カウンター 読書日記 ●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (3) 
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●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (3) 
 ● モンパルナスの秋 へ進む前に、
  
 目次の紹介等を。
 

 ~目 次~
 わが半生の夢

 半 生 の 夢
 モンパルナスの秋

 せ・し・ぼ ん
  炎の森
  夜霧の娼婦
  謝肉祭の夜の女
  ロマンティック
  デルフの呪詛
  転落の沈黙

 ピガル通り
  リンゴの花

 ロマンティストの花束

 砂漠の無冠王 (T・E ローレンス)
 
 美の烙印 (イザドラ・ダンカン、タマール・カラサビナ)

 ムッシュウ・サツマとぼく  柳沢 健

 あとがき  大櫛 以手紙

 ***********

 せ・し・ぼ・ん-わが半生の夢-
 定価1,500円(本体1,456円)
 改訂新版印刷発行
 平成3年3月1日
 著者:薩摩治郎八 
 発行者:太 田 道 之
 発行所:山 文 社
 〒151東京都渋谷区初台l-23-97 電話 03-3379-0627

 ********** 

 ●モンパルナスの秋
     
 華ひらく国際美術センター

 モンパルナス駅から、有名な詩人の溜りだったカフエ・デ・リラの角店のある天文台通りがいわゆるモンパルナスの称号で、一躍国際美術家センター化したのは、第一次大戦後であった。

 わたしが1920年、はじめてモンパルナスに足を踏み入れた当時は、この大通りを山羊乳売りがラッパを吹きながら、道端で乳を搾っていた。こんな牧歌的な雰囲気がこの一角を包み、モンパルナスの中心、カフェ・ロトンドもうらぶれた貧乏画家相手のビストロで、白木のベンチには浮かない顔をしたモデルが1杯のコーヒーも払いかねる相手を茫然と眺めていた。藤田嗣治と一緒に裸踊りをやって、パンにありついていたという黒女アイシャも、この辺を地盤にネバっていた。モデルとも舞踊家とも私娼ともつかぬ彼女には、画家達も半芸術家的の態度で接していたが、事実、彼女は寝技の精巧者だとの定評であった。

 「私はマリー・ローランサンのモデルだった」という女友達がアカデミーで画を描きだしたので、よく彼女をドームの片隅で待ち受けた。われわれ仲間でメリサンドと仇名した彼女は、感覚的な詩を書き、マチスの家に出入して、画はいわゆるマチス張りな色彩派であった。

 この美人友達には当時パリ讃美者群が取巻いていてモンパルナスの作家ミッシェル・ジョルジュ・ミッシェルは彼女の宣伝係、名優ジェミニは彼女を一世の女優にと熱を上げ、マチスは画道で一旗上げさせようと力んでいたが、美貌自慢の彼女は蝶々のように飛び立ってしまい、神出鬼没、それに加えて体自慢の露出趣味とあったので、モンパルナス通りを自作の裸体自画像のカンバスを小脇に抱えて、私とのランデブーに飛びこんでくる始末、流石のペリアス気取の私もペッチャンコ。さながらストリップのサンドウイッチマンよろしくの役割で、彼女の後ろから絵具の生乾きのカンバスを捧持して従った。

 その頃からモンパルナスのブームが芽ばえてきた。私が「タンドル・ストック」と「夜開く」の劃世的作品で売出したポール・モーランとしっくり話したのも、ロトンドの白木のベンチ上だった。仏外務省の文化事業課長だった彼と私とは、人種的相異にもかかわらず、他人の空似でしばしば間違えられたのもその頃で、カレー行の列車の中で、レディ・ロバートと称する貴夫人から 「ルイスとイレエン」の1巻を差出されてサインを求められ、偽モーランでごまかしてしまった珍事もあった。

 一介の文字青年だった私が一躍「夜開く」の流行作家に、たとえ一瞬でも転身したのだから早速モーランに話しに出かけたところ、彼は微笑しながら、1冊の豪華版にサインしてくれた。

「2重の花」(フルール・ドウブル)の限定版で「菊花薫る国の2重の花の園丁に」と達筆で走らせてあった。

 こんな仏蘭西的なタラスコンのタルタランやチューリップのファンファン式の空気が、この1角には立籠もって龍っていた。巴里のアメリカ人が乗りこんできてもカルチェラタンの1角には作曲家小松耕輔がルイズ礼讃で日を暮し、天文台の下宿の1室では、洋琴家林龍作がタルチニの古曲を愛玩のブレシヤの名器で奏でていた。だがこのモンパルナスは、ほとんどポンペイの最後の日の速度で急変してしまった。1925年頃までのアメリカ景気と、法貨(フラン)の下落で、この1角に外国人の津波が押し寄せた。英米人、北欧人、日本人、この後者だけでも千数百名の有名無名の画家達が、当時の巴里のセーヌ河水で顔を洗ったという盛況なのだから、モンパルナス村に基地的大変遷の起きたのも当然である。

 詩王ポール・フオールの没落、ジャン・コクトオの出現、モンパルナス王・藤田の君臨をきっかけにこの1角は国際的色彩で塗りつぶされてしまった。

 ★パリの日本画壇

 先ずこの新モンパルナスに咲いた夜の花は、キャバレーのジョキーだった。売り出しの藤田を中心に、キスリング、パスキン等が先頭でモデル・キキや、藤田のユキの相棒ツキ等のエキサントリック振りで、この「咽喉切り」的ボアットは徹夜のドンチャン騒ぎを演じた。

 藤田の名声はこんなモンパルナスを背景にして拡大されていったのだが、彼が一介の新進画家として発見されたのは、モンパルナスのブームの前夜であった。女流画家フェルナンド・バレーとの結婚生活で、家庭的安定を得た藤田を買ったのが、ボエシー街の小画廊の主人・シェロン老人だった。

 シェロン画廊の飾窓には、藤田の初期風景、マドンナ型の少女、静物、猫、等が並べられた。当時の価格で小猫が1千法(フラン)、しかし当時の1千法は相当な価格で、ユトリロの小品がラフィット街のウェイ画廊で900法で手に入った頃であり、マリー・ローランサンの6号が1500法だった。

 藤田の作品と並んで坂東敏雄の静物、バレー夫人の愛人・小柳の花鳥が展覧されていた。当時の藤田の画面には1種の異数的な妖気が漂っていた。仏蘭西のプリミチブと、税関吏ルッソーとフオーコニュの影響や手法を歌麿の線と混交して、彼1流の原始的個性を打らこんだ藤田の作品には、ドビィッシーやローランサンの音楽的焔がひらめいていた。薄ネズミの白乳色のバックから浮き彫りされたマドンナ型の少女の表情も、異端的であったが、彼の傑作の1図「人生」の画面、それは現在巴里大学都市に転化してしまった旧城壁の前を、淋しい葬儀馬車が過ぎてゆく、その道傍には、乳母車がとめられていて、城壁の崖の芝生には1組の男女が恋を語っている。手法はルッソーの影響もあるが、この辺モンスリー公園はルッソーの好んで描いた1角なので、ルッソー風の雰囲気に包まれているのは当然である。

 こんな作品が、この小画廊の飾窓に巴里の好事家ではなく、特殊な異教的存在を深めて行く一義的線上を行く画家として評価されていた。若し藤田がこの線上で終始したと仮定したならば、大衆的立場からはいわゆるモンパルナス王にも祭り上げられなかったろうし、国際的人気者にもならず、あくまでも芸術面でルッソーやスーラー等の孤立的作家となったであろう。

 日本の画壇でも岸田、梅原、藤田といったワクにはまったろうが、★彼の運命はユキとの出会いによって転化してしまった。

 自分は「藤田の悲劇」を描こうとは思わないが、彼の運命がモンパルナス自身の運命と関連している一事を、始終念頭から消し得ない。藤田の宿命がモンパルナスの宿命であった。モンパルナスの転変が画家藤田を【画工藤田】に転身してしまった。世評の毀誉褒貶は別として、藤田は人間的に天衣無縫の幼児的性格者であり、多くの天才が非物質的であるように、彼には画筆1本だけで満される無限の内面的豊富さがある。その彼藤田を【画商人的性格者】にしてしまった★彼の宿命はフェルナンドとの結婚にその端を発した。

 フェルナンド姐御は、藤田の画を最初にシェロン画廊に持ちこんだというが、とに角彼女に内助の功のあったことは事実であろう。

 そこに藤田の弟子小柳が出現したのである。
 小柳は北海道産の、色白の早川雪洲ばりの好男子だった。雪洲は当時の欧米を風靡した人気スター、ことに巴里人の趣好には、彼の横顔は女殺しの定評があった。バレー姐御がこの「偽雪洲」にゾッコンほれこんで、藤田との共同生活のアパートに小柳を引っぱりこんでしまった。

 藤田は、裏庭のガレージを画室に改造した1室に閉居して、2階の窓を見上げていた。彼でなくてはできない芸当である。そして最後の夫人帰還の望みを、彼とフェルナンドとの肖像画「家庭」に注ぎこんだ。この大作は秋のサロンで全巴里好画家の絶讃を買ったが、フェルナンドは終に帰らず、自暴自棄の精神状態に陥った彼に雪が飛びこんだのである。

 雪の肉感的な裸体が、売出した30男の彼の手に触れたのだ。

 雪は文学読書癖があり、マックス・ジャコブの熱読家であった。これが後年第二次大戦中独警のキャンプで病死してしまった共産詩人・デスノスとの結婚にまで結んでしまった原因であった。

 ★雪の本名はリューシー・バドードといった。バドードすなわち野次馬嬢。彼女はその姓のように物見高い遊蕩女性で、シャンゼリゼの裏通りあたりの酒場あらしを業事としていたいわゆるドミモンデンだった。

 とはいうものの、ロトンドやドームの小使臭い女の肌しか知らなかった藤田には、腐ってもシャンゼリゼの遊び女、彼が乱作のデッサンを売り出して旅手な英国地でカットした上衣を結構ジゴロ気取りでひっかけて、シャンゼリゼのセレクト酒場に通いだしたのも、雪の肌の引力であった。そして酒1滴飲めぬ聖人・藤田が盛り場の遊蕩児に混って、雪と深くなって行くのをフェルナンド姐御は藤田のボェーム生活に対する反逆だとモンパルナスをどなり歩いたが、彼に家庭を離れさせてしまった罪は彼女自身の私生活であった。

 だが彼の初期の画面には、まだまだ異教徒的な焔が燃えていた。雪が感覚的なポーズで十字架を首に下げて、つっぷしている面画などには、藤田の円熟した感覚がゆらめいていたし、少女モデルから女モデルに転移した性的神秘がもられていた。

彼の最大傑作の1つであろう後身の裸女の図を、マドレン広場のベルネームジョン画廊の名家展で見たが、その線の美しさと、音楽的旋律は、私と同行したモーリス・ラヴェルの観賞眼をくぎづけにしてしまった。

 「こんなに海の感覚を出している画はないね。それでいて裸体の線だけなんだがね。」
 と、観賞眼の高かったラブェルは感嘆した。事実、この画のモデルには藤田の最高技術と芸術的感覚が表現されていた。モデル・キキの追想と雪の肌があった。

 私はこの裸作画が藤田芸術の最高潮だったという印象を未だに持っている。ベルネーム自身も名作だとわれわれと一緒に観賞した。

 藤田の名声があがり、文部大臣ド・モンジーが彼にレジョン・ド・ノール勲章を贈った。丁度その前後に彼の画室に出入していた坂東敏雄のオートバイに同乗した藤田が、転落負傷してシャリテ病院にかつぎこまれた。脚部に負傷した藤田は、それ以来坂東と面白くない関係となり、坂東は自分の画風の模倣者であるとシェロン老人ともゴタゴタして、両者とも手を切ってしまった。

 そして全快退院した藤田は、河岸を変えてしまってセーヌ左岸の古巣を捨てて、右岸パッシーのマスネー通りに貸アパート住いをしてしまった。

 当時、藤田の側近だったエビ公こと、海老原喜之肋、坂東敏雄自身でさえ、彼等の尊称だった「オヤジさん」のパッシー妾宅住いを慨嘆した。

 ある日、私がシェロン老人に出会したら「実をいうと藤田が死んだなら、彼は税関吏ルッソーに比敵する伝説と名声を残したですよ。」 といった。ある意味からいったら、このシェロン老人の言葉は単なる復讐的言辞ではなく、芸術家藤田に対する真心からの讃美と愛着の表示であった。

 ★脚光浴びる藤田嗣治の周囲

 藤田はかくて大衆的人気の絶頂に登っていたが、芸術的には彼独特の詩的神秘感覚は枯れていった。私が数年後、当時の30万法(フラン)を彼に提供して貰った終生の大作、巴里日本会館の大壁画にも、画工藤田の卓越した技倆や構想は表現されているが、シェロン画廊の小さな飾窓に置かれた「人生]や、ベルネームの「海」にみられた芸術的焔は消えてしまった。

 板東敏雄は美術評論家として権威的なアカデミー・コンクール会員レオ・ラルギェから現代のシャルダンと買われた。ミニチュア的画風の静物画家で、若し藤田派なる1種のアカデミーが成立していたとしたら、その第1人者となるべき人物だった。重厚な性格で、細密な静物を藤田風に描きつづけていた。彼は現在でもパッシーの画室で克明な画風をつづけている。

 藤田がお山の大将的性格の反対に、当時彼の側近者だった★板東敏雄、鈴木龍一、海老原喜之助、高野三三男、高崎剛、岡鹿之助等を包含する藤田派なる1派を実現したと仮定したら、巴里画壇の1角に日本画壇が出現していただろうし、お山の大将で生涯孤立の藤田で終始してはしまわなかったろう。現在巴里に踏み止まってしまったのは、板東、鈴木の2人だが、鈴木龍一の巴里入りは華々しい覇気のあるものだった。ブラジル在留の銀行家の愛息だった鈴木は、詩人・堀口大学にも知られ20歳前に巴里に到着した。ブラジルの野性的な風物が、少年鈴木を夢想的画境に引き入れたのは当然だろうが、彼はすでに完全なフォーブ派で、真赤な夕日の照りつける原野でオルゴールを廻す片脚の人物、海底の魚類の大合戦などを荒い筆法で生々しく描きなぐっていた。

 彼の感覚的な青春にアンドレ・サルモンが着眼して、サルモンの紹介文をカタログにこの少年画家は個展を開いて巴里画壇にデビューした。早熟な彼は既にモデルと同棲生活をしていた。その鈴木夫人マドレン・メナールも画筆で郷里ブルターニュの海辺の田舎家の室内等をルッソーはだしで描き、サロン・ドートンヌに見事入選した。鈴木はその後、岡鹿之助と同家屋に落着いたが画風も変化して前世紀末の風俗画風の女図を、彼1流の才筆で発表した。これを1期として、多才の彼はシュールリアリズムに転化した。彼の作品が仏蘭西政府によって買上げられたが、彼の最も光彩のあった作風は風俗画風の才筆であった。

 この小夫婦というのは、彼も彼女も小型中の特製でマドレン夫人がかいがいしくオートバイにまたがり、彼女の豆彼氏が背中にカジりついて、画具箱を肩にゆわいつけ、モンパルナスの人通りを爆音を立てて写生旅行に出発する勇姿は、彼の奇想的画面以上の傑作であった。巴里占領中マドレン夫人は、青物商を開いたとかで、解放当時も猶太人タイプの彼だけは結構赤旗組からも歓待されたと自慢していた。

 その頃の巴里の特異的存在の1人は長谷川路可であった。この土佐派の画人には藤田も1目をおいていた。人物としても面白く、ブルターニュの田舎住いで百姓娘と相思相愛の仲となったがガンコにかけてはブルトンという位の娘の両親は、どうしても結婚を許可せず、路可の近視眼がますます茫然として、悲恋を抱いてスペインの涯まで放浪したとやら。錦を飾って帰朝する瀬戸際にも、フェミニストの彼は、1等旅費を彼女の墓前だか、懐ろだか、アマリ判然としないが、捧げて3等船室で舞い戻ったとかの美談さえ伝えられた。白耳義、伊太利の勲章を路可が拝受したとかいうが、彼は当時のボエームの代表的人物だった。

 藤田の最も愛していたのは、★海老原喜之助だったろう。この南国児も20歳前の若年で巴里に乗りつけた。有島生馬画伯の息がかかっていたとかいうが、彼は直ちにピカソ研究に取組んだ。いわゆるアバンギャルドで、彼の画論には生地鹿児島の桜島の大噴火的熱焔があった。彼こそは切歯抱腕、藤田のブルジョア転向を慨嘆した。ムーラン・ルージュ、ミュージック・ホールの踊り子と熱くなって、正式の結婚にまで進んだものの、連日連夜の大立廻りで、頭を冷すつもりか、南仏カンヌに退陣し、カンヌ港雪降りの珍図を持って巴里に舞戻った。

 どんな視覚の狂いか、漁夫はナポレオン帽をかぶり、その帽子の大きさが漁船の2倍もある傑作を、彼の画論に捲かれて買入れたが、この名画は知己友人の話題となった程で、とうとう真青な区役所の図とカケ換えたが、これまた窓から屋根よりも大きな三色旗が勇ましく翻っている有様だった。

 ピカソ気取りの彼はバッサリと黒髪を額にタラして黒の山高帽といったいでたちで、ロトンドに鎮座し、俗称ジャンギリと呼ぶカマトト女画学生にゾッコンほれこんで、ジロリ、彼女を睨みつけていたが、グーの音も出ず、あげ句の果てに女には、近所の商人の彼氏がついたとあって、清純なるジャンギリ嬢のショートカットをまるめて、尼寺へでも祭りこむ程の感傷ぶり、ブーラール街切っての名物男であった。

 ★高野三三男と高崎剛

 彼の街角を廻ると、ダゲール街で、いずれおとらぬ貧乏町、その11番地のアトリエに高野三三男夫妻と、巴里で客死した奇才・高崎剛が陣取っていた。

 私が初めて高野三三男に出会ったのは藤田の家で、高野夫妻は独逸から巴里に着いたとかで、一寸画家には珍しい道筋だと、しげしげ2人の顔に眺め入った。藤田から彼の経歴をその数日後に聞かされたが、彼女は女子大卒業の大インテリ、彼は商船学校を中退、上野の美校出で彼女のために堀にまで飛びこんだが、水泳達者でこと切れず、這い上ってきた程の純情家だから気をつけろとのことだった。

 この藤田の気をつけろといった意味は、未だに疑問だが、ウッカリ彼女をカラカウな、大インテリだから貴様などはお茶の子だという意味か、それとも彼が純情家だから、注意して物を云えとでもいう意味であったろう。

 彼の最初のサロン・ドートム出品画は、鹿が青葉の風景中に遊んでいる物優しい図だと記憶しているし、彼女は花の静物を出品した。

「文学的な画だね」
 と私か藤田に話したら
「うん大したインテリだよ。]
 とあくまでインテリ扱いにしていた。

 ところが、その翌年のサロンにインテリ高野は爆弾的美人画を出品した。2人の大女がのびのびと、クネクネと、寝ころんでいる。しかもそのフォーブ的画面から受ける感じは、歌磨の青楼美女の感覚なのだ。サロンの真中で、このシロシロが悠々迫らぬ妖体を展開している。私はこれは日本画家の作品だな、と直観した。が、よもや高野三三男の作品とは気がつかず、買ってみたいと近寄ってみたら高野三三男のサインが眼を射った。

 この画が高野三三男の画家としての出発点であり、彼の名声は、巴里好事家間にグングン拡大していった。

 高野三三男は当時相当な怪奇趣味で、アンソールの画風などに親しんでいた。私が日本に持ち帰った初期の裸女の図は、堀口大学が好きで友情のしるしに贈ったが、惜しくも戦火で焼失してしまった。

 その後彼はいわゆる巴里批評家の称する今様グルーズ的の画風に進展し、ヴェルレーヌ的詩想で、仏蘭西観賞家の趣好に投じた。彼の趣味はあくまで巴里人趣味で、彼の讃美歌は、彼が1種の巴里女の型を造りあげた、といっている。粋人的好事家からも珍重され、批評家からも買われた彼は、稀にみる幸運児であった。彼だけは何時巴里に返り咲いても、めしの喰える日本画家である。その高野の2階のアトリエの下には温室式のアトリエ長屋があり、その1つに奇才高崎剛が万年床にアブサントを浴びて、プカリプカリ、ゴーロワーズのパイプの煙を吹き上げながら奇想天外の名画を描いていた。珍しく、実家から送金を受けている身分の彼には、洋行費の義理のパトロン関係もなく、金が着けば1晩にパーツと使ってしまい、彼の豪遊はロトンドの女達にも、月1回の一夜大尽として期待されていた。

 なじみの街娼が持てあましてもちこんできたと云う珍犬が、チョロチョロ彼の後について歩いていた勇姿は、チャップリンそのまま、この貧乏町に適わしい添景だった。

 彼はスキー場夜景の図にこり出して、マッチ棒のようなスキーが縦横無尽に走り廻る光景に、サーチライトを照らしてみたり、消してみたりしてひねくっていた。

 「君一体この夜景はどこで見て来たんだね。」
 と私は尋ねた。
「ほとんど、毎晩この夢ばっかり見てるんですよ。それがね、ほとんど夢にも見られないようなサーチライトの廻転でね。まあ百種位の色彩に変って行くのですよ。」
 と彼はパイプに火をともした。

 この高崎の死は最も印象的だった。最後の床に見舞った時、アマリリスの真赤な花弁を熟視して
「ああ、綺麗だな。」
 と、1言して、眼を閉じた。

 ★マロニエの枯葉に夢を追う

 鈴木、高綺におとらぬ小男で、藤田の側近だった岡鹿之助は、これ又この1群中の異色、インポ型の勉強家で、彼は音楽で縮んでしまったんだ、なんて失礼千万な噂さえ伝えられた。

 彼がはじめてサロン・ドートムに出品した城の画が、彼の創作の第1作品であった。シャンチィーの城をモデルにして、前景にカトレアの蘭花の大輪を配したこの作品は、音楽的で自分の発見の動機であった。この画も、現在では、プラーグ美術館に保存されてあるが、その彼はバスク海岸の明るい帆船の風景を描き上げた。この時代の作品が彼の芸術的最高潮であった。彼の技巧は結局スーラーの点描で、技巧上で伸び難い難関にブッかっている。要するに感覚の強い作品はこの技巧でも光っているが、少し低調な作品では、技巧的の苦労だけが目にしみこんでしまう。時間的にいっても、大変な作風である。全精力をブチこんでしまわねばでき上らない作品で、全く動きの取れぬ画風を成立してしまったのが、岡鹿之肋である。彼が若し先覚スーラー、シニャック等の技巧を意識したならば、恐らく、あんな苦しい技巧的な表現はさけたであろう。

 もっとも、先覚の2大作家もこの技巧の虜となってしまっていたわけだが、岡鹿之肋ほどの苦しみは見えない。彼の作品こそは描くのでなく、突き上げるのである。その意味からも、奇特家として敬意を表するに価する画家である。彼が1義的芸術線をはずさぬ限り、巴里が育てた特異な日本画家と云えよう。こんな具合に藤田の側近に育った画家達は、各自の個性を発揮して、巣を飛び立つ小鳥のように四散してしまった。社会的には高野三三男が巴里画壇では1番恵まれた地位を築いた。日本画壇では、海老原も、岡も、各々地位を得たが、万一このグループが藤田派なるものが確立して、巴里に踏み止まったと仮定したら、巴里日本画壇も築かれただろうし、このグループを相手にした日本画廊の1つ位は、実現していたろう。

 外国崇拝の日本の画壇では、外来傾向にばかり注意して、日本画家の巴里画壇獲得に無関心である。

 そんな意味から、日本画家の国際的価値は藤田は別として、高野三三男、版画家の長谷川潔の恵まれた2人を除いては、全然未知数なのである。

 物質的に極端に恵まれた現代の日本画家たちは、途方外の内地市価に安住してしまって、彼等の作品の国際競争場裡にその進出を考えもしないだろうが、日本の古美術ばかりでなく、現代画家の作品が、マチス、ピカソ、ブラック等と肩を並べる時代出現こそ、日本文化の国際レベルにまで引上げられた確証であろう。

 その意味で、日本の一流画家の、巴里、倫敦、伯林等への国際市場へのデビューは必要で、その点で、多少なりとも、国際的空気を吸った藤田と彼の側近画家の足跡は、その第1歩ではなかったろうか。

 こうしたモンバルナスの隆盛期は、今次大戦直前までつづいたが、独軍占領で、流行の中心は未来派、フォービズム、シュール・リアリズムの温床モンパルナスを去ってしまって、実存主義の中心サン・ジェルマン・デ・プレに移遷してしまった。

 実存主義の絵画的表現は恐らく未出現に終止してしまうことであろう。だが、往年のモンパルナスは火の消えたような画家村に転化してしまい、ロトンド、ドーム、クッポール等は土地の商人達やお上りさんの集会所に転落してしまった。

 画家連中も四散してしまって、わずかに藤田が全盛期の幻影のように、カンパンプルミェ街のアトリエに老躯をさげて仕事を再開した。私はこのさびれはてたモンパルナスの大通りを、20年代の幻を追いながら天文台の方向へ歩いていった。マロニエの枯葉がコソッと音を立てて歩道に落ちた。この大通りには口紅の匂いさえしない。冬枯れに近い晩秋の淡日が自分の影を路上に落していた。

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 まだ、アラビアのロレンスとの交友を描いた★「砂漠の無冠王」 や、ギリシャ回帰の夢と幻想を、イザドラダンカンの妖艶なダンスとふれあいを通して追想する★「美の烙印」 等々、紹介したいエセーや回想録が続くが、最後に復刊に尽力された人の文章を紹介して、終わりにしたい。


 **************
 
 ●ムッシュウ・サツマとぼく    柳沢 健 (元外交官・随筆家)

 ぼくが初めて薩摩治郎八氏に会ったのは、ぼくがバリの大使館の情報部長として働いていた折のことで今から20数年前になる。
 その時彼は新婚の麗夫人・千代子さんを日本から同伴してきた。ぼくはムッシュウ・サツマの強烈な個性と豊かな才能に魅力を感ぜずにはいられなかった。その彼の魅力がぼくを急激に彼に近づけていった。ぼくは彼の家にもよく招ばれて行き、又夫人をまじえて郊外にも屡々出掛けた。

 その後何年か経って、ぼくが東京の本省勤務をしているとき、彼は大学都市総裁のオノラ氏を連れて帰朝したので、久しぶりに旧交を温めることができた。

 その頃ぼくは本省で専ら国際文化事業なるものに専念していたが、既にその方面の行動人であった彼とは最も話が合う仲となった。そうしたある日彼は言ったものだ
『柳沢さん、僕も10年位経ったら親爺から財産が貰えるかと思う。そうしたら国際文化基金を作って、その仕事をあなたにおまかせするつもりだ。』そこまで文化事業を一生の仕事にしようとしている彼の念願をそのとき初めて知ったようなぼくではあったが・・・。

しかし、間もなく彼は、オノラ氏と同道、再びパリに戻ることとなった。
 それから10数年、その間ぼくはヨーロッパとアメリカと東南アジアとに日を過したものだったが、彼と面晤のチャンスはなかった。絶えずその消息は耳にはいり、その動静は懸念の的だったが、今度彼の帰朝で実に久しぶりに顔を合わせあうことになったのである。

 千代子夫人は一昨年かに不帰の客になられた。
 彼は『半生の夢』と題して、その自画像の素描をしている。
 彼は富裕の家庭に育った人である。それだからこそそこに書かれたような「美の探究」を一生の仕事とするような夢も実現できたと言えよう。しかしぼくの周囲には彼よりもっと富裕に恵まれながら、1歩もサラリーマン的な平々凡々の生活の埒外から出なかった人々が、むしろ多いのに驚く。ムッシュウ・サツマにとって富は確かに彼の夢を実現する上に大切な手段ではあったが、それがあろうとなかろうと、彼の抱く夢自体には変りはなかったのであろう。ぼくは自分の周囲を広く見廻しても、彼程の夢想家、彼ほどの浪漫主義者を到底発見できない気がする。(しかも、彼は実業家の祖父の血を承けて、おそろしく現実的・行動的なのだ!)すくなくともわが日本で、彼ほどの行動的な夢の探究者をぼくは求め得ない。(辛うじて彼に近い者に★大谷光端師がある。が、光瑞師には彼ほどの現代的な飛躍や美と苦悩との感覚はなかった。あるのは古風とも言える事業家的な夢と熱情とだけだったようである。)

 彼とパリで親しくしていた高野三三男画伯はぼくに彼の平均(エキリーブル)の破綻を語ったことがあったが、正しく我々から見ると彼は1箇の偉大なるエキリーブルの破綻者である。そうしてそのことが彼の夢の大きさを物語るものであり、富と生活とには恵まれているように見えながら、実は最も悲劇的な存在とも言うことができ、また人生の失敗者とさえ目し得ると思われる点がある。

秀れた芸術家が多くそうであるようにこの運命は1つは先天的なもので、彼の父祖の血のなかにそれがあったのであるが、更にこれを大きく育成したものは後天的と言ってよく、幼少にしてイギリスに渡り更にフランスに遊び、専ら芸術や美の探究の世界に専念したその長期の境遇のせいである。随って彼のような存在は西洋ではいざ知らず日本では唯一的のものであると言えると思うが、尚更敗戦を喫した貧困の日本の今後に彼のごとき型が現われることは到底期待できないであろうことは確かである。

 それにしてもぼくは、彼が戦後の、何もかもがメチャメチャになってしまったフランスでの生活で何をして暮していたのかと訊くと、文筆でだという答えを貰ったときほど見当がつかなかったときはなかった。言うまでもなく彼の豊富な生活環境なり才能なりは充分に知っていたつもりだったが、文筆というのは1つの職業的年期を入れることが必要で、単なるアマチュアが飛び込んでもそう容易に物になるものでもない筈なのに、日本よりは逼かに点数の辛いフランスやイギリスで物を書いて収入があるというのは、ぼくには容易に合点がゆかなかったが、その1例を見せて貰うつもりで一読した彼の短篇『シクラメン・ロアイヤル』(仏文で書かれていた)でぼくは文字通り喫驚した。これはまったく玄人ならでは書けぬ小説である。それに彼の駆使するフランス語のうまさは、完全に日本人離れだ! なるほどこの1篇が、フランスでも凡作を掲載することのないと言われている歴史ある『文芸週報』に載ったということは、さもありなんである。

日本とか日本人とかが顔を出すいわゆる異国趣味の作品でないだけに、これに載ったということは一層サツマの名誉と言える。
  その後あちこらの雑誌に彼の作品をみかけたが、それらの中にはポール・モーラン風のテクニックとニーチエ哲学の香気が濃く漂っているようである。

 或る日ムッシュウ・サツマはこんなことを言った。
 「僕には不思議と予感が当るのですよ。僕と親しくした女は皆死んで逝くようなことになるのです。御覧なさい。千代子もそのひとり。『半生の夢』の中に書いたエドモンド・ギー、あのパリ第1の美人女優は、思いがけず死んだって数日前パリから電報を貰いましたよ・・・」と。

 ともかくこの人は、我々にその本質が解るようで解らない許りでなく、自分でも自分自身が解らない不思議な存在なのである。

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 ★あとがき  バロン・サツマの会、 会長 大櫛 以手紙

 バロン・サツマの会が昭和54年12月18日に結成されていらい、5年になろうとしている。「この会はバロン・サツマ(故薩摩治郎八氏)の業績を通し、在パリの日本館のより充実、発展を期すると同時に、徳島とフランスの文化の相互理解を深めることを目的とし、それに沿った諸事業を行う」と会則に明記してあるように、かつては日本館充実のための募金運動を県下一円にわたって実施、相応の成果をあげたり、また、パリ祭には【徳島のパリ祭】として種々趣向をこらした催しを持ったりしている。会員数170名、会費も「必要に応じてその都度徴集する」というまことにおおらかで楽しい会なのである。

 ではなぜバロン・サツマの会が徳島に? これは昭和34年、当時まだお元気だった薩摩治郎八氏が夫人の利子氏と共に郷里の徳島に帰り、ちょうど名物の阿波踊りが繰り広げられていたので見学中脳卒中で倒れられたのである。一時お回復され渡仏されたこともあったが51年2月22日、他界されるまで、17年の間に徳島に住まわれたのである。私も主治医として治療にたずさわった縁を持っている。こうしたことから徳島の人たちも、治郎八氏の日本人離れしたスケールの大きさをより学び、知ろうという人が多くなり、以後この会が誕生したのである。

 会の仕事のひとつとして遺著である「せ・し・ぼん」の復刊の話が持ち上がり、堀口大学先生や柳沢健先生の文章もそのままに上梓することにしたのである。加えて最近日本館を訪れた徳島市の写真家・吉成正一氏(二科会員)の写真3葉を加えた。

 私もこの「せ・し・ぼん」を熟読して実のあるところが多かった。もし、大方の同意を得られたら、第二巻、第三巻と先生の旧著を復刊して、1人でも多く、先生の姿を知ってもらいたいものと願っている。

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 『せ・し・ぼ・ん わが半生の夢』  <了>。

 


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