カウンター 読書日記 ● 『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (1)
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● 『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (1)
 ● 『わが半生の夢』 薩摩次郎八  
  
 ★薩摩君のこと          堀 □ 大 學

 閑院の宮、西園寺公の昔は知らない。
 僕の同時代人の中では、薩摩治郎八君が僕の知る限り、ヨーロッパの社交生活に、長期に渡って一番派手に金を使い続けた日本人だ。M侯爵夫妻のロンドン、パリに於ける大使館づき陸軍武官としての金活は随分華やかだった。だがこれは期間が短かった。H侯爵と実業家のM氏も随分金を使われたが、これは美術品の蒐集に使ったので、純粋の消費とは言えまい。一種の投資だから。ところが薩摩君のは、只なんとなく使ったのだ。ヨーロッパの社交金活を楽しむために使ったのだ。自分も楽しみ、人を楽しませる以外の目的なしに只何となく使ったのだ。この点に僕は感心する。それも30年の長きに亘ってだ。金を使うことはいいことだ。使った本人の身に何かがきっとプラスされる。少なくとも儲けることよりはいいことだ。儲けた人の身につくのは金だけだから。薩摩君が20代の若い日にパリの大学都市に私費を投じて留学生のために日本館を建設したことは人も知る通りだが、あれに使った金高なぞは、薩摩君がこれまでに費った金の千分の1にも当るまい。他の千分の999は只何となく使われたのだ。薩摩君の身には随分いろんな教養がその血と肉となってついているが、これは貴重なものだ。他の日本人には誰にもないものだ。

 薩摩君は早熟な少年だった。15歳の時、『女臭』と題する3百枚の小説を書いて、当時崇拝していた水上滝太郎に見せに行ったという。男道の同性愛が主題だったという。女臭という題名は稚児の体臭に由来していたという。水上滝太郎は一読の後、薩摩君の早熟ぶりに驚いて、<君がせめて25歳になっていたらいざ知らず、現在これをどこに発表しても、誰あってこれを君の作だと信じる者はあるまい。>と言ってかえしたという。薩摩君は信頼し切っていた師ともあおぐ人の言を聞いて、その原稿を焼き棄ててしまったという。惜しいことをしたものだ。水上氏は知っていたであろうか、この時ともすれば、自分が日本に生れたレーモンラディゲを、二葉の時に嫡みすててしまったかも知れないと。

 薩摩君はその後小説の筆を折って、短歌と詩を作った。堀口大學の歌集『パンの笛』と詩集『月光のピエロ』の影響だと本人は言っている。兎に角非常な<大學ファン>だったことは事実だ。薩摩君の歌集『銀糸集』と詩集『白銀の騎士』はこの傾倒の今に残る形見草だ。『銀糸集』の寄贈を受けられた与謝野晶子先生は長文の礼状をよせて、<大学(ママ)は子のように思っている自分の歌の弟子だから、今後あなたを孫と思いましょう。勉強して下さい。>とおっしゃったという。

 薩摩君の一生には絶えず夢があった。大きな夢が何時もあった。事業の夢、政治の夢、外交の夢、芸術の夢。夢はその時々によってちがった、同じではなかった。ただ一つ同じだったのは何時もそれが金を使う夢だった点だ、事業の夢も、政治の夢も、外交の夢も、芸術の夢も。

 夢よ、薩摩君の夢よ、いつまでもまどかなれ。

             1955年8月4日未明 葉山森戸川のほとりにて記す

 *************

 ★ま え が き

 この小冊にもられた「半生の夢」「せ・し・ぼん」「ロマンティストの花束」の諸扁はフィクションではない。私自身の30余年の海外放浪の体験記だ。

 私は今日でも、人間にはあらゆることが可能であるという夢を持ちつづけている。私かパリで税閲吏ルッソーの描いた旧城壁の荒廃地を世界無比の国際平和都市と化したのもその夢の現実化の1例にすぎない。だが人間には機会という気紛れ者が必要なのだ。夢と機会が偶然交触することによって人生の蜃気楼は生れ出る。

 私の半生が20世紀の初年から半世紀間の大変転期にまたがっていたということも、この体験記を色彩と冒険で満たしたことは確かなのだ。

 とはいうものの、私がマトモな人生コースの軌道を歩いていたとしたら、こんな男にもなっていなかったろう。ところが血の気の多すぎる私は地球の涯から涯まで、さながら尻尾に火のついた猫よろしくの姿で駈け廻ってしまった。まるで蜃気楼の幻像のような人生を喰い潰してしまった痴人の告白書!

巻末に出版者が拾いだした「ムッシュ・サツマとぼく」の筆者の言葉通り、私自身にも解らない謎の人生の連鎖なのだ。

 永遠の美女の裸形を帯にして、笑ったり、泣いたりしながら、夢と現実の探究と冒険に「せ・し・ぼん」の嘆声を投げつづけて、到々浪漫的白髪の黄昏にまで漕ぎつけてしまった精神分裂症患者のたわごと。これが「せ・し・ぼ・ん」かどうかは、これも事実私自身にさえ解らない人生劇の1幕なのだ。“一巻の終わり”と結ぶには、まだまだ私の瞳底にはあまりに見果てぬ夢が多すぎる。私の人生はいまだに未完成交響楽の1章に過ぎない。

 千年も古りしわれかと疑れるどころではない。まだまだ私には人生が喰いたりぬ。「せ・し・ぼん」の人生劇がだ。

             1955年8月  薩 摩 治郎八

 ***********

 以下、本文引用。

 
●わが半生の夢  半生の夢

「治郎チャン、君は何になる、大きな商船掻き集め・・・」

 私の幼年時代、母方杉村家の大庭園の大池でボートを漕ぎながら、当時、高商の学生だった叔父が勇壮な声で唄ったのをいまだに憶えている。隅田川と神田川の交流点にある、1万数千坪の旧大名屋敷のこの大池には、東京湾の満潮に乗って無数の魚が流れこんで来たが、私はこの水のうえで、幼い子供心に大海に浮んだ大汽船を夢想し、想いを世界にはせたものである。というのも日頃、明治実業界毛織物工業の創始者であった母方の祖父と綿業王と称された父方の祖父の英姿に親しんでいた私にとって、この世界はあらゆる冒険と英雄的行為に満ちた楽土であったからである。

 駿河台の自邸は、1町あまりもある石垣に囲まれた大名門のある大邸宅で、老木鬱蒼と茂り夜番の老爺は未だチョン髷の所有者だった。庭内の稲荷山には大きな狸が巣を喰っていて、暗夜女中部屋の鉄格子の窓から大入道に化けて出現し、女中達の悲鳴に、老執事までが腰を抜かすといったような浪漫的な雰囲気の中で、私は「坊っちゃん」としてあらゆる我儘と勝手な空想を恣にして育った。

 こんな旧時代的空気がまだいぶっている一方、時は、明治初年期である。東京から横浜大阪にかけて外国商館と盛大な取引をしていた祖父は、進歩的な事業家で、当時東西の事業界を風靡した所謂近江商人の第1人者であった。日本で最初に避雷針を屋上に設置したり、ゴム輪の人力車を最初に用いたり、自邸の西洋館披露式には海軍音楽隊を招いて、在留外人知名の士と共にワルツを舞うといったような半面を持った明治型の紳商であった。

 封建的と自由進歩的な思想が交錯して出来上った家庭で、朝は祖母の膝に抱かれ、人力東で上野東照宮や不忍池の弁天堂に詣り、帰邸すると、巌谷小波の「世界お伽噺」を女中に朗読させるのが、幼い私の慣わしであった。そして「治郎チャン、君は何になる」に異国への思慕やるかたなく、小さな胸を躍らせたものだが「商船主なんかになるより、いっそヴェニスの大運河に浮んだような豪華なフレガートに乗って、世界一の美姫と一緒に神秘な月夜の航海がしてみたい」と秘かに願ったものである。

 既に私の詩人的性格と理想美に憧れる精神的要求が無心の内に芽生えていたと云えよう。

 この幼年期の東京に残した唯一の私の足跡を、嘗って上野不忍池弁天堂を訪れた人は、堂前に立っている1地蔵に見出されたことであろう。というのは「3歳の1児童、此の像の首の欠け居るを慨き、首を新刻せしめて奉献す云々」とある。此の3歳の児童が即ち、当時祖母に手を引かれて参詣し、地蔵の首無しを慨(嘆)いた私であったからである。

 幼稚園を経て九段下・精華学校の小学部に進んだ。もちろん男女共学で、子供の世界にも既に恋愛的感情の交錯があり、ものの哀れを知ったのは実に小学3年生位の頃からであった。その頃祖父が他界した。その葬儀には、各国の知人から送られた花環が邸一杯になった。花環にはそれぞれ送り主の名を書いたリボンが結びつけてあったが、それらの外国人の名はおそらく百を越していたと思う。外国から送られた友情のシンボルである花々の美しさは、私の子供心に深い印象を残した。その後父の時代になると、商業的空気は家庭から一掃されて了った。庭園の1隅には熱帯植物と美麗豊艶な蘭花植物の温室が英国風な花壇を前にして出現した。そしてこれを預る若い園丁は、西洋草花類の栽培研究のために英国渡航を夢想している青年だった。又、906番号の自動車を購入すると共に邸に入って来た運転手は、立派な技術家的手腕を持ち乍ら、あたら酒のために運転手に堕ちたという変り者であった。彼の浪花節の薩摩琵琶をよく聴かされた。蘭の花と洋書に凝った父は、日本古美術に関心をもっていたが、それやこれやで家庭の話題は芸術的なことに花が咲くほうが多かった。

 中学に進んでからの読物は「平家物語」「源氏物語」「ポールとヴィルジニー」「レ・ミゼラブル」などで、ワーズワースやシェレー等を読み出す頃になると、1も2もなく英国に行きたくなってしまった。

 その頃激烈な顔面神経痛に悩まされた私は休学して大磯の別荘に移って養生することになり、殺風景な中学校通学を自然解消してしまった。そして、英国渡航を理由に、毎日その準備と称して、田園生活と外人との交遊を楽しんだものである。大磯の家は、伊藤博文公が母堂のために建てた流水園清琴亭なる家を父が譲り受けたもので、私の少年期の前半がこの地で終る頃には、第一次欧州大戦も終った。それと同時に私の年来の憧憬は実を結んで、私は英国と巴里をさして故国に別離した。

 郵船会社欧州航路船・北野丸に乗ったこの浪漫的な少年は、マルセーユに着き、そこから英国に向った。ロンドンに着いたのは、折から霧深いクリスマス前夜であった。カーロス広場にあるコンノート・ホテルに数日宿泊しているうちに、洋服が仕上がり、黒の山高帽に金の把手の洋傘といった純英国型貴公子姿で、ハンプシャーのホイットチャーチというところで私を待っていてくれたハービー老牧師邸にたどり着いた。

 銀柳の多い牧場の朝霧を透して、談い太陽がもれる冬の片田舎の風景は、恰もコンステーブルの画中で呼吸しているようであった。が、生活そのものをいうなら、この老牧師邸の朝夕は、多感な少年の私にとっては余りに単調なもので、窮屈で暗い牧師邸の生活には到頭辛抱し切れず、体よくここがら逃れることを企んた結果、ロンドン日英協会副総裁アーサー・デーオージー老の紹介で、ロンドン郊外、リッチモンドのノックス博士邸に落着くことになった。博士は米国の大学で殆ど半生を教授生活で過した人であるが、その人が私に対する忠告は、先ず仏蘭西語を習得せよということであった。仏蘭西と聞けば、これぞわが憧憬の地の事ゆえ、早速一英老婦人に就いて始めたが、爾来30年に亘る巴里生活を経た今日にあって、なお私の仏蘭西語が未だに英国風のアクセントから抜けきらぬのは実にこの老婦人のレッスンが崇って了ったものである。少年期の耳の影響は全く驚くべきものがある。

 故国の両親には大学で法律経済を研究していると云って安心させ、その実私は専ら希朧(ギリシャ)文学と演劇、ことに当時欧州を風靡したデアギリフの露西亜舞踊に熱中した。タマール・カラサビナは私の偶像で、パラデアムの楽屋では同夫人の大理石の如き手に接吻するまでの熱狂ぶり、昼は大英博物館の希朧彫刻見物、特にタナグラ人形室が私の世界であり、夜は露西亜舞踊に浮身をやつした。これを知ったノックス博士は「汝芸術より他には立身の途無がるべし。」と嘆息した。

 テームズ河を見渡したリッチモンド公園に近いオンスロー街29番のノックス博士邸の「東洋の貴公子」だった私には、未だ現実的恋愛は無かった。けれども倫敦(ロンドン)のミュージック・ホールであるエンパイヤー劇場の舞台で見染めた美しい舞姫で、小歌劇の歌手ミス・ハミルトンの流し目に、小さな胸を焼いたのが抑々私がこの種の女性に対する感情の最初のものであったろう。

“my life and love” 私の半生にはいかなる瞬間に於ても永遠の女性が見守っていて、所謂レディースマンとしての人生の客観者でなく、自ら人生劇の1役者として終始してしまった、わが半生の「人間的なあまりに人間的な」性格は、少年期から青春期に益々濃厚になって行った。

 だがその頃の私には未だハッキリとした恋愛はなく、有るのはただ憧憬であり、ボティチェリのそれの如き幽婉華麗な世界の夢があるのみであった。富裕な家庭に育ち、洗練の極致をのみを求める両親の影響が、そのころの私を希朧神話的女性美の探究に導いたのは当然の結果であったろう。法制経済の教科書はいつしか忘れられて了い、それに代ったのが華麗な18世紀の版画で、フラゴナアル・モロールジョン等の筆になる幾枚かの風俗画であった。なまめかしく上品な侯爵夫人を豪華な寝室で半裸形にして見せたそれらの風俗画は、神秘的な微笑をたたえる希朧タナグラ人形と並んで、私の小部屋のマントルピースを飾ったものである。

 これを要するに美の探究、これが私の一生の、そして、唯一の仕事であり、現世を美の楽土として生活する私の信条であった。私には凡ゆる女性の微笑が、恋人のそれに思われた。倫敦の劇場は私にとっては美の作業場と化した思いがあった。そしてこのような日々の間に、私はやがて多数の知己親友を英国の若い芸術界に得る機会を得た。父のために需(もと)めたデムラー(ダイムラー)の自動車は、わが家の定紋である揚げ羽蝶を金色で刺繍した制帽をかぶった英国人の運転士によって、当時の 「東洋の貴公子」をボンド・ストリートの美術店に運んだもので、ここで英国の貴族社会の淑女等とも知り合う機会が生れ、自然私は所謂英国型流行紳士の仲間へと導かれて行ったのであった。

 若し当時の私に美麗な英国の貴族富豪の娘でも出来ていたら、恐らく私の一生は平和幸福な古城の中で夢の如く過ぎてしまったであろう。★だが私の胸の底には、自由を要求する仏蘭西的生活への憧憬が潜んでいたと同時に、少年期の読書から培われたトルストイや、新しき村が主張した人類的理想への憧憬の芽がいつしか育っていたのである。時あたかもジュネーブの国際連盟に全人類の平和への熱望が集中されていたころで、このような国際情勢下に青春を生きた私に、ユートピアン的な高い理想と美の探究とが両立して心を占めたことに何の不思議もなかったと云えよう。

 私はしばしば仏蘭西に渡った。そしてピサロの画に親しんだり、ヴァン・ゴッホの平民的・美術修道者的な風格を懐かしんだものだが、このようなことがその頃の私の性格に与えた影響は非常に大きく、私は南デボンシャーのトーキー海岸で英国の貴公子的享楽生活にピリオドを打ち、やがて巴里に移った。
 私が巴里の土をふんだのはあたかも春の初めのことで、ミカレームの祭日であった。グラン・ブルヴァールを花車をひいた群衆が盛装の「マドモアゼル巴里」を乗せた車を取り巻いてお祭り騒ぎをしていた光景を、当時巴里に滞在していた巴里育ちの一条公爵夫人に同伴して見物し、夜はモンマルトルの歓楽場の盛り場にあったキャバレーで裸体女の活人画を見たのを記憶している。

 当時の巴里には前田侯爵夫妻、一条公爵夫妻等が華やかな交際社会に出入しておられ、帝国大使館には石井子爵を筆頭に、若手外交官としては芦田(前首相)夫妻や沢田節蔵氏等が活躍しておられた。特に当時芦田書記官夫人は巴里社交界でも最も美麗優雅な日本女性の代表の評判が高かった。然し、いずれにしてもこのような空気の巴里の社交気分は私にとってあまりに派手すぎたので、私は間もなくパッシーの片隅に日本人との交際をさけた生活をはじめ、音楽会、演劇、美術展覧会のみに足を運び、かたわら巴里女をモデルにして彫刻をやったりして暮した。1920年の頃で、今にして思えば、まことに文字どおり、国にも人にも★黄金時代であった。
 (ブロガー註: 大正デモクラシー 成金時代 大戦間のヨーロッパ主にパリの思想界については、
 ①・『日本の百年』 5・6ーちくま学芸文庫 
 ②・櫻井哲夫『戦争の世紀 第一次世界大戦と精神の危機』 以下の三部作ー平凡新書を。)
 
 音楽批評家の★岩崎雅通氏は私の交際していた唯一の日本人であった・又天才的バイオリニストと謳われた古典趣味の林龍作氏を紹介されたのもこの頃であった。当時自分にとって最も深い印象を与えた邦人芸術家は、漸く売り出した★藤田嗣治である。英国流のエチケットの抜け切れなかったその頃の私には、藤田の異彩あるポエム趣味の容貌は近づき難かったが、或る日マドレン広場のベルネーム画廊で、氏のうしろ向の裸婦図を見てからは、氏に心を惹かれ、ついにモンパルナス、ドランブル街の画室の戸をたたいた。其頃の藤田青年はフェルナンド・バレー夫人に失恋していたが、巴里画壇の新進として売りだしたばかりの頃であった。藤田は私を大変歓迎してくれ、従弟だと称してモンパルナスの芸術家達に紹介してくれたが、モンパルナスの画家やモデル達は私のような英国風な風采の者には、むしろ冷淡だった。私を友人として、その画室の扉を快く開いてくれたのは海老原喜之助氏ぐらいのものだった。彼は当時古ぼけた服に山高帽子、ピカソ気取りの真黒な毛をバサバサさせてロトンド・ドームの令嬢風なモデル女に鹿児島人的熱情を捧げている様子だった。私の巴里生活から、イザドラ・ダンカンの舞踊レシタルに感激して日本の雑誌に紹介したのもその頃のこと。又バイオリニストのジャルヂュ・エネスコの神技・・・あの古い黄金の噴水盤を思わせるような幽美な音色に心酔して巴里オペラ劇場に毎夜日参したのもその頃の生活の1面であった。

 華やかな22年、23年は夢のように過ぎ去って、1924年4月の忘れもせぬ15日、巴里社交界の花形P夫人の茶宴で青年期の★最初の恋人に邂逅した。春雨が煙るエトワールに近いP夫人のサロンで初めて会った彼女は、雨宿りを口実に、玄関口で私の帰りを待っていた。当時売り出しのマリー・ローランサンの理想的なモデルとして描かれた美人で、彼女を通して私はロンサールを知り、ルイズ・ラベを愛誦した。そしてヴェルサイユ宮殿の奥深い庭園は我々2人のランデブーの場所となった。ということは、彼女との交際はやがて恋愛に変って行ったことを意味する。かのアンリー・ド・レニエのうたったヴェルサイユの庭は夕闇に包まれていた。「若し今夜薔薇の香をかぎながら貴女に私の胸を打ちあけたならば・・・」の古池のあたりの夕霧の中に私たちはいつまでも立ちつくした。宛ら18世紀の王朝時代の絵に描かれた歓びをそのままに、夜の帳りの下りるのも忘れていた。いつか大庭園の扉も閉じられて2人はようよう月光にすかして裏木戸をたずねあて、影のように忍び出る。待ちくたびれて眠ってしまった運転手を揺りおこし、それからモンマルトルの丘上のチルトル広場の辻奥に住む1老詩人の家に立ちよりギターの爪弾きで彼が静かに唄う古歌に我等が恋の情緒を味到したものである。

 その頃、巴里流行界を風靡した衣裳創作家ポール・ポアレの店で催された「印度夜会」に彼女と招待を受けたことがある。私は印度の服を着、リュー・ド・ラッパのベルリオーズ宝石店提供のダイヤ、ルビー、エメラルド等をちりばめたチュルバンを輝かし、彼女は半裸体の印度の舞姫に扮した。列席客は印度王族カプタラ殿下をはじめ、パリ社交界の美男美女たちをすぐったが、その中で当時人気の頂点にあったオペラ女優ジェネヴィブ・ヴィクスと私の彼女とは2つの星のように輝いて、某ラジャーから結婚の申込みを受けるという騒ぎまであった。

 私はまたこの頃、巴里作曲界の秀星モーリス・ドラージュの家でモーリス・ラヴェル、フローラン・シュミット、ダリウス・ミローなど所謂巴里6人組を中心にした作曲家の仲間に入れてもらって彼等と度々会合する機会を持った。モーリス・ドラージュは1913年印度や日本を巡遊して有名な「印度詩曲」を作曲、これを以て欧州楽壇にその鬼才を謳われていた名人肌の作曲家である。彼はクロード・ドビュッシーに愛され、又ラヴェルやストラヴィンスキーの無二の親友で、当時の彼の家は欧州楽界巨星の集会所の観があった。そして、若年の私がラヴェルを始めこのような楽壇の巨星たちと親しくなった経緯も、話せば限りなくあるが、しばらく措くことにして、さて話を戻そう。幸福だった彼女との交際も、私の欧州滞在期間が終りに近づくと共に当然別離の日が来るべきで、南仏イェールで最後の夜を明かした。それから私は仏蘭西政府から仏蘭西近代音楽紹介の使命を託されて、青春の巴里をあとに★帰国の途についた。1924年12月13日であった。

 大震災の後の東京に戻った私には、すべてが殺風景で、焼跡に巴里風のvilla mon caprice を建ててみたとは云え、自分の嗜好を満足させるようなものは僅かに大川端の茶亭の小座敷と伝統的な角力(相撲)のみで、たまに能楽や六代目出演の世話物狂言ぐらいが、旧江戸時代の歌麿、栄川、国貞等の幻の世界を展開してくれる位であった。

 巴里と別れた私は、せめては生粋の日本人になりきって、日本伝統美の世界に生きたいと願い洋服を捨て、和服、白足袋、角帯とこの特種な世界の雰囲気に調和するよう全くの江戸の町家の若旦那になりすまし、柳橋、浜町あたり旧大江戸の面影を追い求め、雪の朝の置き炬燵(こたつ)、夏の涼みは向島と、屋形舟仕立てて、凝りに凝った遊び方をした。然し江戸の粋筋を夢想していた私にはすべてが幻滅で、江戸の小唄を話せるような女からして既に皆無、めまぐるしく変る時代と共に亡びる江戸文化の名残をさえ探し当てることは容易ではなかった。ただ雪の晩の浜町河岸とカラリと明けた翌朝、えもん竹にかかった女のなまめかしい襦袢を、せめて大江戸の名残と眺めたその頃の感傷が今も記憶に残っている。

 角力に対して関心を寄せるのも、私の懐古趣味のあらわれであろうか。兎に角、私は当時体重が25貫余(90キロあまり)あった。謂わば角力そこのけ、三段目の小力士幡瀬川を発見して、徳川家達公に推薦し、将来の関脇と極め付けたが、果して幡瀬川は神技妙術を会得して一代の名力士となったことは、まだ人の記憶に残っていることだろう。いずれにしても、こんな風に懐古的な趣味の世界に入り込んでしまった私に、何の干渉をするでもなく、趣味は趣味として許してくれていた私の家庭は、あくまでも自由と個性を尊重しようとする芸術家肌の父の大きな抱擁力に支えられていたと云うべきであろう。

 さて、仏政府の委嘱と巴里の友人たちの期待をあつめた本邦に於ける欧州近代音楽紹介事業は有名なラヴェル作曲演奏家のピアニスト、アンリ・ジルマルシェックス招致によって実現された。これ又理解ある父の財政的援助に俟つ(まつ)所が多く、私が執筆出版した解説書は、当時にしては豪華版であり、帝国ホテル演芸場に於ける6回の演奏後、皇后陛下(大正)の御前演奏を仰せつかったことは、主催者の私にも、仏蘭西政府にも光栄であった。と同時に★徳川頼貞侯、稲畑勝太郎氏等が特に協力を借まれなかった事は忘れ得ぬことである。とにかく当時の独逸古典、浪漫派作品のみしか入っていなかったわが楽壇に、ラヴェル、ストラヴィンスキーの洋琴テクニックを紹介することは原爆投下的計画であったので、この文化交換を念願する私の事業が、当時の若い日本楽壇に与えた刺戟と感銘は、いつぞや犬養健氏に会った際、同氏から「未だに思い出す」と語られたことからでも御想像願えよう。この事業も一段落付くと、その後更に一つの大事業が託された。と云うのは帝国政府が駐仏大使によって調印した★巴里大学都市日本会館建設の実現策が私に相談されたことを指すので、この案を持って来たのは、元西園寺公望公秘書・★松岡新一郎で、外務省側は★広田弘毅氏(当時欧米局長)であった。私は直ちに牧野伸顕伯の意見を求めに行ったところ、大賛成である。西園寺老公また大賛成、大いに鞭撻された。牧野伯からは特に★佐分利公使(当時参事官)と合議の上事業を進めたがよかろうと親切な忠告まで受けた。いまだ25歳の私に、このような本邦最初の計画である国際的大文化事業の責任を委託された光栄は多とするが、さて資金調達には当時の日本では手も足も出ず、渋沢栄一子爵に相談の結果、我々父子が私力にて御引受けする事となってしまった。

 巴里の自由な生活に浸って、芸術家気分で暮して居た私には、わずかに伝統的な花柳界の朝夕のみが東京に対する唯一の執着であったから、結婚問題は、私にとっては青春の墳墓としか考えられず、社会的習慣から独身者の自由を結婚によって失ってしまうことは私には耐えられなかった。だからそのような話は聞き流しておったものの、巴里へ再渡航のことが決ると、この問題をウヤムヤにするわけにはいかないことになった。その結果、伯爵山田英夫の娘★千代子と婚約を結ぶこととなり、かくて千代子はマダム・薩摩として同行し、巴里生活を共にすることになった。

  巴里大学都市日本会館寄附行為は、同市総裁である前文部大臣で、夏期時間の発案者であるオノラ上院議員に依り、巴里大学総長の名によって受諾され、私は宮腰千葉太書記官同道、オノラ氏を訪問することになった。そしてこの会見は爾来30年に亘る同氏との親交の出発点になった。

 日本会館は薩摩財団の名により、文豪ヴィクトリアン・サルドゥの長男ピエール・サルドゥ技師によって設計された。外部は日本の城の面影を伝えた建築物で、定礎式には当時外遊中で、おりから巴里に居られた李王殿下夫妻の御台臨の栄を得、邦人側からは河合代理大使、宮腰書記官が、又フランス側からは仏大統領代理としてオノラ総裁以下関係者一同が列席して盛大に挙行された。当時文部大臣で、後首相になった仏蘭西政界の巨頭エドワード・エリオ氏の祝辞の後、私は巴里大学都市の国際的平和事業に対し、日本を代表して挨拶した。そして定礎の儀は先ず李王殿下の手で行われたのである。これは1920年10月12日のことで、欧米各国はプレス・ニュース・映画等で、日本の文化的国際連盟である巴里大学都市加入を伝えた。

 花の巴里、ことに世界的好景気に恵まれていたその頃の巴里生活の華美だったことは追憶するだに夢の如き感がある。私が妻に造ってやった特製の自動車は、純銀の車体に淡紫の塗りで、運転手の制服は銀ねずみに純金の定紋、妻の衣服はリュー・ド・ラペのミランド製の淡紫に銀色のビロードのタイニールであった。これでカンヌの自動車エレガンス・コンクールに出場し、瑞典(スエーデン)王室その他の車と競って、特別大賞を獲得した。こんなことで日本のために気を吐いたのも、こんな時代であったからこそ出来た話である。あの時のマダム・サツマの自動車はマリー・アントワネットの儀装馬車以来だったという冗談がいまだに伝わっているのも、今は昔の夢である。こんな私の生活ぶりは贅沢だ、虚栄だと世間からは指弾されるであろうが、私としては生活と美を一致させようとした一種の芸術的創造であると考えていた。シャンゼリゼやボア・ド・ブローニュで、この芸術品は人目を驚嘆させ、巴里エレガンスの先端をゆくものだと新聞雑誌にも云われたものである。人生まさに28歳、冬は南仏カンヌのホテル・マヂェスチック、夏はドービルのホテル・ノルマンディーと王者も及ばぬ豪華な生活をしたが、それをそしる者はそしれである。仏蘭西で俗に云う noblesse oblige で、その間に自分の得た国際的知己交友の尊さを思い併せて、私には悔ゆるところは少しもなかったのである。

 だがその頃から私の脳裡には、あらゆる物質的虚栄の世界から逃れ出そうとする願望が高まって来たが、そのような心境は、私の矛盾する性格の均衡が破れるところによるものらしく、その結果、私はこのような生活雰囲気から逃れようとして、モンマルトルの丘上サックレクールの辺りに隠れ家を求めたり、下町ドービニー衡のギャルソエールに cinga asept のランデブーを求めたりした。妻は妻で絵を描く楽しみを覚え、ピエール・ラプラードの教えを受けた。藤田やヴァン・ドングンと云ったような芸術家とも友人となりモンパルナス街のアトリエに立籠もって、夜はミュージック・ホールの舞台裏の生活をスケッチしたりしていた。私はラヴェルやその他の友だちとグランドエカールの一隅で夜を明したりして、詩人レオン・ポールとかファルグ等と知り合ったのもこの頃であった。我々の結婚生活は所R Mariage parisien で非常に自由に、そして趣味を尊重し合った。妻はその好む友人の群を持ち、私は私で音楽家、外交官、政治家、詩人等の友人の群の中で暮らすといった按配であった。このような結婚生活だったからこそ、我々夫婦は各自の個性を伸張し得られたので、妻はサロン・デ・チュイレリーに作品を出品し、高野二三男夫妻や藤田や、又当時巴里一の美人女優として麗名を謳われていたエドモンド・ギー等と交際していた。

1928年にはスペイン国境のビアリッツに行って、その昔ナポレオン3世皇后ニーチェニーのために造った離宮、ホテル・ド・バレーで暮した。ビアリッツの季節の終り頃、伊太利(イタリ)のメヂチ侯爵がエドモンド・ギー同伴で訪ねてくれたことがある。メヂチ家は人も知る伊太利の名家で、現侯爵は女優ギー嬢のパトロンであった。そして当時流行の「バラス」と云うミュージック・ホールで、彼女のために「巴里美女=ボーテドパリ」という豪華なレビューを上演させていた通人だ。

 ところで、エドモンドのことだが、彼女は巴里一の美人の噂をもった女だった。第一次欧州大戦の際、★マタ・ハリ事件で騒がれた仏政府の怪星マルビー夫人となり、自分とは30年未だに交際を続けている。今次大戦では、独軍占頷下の巴里で、有名なフォリ・ベルジェールに出演し、その比類無き美貌をもって独人の眼光を征服していた。ある舞台が第2帝政時代の1場面になると、彼女はマビル舞踊場の有名な舞姫リゴルボッシュに扮装して、とろけるばかりの微笑を投げ乍ら云うのであった。★「リゴルボッシュ、リゴルボッシュ、お前はいつまでもふざけていられまい」と。ボッシュとは仏蘭西で独逸人をさげすんで呼ぶ呼称であり、「リゴル」とは仏蘭西語で「ふざける」の意味なので、その台詞はとりようによっては、「ふざける独逸の方々、ふざける独逸の方々、でも、いつまでもふざけてばかりはいられまい」と聞える実にきわどいレジスタンスのあてつけなのである。これを毎晩、何千人かの独軍将兵の鼻先でさりげなく唄い続けた彼女の度胸は全く英雄的で、柔よく豪を征するどころの騒ぎではなかったのである。

 だが、威る夜1人の将校がこの唄を聞くや、憤然として席を蹴って退場してしまった。果してこの反抗的な唄の文句が解って、憤慨したものかどうかは解らないが、私が楽屋に彼女を訪ねた時、彼女はその夜の無気味さを真剣に語った。当時彼女は全く命がけだったのだ。私は彼女に、
 「なあに、そんな洒落が解るくらいだったら今頃巴里くんだりでボヤボヤしちゃあいないよ、貴女の微笑はフランスの庭園でなくては咲かない花だ、フランスが貴女のような美人を生か限りは最後の勝利は疑い無しさ。」

 そう言って私たちは戦争下で貴重品中の貴重品であったシャンパンをぬいて、彼女の英雄的行為を祝福したのだった。

  さて話はエドモンドのことから、うっかり20年飛んで了ったが、1928年のビアリッツ時代に戻って、確かにその年のことだった。白耳義(ベルギー)のルーヴァン大学の五百年祭を記念に、同大に日本文化講座を設立したいという安達峰太郎大使の切望があった。安達大使は第一次欧州大戦中、白耳義皇帝に従って運命を共にされた名外交官で、ブリュッセルの名誉市民であり、その名声は同国内を風靡していたものである。講座設立の白羽の矢は私に立って、微力乍ら小財団を設立することに決心して、5百年祭に参列した。日本からは大学代表として、土方寧博士が参列することになり、安達大使一行と共にルーヴァンに乗込んだ。各国大学代表者達は教授ガウンや燕尾服に勲章をキラキラ輝かせていたが、土方老教授は紅1点とでも申してよかろう、羊羹色の服は燕尾服といわんよりカナリヤの尾位のおそろしく尾の短い御盛装で、真黒な顔に例の白髪、日本代表というよりはハイチ島大統領とでも申し上げた方が応しい恰好で代表者席に納まられた。一方安達大使は壇上白耳義両陛下の側近にあって、大礼服の重々しい金ピカの胸にズラリと勲章をつけている。その数は大したもので、あの小さな体にこの重さ、よくまああの壇上まで這い上がったものと私は後方の招待席から感心していた。そういう私も燕尾服で、前日ブリュッセルの夜宴で、皇帝から拝受した王冠勲章をブラ下げ、形勢如何と見ていた。祝辞呈上式は歴史の古い大学代表順に、壇上に呼び上げられることになっていて、順序からいえば先ず伊太利のボローニア大学、英国のオックスフォード大学、巴里大学というわけであった。ところが、これは如何に、土方博士は、耳が悪いせいもあってか、それとも5大強国の代表の1人とでも考えたのか、ノソリノソリと壇上に向って歩き出した。安達大使の目くばせをしり目にかけて、祝辞の巻物をルーヴァン大学総長、カトリック教大司教に手渡し、指輪に接吻どころか握手で指輪を握りつぶさんばかりの挨拶である。大僧正の大まごつきも何のその、安達大使は苦り切っている。この光景を微笑を浮べて眺めておられた両陛下に老博士は最敬礼をした。そこまではよかったが、さて日本式作法にしたがってモソモソと後ずさりして、陛下の前を退ったトタン、おっと云う開も無く壇上からスッテンコロリン、壇下最前列に頑張っていた白耳義の総理大臣の頭上めがけて墜落皇后はキャッとびっくり思わず立ち上がられるといった騒動である。土方博士は如何と見れば、にっこりとして起き上り、再び壇上に向って最敬礼の後悠然と自席に引上げてしまった。だが納まらないのは安達大使である。その夜大使邸の晩餐会の後で、

 「上方さん、今朝の始末は何事ですか。小生半世の外交官生活中こんな恥ずかしい思いをした例はありませんぞ。」
 とネジこんだが、土方老人は愛好の葉巻をくゆらせ乍ら

「安達君、だが僕は日本の礼法を尽して不幸墜落しだのだから、心中何一つ恥ずる点は無いよ。君など僕の弟子ではなかったかね-」
 との挨拶。それから私の方に向いて、
 「ネー、薩摩君、僕はこの年になっても、ちゃんと昔鍛えた角力の腰だ。角力の方ならまだ君と四つに組んで土俵から落ちても勝味はあるよ。」と大気焔であった。

 この白耳義(ベルギー)天覧角力は先生も終生忘れられなかったと見え、後年国技館でお目にかかる毎に、「どうだね、薩摩君。僕の腰のネバリは確かなものだったろう。」
と、自慢だか申し訳だかハッキリせぬことを仰有っていた。その博士が後年満洲国視察上院議員団に加入され、その時私の義父・山田英夫伯と船室を同じくされたが、腹のネバリが切れたのやら、急死されてしまった。

 珍談といえば後年李王殿下御夫妻が巴里御来遊の折、時恰かも天長の祝日にあたり、大使官邸で大夜会を催したことがある。安達大使の時代のことで、その晩の話だが、藤田嗣治が、折角招待を受け乍ら、夜会に着て行く燕尾服の持ち合わせが無く、私のところに泣きついて来た。

 「藤田君、だが、今晩は勲章も付けるんだよ。」と云うと

「僕だって仏蘭西の勲章と白耳義勲章ぐらい持ってるからね。」との話。
 
「だがね、そいつを腹の上に付けるんだよ、解ったかね。」

 と冗談を云って、燕尾服を貸したまではよかったが、さてその夜藤田画伯の服装を見ると、彼は本当に堂々と腹の上に2つ勲章をブラ下げているのである。流石の私も冷水3斗の思いをしたが押すな押すなの人ごみで、その勲章の1つが仏国大使ジュブネル夫人のきらびやかな夜会服のこれまたお腹の上に乗り替えたという騒ぎが持ちあがったのは文字通り珍談であった。まことに大平無事な世の申であったものである。

 杵屋佐吉夫妻が巴里に来たのもその頃である。私に是非仏蘭西楽壇の巨匠達に1曲聞かせる機会をつくってくれとの話であるので早速ラヴェル、ドラーヂュ等と相談して、洋琴家ジルマルシェックスの家で佐吉夫妻歓迎宴を開くことにした。そして友人達を動員、クロニッカーのミッシェル、ジョルジュ・ミッシェルを幇間(たいこもち)役に引っぱり出した。金屏風を立て廻し、赤毛布を敷いた上で、佐吉君がペンペンやった。ラヴェルとドラージュも大喜びだった。まあ、それはそれでよかったのだが、佐吉君御信心のコンコン様を日本から御同伴して、ホテルのマントルピースの上に恭々しく祀り、朝夕拍手を打ち両手を合わせて御礼拝を欠かさないのだった。ところが和服旅行の佐吉夫人の腰巻をどうとりちがえたか、ホテルの使用人がその祭壇に飾りつけてしまった。外出から帰って来てこれを見て腰をぬかしたというのであるが、そのケリを佐吉夫妻がどうつけたかは知らないが、珍談として当時の在巴里人の話題を賑わしたことであった。

 珍談奇談を他人にだけ求めることが卑怯なら、私は自分のことを語らなければなるまい。其頃の数ある私の女友達の1人で「トウトウクス」と仇名されていたM大将の令嬢が、こともあろうに女だてらに博徒で1季節に9百万法(フラン)の遺産をすってしまい、ジョルジュ・ミッシェルの「豪華狂女」の材料になったばかりでなく、終にはカジノ大食堂で裸踊りをやって、生活の資を稼ぐと云う運命におちてしまった。彼女は熱狂的な拳闘のファンで、よく巴里のセントラルに現われたのだが、これは巴里の下町のサンドニー街にある、三流どころのボクサーがひしめきあっているポピュラーな拳闘場で、ここのリングでたたかれてはじめて1人前の拳闘家が生れるといった稽古場で、プロフェッショナルな八百長の大試合とは、また異なった物凄い真の乱闘が見られるところであった。私はトウトウクス嬢と一緒に度々ここに見物に行って、未来のデンプシーやカルパンチェを夢見るフンドシかつぎ達の大奮戦に力瘤を入れたものだ。負けても勝っても賞金は分割という仕組で、当時の金で百法・5百法(フラン)というところであったが、ここを応援する意味で巴里女素人の拳闘が生れると、その開会式には是非にとの挨拶よろしく、招待された。私は燕尾服で出席したが、お祝いのシャンパン酒の廻りが早過ぎて、誰が提議したのか「では男女対抗試合を余興に1勝負」ということになって、引っぱり出されてしまった。私は角力で鍛えた自信があるので、腐っても鯛だ、衰えたりと雖も、3枚目幡瀬川関ぐらいの神技はまだあるものとスッパリ飛び出したのが運のつきであった。相手をするトウトウクス女選手はこの時ぞとばかり、海水着1枚で登場し、ゴーンとゴングが鴫るや否や、海水着の曲線美にふと見惚れていた私の鼻先にアッパーカットを喰わした。「1.2.3.4.5.・・・」はっと気付いてあたりを見ると、猿また1枚でリングの真中に伸びているのは私である。「9」の1声に「何クソ」と満場の歓声を浴びて立ちあがったがブーンと再び1撃を喰わされて、私はヨツン這いになってしまった。こんな筈ではなかったがと思ったが、今更どうにもならない。しかも相手は女である。「1、2、3、4、・・9、10」私はわざとゴングの鳴るのを待ち受けて飛び上がりさま相手の両頬に降参のキッス。この珍試合は大喝采裡にケリがついた。翌日の巴里新聞の漫画は 「ムッシュ・サツマは飽く迄も武士道精神を発揮して、勝を女選手にゆずり満場大満足。盛会裡に閉会せり云々。」

さてトウトウクス嬢(本名ミッシェル嬢)はその後マルセーユのギャングに加わったとかの噂を立てられていたが、真偽のほどは兎も角として今次大戦では女将校として勇ましく出征したということを耳にした。後日友人の1英人が、シャンゼリゼを潤歩している女将校姿の彼女と邂逅したとの快報をもたらしたところから察すると、満更墟ではなかったことがわかったが、それにしても拳闘修練の技が役立ったであろうことは想像に難くない。

 倫敦(ロンドン)で藤原義江に邂逅した話は、私のまだ少年時代のことで、当時を語ることは、この稿においては、既に遥か後戻りをすることになるが、思いついたままに書き誌しておこう。その頃の藤原は貧乏のどん底で、伊太利人の給仕の家に間借りしていて部屋代も払えず、ネクタイまでも質に入れてドナッテいた。日英協会のデーオージー副総裁はその声と人物に惚れて、確かサベージ・クラブで唄わせ倫敦芸能界に紹介したが、私も彼の精進一途の姿には頭の下がるものがあり、感激して、財布の底をはたいて、ウイグモア・ホールに於ける同君の第2回音楽会の費用に宛ててもらった。これが藤原君の欧州楽壇へのデビューとなった。1921年10月30日の日曜の夜8時15分開演でアイヴィ・ジェルミン嬢のヴァイオリンを添え、伴奏はマンリオ・デ・ヴェロリであった。曲目はスカラッチ、モザート、ドニゼチの古典に始まり、ストラヴィンスキーの「ツラユキ」、デヴェロリの変曲した「箱根八里」「沖の暗いのに」「桜」それから浮世絵蒐集で有名な当時日英協会名誉書記長であったセックストン中佐が訳した「梅に鶯」、更にドビュッシー、シューマン、グリーグ・デ・ヴェロリ、マスネー、ドヴォルシャーク、クライスラーとすこぶる盛り沢山で、大日本の藤原義江のデビューにはまことに適わしい曲目であった。

 今日の盛名をかち得た藤原を語るのにあたって、彼の欧州楽壇デビューを、財布の底をハタイて後援したなどの話は、或いは遠慮すべきことであるかも知れないし、且つ藤原君にとっては迷感千万だろうが、然し、私は同君の天才と大成とを堅く信じていたことを、むしろこれによって語りたかった以外他意ないのである。なおこの音楽会では波斯(ペルシャ)の王姫に恋された話があるが、これこそ同君の許可があって初めて公表さるべきであろう。

 2度ある事は3度あるのたとえで、藤原義江の次に原千恵子さんがある。これは私としては全く幸運な奇遇ともいうべきで、前記ジルマルシェックス来朝の折、東京での演奏後神戸に行ったところ、当時まだ幼かった千恵子さんがその教師であるスペイン人の洋琴家に手を引かれて訪ねて来た。そして私の前でデビュッシーを弾奏して聴かしてくれたが、私はその天才的タッチに驚嘆してしまったものである。その後有島生馬氏の後援で巴里につれて来られたが、私は仏国大使ピラ君と共に彼女を仏国政府に推薦した。勿論幸運であったとすれば、それは1にも2にも千恵子さんの天才によるものだが、それにしても今日、押しも押されもせぬ国際的芸術家になったことに、私は自分ことのような誇りを感じる。

 巴里大学都市日本会館の建築はオノラ総裁やブラネ書記長をはじめ帝国大使館員諸兄の絶大な後援により着々進行し、終に1929年5月10日、仏蘭西大統領ガストン・ドメルグ閣下の台臨を迎えて開館式を挙行する運びに至った。が、この目出度い日を待つ間に、私は2月上旬、日頃憧れの希臘へと旅立った。それに就ては後日改めて述べることにして、・・・

 さて、巴里大学都市日本会館の内部装飾のことだが、階下サロンと玄関正面の壁画は藤田嗣治に委嘱し、同君畢生の大作を得た。サロンの照明はアンリー・ナヴァールのガラス彫刻で、日本の学芸文化のシンボルを表現したものである。ナヴァールは仏豪華船イル・ド・フランスを装飾したその方の権威である。前庭は篠原と呼ぶ在留邦人庭師の設計で、家具一切はシュミツト商会を煩わして特別設計したものだ。建築費総計現在邦貨にして2億円で、キューバ会館と並んで大学都市の栄華を誇る館の1つになった。1929年5月10日、巴里南部のモンスリー公園に面した大学都市の一隅には白手袋白ゲートルと盛装した大統領ガストン・ドメルグ氏一行の車の列が日本会館の大玄関に到着すると、君が代の吹奏が始まり、つづいてマルセイエーズが奏された。安達大使と私は大統領とその一行を迎えて大サロンの貴賓室に案内した。仏政界の巨頭ポアンカレ首相、マロー文相、ドウメール上院議長、オノラ総裁、日仏協会員スワール公使、シャルレチー巴里大学総長等が一行の顔ぶれで、その他関係者一同並に各国大公使と合計約1千名の来賓があった。

 創立者の私は日本の文明の根源が、希朧文明のように神話から発生し、東西文化交換が人類の前途のため如何に有意義であるかを述べ、大学都市事業の目的は、国際的良心を涵養して、世界平和の為よりよき雰囲気を生まんとするにあると陳べた。次いでオノラ総裁、シャルレチー総長、マロー文相、スワール公使、山田三良博士の演説があった。次に安達大使が日本政府を代表して鄭重な祝辞を述べ、式後大統領とシャンパンの祝杯を挙げて、ここに私の微力によって生れた日本会館開館式を終了した。

 その夜ホテル・リツツの大食堂に於て大統領代理ヂュール・ミッシェル官房長官、文部大臣、安達大使その他内外の名士3百名を招待して大晩餐会を開いた。その席上私はオノラ総裁よりオフィシェ・ド・レヂオン・ド・ヌール勲章を仏政府から授与された。晩餐会後親友モーリス・ラヴェル、ジルマルシェックス、ピエール・サルドウ、藤田嗣治、本野子爵等をグランド・エカールに招待して小宴を開き、この記念すべき1日を終った。尚英国のダービー卿その他各国元首、名士多数から祝電を寄せられた。夜会に出席した夫人達の服装は、皆輝くばかりの流行品であった。妻はポールポアレの白黒の夜会服を新調し、それに装身具はダイヤ、エメラルドの1式を用いた。私には特にランバン男子服部の名カッターである瑞典生れのエリクソンが紺地の燕尾服を調製してくれたが、これが殆ど巴里流行界最初の紺地燕尾服であった。

 当時倫敦で代理大使をしていた佐分利公使はわざわざ開館式の翌日かけつけて来てくれた。そして明るい大サロンの照明の下で事業の完成を喜んでくれたが、私が仏国政府から貰ったレヂオン・ド・ヌール勲章の略章を見て、

 「薩摩君フランスの諺に『何人と云えども其故国に於ては予言者とは成り得ず』と言うのがあるが君の如き事業、思想が日本の社会に於て認めらるると云う日・・・いや認めねばならぬと云う日が来るのはまだまだ遠い遠い将来であると云うことを残念乍ら覚悟せねばなりませんよ。日本政府及び社会にいったい幾人君の様な高遠な理想を理解する人がいるだろう。君の偉業をねたむ人は有るだろうが、文化事業、世界平和、人類の融和幸福等の理想に関心を持ち、フランス政府の如く君の功績を世界平和の名を以て顕彰するような考えを持った人間は先ず皆無であると思わねばならぬ、君の事業は全く東洋の俗言の如く『知己を後世に埃つ』覚悟でなくては出来ない」と言った。佐分利氏とはモンマルトルのキャバレー・パレルモで深更まで語り合った。 

巴里在留の日本美術家を紹介する目的で、巴里日本芸術家協会というものを援助して成立させた。しかるに藤田嗣治を会長にしたとかなんとかから島国根性的の焼もち争いが起り、折角の私の奉仕的目的とは思いも及ばぬゴタゴタ話を耳にするようになりウンザリしてしまった。安達大使と相談して兎に角ルネッサンス画廊で展覧会を開催し、世間的には成功を収めたが、この前後の邦人美術家のあいだのゴクゴタには愛想が尽きて、私はサッパリと手を引いて、美術家団体の後援は一切断念してしまった。巴里日本芸術家協会が自然消滅になったことは云うまでもない。

 この事件から私は日本人一般が如何に国際的関心に欠け、共同的に日本の文化を海外に紹介しようとする精神に遠く、唯自己の小さな名誉とか利益とかのみに汲々としている人種であることかを沁み沁み感じた。大学都市日本会館経営でも人事関係では、この小さい島国の山猿の如き根性を持って育った連中に如何して国際的良心を涵養せしめようかと考えさせられた。このことについて、後日、西園寺老公に話したところ、

 「君の会館でも余程気をつけんとサロンに浴衣がけでスリッパーなんかつっかけて出てくる博士達で一杯になるぞ。」
 と快笑され、「礼は教えの基となる」の額を書かれ、
「この額を看板にかけて置き給え、そして無礼不心得者が出て来た場合は、口で叱言を言わず、昔巴里で育った西園寺公がこう云うことを言ったと見せてやり給え。」
との如何にも老公らしい親切な言葉をいただいた。その時から今日に至るまで、ずっと巴里大学都市日本会館の玄関に看板として懸けてある西園寺公の額は、もとをたずねると実に日本美術家の国辱的ゴタゴタから出来たもので、会館入館者の諸氏には出過ぎた老婆心かも知れぬが、これも往年巴里ヘハクを付けに出て来た将来1号1万円志願者連を記念するものである。

 さて、巴里と離別して★一時帰国する日が迫った。今日の円貨で腐っても2億円のサービスをしたとあって、大学都市本部からの口添えもあり、仏船アンドレ・ルボンの特別船室を提供し、いわば国賓待遇で日本に帰らせようと計らってくれたのは流石に文化文明国フランスである。

 印度支那西貢(サイゴン)に寄港の際は、交趾支那(コーチシナ)総督が船室まで出迎えてくれた。西貢の新聞にのった「東洋のロックフェラー云々」は2億倍程の誇張だが、まあそれ程までにフランスとフランス国民は私の貧者の1燈である国際文化事業を買ってくれたわけで、人生到る所に青山ありと大いに感激した次第だ。日本に戻ったら、口では世界平和貢献者のなんのと一時は両国の花火式に歓迎されたが、さて当時の外務、文部内省で出す筈になっていた維持費の話などは立消えになってしまい、20代の若憎のくせして国際サービスなんかは生意気だなどという手合さえ出て来るし、野郎は勲章でも欲しいんでやりやあがっただの、1種の個人宣伝だのと、評判が頗る悪いのには恐れ入って、苦笑して了った。秩父宮に拝謁した時その話を言上したら、

 「なんだ、例によって省と省の役人共が喧嘩して居るのか。」
 と、やっぱり苦笑して居られた。それが吉田茂氏、広田弘毅氏、栗山茂氏等の斡旋で漸く1930幾年かになって金1万円也の補助金が、既に10幾年前になる1921年の日付と外務大臣の名で、素町人の自分如き微々たる小僧の財布をはたいてでっち上げた日本会館に下付されたといった按配だ。

 ★翌年1930年の春再び、私は仏蘭西船にてマルセーユさして第2の故郷フランス、自分を理解してくれるフランスヘ旅立った。マルセーユに上陸すると直ちに巴里に行き、130キロのスピードで飛ぶ自動車「ブカチ」(ブカッティ)を買い求め、それに乗って再びマルセーユに戻り、1930年4月23日午後4時出帆のアマゾーン号でナポリ経由、希脛のビレーに向った。ビレー着は4月28日、翌29日は天長節だというので、雅典(アテネ)の公使館の祝賀会に列席した。

 其時の希臘旅行の目的は、デルフに於て挙行されるデルフ祭典に日希協会設立者として、日本を代表して出席したのである。フランスからはポール・ヴァレリー等が駈けつけた。

 旅行から戻って巴里に落ち付くか落ち付かぬ内に、妻が肺腺カタルで入院し、一時快方に向って、アルプス山中のメヂェーブに転地した。これが我々の結婚生活の終了の序幕で、ついに一昨年故国★富士見の別荘で最後の息を引取る迄再び健康を回復出来ずにしまった。

 ★満洲事変が起ると、私の望んでいた国際的良心などは吹飛んでしまい、日本の外交は松平恒雄等の考えとは全く異なった方向に転向して行った。親交ある某中国要人と私がジュネーブのホテル・ボーリバージュで昼餐を共にしたのを取上げて、怪しいの、けしからんのと、既に軍部に秋波を送り出したヘッポコ外交官の卵連が騒ぎ出すような世の中に急転してしまった。だが満洲事変も1片づきした頃、巴里大使館参事官をやっていた栗山茂氏が
 「どうだ君の方の総裁オノラ長老を日仏協会の総裁にしては。」
 との話である。オノラ氏は私の親分(唯一無二の親分)でもあり、その昔、日露戦争時代末松謙澄とは親交があり、日本の同情者であったことなどから考えて、満更この提案は唐突ではない。それで終に外務省の承諾を得ることが出来たが、すると今度は日本に招待して日仏親善を再検討してみたらどうかと云うことになった。丁度広田外相の時代でもあり、斎藤総理も私を良く理解同情してくれている関係上、1つ日本に急行して、この話をまとめて来てはどうだというのであった。そこで私は郵船の船で往復4ヶ月の当時としては飛脚旅行をやって、漸くこの話をまとめ、1933年の秋、オノラ氏に私が随行して巴里を出発した。但し私には私の考えがあるからオノラ氏が帰途朝鮮満洲を巡遊する、その随行だけは御免蒙ると駄々をこねた。広田氏は良く私のことを理解して居ったので、私の考えは認めてもらえた。が、私は世間の誤解をおそれたので私は広田氏と親交ある町田梓楼氏にも会って、新聞の方でも特殊な我々の国際的態度を説明して貰いたいと思ったが、行き違って面会する機会を逸してしまった。そこで私は言論界の知己を自ら訪ね廻り、オノラ氏来朝の目的が日仏文化交換にあって、政治的目的は全然無いことを説明し欧州政界の満州問題に対する見解がどうのこうのと痛くもない腹をさぐられたのでは、新任の大使ピラ君にもすまぬからとダメを押したものだ。

 オノラ氏歓迎は万点で、陛下の拝謁前、勲一等に叙せられ朝野をあげて歓迎された。東京の宿舎には私の旧駿河台の邸をあて、日本料理とフランス料理で歓待した。

 広田外相とオノラ氏の会見の際は、広田氏の希望があって私が通訳の役をつとめた。

 その夜の外務大臣官邸の晩餐の料理は、オノラ氏滞在中最も凝った献立で、ことに白酒シャトーイッケンの美味は、私の鑑定でも1871年製の名品で、オノラ氏が終始、日本滞在を回顧される毎に必ず話題に上ったものだ。

  世評はどうあれ、私は、広田首相は畏友であり、世界平和を念願した立派な良識の人だったと確信している。オノラ氏の言う
 「なかなか立派な人物だ。だが運命はしばしば人間の意志に反逆するものだ。」

 広田首相の悲惨な最後(*東京裁判で文官ただ1人の絞首刑)を思うごとにこのオノラ氏の言葉を想い出す。

 オノラ氏と共に★荒木陸相にも会見した。曽我子爵と3人で、陸相官邸の卑俗極まる大観の富士の大額の前に坐っていた当時の荒木は、気の毒ながら大した印象を残すような人物では無く、ヒステリカルな口調で取りとめのつかぬ極東平和論を1人でしゃべっていたのは滑稽で、むしろ同情すべき精神病者と云う感じだった。賢明なオノラ氏は、彼に1言の批判も与えなかった。本気に相手にしていなかったからであろう。概してオノラ氏の、当時の日本の政治家に対する印象は、【牧野伯は尊敬に値する大人物、斎藤首相は人格温厚、紳士的政治家、鳩山文相は怜悧なリベラルな好意の持てる政治家】、そして日本の話の出る度に鳩山氏のことに話が及んだところを見ると、余程好印象を受けたものらしい。外交方面では★佐藤尚武氏がオノラ氏の最良の友人で、佐藤だけは自分に腹を打開けた唯一の日本外交官だ、と口ぐせのように言っていた。芳沢謙吉氏もオノラ氏は好きだった。東洋風なところが気に入っていて芳沢は面白い人だとよく話に出た。栗山茂氏はその才を買い、栗山は仕事が出来る、どうして政治家にならぬのかと言って居られ、現神奈川県知事の内山岩太郎、日高信一郎氏等も良い印象を与えた人だった。最もなつかしがっていた人の1人は鈴木九万氏で去年他界される寸前、氏がユネスコ会議の序に巴里に出てくるというのでその喜びかたといったらなく、私が案内して病床を見舞った時は、涙をうかべて喜んだ。オノラ氏はそれから数日後亡くなったので、鈴木氏はオノラ氏の最後の訪問者となったわけである。

 オノラ氏の日本滞在中最も印象に残ったのは、伊勢神宮参拝であった。
 「私が伊勢神宮に参拝したいと思う意味は、そこが日本のアクロポリスで、日本帝国の象徴であると解釈しているからだ」
 と来朝途上の船中で述懐していたが、いざ参拝の数日前のこと、京都の私の別荘の低目に造ってあった廊下の長廂に頭をぶっつけて引っくり返ってしまった。京都の大学から来てもらったレントゲン科の教授が診察した結果腰の骨がどうかしたと云うので、ギブスをはめられてしまった。参拝当日になると、その鎧付けの上からフロックを着用した。そしてあの参道を歩きながら

 「これが日本精神だ、この神杉の古木が太理石柱だ、だがこれはなんという謙虚な大自然の前に己を知った賢明なる文明であろう。」
 などと、一寸芸術家のお株を取られた形であった。参拝後は御神楽まであげさせて、その間中ギブスをはめたままの体で畳に坐り、ビクとも動かなかった立派な態度には、流石の私も兜をぬいでしまった。

 オノラ氏は日本を引揚げて朝鮮満洲を視察し、予め打合わせた通り、私は上海で氏と落合い、途中香港で船を乗換えて、ハノイに向った。仏印総督ピエール・パスキエ氏の招待に応じての行動である。この仏印旅行が、私の生涯にとって転機を画するもとになったのだが、それはこの旅行が原始林人(ジャングルマン)になって、理想冒険から現実冒険家に転向する因をなしたからである。

 親分の荷物持で香港から乗り換えたのが、驚くべし、僅か1千トンの「トンキャン」という荷物船であった。時は1933年の冬のことで、海南海峡をガタガタゆられて着いたのが広州であった。そこからパコイに行き、ハイフォンでポール・レイノー前首相の従兄モールス・ギャンエ土木総官夫妻に出迎えられて河内(ハノイ)に乗込んだ。河内ではパスキエ総督の厄介になり、バスツール研究所のモーラン博士にも挨拶し、オノラ総裁に随行してユーエ、トウラン、ニャトランなど、南海風情たっぷりの名も床しき大官道路(ルートマンダリン)を南下した。ニャトランではペスト菌発見者のイエルサン博士と会い、西貢(サイゴン)では旧知コーテーメール交趾支那総督に招待された。私たちはそれからカンボジアに入国し、王都プノンペンにてモニボン王の大歓迎を受け、お菓子代りというわけでもなかろうが、カンボジア王冠勲章を首からつり下げられた。アンコール廃跡を象の背にゆられ乍ら見物した後で、ポイペット国境線を越え、シャム国のアランヤ駅から急行で盤谷(バンコク)に向ったところ、計らずも旧友トントウル殿下に邂逅し、前王寵宮ラクシャミ・ラバン女王殿下邸の夜宴に招ばれた。内務大臣の顕職を得た往年の革命児ルアング・ブランヂットは、フランス公使招宴の会場で同席した。

 この旅行中に、頭のいい人情も解する軍部の男にあった時、私はこれまでの旅の感想を語って日本のことに及ぶと、遠慮することはないと考え、
 「日本民衆の生活程度の低さは実に情ない。町村の主婦たちが赤ん坊を背負い子供を2人も3人もつれて生活に喘ぎ、栄養不良な顔でウロウロしている有様や、惨めな勤労者が街に溢れている日本の社会状態を見て来ると、貴君方の心持ちも解る。どうかしてバイタル・スペースを得て助けてやりたい。それは人情だ。だが、貴君方は隣国に国際法を破って侵入し、良民を苦しめ無辜の婦女子を殺し、軽薄極まる大東亜宣伝をしてみたところが結局何が得られるというのだろうか、私には分らぬ。」
 と出たところ、彼は悲痛な表情を浮べていたが、やがて

 「薩摩さん、それがオノラさんの今度の訪日の感想ですか。」
 と云う。

 「否やそうではない。私の言いたいことは、そんな乱暴をしないで、平和的に国際商業バランスを取り、真面目な邦人の南方への平和的殖民なり発展を考えたらどうでしょう。文化的宣伝の1例をあげても、このことは云えないでしょうか、シンガポールに鳥居を建ててみたところで始まらないし、いかにもすべてがチャチで上ッ調子だ。今日の日本人は軍部の宣伝に来ているとしか思えない。オノラさんの感想は知らぬが、私の感想はそうです。もう少し真面目に考えていただきたい。」

 少佐氏は黙ってしまった。

 事実私はこんなことをしていたら、日本は飛んでもない事態になってしまうと思っていた。私のみでは無い、松平恒雄も既に満洲事変の際、狂人松岡がジュネーブに出て来て独善的な演説をブッた日から、考えを同じくしていたので大変なことになったぞと、或る時、湖上で魚釣りをしながら話し合ったことがあった。私は満鮮を廻遊するオノラ氏と上海で落合うまでの日の余暇を見て、牧野伯の所に参上して感想を述べた。牧野伯は葉巻を吹き上げながら静かに

 「だが君、気を付け給え、平和主義者と云われるよ。」
 と微笑して部屋の隅の仏像に眼を投げた。その時の伯の様子が忘れられない。

 盤谷(バンコク)からピナン急行に乗り、馬来(マレー)半島のイポーにある仏蘭西テッカ会社の鉱区によった。ここで、先日別れたばかりのパスキエ総督の飛行機エメラルド号がリオンの近くで墜ちて総督が墜死したことを知った。西貢で最後に別れた時

 「薩摩どうだ、一緒に乗って帰巴しないか。」と誘われたが、私はオノラ氏の荷物持ち役であることを告げて断ったので助かったようなものである。シンガポールを経て、ジャバに渡り、バタビアバンドン、スラバヤ等を回遊し、その間には、ビュイテンゾルグ総督の招待を受けたり、ブルバドウルの廃跡を見物したりして、オノラ氏と共に巴里に戻ったのは、1934年の暮春であった。 



 以降、回を改めて続けます。
  

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この記事に対するコメント
薩摩治郎八という人に興味を持って
徳島に住むものです。ごく最近「薩摩治郎八」さんの名前を知りました。激動の時代を、考えられないスケールで生き、最後は徳島で亡くなったこと、すごい人生ですね。驚きです。今の日本館は、ずいぶん寂しいことになっているようです。徳島でも知っている方は少ないと思います。
【2014/08/04 17:14】 URL | yokoyama mituko #- [ 編集]


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