながら、幾度となく

 【天才佐伯祐三の真相】 Vol.11 を読み直した。  

 **************

 第九章 吉薗周蔵のパリ 第一節 ネケル氏の正体 

 二つの「物語」を往復しながらの思考の旅は何とも刺激的で心地よい。  
 

以下、一部引用紹介します。

 **************

 吉薗周蔵の渡仏に必要な小山建一名義の旅券は、昭和二年十二月二十四日付で交付された。旅立ったのは同月二十五~六日と思われる。翌年四月に帰国した周蔵は、渡欧中の事項を「周蔵手記」をまとめた。

 昭和三年四月末ピ。カノ数ヶ月ノマトメの条、要約。

 (吉薗)周蔵は渡欧に先立って、満洲の奉天で予備陸軍中将貴志弥(彌)次郎と会い、幾つかの頼み事をした。貴志もまた上原元帥の秘密の配下で、今回の周蔵の渡欧行に関わっていた。

 昭和三年一月二十八日にパリに着き、一人で同志ネケル氏の家に行った。

 その時、何より驚いたのはネケル氏の恰好であった。幼女のようなオカッパ頭で、頭髪を目の上まで垂らし、揃えて剪下げていた。周蔵は、初めて会った時、自分はネケル氏が誰かは知っていたが、出てきた人物が日本人とはとても思えなかった、と後に云う(「周蔵手記」昭和九年条)。

 藤田嗣治の父嗣章は大正元年に軍医総監(陸軍中将相当)となり(*軍医としては最高位)、大正三年に予備役編入している。藤田はもともと学校成績も優秀で、入学した東京高等師範付属中学は、佐伯の北野中学をも凌ぐ当時最高の秀才校であった。家筋と才能と学力が揃えば、道筋は自ずから決まる。藤田は、大谷光瑞師が佐伯に用意したのと同じ道を、佐伯より十年ほど早く進まされていた。★大正二年、二十六歳の時、画学留学生としてパリに渡り、表の顔はエコール・ド・パリを代表する画家として豚児たちのリーダーとなり、裏では薩摩治郎八を自家薬籠中に入れて、踊らせていた。甘粕正彦のパリ在住の友人とはすなわち藤田で、大正四年頃の甘粕の秘密フランス留学の折に知り合ったものと思われる。周蔵は大正六年渡欧の帰途にフランスにより、上原閣下も欧州に草を張っているのを見たと記しているが、藤田もその一人であったことになる。甘粕の紹介で、★コード名ネケルの藤田と周蔵は大正十二年以来、暗号手紙で文通していた。

 周蔵は、パリに到着した当日、佐伯のアパートに行った。今回の渡仏の建前は、佐伯の陣中見舞いなのだから、それを真っ先に終わらせたかったのである。聞くに、薩摩治郎八は佐伯の面倒をよく見てくれているらしく、佐伯は令夫人の千代子ともつきあいがあるようだ。
 呆れたのは、周蔵の顔を見るや否や佐伯が「救命院日誌」の記帳と金のことを言い出したからである。尤も記帳の方を先に口にした。佐伯は、書いた物を周蔵に渡し、「ここに分かりやすくまとめておいたから、ホテルでゆっくり記帳してくれたらいい」と云う。内容を読んだが、不可解なもので、なぜか周蔵が早くも一月初頭にパリに到着したことにされている。次に、佐伯は薩摩の妻君とは大分親しいようで、内容は前にも増して妙なものだが、分量は少ない。これくらいなら、暇を見てやれば、何とか書いてやれそうだ。
 その夜のうちに藤田は、薩摩に舵を取らせて友人たちを紹介してくれる。藤田自身はスイス側との連絡があるため出席せず、治郎八に任せて、ジャン・コクトーなどと会食した。前もってコクトーのことは、藤田から説明を受けているが、所詮は誰一人信用するなと、のことである。

 ★藤田が云うに、薩摩出身の画家もおり、これはなかなか只者ではないが、会わない方が良いだろう。周蔵は、自分もそう思う、と云った。薩摩(鹿児島)というからには「海」であろうから。すると藤田は、自分は関係ないと思って調べてはいないが、その画家は佐伯の妻君とは接触があるかも知れないということだ。しかし、自分は、役目以外には深入りしないようにしている。佐伯君のこと(ガス事故のことであろう)も耳にしているが、関わってはいない、とのことであった。

 (* 『わが半生の夢』には、「・・・藤田の最も愛していたのは、★海老原喜之助だったろう。この南国児も20歳前の若年で巴里に乗りつけた。有島生馬画伯の息がかかっていたとかいうが、彼は直ちにピカソ研究に取組んだ。いわゆるアバンギャルドで、彼の画論には生地鹿児島の桜島の大噴火的熱焔があった。彼こそは切歯抱腕、藤田のブルジョア転向を慨嘆した。ムーラン・ルージュ、ミュージック・ホールの踊り子と熱くなって、正式の結婚にまで進んだものの、連日連夜の大立廻りで、頭を冷すつもりか、南仏カンヌに退陣し、カンヌ港雪降りの珍図を持って巴里に舞戻った。・・・」p103とある。
 また、東郷青児もサツマである。)

 薩摩治郎八に関しては、馬鹿だ、と断言した。金のあるうちは利用してやろうとばかりに、舞台を作って踊らせるだけで、馬鹿を見抜かれているから大丈夫だ、と云われた。その主役がコクトーだ、と云う。コクトーなる人物は宗教の道の主頭(藤田はシュトウと云った)であり、只者ではないとのこと。なれど治郎八に対しては、ただの呑んだくれの詩人面を見せている。自分は信用したいと思うが、思うだけでその辺りは自分で判断してくれ、とのことであった。「日本と違って、毛色の違い(民族性)をどう計るか、難しい処であろう」と周蔵は感じた。

 意外なことに、薩摩治郎八は夜が早い。千代子夫人は化粧が濃く、肌の地色が見えなかった。治郎八はパーティに招かれたと云って消えてしまい、周蔵は、千代子夫人の通訳でコクトーから絵画の講義を受けた。そのあとは、千代子の愚痴を聞くことになる。あっけらかんとした婦人で、今は岡なる学生に恋している、と云う。そういいながらも米子の悪口を言い敵対視するあたりと、佐伯の保護者のような言い分は、佐伯にも恋をしているようだ。このことを後日藤田に問うと、「それは恋に恋してるんだ。飾りものは、飾り窓の女も、一人の男の女も、飾りものには違いはない」と云う。まさにこの人物は冷静な人だと、周蔵は改めて思った。

 ・・・

 以下は、左のリンク先 ★佐伯祐三調査報告 から、どうぞ。

  

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