カウンター 読書日記 ●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (2) 
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●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (2) 
 ●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 
 

 日本から巴里に帰って来ると、国際情勢が悪化して行った影響で、日本の対外為替禁止であった。愈々自分も貧乏美術家なみに、森の草を摘んでサラダをかじることになるのかと、それを考えるといよいよ面白くない。まあいいさ、何でも来るなら来い。が、その前に1つ素晴らしい別嬪さんにでも惚れて、老後の慰めにしようなどと不心得な考えを起し、印度のマハラジャ・カプクラ殿下のお供をして、悪友某氏の愛妻で巴里第1の裸体ダンサー、コレット・アンドリス夫人の家へ押しかけた。その夜の歓楽は、古代希臘の夜宴もなんのその、巴里凱旋門を一目に見下す屋上庭園の噴水のほとりで、コレット・アンドリスは軽羅をヒラッと投げて素晴らしい曲線美で並びいる面々を脳殺したものだったが、しかし、その夜の歓楽の極みの中で、誰かこの女の粛条たる最後を予想した者があろう。私がこのコレット・アンドリスと最後に邂逅したのはアルプス山中のシャモニーの1旅舎であった。その時彼女は既に肺を侵され見るかげもない、生ける屍で、これが全巴里の好事家を魅了した一世の美姫コレット・アンドリスだと気の付く者は誰1人なかった哀れさであった。私は彼女のさし出した痛々しい手に接吻し、この世での最後のアペリチフを飲み合った。巴里大学の希臘文学科を卒業し、自らをアフロヂテの犠牲にした彼女との交友は思っても儚かった。

 恋は異なものとは昔よりのたとえ、話は前に戻るが、巷間決闘事件として伝わる、或る女をめぐる騒ぎを書きとめよう。1924年のことになるが、私はとある劇場で1人の美姫を見出した。

身元をさぐると別に卑しい女ではなく、第1次欧州大戦に故郷ローレンを追われて巴里に出て来ると、名優サラ・ベルナールの弟子となり「エーグロン」の妖女(ニンフ)に扮して好評を得た。さる侯爵と、婚約の間柄であったにも拘らず、私と親しくなったという噂がひろがった。すると或る時、そのBという侯爵から決闘状が舞いこんだのである。私は友人のM侯爵とS侯爵を仲介者として相手に承諾の旨を伝達した。そして巴里郊外ヴェルサイユ宮殿に近い「サッフォー」劇で有名なヴィルダブレ、名画家コローの好んで描いた風景の池畔にあるその侯爵の庭園で相手とピストルを交わした。その結果は相手のB侯爵は右手に微傷を負って、握っていたピストルを取り落してしまい、そして両者の介添人の話合いの結果はB侯爵は婚約をその日に正式に解消す可しということになった。B侯爵は旧領地ブルターニュの古城へ引揚げてしまい、私は私で彼女の最後の決心の固まるまで、南仏の海辺に隠棲してしまった。その後、暫くすると彼女は劇場を去り、カンヌ海岸に私を訪ねて来、やがて私たちは同道して巴里に戻った。

 愚と罵る者は罵れ、狂人とそしる者はそしれ、私の生活はこの事件を機にして、転回することになった。恰もアルチュウル・ランボーがヴェルレーヌを射撃して、生活に一転期を画し、巴里生活の残滓を捨て去り、不毛の地エチオピアの高原ハラーに1植民として去ってしまったように、私は南方シャムの原始林に埋没された某金鉱発掘の冒険旅行に旅立った。

 光の都を捨てて熱帯の大原始林をめざしたことは、友人間に色々話題を賑わして、半信半疑であったらしいが、私の決心は固かった。いかにも唐突な、単なる1時の思いつきと、或いは疑う人があるかも知れない。しかし、私の血の中には2人の祖父の事業家的計画と父母から受けた芸術家的熱情とが流れていて、自分の生活をオノラ氏が評した「放浪的性格」のように印象づけてしまうらしいのである。で、この決心を促した抑々のおこりは親友のGから届いた手紙でそれには
 「君の知っているカンボジアのアンコール・ヴァットの往古発掘せられたる一大金鉱がシャムの大原始林中に埋没されているのを発見した。現地に於ける技術的調査の結果は驚嘆に値するものである。若し君の協力によって発掘事業成立が可能となるならば共同事業として君の支配に委任する、云々。」
 とあった。私はこの手紙を手にして、体がふるえるような誘惑と魅力とを感じて、思いは1瞬熱帯シャムの奥地の大原始林に走った。クメール族の聖地アンコール・ヴァットの幻影が、熱気と湿気のむせ返る雰囲気の中に巨大な蓮の花のように浮び上る。何千という無数の奴隷と捕虜の大群が大伽藍建造に死力を尽している。金色燦爛たる大仏像群があの大尖塔の頂上に引き上げられ燃ゆるような太陽に輝き出しているのが目に浮ぶようであった。思うにこの詩と現実の夢幻境は同時にまた私の生涯についても云えるかも知れない。私は熱に浮かされているような自分の半生の生きかたを顧みないわけではない。しかも、私は到底人生の傍観者ではあり得ないし、そうありたいとも願ってはいない。熱に浮かされているうちに、自ら計画もし、方針もたてて、自分は自分なりに、絶えず何かしないでは生きていられない。しかもその生き方の哲学は、例えば、血の気の多い山師とか壮士又は命知らずの特攻志願者などという手合、腕づくサービスで旦那の金ちゃくを切る芸者、女給、青春のしなやかな肉体をピッタリ不良老年の太鼓腹に押しつけて世渡りするダンサーなんて不心得者の方に同情のバランスがかたむくような按配である。俗にいう大山師の仲間入りしてシャムくんだりまで落ちて行ったと云う者には云わしておけで、当時私は乱暴にもランボー気取で、ヴィーナスの曲線美や、やわ肌が因で惹き起したチャンバラの思い出も深い巴里を後に、南方に旅立ったのである。

 さて原始林の主都、盤谷(バンコク)へ再来してみると懐しの旧友達は今を時めく顕職についていて税関もヘチマも吹き飛ばしてしまう大勢力であるらしい。メナム河□に満潮待機で停船する。遥かな山々を見渡せば、カンジンの原始林どころの騒ぎではない、大禿山が焔々たる熱帯の太陽にイキンでいるような風景である。さては大山師、上手には上手があって、親友フランスの富豪G君1派のインチキ財閥のペテンにかかったかなとギャフンとなる間もなく、ゴトンゴトンとモーターエンジンが再びかかって、1万トンの美船――と云ってもこれは輸出面の安ビリケンやキューピーチャンやシャム美人の折角の曲線美をムサムサとかくしてしまう鐘紡の人絹等もしこたま船底につめこんだ荷物船である。次第にスピードも加わって涼風海面に巻き上り、四方を見渡せばこんどは聞違いの無い原始林、ホッと1息つくまもないうちに熱帯の夜の帳はこの大自然を包みはじめた。ウイスキーをひっかけて、いったん船室に入って錠を下ろして見たものの、中々寝つかれぬ。デッキに出て夜風にあたっているうちに、明けやすい熱帯の夜の過ぎるのはまことに早く河面には点々と小舟さえ目につき始めたころ、キューピー丸はコトンと停船した。とみるや遥かの河岸より真ッ白なモーター・ランチが1隻、矢のように私の船を目がけて走り出して来て、ピタリと船腹に寄りついた。水上保健警察のランチであるらしく、粋な白服に金モールの制服は、野呆臭い日本のこの手合の恰好などが足許にも寄りつけないモダーンなものである。数名の署員が船橋に乗ると、中の大将らしい1人が、デッキに首を伸ばしていた私のそばにやって来て、
 「貴殿は薩摩男爵か?」
 と、忽ちシャム男爵に昇格している。一寸面喰っていると、今度はシャム語でうやうやしく
 「盤谷のワーフには外務大臣代理リュアンブ・ミトラカム閣下(これは本物のシャム男爵)がトントール殿下とお出迎え申上げている。」
 との挨拶である。やれ、コレラの注射よ、種痘のことよと面倒な手続はオクビにも出さず、同船した他の船室まで俄男爵閣下の余光に与りオーケー、オーケーで如才なく片付けられ、いささか面目をほどこしている間もなく再び船のモーターがかかった。河面は紅の朝焼けに映え、河幅も迫って来た。無数の小舟から小鳥のさえずりに似たアクセントのシャム語が聞かれた。椰子の木の森林を綴る赤、紫、白など色とりどりの熱帯の花の上を鷲の群が飛び交っている。極楽の風景とはこんなものかも知れぬと思う。盤谷の名将ワット・アランの優しい姿がだんだん近く迫って来た。終に船が桟橋に横着けになった時、私はシャム兄弟とも云い度い間柄のトントウル殿下の丸顔がひょっこり倉庫の蔭からデッキを見上げているのに気づいた。

「ハロー、ジョー」
 と彼は私を呼び、トントンと段梯子を登って甲板に来た。後に白洋服の男を従えていたが、これは儀典課長のリュアング・ミトラカムだと、紹介された。
 「まあトロカデロヘ行って1杯のんで、ブラヂットが待っているから一寸外務大臣邸へ行こう。」と云った。段取りだが、何しろ暑い。殿下はケロリと涼しい顔して
 「哀れなジョー、哀れなジョー。」
 と慰める。何が哀れなんだと反撃したいが暑くて□も利けない。まさに河童が上陸したような恰好で外務大臣邸にコロガリ込むと、ブラヂット閣下、友あり遠方より来ると大歓迎で、それから大変なもてなし方である。私は単刀直入、来意を告げた。すると
 「まあアワテルナ、アワテルナ。いずれゆっくりメナム河にハウスボートでも浮べて聞こうじゃないか。」
 と、流石は革命で旧政帝権をひっくり返しただけの腕前を見せて、巴里クンダリから泡を喰って原始林に飛びこんで来た我輩などとは段違いである。私は
 「コブチャイ、コブチャイ。」(有難う、有難う)
 と地獄で仏に遭った恰好、俄か仕立てのシャム合掌で引下ってしまった。

私は外相官邸を辞しそれからトントウル殿下につれられて、郊外フヤタイのラクシャミ・ラヴァン女王殿下の邸に走る自動車に乗った。ラヴァン女王はラマ6世陛下の御愛寵の人で、30人ばかりの女を従えて御出迎えになった。ジャスミンの香気が馥郁と漂って、流石の私も何となく正気をとりもどしたかたちだった。挨拶をすませてから、蓮華の他のほとりにある離れ家トントウル殿下の住居の方に案内された。が、ひと息つくひまもなく、盤谷記者団の襲撃を受けた。彼等は私を「巴里から来朝した日本の金鉱殿下」として取扱うのには弱った。シャムの男爵から次は1足飛びに殿下に昇格したのはどういうことであろう。私はトントウル殿下に目くばせして、体よく記者団を帰して貰った。それからパクナム颪しの夜風が涼しい食堂で、シャム音楽の伴奏で踊る美しい美女群の大舞踊を見物した。遠来の賓客歓迎とばかりにシャナリシャナリと金鉱殿下の御身辺にすりよって、その御首にジャスミンの花環をかけられたのかけられないのってさながら生仏さま御光来の観があった。

 さて肝心の原始林1件はどうなったかというと、これは宛らシャム舞踊劇の舞姫の歩行の如く徐々として進行甚だ緩慢である。
 「薩摩の企図は平和的国際提携事業だ。」
 と大いに理解共鳴してくれた日仏政府の外交筋が大いに後援して、大宴会等催してくれてシャム当局を動かすことにつとめ、その回答を待機した。その間、外務大臣とラヴァン女王の兄君でこれも旧知の外務最高顧問の顕職にあるヴァンヴァイデア、ラヴァン女王の弟君の招待で、仏聖地プラバットに巡礼したりしたが、さて容易に返事が得られない。そのうちに、来年の春までには何とかはっきりした返事をするから、それまで待ってくれとのことである。それにしてもベンベンとそれを待って、こんなところにジッとしてはいられないと考えている折から、仏領印度支那のラオス山中リュアンブ・プラヴァン国王の招待をユートロプ弁理長官が伝達して来たので、願ったり叶ったり、日頃憧憬の地上天国を訪問して来ようと、アンコール、プノンペから西貢(サイゴン)に出て、新開通の全印度支那鉄道の乗心地を是非試してくれというガシエ土木長官の好意も受けて旅行をした。そして、その昔オノラ親分の褌をかついで下った街道を見ながら河内(ハノイ)に入り、ガシエ長官邸に泊った。ところが私の着く数日前日本の1陸軍将校がスパイのかどでつかまりブタ箱に謹慎中である。日仏親善上にも面白からぬから、総督が個人的に君と話してなんとか顔を立ててやりたいということだが・・・と甚だ仏蘭西式人情提議である。どうせロクな密偵ではあるまいとは思ったが、折角先方の好意を無にするのも心もとない話だと、ブレビエ総督に敬意を表しかたがた拝謁してみた。ところが、その経緯をきくとこうだ。この和製、いや国産口―レンスは、不心得にも仏語練習を表面の理由にして混血女を引っぱりこみ、色仕掛で巧みに懐柔策を試みたがかの女は逆にこの日本陸軍の大尉から河内攻撃戦法書類一切と地図まで盗み出して届け出たというのである。私は総督からその書類を突きつけられて、いかに私も同じ日本人と雖も弁護弁明の余地がない。ところが当方の形勢不利と見てとった総督は飽くまでも人情的のうわて外交で
 「いや君が来ると聞いていたので、この男の仕業もたわいない子供戦法だし、こんな書類は我々側にしたって、何の参考にもならず、軍事的価値など全くゼロです・・・」
 と笑って、簡単に片付けてくれた。

思いがけない余興が終ったところで、愈々神秘境ラオスに旅立つ事になった。この行、目指す目的地はリュアングプラヴァン王都である。別段用件を持った旅ではないので気はいたって楽だが名にしおう天下の未開地である。途中珍しい経験が無くもなかったが、旅行地としては何かしら気味わるさが先に立って長く滞在して楽しめるところではない。リュアングプラヴァン王都入りをする日、この街道は片道通行で生憎今日は向う側の日だが、ユートロープ弁理長官で特に向う側の通行を止めてやるという。ということは目くら滅法フッ飛ばしても絶対安全を保証してくれる大特典なわけだが、この光栄を利用するには自動車が老朽している。大原始林の真中でエンコでもされた日には一大事と、慎重極わまる歩調で漸く日没の頃、夢幻境を謳われているリュアンブプラヴァン王都に乗りつけた。既に宿舎バンガローには王宮儀典長官、仏地方長官等が待機していて、早速翌朝の王宮に於ける年賀式の打合わせがあって、日が暮れてしまった。

 リュアングプラヴァンの朝は、まだ薄暗い内から僧侶の群で賑わっていた。その何となく原始的風景に感心していると、王宮儀典長官が迎えに来て、これから王宮の拝賀式に案内するという挨拶である。服は昨夜の打合わせにしたがって白服の旅行服で結構だが、勲章だけは特っているのをありったけブラ下げてくれとのことである。だが、本勲章を持って旅行する程の心懸けは流石の私にもない。それで略章で勘弁してもらうことを納得させて王様用の車に陪乗して王宮に乗りつけた。正面階段を登りつめると我が眼の前には宛ら歌舞伎の舞台をラオス化したとでもたとえたらよかろうか、正面の雛壇には向って左に王様、右に畏友ユートロープ閣下が、金ピカの白い盛装で金塗りの椅子に腰掛け、その左右に色彩とりどりの絹地の腰巻(サンボー)きらびやかに、著けたも著けたも宛ら蘭化植物の展覧会そのままの勲章を胸に燦めかした重臣達が床に坐り1隅では宮廷楽師の1団がラオス調をゆるやかなリズムで奏している。その中をわがシャム金鉱殿下は、単身突入の態勢で静々と玉座に向って進み、最敬礼にあたる、片膝を床につく礼をする。王様は、するとやおら王座より降壇され、1儀典官の恭々しくさし出す「百万象白傘勲章」を御手ずから私の首にかけさせ給い、ラオス語でムニャムニャと御勅旨。するとこのとき儀典官が1本のかんじよりを差出すと、それを王様は自ら私の右腕の手首にムニャムニャと仰有りながら結びつけられた。ユートロープ長官はにこりと微笑しながら離席して、私の腕を握り
 「唯今陛下より本官の奏請により貴下に『百万象白傘勲章』を下賜せられ、バン(これはカンジンヨリのこと)を結ばれ給いて貴下の御幸福を祝せらる。真に歓喜に耐えない。」
 だいたいまあ、こんな意味のことを云った。そして奏楽が笙ひちりき式のメロデーを奏でる中を、私は百万象白傘勲章やその他ありったけの略章をジャラつかせて「光栄身に余り感激に耐えず云々」のセリフよろしく仏蘭西語で
 「ソメデット・フラ、ショウ・シサヴォング、ヴォング、権勢ある神聖なる陛下、神聖パン像の主都リュアンブの百万白傘の絶対支配者云々。」             
 と奏上した。それから宿舎に戻り百万象白傘を首から下し、略章をひと纒めにしてカバンに突込み、待構えていた儀典長官の案内で町に出た。リヤアングプラヴァンにはその濃厚な地方色によってひとたびこの山都に足をふみ入れた者には忘け得ぬ印象を与えずには措かないであろう。
 
原始的な茅葺屋根が調和よく並んで、淡紫色の光線がボーッとソフトフォーカスに全体の空気を包んでいる。その中を髪の毛を一寸横にずらして杏の花をさした娘達が日傘の蔭から小鳥の囀るように甘い声で「あなた蝙蝠の干物いかが?バッタのつけ焼おためしになりませんこと?」と客を呼んでいる。

 お寺様の庭で、グロテスクなお面に簑をつけてラオス祖先人の服装をした連中の踊りを見る。見ながら、唐茄子が真二つに割れて生れ出たと信じているラオス民族のお正月に来合せたことがバカに嬉しくなる。われも薩摩芋から段々堕落してきて到々唐茄子に惚れてしまったかと1種の感慨をもよおした。晩になると、私は真白な夜会服をまとい、百万象白傘勲章を首からブラ下げて王宮の夜宴に参内した。宮殿の大食堂の天井には扇風機がプンプン唸っていたが、その暑いこと暑いこと、王様の左側に座を占めた私は、全身水に浸ったような感じだ。畏れ多くも王様はどんなアンバイだろうと横目で仰ぎ見ると、汗1滴もない御姿、汗腺が無いのではなかろうかと疑った。

 ところで、麗わしの王妃はと仰ぎ見れば、ユートロープ長官といとも涼しげなる御表情にて会談中であったが、私の方をふりむかれ
 「妾は生れて海と云うものを見たことがない。勿論汽船に乗ったこともないので、今長官に河内に案内して海を見せてくれるようお話しているところです。」
すると、そのあとから王様は
 「海は海だが、薩摩氏、日本から歯医者を1人よこしてくれたら大助かりだ。」
 との御言葉である。食事が終ってから王宮の露台に座を占めて庭前の舞踊劇を拝観し、身に余る光栄をいただいて引下った。そしてその後、後勅命の歯抜き職人を物色する間もなく大東亜何々の連中がこの地上の極楽で血祭り騒ぎを演じてしまったのは残念至極の至りと云う外はないだろう。皇太子サヴォン殿下には、その翌日私を舟遊びに招待して下さったのを名残に仏長官の提供してくれたモーターいかだでヴァイアンチャンへ向け大メコンの急流を下り、ヴィアンチンで再び、飛行機で1足先に着いたユートロープ長官と一緒になった後、タケックより総督府差廻しの自動車で安南山脈を越えてこの旅行を終り、ともかく巴里へとシャムラオスを後に帰路についた。




 巴里に戻ってみると、原始林の野獣どころではない。ナチスの独逸からヒットラーが、全欧州をヒットろうとばかり、もの凄い勢いでムッソリーニと相呼応して大宣伝戦を始め、世界平和は日ましに危殆に頻しているといった状勢である。日本からも大島だか小島だか云う面構え甚だ面白くない軍属が、成りも成ったり駐独大使のふれ込み、ふんづけられた豆つぶみたいな恰好でナチスの野獣共に拍車をかけているといった始末である。シャムだの金鉱だのラオスの花などと、夢みたいなことを云っている場合ではない。私は勇気を起して今や最も危険地帯になっているチェコスロバキア方面に乗り込んで形勢をさぐり、演説の1つもやって平和を説きたいと、このことをオノコフ総裁に相談すると

 「お前の腕でチェコとルーマニアとユーゴスラビアの3会談がまとまるかどうかさぐって来て貰えば、万一その方面にヒットラーが暴れ込んで行っても、その前にわれわれの大学都市にスラブ系の文化戦線が張られ、自由に勉強しようという決心のある学者学生達のオアシスともなろうから、先ずプラーグまで行って様子を探って来たらどうか。お前は大学都市の国際人だし、それにお前のような日本人が出て行けば、今日の日本の社会でも啓発され、共鳴する人が出て来ようし、又我々の方も日本人にこんな考えの人間がいると三国当局を説く助けにもなろう。是非行って来い。」
 という話になり、大学都市に就いての講演をプラーグ仏蘭西学会の主催ですることに決定し、その旨、出先の日仏外交文化代表に照会すると、仏側は勿論のこと、日本側も文化問題に理解をもっている小川昇代理公使から、極力援助しようというハッキリした回答があった。恰も小川君はプラーグ美術館に日本美術部を設けたいと計画をしていたので、私はそれならと、巴里と日本に私有している古今の日本絵画の中から目星しいものを寄附する旨を申し出て、プラーダをさして旅立った。仏側はナヂャール公使が、日本側は小川昇君が手落ちなく面倒を見てくれ、文部大臣やその他の関係方面への接触にも尽力してくれた。当時としては相当思い切った私の講演も別に忌諱に触れることもなく済んだ。小川君とはカルスバットまで行って、ボヘミアの空気を腹いっぱい吸って巴里に戻って来た。話の序でだが私が約束した日本絵画は無事先方に届いて、小川君の計画は達せられたことを書添えたい。だが折角の会館計画はナチスの侵略によって無残にも水泡に帰してしまった。日華事変が突発し、ナチスの波蘭(ポーランド)侵略が始った。そして日ー日と戦火は拡がる一方である。私はナチスの国際犯罪に対する憎悪のしるしに、わざと敵国の勲章の略章を佩用し、ナチス独逸の連中と事業上の用務で接触を余儀なくされるごとに、全人類の名誉と、自由独立の名を以ての反抗と抗議をせずにはいられない私の動かし難い意見を表示して己まなかった。

 1937年の夏、英国皇帝陛下戴冠式の盛典に列席のため、盤谷(バンコク)からラクシャミ・ラヴァン女王殿下がトントウル殿下同伴、令妹バンチャード殿下と義女イン嬢を引き連れて来欧、私もお伴をした。その頃日華事変が起きたのだ。ガル・ド・リオンからマルセーユまでの汽車中で1中国画学生と乗り合せた。彼は私が大学都市の薩摩であると聞き、自分はこの不幸な事変のためにやむなく学業を中止して帰国するのだと語った。私は不幸な中華民国に対して、日本人としての恥ずかしさと国際人としての憤りをこの青年の言葉から痛感せずにはいられなかった。

 マルセーユで仏郵船に乗ったら、丁度日本に行くという仏蘭西翰林院会員★フロード・ファレール老と会い西貢(サイゴン)まで彼と同船した。ファレールとは古いつきあいの間柄だったが、この航海中、私は、彼がほんとうに日本と日本人が好きでどうにかして中日間の問題をお互いの顔が立つように言論の力で解決出来ぬものかと心痛していることを知った。彼は右傾の思想を持った人物だが、飽迄も独立的な非コンフォルミストで当時の独伊に対しても日本に対するのと同様な考えを持っていた。不幸第二次大戦が起ってしまった後は、一切筆を捨てて、バスクの閑居に立籠もってしまった。彼の仲間が戦後、独伊に協力したかどで挙げられたり、殺されたりしたが、彼のみは全く何等の非難も受けなかったと云うのは、仏海軍々人の経歴をもった彼が最後まで仏蘭西人として終始したにほかならない。この態度は私が不幸な時代にとった日本人としての態度でもあったので、私には殊更彼の心理が理解される。だが終戦後、真っ先に当時の反日的仏蘭西の与論を顧みず、堂々と日本に同情的な文章を書いたのは彼と★ポール・クローデルの2人であった。クローデルと彼とでは全く性格が異なってはいるか、日本を愛し、日本人を理解している点では2人とも一致している。

 西貢(サイゴン)でファレールに別れ、私は一路自動車でプーンペ、パタンバン経由で国境アランヤに向った。盤谷では再び1ケ年振りでフヤクイのラヴァン女王邸に落着き、シャム政府との交渉にかかった。ところがシャム当局のスローモーぶりは目に余るものがあり、そこへもって来て、私は少し健康を害したので、単刀直入農務大臣と会見し、最終提案を出して回答を求めたが、議会審査中とか金鉱令作成中とか、兎角の理由から更に数ケ月の猶予を求められた。それにしても、私の病気をほおっておくわけにもいかず、最後に提案受領書を取り、試掘権保留を認めさせる事を考えついてこれを果すと、私はかかりの医者の忠告にしたがって、日本で数ケ月待機する事に意を決し看護を申し出た旧知の仏蘭西婦人に附添われて★1938年5月、フェリツクス・ルツセル号で神戸に到着した。

 京都の別荘に数日を過したのち、大磯の別荘に着いた。そして日増しに悪化する国情に嘆息しながら、病気静養を理由にして蟄居していた。国内は大勝利の馬鹿騒ぎに酔っていた。戦死者の遺骨が増加していった。親交ある友人たちが追い追い私から離れて行き僅かに鈴木九万、内山岩太郎、佐藤尚武、有田八郎(外相)等の諸氏が親交を続けてくれた人々であった。周囲の馬鹿騒ぎにひきかえ、私の病勢は募る一方である。私は不愉快な大磯生活をたたんで箱根小湧谷の閑荘に登ってしまった。軍部の悪質宣伝は井の中の蛙大海を知らぬ馬鹿共を踊らせ、満州政府に入らんかと勧める者があるかと思うと、身内では伯父様はデマばかり云ってると侮辱され、周囲の状勢頗る面白くない。私が付添いの仏蘭西婦人を巴里に発たして間もなく、かねて予期した欧州第二次大戦の火蓋が切られた。巴里大学都市全体が仏軍に徴発され、佐藤日本会館長は既に荷物をまとめて巴里を引揚げたとの報道が伝えられた。オノラ総裁からは事態急迫至急帰巴をうながす飛行便がとどいた。私はこの危機をどんな事情があっても傍観してはいられぬ。畳のうえで犬死は出来ぬ。切っても切れぬ関係のある仏蘭西、また少年期を育んでくれた英吉利のこの一大危機にあたって、帰欧は当然の義務である。英仏は独逸に宣戦を布告した。日本は独伊に対しては、軍事上中立を保持している。帰欧して働くのはこの時を措いて又とない。好機逸すべからずと、奮いたった私は先ず当時外務省に居た鈴木九万君に旅券下付の了解をつけて貰うよう依頼し仏蘭西大使に対しては渡航便宜方を懇請した。鈴木君が如何にして旅券下付に口添えしてくれたか、恐らく当時の時局下では余程の理解がなくては引受けられぬ話だが、その話もまとまり、英国の査証もカニングァム総領事の厚意で容易に許可され、英国の親友連からも私の如き人間が出てくることは、多年の日英親善危機の際気強いとの激励状が伝達されてきた。どうせ沈没するならナチス共鳴者の軍部やその太鼓持の骨無し官吏などと心中するのは心外千万と安全中立な郵船を捨てて、私は特に友邦仏蘭西のアンドレ・ルボン号を択んだ。潜航艇にやられて水死するにしても、私としては日仏親善のため、正義人道のため、連合軍と心中するのは本望だと病状の思わしくない体で神戸港に着くと、ドペール仏蘭西領事は私の決心に感激して、最後の晩餐に招待してくれた。さてオウヘイな日本税関をパスして乗船すると、乗組員一同珍客とばかり大歓び、そして私は特別船室を提供されたが、これは仏蘭西の厚い友情からであった。船室に入ると2通の電報が届いていた。佐藤尚武大使と鈴木九万君とから発信されたもので航海の安全前途を祝すのメッセージだった。両氏は最後まで私の理解者であり日仏親善の支持者であったのだ。

 神戸港内には独船ションハーストが出港準備をしていた。熱狂した哀れむべきボッシュ共がウヨウヨしていた。船員の1人が私のそばに来て「日本海まで追いかけて1合戦我々と交わすつもりかな。」と云った。私は一笑に附したが船員たちは緊張していた。日本近海に出るや直ちに英仏軍艦が現わして護送した。上海で同船の1フランス令嬢と上陸したが、日本の海軍兵が中国人の労働者を殴り飛ばしている有様を目撃し、日本人自身必ずこんな目に遭う日が来ると私は暗い気持で令嬢に話した。彼女は大東亜政策を看板にして居乍らこんな暴行を黙許している日本政府の態度が解らぬと答えた。

 香港で友人の1英国士官に出会った。彼はこの戦争で日本が独伊と手を切って連合国側に加担するであろう。これが唯一の日華問題の自然解決法でもあり、日本の外交もそのへんから曙光を見出すであろうと云って、それに対する私の意見を求めたが、私は唯、そうなるであろうことを希望すると答え、すぐそのあとからそうなるべきであると訂正した。彼は微笑して私の手を握り「では国の友人達に逢ったら、日英同盟は既に香港で成立したと告げてくれ。」と言った。

 西貢(サイゴン)に着いて様子を見ると、動員動員の大騒ぎ、まるで7月14日の仏国祭日のようだと、冗談を云って笑ってる人もあった。シンガポールでも、知人の1英将校に会った。
 「西貢の様子はどうだね」
 と訊かれたから
 「お祭り景気でおどろいた。コンチネンタルなんかは舞踏者で一杯だ。」
 と答えてやったら、彼は
 「変な戦争だが僕はこんなことではすまぬと思うよ。日本の軍部は必ず馬鹿をやらかすと思う。我々は必ず攻撃されるよ。現在欧州に行く君は、まあ命がけだな」
 と悲観的意見をもらした。後日彼は日本軍の捕虜となり、収容所で病死したと風の便りで間いた。神戸マルセーユ間97日間と云うレコード破りの長航海。夜間は全然燈火を許されず非常時態勢の旅行で一等客僅かに数名、婦人客は万一の場合にと昼間の服装のままで寝に就くと云う始末、旧知の間柄である同船のド・シャンポー伯爵夫人を励ましながら、ともかく事なきを得て巴里へ帰着した。

私はオノラ総裁をはじめ、仏外務省文化事業局長マルクス氏やピラ氏その他要路の人々に面会して、相談の上日本会館残留財産一切を本部国立財団の保護管理下に置き、病気静養のため南仏カンヌに転地した。カンヌにひと先ず落着いた私は、唯1人の日本人だったので、仏人は勿論のこと英米人からも広く交際を求められ有力な人々とも個人的意見を交わす機会が多かった。しかし私の意見がいかに正しくても、又私がいかに積極的な行動人であっても、地中海沿岸に在って遠く日本の政治を行うわけにはゆかぬし、そんな力があろう筈もない。日本の情勢が、一途に転落に急ぐのを坐視しながら、私は手も足も出ない悲しさで、唇を噛む思いだった。そして、こうなったらせめて自分が個人の力で関係した日本の文化事業だけでも死守するほかにはないと考えた。巴里を去る前に、私は当時日本から戻って来た★藤田嗣治を訪問したが、彼は既に逃げ腰で、独軍が侵人した場合は逃亡すると云った。私はそれには何とも返事をしなかったが、藤田のように仏蘭西の愛寵を受けた人間が、都合のよい時代だけは巴里で金儲けして、いざ第2の故国仏蘭西の危機が迫ったとみるや、友情をかなぐり捨てて逃亡するとは、情ない心情だとひそかに彼を憐れんだ。藤田が戦後仏蘭西の与論にたたかれ、日本が左前になると故国を捨てて再び巴里に逆戻りしようとした時、仏当局がその査証をハネツケ、米国経由で入国して巴里に到着した際、新聞記者に大争いが起り、危く停車場で袋ダタキにされそうになったのは、仏蘭西側としては当然の気持だと思った。藤田に別れてから、これ又相当売れた某画家に会ったとき、私は芸術を仏蘭西で育てられた彼などは、義勇軍にでも入って独逸と戦うのが、日本男子の意気の示しどころではあるまいかと話したが、彼も又愈々独軍侵入と聞きこむと、藤田と共にシッポを巻いて逃亡してしまったのは、たとえ当時の大使館の指示によるとしても、余りに非人情非武士道的行為だと思った。私は事重大と感じたので、いつものホテル生活を切りつめようと、名もない小ホテルに引移った。独軍侵入と同時に英米人には至急引揚げ命令が下った。私の友人たちは別荘、ホテルの生活をたたみ、哀れな姿で、海岸通りのベンチに着のみ着のままで英国荷物船の到来を待機する有様だった。私は言葉では尽せぬ感慨で彼等を慰めはげました。

 「残留した老人や子供の世話は必ず見る。如何なる事態が起ろうと友情は友情である。国際愛を信ずる我々は飽くまでも正義人道の味方であり、必ずお互いに再会の日があるだろう。」と。
 未知の1英老婦人が私を呼びとめて
 「私は若い頃日本で幸福な生活をし、私の夫は日本で亡くなって日本に埋められている。日本人は正義の国民であるから必ずや我々と共にナチスを敵にすると確信している。これは私が日本を去る時、日本の友人から貰った記念品で一生肌身を離さず持ち歩いているメダルだ。東郷元帥が凱旋の時出来たものと聞いている。どうぞ英国の日本に対する友情と信頼の印に取っておいて戴きたい。」
 と桜の花を彫刻した黒ずんだメダルを私に差出した。すべての人々が非常に感傷的になっていた際ではあったが、私はこの未知の英国の1老婦人の日本に対する温かい友情を感激して受取った。そしてその足でカトリック教会に詣で、仏蘭西守護聖女ジャンヌ・ダルクの聖像の足もとにそのメダルを捧げ、カトリック教徒でもない私の平和願望を訴えた。

 私はニースに移った。伊太利軍が入ってくると、私は数日外出もしなかったが、伊太利軍人の仏人に対する非常に控え目な態度から、私は彼等が嫌々戦争に巻きこまれた、ファシストとは全然縁の無い平和を愛する市民であり、同時に独軍に対しては好感を抱いていないことを知るようになった。

 その頃ヴィシーから年の若い日本の1外交官補がニースにやって来て、ニースで語学の勉強をすると云って訪ねて来た。気持のサッパリしたしっかりした若者だった。彼は当時の日本の空気の中で育った青年であるだけに、枢軸国に対して相当強い熱情を持っていたが、私はその点では何事も触れないようにしていた。そして彼の持ってくるヴィシー大使館製の情報は甚だしく実状と相違しているのを見出したが、そのことについても彼には勿論私見などは述べなかった。彼にしても私が反ナチスだぐらいは賢明な頭で想像していたことと思う。いずれにしても彼はあらゆる方面の人々に愛敬され、仏人に対しても非常に親切な態度で接していたし、私は彼の紹介で独伊の主脳者を知る機会を持った。

 伊太利の人々は甚だ社交的で親切に交際してくれたが、或る日某副領事が
 「薩摩氏は恐らく、我々の今日の立場に対して好感を持っておられぬと思う。だが実は自分達も大いに不満なのだ。独逸は決して伊太利の味方ではないのだし、日本の味方でもない。彼等の軍事的規律は尊敬するが、自分達には彼等のイデオロギーは全く文明に反したものとしか考えられない。自分からこんなことを云っては、貴下に罠をかけてつりこむように取られるかも知れないが、我々の友人は非常に若い人だし、正直に我々が独逸と非常に親しいと考えて居る様子だから一寸貴下だけに申上げておく」

 と前置して散々独逸の悪口を云った挙句、自分は国の反抗団体と連絡があるから、万一の際は何でもすると友情的に云ってくれた。私は微笑して聞き流していたし、勿論某君には一言もこのことについて口外しなかった。マヂノ戦線が崩壊して独軍が洪水の如く侵入し、ペタン老元帥の声がはじめてラジオに響いた時は、私といえども無量の感慨に打たれた。軍事的に、既にあの当時欧州大陸では如何なる反撃も不可能だったのである。ペタン元帥によって一般仏蘭西国民は救われたと直感したのは当然である。又、事実ペタン元帥により当時の仏蘭西国民は己の貴い伝統的文明の偉大な美の再発見をし、所謂腐っても鯛の自信を以て侵入者・独逸に対する事を得たのである。最も悲しむべきことは現在の日本でも見られるように、仏蘭西自身の内に、仏蘭西は完全な敗戦国だ、ヒットーの情によって再興するよりないと宣伝し、長いものには巻かれろ式のオポチュニスト的コンフオルミストが出て来た事である。誰もが真剣に何とかして老元帥の期待に添い、努力に酬いたいと考えたのは当然で、私は文化的に日本に於て仏蘭西文化の地盤を守れと当時の外務大臣のボードワン氏を励ました。事実第三共和政体はデマゴーグ的政治家連の手で軟化してしまって、文化的にも枢軸の宣伝戦に押され気味だった。若し仏蘭西文化の伝統が1時の国難のため、その高貴な価値を忘れられ、失われてしまったとしたら、それは全人類の取り返しもつかぬ不幸なのである。「お前達は敗けたのだ」とは何事だろう。軍事的に大いなる手違いが生じたかも知れぬし、政治的には1政体が崩壊したには違いない。だがそれが文化的精神的に仏蘭西が敗けてしまったとは云われまい。敗けるどころか、仏国民はペタン元帥の出現により己の持った崇高な伝統の美とそれから放射される偉大なる仏蘭西精神によって再生したではないか。私は嘗て仏蘭西を敗戦国と考えたことはない。ペタン元帥でさえ仏蘭西は重傷を負ったのだと明言したが、負けたとは云っていない。ヒットラーは単に軍事上で勝利を得ただけで、仏蘭西が講和条約に調印しない以上は唯だ休戦状態に立った儘で、最後の勝負の軍配は決定していなかったのである。ド・ゴール将軍が宣言したように仏蘭西は単に1合戦を失ったばかりであるというのは単なる負け惜しみではないのだ。当時の私は「敗戦」を宣伝する者達が、唯目先の事しかわからない連中で、彼等こそ仏蘭西を共産主義のクーデターに導いてしまう分子だと考えた。仏蘭西人大衆が敗戦的心理状態に陥ってしまい、精神的独立性を失ってしまった時、共産系の反抗団体に「我々こそは真の仏蘭西国民であり、我々こそは敗戦を信ぜず最後の勝利及び仏国の政治的独立は我々の流血で死守されたのである」と見栄を切られて、グーの音も出せないのは、彼等敗戦主義者である。共産系の反抗者連は仏蘭西の原野で現に血を流しているのだ。彼等はたとえ仏蘭西赤化のために戦っているのであろうとも、現に狂暴ナチスに反抗し、自分の血を洗っているではないか。口のみで愚痴をこぼし乍ら、侵入者の鼻唄をうかがい、ペタンにでもド・ゴールにでも、場合によっては共産のトレーズにでもいつでも旗色を塗り替えられる旗を持っていたブルジョア階級は、当時の私には最も哀れむべき「敗戦者」と感じられた。ペタン派ならペタン派で理由もあろう。ド・ゴール派ならド・ゴール派で理想があろう。いずれも仏蘭西人であり仏蘭西人でありたいために、彼等は一方はヴィシーに立て籠り、一方はアルジェに待機しているのではないか。共産系の反抗団体にしても、たとえ、それがモスコーの赤旗の下で行動しているとしても、彼等には彼等の主義主張があり、正邪はともかく祖国愛を標傍して、尊い血を流しているのである。だが不愉快な敗戦国宣伝等には国民的節操など爪の垢ほどもない。ナチスでもなく、共産派でもなく、ペタン派でもなく、ド・ゴール派でもない。「長い者には巻かれろ、自分さえよければ、どうだっていいのだ。」である。オポチュニスト以外の何物でもない。その朦朧性がまことに不愉快である。

 モントワールのペタン元帥とヒットラー会見後、オノラ総裁は最後の上院投票に於てペタン元帥に対し棄権を敢行した。それに依ってヴィシー駐在日本外交代表との関係も自然疎遠になり、オノラ総裁は郷里アルプス山中バルセロネットに一時引籠もってしまったが、やがて関係事業の責任からも、また巴里に戻って来た。私は頭を下げて独占領区域に入るのを飽くまで拒み、南仏ニース、即ち自由仏蘭西区域に踏み止まる決心をかためた。ということはヴィシー要人と会う必要も無く、当時の日本大使館に交渉しなければならない用事から遠ざかったことを意味する。

  日仏文化事業にはナチスの息がかかり、独逸からゲッペルスの後援で来仏した1朝鮮人の指揮者の大音楽会が、大使館後援で巴里のプレーエルで演奏されるまでになり、到底私などの顔を出せる性質のものではなくなった。「オノラは仏蘭西の国賊、薩摩は日本の国賊」と呼ばれてるなどという風のたよりが二―スに伝わってくる有様で、ヴィシーなどに行けるものではなかった。そうこうしているうちに独軍の形勢もロンメル元帥のアフリカでの敗戦で下火になって来た。英国の粘り強い反抗は逆に段々力を加えて来た。日本の参戦によって1時パツと咲いた南方の花火もつづかず、おりから英空軍の爆撃が日増しに盛んになって来た形勢に、私は万一の場合を考えて自由区域内通行許可証を仏官憲に願い出た。勿論、仏蘭西に残留希望の邦人の責任は一切負わず然るべく・・・とサインまで取りに来た大使館に今更厄介になどなりたくない。通行許可証がいっこうおりないのでその催促にニース警務部長に面会を求めたところが、これがはからずも旧友ド・マルテル伯爵(元駐日仏大使)の部下だという。話はよく通じて、ではひとつ出来る丈骨を折ってみようとのことである。序でだから大使館の一札の件も話したところ
「いや今にそっちの方が通行止になりますよ。」
 と微笑した。数日経つと刑事2人が私の住居にやって来た。
 「実は通行証の件で来たが、貴下の御身分はよく承知しているが、宗教その他を伺いに上った。」 という。
 「通行証と宗教と何の関係があるのだ。独逸占領区域ならありそうな話だが、仏自由区を歩くのにそんな看板が必要になったとは実に奇怪千万、だが御必要とあらば申し上げる。私の宗教は世界平和四海同胞であって神も悪魔も引きずり込み・・・」
と終らぬうちに、私を制して
 「では貴下はカトリックでも無ければ、プロテスタントでもなく、回教徒でも無く、要するに猶太教ですな。」
 ときた。
 「いやそれならまだましだが、私は日本で生れたのだから神道でバテームをし、仏教を教えられて育った者、まあ面倒なら神道としておきましょう。」
 これを聞いた両刑事殿顔を見合わせて
 「それじゃあまあパイヤンと云うわけですね、だがパカニズムは現世紀の初めに姿を消してしまったので、それじゃ一寸困るのだが、貴下はいったい何を信じて居られるのだ。」
 との再質問
 「世界平和四海同胞を信じている。それで通らぬのなら仰せの如くパイヤンなんだから、太陽を拝し、月星を敬い、犬猫猿鳥はおろか、大自然の創造したものは独人であろうと猶太人であろうと清濁合わせ含んで尊重しますよ。」
 と皮肉ると
 「ではまあ古代のエジプト人式宗教ですね。」
 「まことに然り」
 「では何んと称したらよいでしょうか。」

「まあ、動物教でしょうな。」
「成程、では動物信者とでも云うのですね。」
「その通りその通り。」
ここ迄突込んで2刑事殿やっと得心がいったとみえて
「いや、大変御邪魔しました。では亦いずれ何んとか沙汰があるでしょうからそれまで・・・」
 と仏蘭西人特有の円腰御挨拶に大いに好感を感じた。それから数日経って待ちに待った通行証が届けられた。そして私の姓名の傍に「動物信者」と堂々と記されていたのには私も参った。だがその時、この天下一品の仏蘭西自由区域許可証が後日私の身辺に一大悲喜劇を引起そうとは、流石の動物信者も犬猫のカンに劣るものであった。

敵前上陸の噂ばかりがこの南仏の海岸の住民を刺戟し、脅やかしていた。英空軍の襲撃は日増しに激烈の度を加え、殆ど全国の鉄道網は蜂の巣をつっついたように乱れ、自由区域も有名無実、独軍は仏蘭西全土に進駐の形勢となった。そんな折から仏はアルプス山中のスキー地メジェーブ村に伊太利軍により看視滞留になっている友人の英人C君から、次の様な急信を受取った。
 「伊太利軍は既に引揚げ準備中で、独軍進駐はここ数時間の問題と思う故、伊太利軍最高司令部を訪問して自分及び自分の家族一同の当地滞留許可を引続き許されるよう独軍に対し、手続きしてもらいたし。」
 この急信を受取った私は、直ちにニース市の伊太利軍総司令部のリチ大佐に面会を求めた。そしてホテル・エルミターヂュの司令部に到着した私は、直ちにリチ大佐の応接室に案内された。来意を単刀直入に告げると、大佐は微笑して
 「貴下の御親友の高名は自分も知っている。だが今日英国の国籍にある国民が如何なる考えでその家族と共に独軍の占頷下に残留するのか自分には理解出来ぬ。万一貴下の云われる如く、我が伊太利軍が引揚げると仮定したら、何故に我々と共に伊太利に入国し、連合軍占領区域に行かれないのか。だが当人の御希望とあらば我々伊太利軍として何等反対する理由も無いが、唯独軍の手に渡られたら我々がしたと同様な待遇は受け得るか否か、その点は明言出来ない」
 この時大佐の副官が扉をたたいて入室した。大佐は振返って口早やに伊太利語で
 「では自動車の準備は出来たのだね、荷物も全部乗ったか、ガソリンは充分だね、有難う。」
 そして私の方に向き直り
 「いや、一寸伊太利迄行って来るので、では御友達に特に御伝え下さい。英国は伊太利の最大の親友国だとね。」
 大佐は微笑して私に握手した。室を出ると、あたりのザワめいた様子から、引揚げが直前に迫っていることが感じられた。果せるかな、その夜、伊太利軍は国境を越してしまった。

 数日後にC君から手紙で独軍が到着したことを知らせてきて、相変らず看視滞留の身故万一の場合は急報するから宜しく頼むと云って来た。それから間もない日の或る朝、電話がけたたましく鳴り出した。受話器を耳に当てるとC君の夫人の声が響いてきた。

「大変な事態が起った。ここに看視滞留になっている英米人全部が独警察(ゲシュタポ)の手で押えられ、今コンピエン指して出発したが、聞くところによると独逸に追放されるとのことである。夫だけが丁度村に買物に出て留守中だったので逃れた。今戻って来て家に隠れている。直ぐ来てくれ。自分達が万一救われるとしたら、それは貴方の手によるよりほか何等の望みも他にはない。では一生の御願いです。」

 予期はしていたものの現在眼前にC一家が危機に曝されているとあっては、じっとそれを坐視してはいられない。直ちに独軍リオン総司令部長官ニエホフ将軍に急電して、シャモニーの独警察支部に紹介を請い、ファイエ行列車に飛び乗った。家を出る前に、C夫人に電話をかけ、今直ちに発つから、如何なる方法を取ってでもCをシャモニーまで発たせて待ち合わせるよう、これが最後の望みだとダメを押した。カンヌを出てアゲーに差しかかった列車は、その日の早朝、空襲で破壊された個所の手前で停車し、旅客はバスでサン・ラファエルまで運ばれ、そこで待っている列車に乗換えよとのこと。荷物を引っかついだ乗客が一斉にバスに向って突撃して数台のバスは真黒な人の山になってしまった。私は辛うじて屋根の上に這い上り、荷物の蔭に身をひそめた。

 「誰も屋根の上には乗って居ないだろうね。」
 と警察の声が聞こえた瞬間、バスは動き出した。私は首を持ち上げて警察に
 「確かにこの通り。」
と叫んだ。バスの中に寿司詰めにつまった旅客から
「ブラボー、日本人」
 の歓声が起り、警官はしてやられたといった表情で「おお、畜生。」とこぶしを振り上げたが、再び起った。
 「旨くやったぞ」
 と私に味方する旅客達の歓声に
 「ごもっとも」
 と仏蘭西式に逆に出てからこんどは私を見送って
 「では御無事にいってらっしゃい。」
 と叫んでいた。

 翌朝ファイエにたどりついて、登山鉄道に乗り換えると、初秋の山の空気が窓から流れ込み、私は楽しかった戦前のこの辺りの旅の思い出に耽っていると、列車はいつの間にかシャモニーの駅に停車した。私の降りたのを1人の青年が見つけて、C君は確かに安着、停車場の外で待っていると告げた。出口を出るとすぐCの姿があらわれた。私はCを抱擁して、隠れ家となっている或る下宿に昼食をとろうと、そこへ行く途中で、2人の女連れがあとをつけているのに気がついた。「山の中にも狼が居るね」とCに囁いたが、Cは唯一途に、自分の身の上に就いて考えているためか返事をしなかった。食事をすませて独逸警察に電話し、至急に所長に面会を求めると
「ああその話なら既に承知している。御来訪になることもリオンの本部から知らせてきて御待ちしていたところだからすぐ御越し下さっても結構。」
 と鄭重な挨拶であった。そこでC君を引き立てて、早速町はずれの、アルプス杉の深い林の中に一別荘を占領している独逸警察の扉をたたいた。

 「貴下のC氏に対する御親友関係とC氏の日本に対する旧い友情などと考え併せて、このたびのお願いごとは真にもっとものことと思いますが、C氏は英人であり、然も先日我々の眼を逃れてしまった関係上、今日となっては人質候補であり、自分として知何とも致し難い」
 と云われた。話が困難と見てとったので、Cを庭園に出し、万一の場合は目くばせして逃走の陣立をし
 「だが貴官にも申上げるが、C氏は独軍に対し何等抵抗もせず、平和なる市民であり、仏蘭西に生れたC氏の叔父は独逸人と結婚し、C氏の夫人も仏人であり、今日まで平穏な生活をしていたので、何ら追放にかかるような人物ではない。私が保証するから何卒元に戻して貰いたい。」
 と突込んだが馬耳東風である。
 「では如何なる方法を取ればよいのか。」
 と追撃すると独人は声を落して
 「貴下の保護で瑞西(スイス)国境に発たしてしまうより方法は無いのだ、折角貴下がここまで来られたことだから今晩までは貴下を信用する。その間に・・・」

私はこの意外な提案の前で一寸ためらった。というのは、Cがその家族と直ちに国境破りをするなどということは全然不可能事で、たとえば、かりに若し彼1人が国境を越え得られたと仮定しても、残された夫人とその一家は如何なる待遇を受けるだろうか。これまた計り難い・・・そんなことを考えているうちにふと頭に1案が浮んだ。
 「だがC君は長年の肺病で、この際たとえ瑞西に入ろうと入るまいと到底長くは生命が保てまい。どうせ死ぬのなら第2の故郷仏蘭西で・・・とはC及びC夫人の願望だと思う。たとえ貴下方の手で押えて追放してみたところが、恐らく途中で死んでしまうだろう。いや全く生きた屍の御蔭で貴官にまで御面倒をかけて・・・」
 と空とぼけると
 「いや、そんな人とは知らなかった。ではCは肺病ですな。」
 「然り、然も不治性のですよ。」
 この言を関いた所長は、仏人の女秘書を呼んだ。
 「ヂュルメン夫人、英米人関係の書類を一寸・・・」
 女秘書が現われた時、私はそれが今朝登山鉄道の停車場前から私たちをつけた女連れの1人の顔だと再認した。所長は女秘書にCの肺病患者であることを告げた後、私の顔を見て
 「では医者の診断書が有るでしょうな。それがあれば先ずリオンに送還して取調べの上、何んとかニエホフ大将の口添えで人質だけは免れるかも知れぬ。」
と折れて来た。

「だがあんな病人を方々引っぱり廻してみたところで始まらないではありませんか、そのくらいなら一層ひと思いに今夜にでもバッサリ人質でやってしまった方が当人も助かり・・・」
 「いやいやそんな真似は出来ない。」
 と考え込んだところを女秘書が
 「所長、折角の薩摩氏の御話なのですから、どうにかしてあげては。」
 「そうですよ、人道的に考えてね。」と私が附け加えた。
 「では一応C氏の診断書を拝見して見よう。」
 と益々軟化、というのはそろそろヒビの入った来た独軍現状、万一の場合には反対にこっちから助け舟を出して貰う心算もはたらいたのだとみた私は、Cを呼び戻し、用意してあった診断書を出させると、何と十数通が机上に並べられたではないか。流石の所長も苦笑して
 「まあ1つ2つで結構ですよ。」
 これで懸案が解決した。
 「では御望み通りひと先ずメヂェーブまでお戻しして、いずれ本部の指令を待って薩摩氏までお伝え申上げよう。それまでは私の責任だから間違いのないようお願いしたい。いや、随分御苦労なさったことでしょう。個人的には御同情しますが、これまた戦争故で・・・」
 との人情深い態度である。

「ではこれから私自身附き添ってメヂェーブまで送り届けるから、途中で間違いのないよう通行許可証をお願い・・・」
 と云いかけた私の言葉をさえぎって
 「いや、それには及びません。丁度しばらくメヂェーブには行かぬから、私自身これから自動車でお連れしてよく出張所長に話して置きましょう。御安心下さい。」
 それからコーヒー迄出してくれる親切さに、呉々もCの身柄を依頼して私は宿舎に引揚げた。

 難関を突破した後はニエホフ将軍にでも依頼して口添えして貰えばC一家は款われようと、私は一風呂浴びて旅の疲れを流し、昼寝して目覚めた時は、既に夕日が雪峰の後にかくれて、涼しい山おろしが谷間の白樺の木立をゆすぶっていた。私は夕暮迫る町、幾たびかの滞在で知りぬいていたこの懐かしの町に立ち、赤い燈のともった浴場に何気なく立寄った。北国生れらしい、プラチナに髪の毛を染めた美人のマダムにコックテールを注文して、高い掛椅子に坐るや否や1人のブロンドの女が雪外套(カナデアン)に包まれて、私の側に座をしめた。
 「今晩は、山には珍しいお客様ね。」とマダムに挨拶して、それから私の方にすりよった。
 「珍しいお客とは私のことですか、お嬢さん、」
 と私は微笑して彼女の横顔を見るや、これ亦今朝停車場前から私たちをつけた例の女秘書の連れの女と気付いた。
「ええそうよ、こんな山奥に巴里の贅沢な香水を匂わした紳士なんぞ、夢にも見られない時代ですからね。」
 そこで私は単刀直入に
 「だがその夢は、今朝登山鉄道の駅前から見ているのではありませんか。」
 と突込んだ。
 「まあ、では。」
 「そう、私は貴女のような美人を見すごす程ボンヤリはしていないし、まあ御立派なお腕前と御見受けはするが、まだまだお若い。」
 彼女は自分の一言に兜をぬぎ、
 「C様の1件は巧くその外交で片附きましたね、だが薩摩さん、悪い事は申し上げませんが、この山の夜は貴方のような立派な紳士が越されるような場所じゃありません。決して悪いことは申し上げませんから、これから直ぐお立ちなさい、もう終列車は出てしまったから、妾がサイドカーを手に入れます、直ぐこの足で・・・」
 と言うと声を落して
 「ここは奴等の地獄、大変なことになりますよ、一刻も早く、ねえ妾が・・・」
 「御親切は有難いが御承知のCは救われ、私は旅に疲れた。今晩はゆっくり休んで、明日か明後日発とうと決めているのですから、・・・それに何事が起ろうとね、私1匹の身の始末ぐらいなら・・・」

 彼女はこの言を聞いてうなずいた。
「では2人だけの間でCの放免を祝い、旁々シャンパンを空けましょうか。」
 マダムに目くばせして私は彼女の肩に手をかけた。
「お嬢さん、失礼だが貴女は独逸のどこからお見えですか。」
「まあ、一寸当りませんね。」
 と彼女はハンド・バッグの中から5通の旅券を取り出して、酒場台の上に放り出した。
「いや、そんなことだろうと思いましたよ。」
 私は旅券に目を落した。
「なる程、仏、瑞、独、英、それに伊太利、大したコレクションですね」彼女はほほ笑んだ。
「まあ、どれが本物か知らんが、貴女は美人ですよ。」
 とシャンパンの杯をタッチした瞬間、彼女は私の手を握り、紅い唇を耳につけ
「さあ、これからが一芝居だけれど、妾は貴君の味方。」
 と囁いたとたん、ガラーンと入口の鉄扉が下り、酒場合の横の扉が開き、ハッと思う間に私は数人の独兵に取り囲まれてしまった。

 恐らく之を読まれる読者は野郎小説を書き出したな、ハリウッドヘでも売りつけて小使銭でもひとかせぎする気かと思われるだろうが、私のゴマ塩首にかけても、これは小説じゃない、小説どころの生やさしい話ではない。私は独軍の捕虜になってしまったのである。そして酒場の扉の奥の1室の真中には蝋燭がともり、1独逸将校がコニャックの瓶を前において私の方を見ながら怪しい仏蘭西話で声をかけた。
 「貴下に一寸お話したいことがある。」
 私は相変らずブロンド嬢と坐ったままシャンパンのコップを彼の方に上げた。
 「お話があるなら私の方へ。」
 すると彼は、
 「いや私の方が1杯差上げましょう。ではこちらへ。」
 と急に丁寧な口調になった。
 「御招待なら話は別だが、先ず貴官の御部下方折角の御入来故、シャンパン1杯差上げて・・・」 とマダムに目くばせした。兵士達は意外な言葉に間の抜けた形だったが、その内の下士官らしい1人が、
 「では日本天皇陛下のために。」
 と気を利かして座をつくろった。
 「世界平和の為に。」
 と私は追っかけて云い、それからブロンド嬢の手を取って、将校のすゝめる席についた。
 「実は貴下に申し上げるが、残念乍ら貴下の御生命は本官がおあづかりしておることを御承知願いたい。」
とピストル2挺をコニャックの瓶のそばに放り出した。

 「有難う、名誉ある貴官の御保護とは勿体ない、ではどうぞよろしく。」
 と突っ込んでから再びマダムに目くばせしてシャンパンを抜かせ

 「ではよろしく。」
 と白ばくれた。中尉殿がそれから何をしゃべったかは、ここでは話し切れぬので割愛するが、掻いつまんでお話しすると、彼は自分自身でCを押えに行ったが、Cは逃れてしまい、恐らく瑞西国境を越してしまったことと思い、そのように報告しようとしたら、私に出し抜かれてしまいCはウマウマと私の力で独逸警察から釈放されてしまった。独将校としてこんな恥辱を受けたことは無い。その上これ亦厚顔にも独軍専用の酒場に入りこみ、彼が惚れこんで結婚まで申しこんだブロンド嬢と仲良いところを見せつけられては男が立たぬ。日本市民と称して敵仏蘭西の最高勲章を独軍の前で佩用し、英国市民を日本の旧友と称して弁護するに至っては言語同断云々、と云うことがクドイ。

 「ハハーン。」
 と聞き流し
 「おい、中尉殿、少しお静かに、貴官が独逸軍人なら私も日本の軍籍を汚した光栄を持っている。仏勲章1件で文句が有るなら、ペタン元帥に問い合わせろ、ヒットラーから貰ったクロワ・ギャメとは違った筋道、貴下の令嬢1件は小生の存ずるところではない、独警察の密偵ぐらいのこと
は貴官から承らずとも、とうににらんで惚れてしまった。」
 と高飛車に出てブロンド嬢の頬にキッスした。するとこれを見た中尉は、既に酔が相当まわっていたが、カッとして、机上のピストル2挺を雙手にふりかざし、天井目かけてブッ放した。ガラガラと電気の装飾具が私たちの頭上に散った。

 「いやこの一発でお気が晴れれば後の始末は私が・・・」
 と再びマダムに目くばせし、シャンパンをつぎ足して、実に総計13本。流石の中尉もベロベロに酔い倒れてしまった。そのすきを千法札30枚をマダムにつかまして「御世話様。」とブロンド嬢の嬌笑でけん制して、山の麗の森の中にあるブロンド嬢の家へところがりこんだ。

 「御苦労様、貴女の魅力の御かげで・・・」
 と唇を彼女の手にもって行った。その瞬間ハッとした。ブロンド嬢の指が欠けているではないか。愕いた私の顔をまともに見つめた彼女は
 「大変な美人でしょう、実は私は波蘭土の独軍の労役場で・・・」
 と意外な過去を語り出した。彼女は英国人を父に持ち、独仏混血女を母に持ち、北大西洋上の仏蘭西船上で生れ、婚約した仏将校は40年に独軍の捕虜となり、彼女は語学の達者なのを利用してブルッセルの某国領事館に入り、捕虜になった婚約将校にあてたタイプの手紙の写しが独警察の手に落ちて波蘭土に追われ、1冬を夏シャツとショーツの半裸姿で雪かき労働をさせられ手足も凍結してしまったところを1独老将校に助けられ、独警察に働くならばと、命がけの密偵になった。だが彼女の思いは仏蘭西にあるので、秘かに反抗軍と連絡していたのだが、どうせ終りはナチスの手で殺されるに決っているから、それを思うと、せめて貴方を救って出来ることなら一緒に逃げおおせたい・・・」

 と告白した。これを聞き終わるか終わらぬうちに、扉をたたく者があって、それと共に独語の会話が聞え、またあの中尉が姿をあらわした。そしてこんどはいきなり彼女にピストルを突きつけた。これを見るが早いか、私は彼の手に1撃喰わして、ピストルを叩き落した。そして靴で踏みつけておいて

 「何を乱暴をするんだ。これが独軍人のする事なのか。酒の上とは云え、こうなったら承知しないぞ。」
 と、ベロベロに酔っている奴を、便所の中に押し込み、外から錠を下して彼女を連れて外へ出た。それから
 「僕の宿に行こう。」
 と、彼女を誘って数歩行くと、いきなり背後から首っ玉にかじりついた者がある。ブロンド嬢の叫び声で、さては、また執拗い中尉が来たとさとった。体をかわして彼の手を振り放し、顔面にアッパーカットを喰わすと、彼は道の真中に倒れてしまった。私は彼女をつれて旅舎に転げこんだ。朝の3時頃であった。夜が明けるまでの間をトロリとする間もなく、仏警察から警部が2人やって来て一寸警察まで来てくれと、引き立てられてしまった。署長は机の向うで腕組みしていた。私を見ると
 「いや、大変な騒ぎです。今朝、独将校が街道で酔い倒れていたのを署員が発見して、聞いて見ると日本人とゴタゴタしてとのことだが、日本人といえば昨日ここに着かれた貴下以外にはない。一応旅券、通行許可証を拝見した上、独軍司令官まで報告しなければなりません。沙汰あるまでは気の毒ですが、ここで御待ち願いたい。」

 と云う。もうこうなったら仕方がない。私は身分証明書や通行許可証を出して、彼の机の上に放り出した。彼は旅券を調べた後、通行許可証に目を通した。巴里大学都市理事、オフィシエ・ド・レヂオン・ドヌールに目がとまったと見えて、彼は一寸顔を上げて私の赤色の略章を見た。
 「貴下はレヂオン・ドヌール勲章を。」
 と急に態度が改まったが、さてその側の「動物教信者」のくだりに視線を投げると、彼は愕然としたらしかった。
 「これら何んの宗教ですか、動物教信者とは一体・・・」
 と彼は口の中でくり返してつぶやいた。動物教信者には私の神経がゆるみ、笑いが思わずこみあげてきた。そして、私は堪らなくなって、動物教信者には私の神経がゆるみ、笑いが思わずこみあげてきた。そして、私は堪らなくなって、ハハハと大笑いしてしまった。が署長は何か何やら見当がつかずに苦り切っている。そこヘブロンド嬢の声が扉の外から聞えて来た。
 「失礼しました。薩摩さんは私の方でいただくことにします。」

と云って、彼女は何か書類を出した。私の処置を持て余していた署長の顔にホッと微笑が浮んだ。

 ブロンド嬢に促されて独司令部に出頭すると、気持の悪い程の丁重さで、今朝は酒の御馳走にあずかりながら、隊の者どもが大変失礼いたしましたと挨拶を受けた。答えに窮していると、エブリン嬢(ブロンド嬢の本名)が、さあこれで、もうすべてがすみましたと云う。余りアッケないので、こんどはこちらが気抜けしてしまった。

 後日、11月末になって、再びエブリン嬢を訪ねた。雪のチラチラする山中に、C一家をも見舞って、明ければ大戦終了の年の春のことである。ニースを追われてボーリュの高台に避難していた私に突然電話がかかって来た。エブリン嬢の声で、モンテ・カーロの祖母に面会のため、特に休暇を取って出て来たが、今日午後の独軍軍用列車で山に戻る。一寸でいいから是非お目にかかりたいと云う。

約束したニースの停車場前のカフェに駈けつけてみると、エブリン嬢は何だか元気のない顔で、コーヒーをすすっていた。
「お目にかかれるのも、これが最後かもわからないわ。」
 そう云う彼女をはげまして、真っ黒な軍用列車の内に送りこんだ。それが私の見た彼女の最後の姿であった。彼女は独軍退却の折に、サランユ山の中で独軍の手で殺害されてしまったらしいという噂を、後になって耳にした。

 そしてあの中尉は私との事件で、その後東方戦線に廻され、そこで戦死したらしいと、これも噂話である。残ったのはCと私と2人きりで、当時を追憶するたびに、シャモニーの秋風と、白樺の林と、そしてエブリンの思い出が我々の胸に蘇った。

 巴里の日本会館も再開され、白耳義(ベルギー)の財団も再開され、巴里事務局長・萩原徹二君の来巴を迎えた。

 豪華船ラ・マルセイエーズで12ケ年振りで故国の土を踏んだ私の半生記―今様浦島物語を 「歌を忘れたカナリヤ」の日本語でタドタドしく書き綴ってみた。             (昭和26年5月)

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 ●『わが半生の夢』ー半生の夢 <了>。

 ●『わが半生の夢』ーモンパルナスの秋 へ続く。
 
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